笑止の沙汰 その7

 しばらく留まれ、とオミカゲ様から言われたものの、自室にいた所でミレイユのしたい事は何もなかった。

 奥宮は現代の常識から隔離されていて、電化製品の多くが取り払われている。

 当然、部屋にテレビなどなく、書見台に付随した小難しい本、その他には碁盤程度しか、娯楽と言える物がなかった。


 どちらにも興味がないミレイユは、部屋に閉じこもるのを良しとせず、仕方なしに中庭へ出て、現在は日向に当たっている。

 掃き清められた芝生は、高さと密度を正確に保たれ、ただ歩くだけでも心地よい。


 随伴として付くのはアヴェリンと、側仕えをしている咲桜の二人で、ルチアとユミルは部屋でのんびりと過ごしていた。

 ルチアは本を、ユミルは酒を、それぞれ楽しむつもりらしい。


「ここにいる間は、何をするも自由だ。まぁ、何にしても、いい風だな……」


 季節の頃は春の始まりで、気温は温かく、日差しは柔らかい。

 ただ、ほんの少し風は冷たかった。

 だが、肌を撫でる程度に吹く風は優しく、後には心地よさだけを残すだけだ。


 壁で覆われる奥御殿だが、中庭は広く、窮屈さは感じられない。

 ミレイユは四阿へ足を踏み入れると、そこで少し景色を楽しんでから横になった。


「何か敷物を……」


 四阿内も当然、塵一つなく掃除は行き届いている。

 それでも、そこに座るでもなく横になるとなれば、それに相応しい準備が必要と、咲桜が口を出すのは当然だった。


 彼女がその職務を全うしようとしたその時、ミレイユの傍から音もなく一頭の獣が姿を現した。

 肩高からしてミレイユと変わらず、その背から湧き出した様にしか見えない。


 咲桜は思わず身構えたが、アヴェリンには些かの動揺もなかった。

 それも当然、彼女にとっては見慣れた光景であり、ミレイユと契約している精霊だと良く知っているからだ。


 アヴェリンが動きを見せないとなれば、咲桜にも事情が飲み込めてくる。

 何より、その姿は奥宮を守護する神狼、八房と瓜二つだった。


 民家程もある巨体の、白い毛皮を持つ狼で、オミカゲ様が友と呼んで憚らない存在でもある。

 尾が八つある事から、その名を付けられたとも言われ、女官にとっても同様、敬うべき存在だ。


 そして御子神たるミレイユが、その八房と良く似た神獣を傍に置いているとなれば、それは八房同様、敬うべき存在として見るべきだった。

 咲桜が肩から力を抜いた時には、ミレイユは早々に、神獣を枕代わりとして横になってしまっていた。


 八房と違って、未だ尾の数は三つしかない。

 しかし、それを布団代わりに被せるには十分な面積を持っていた。

 ミレイユがその尾を櫛する様に撫でれば、神獣の機嫌もまた良くなる。


 柔らかな日差しが四阿に影を作り、そして柔らかな風が時折、ミレイユの髪を靡いた。

 神と神獣が一つになり、自然の恩恵を存分に受け、しどけなく横になる姿は、どのような絵画にも見られない芸術の様に映る。


「御子神様、お美しゅうございます……」


 四阿の外でそれを見つめる咲桜から、感動と共に感嘆の息が漏れる。

 アヴェリンはそれを誇り高く頷き、ミレイユの邪魔にならないよう、物音一つ立てずに見守っていた。


 辺りには風が揺らす木の葉の音、そして時折、頭上を飛んで行く鳥の囀りのみが、周囲を取り巻く音楽だった。

 アヴェリンもまた時を忘れ、その光景と音に身を委ねていた。

 だが、そこへ控えめな足音を立てて、近付いてくる者がいる。


 不躾な、とは誰も思わない。

 この場に訪れる者は限られているし、何よりアヴェリンはその気配を近付いてくるより前から察知していた。


 咲桜がその音に反応するより早く振り返り、膝を付いて出迎える。

 それに一拍遅れた彼女も、アヴェリンとは違う、宮中における最敬礼で迎えた。


「何とも、優雅に過ごすものよな。もしかしたら、奥御殿から飛び出すやも、と危惧しておったが……」


「その予想は、別に間違ってないぞ」


 ミレイユは体勢を変えぬまま、視線だけ向けてそう言った。


「午前中は、少し懐かしの中庭で過ごしてみようと思っただけだ。飽きれば適当に、好き勝手やろうと思っていた」


「然様か……」


 オミカゲ様は寂しさを感じさせる笑みを浮かべ、それから咲桜へと顔を向けた。


「いま、鶴子に茶を頼んでおる。手伝うて来よ」


「畏まりました」


 咲桜は再び背筋の伸びた一礼をすると、静かにその場を後にする。

 無論、オミカゲ様の真意を見抜いての事だ。

 何処から運び込んで来るつもりであれ、茶の準備を申し付けたのなら、万事取り計らっているに違いなかった。


 女官の一人、わざわざこちらから融通する必要もない。

 誰にも聞かせられない話をするから、この場から退席せよ、という意味を、その言葉から正確に見出したのだった。


 護衛というなら、既に十分頼りになる者が一人いる。

 そうでなくとも、見えない所に多く配置されているものだ。

 ここで側仕え一人外れたとしても、全く問題なかった。


 オミカゲ様は四阿へと踏み入り、ミレイユの隣となる席につく。

 神獣フラットロが顔を持ち上げて鼻を近づけ、フスフスとその匂いを嗅いだ。

 好きなようにさせていると、その頭を小突くかのように、更に鼻を近付けては甘い鳴き声を上げた。


「おぉ、大きゅうなったとはいえ、まだまだ甘えたがりが抜けぬのう。うちの八房は、すっかり可愛げがなくなってしもうた」


「今の姿を見ていると、とてもそうは思えないが……。けど、そういうものだろうな」


「長い付き合いは、心も姿も変えて往くもの故な。それが自然でもある」


 謎めいた言葉を吐いて、オミカゲ様は視線をアヴェリンへと移した。


「フラットロの姿、ルチアの姿を見れば、どれ程の時間を過ごして来たか想像付く。我も通った道ゆえな。しかし、アヴェリンの姿に変化がない様に思う。何かしたか?」


「あぁ、寿命の解決は、そう難しい事じゃないからな」


「然様……。不老一つとっても、手段は幾つかある。そなたの我が儘か?」


 オミカゲ様の目付きが、俄に鋭くなった。

 それは非難の色も多分に含んでいたが、動じる事なくミレイユは首を横に振る。


「いいや、自分で決めさせたし、むしろ私は止めた方だ。他にも一人、神使に加えようと考えていた者もいたが、そいつは老衰を選んで死を迎えた。ルチアもまた、自然に任せて生きて行くつもりでいるようだ」


「そう……、然様か」


 オミカゲ様は力なく微笑んで、アヴェリンにも小さく謝罪を述べた。


「済まなんだ……。我ならば手放すまい、と思うたものだから。アヴェリンならば、摂理に従うと思うと同時、乞えば曲げるだろう。だが、そうさな……。アヴェリンなればこそ、その命、どこまでも差し出そうか」


「身命を賭しまして、お仕えすると誓いました」


 堅苦しい表情のまま、堅苦しく言ったアヴェリンに、オミカゲ様はやはり力なく笑う。


「一命を賭してと言うなら、その命……とうに三度は使われたおったろうにな」


「それで……?」


 ミレイユは今度こそ、顔を向けて言葉を投げた。

 姿勢は変わらずそのままで、敬意の欠片も見えていない。

 だが、いい加減意味のない世間話に、ミレイユは付き合う気を失くしていた。


「うむ……、そうさの。少しゆっくり茶の用意をさせておる故、時間はある」


「込み入った話か……」


「少々、聞いて貰いたい願いがある」


 悲しげに視線を伏せたまま、オミカゲ様にそう言われては、無下に断るのも忍びなく思えてくる。

 昨日、退室する直前に見せた姿や、その想いを鑑みれば、尚のことそうだ。


 仮にここで別れる事になろうとも、今生の別れ、という事にはならない。

 少なくとも半年後には、まだ何も知らない――神となって間もないミレイユがやって来る。


 そのミレイユに対し、オミカゲ様は昨日と今日の事をまったく悟らせず、新たな気持で接するというだけだ。

 オミカゲ様からすれば、複雑な心境となるのは間違いない。


 再会をもう一度やり直す様なものだ。 

 しかし、悲嘆に暮れるほど、大袈裟なものでもない筈だった。


 ミレイユは悲しげに伏せられた、オミカゲ様の瞳を見る。

 そこには、抑えよう、隠そうとする感情を、努めて浮かべない様にしているようにしか見えなかった。


 それを見れば、少々の助けくらい、叶えてやりたい気持ちがミレイユに沸き起こる。

 ミレイユが軽く手を挙げると、フラットロは上手く体勢を変えて、その身体を起き上がらせてくれた。

 改めて椅子に座る形になり、肩を揃えた位置で、オミカゲ様の顔を窺う。


「それで……、何だって? 何でも良いから、言ってみろ」


「何でも? ふふ……、剛気よの。何でも良いのか?」


 オミカゲ様の笑みは、どこまでも力ない。

 ミレイユはそれを痛ましく見つめながら、首を上下させた。


「あぁ、言ってみろ。私に叶えられない願いっていうのも、まぁ早々ないからな。アヴェリンたち神使もいる。力になれるだろう」


「はい、オミカゲ様。ご安心ください。その御心を慰める一助となれるなら、このアヴェリン……必ずや、そのお望み叶えてみせます」


「心強いの……。有り難い。……本当に、有り難い」


 オミカゲ様は一度顔を伏せ、嗚咽にも似た声で喉を震わす。

 ゆっくりと呼吸を整えると、顔を上げて後、けろりとした表情に直って言った。


「では、我が一人暮らしをする為の手助け、そなたらに任せるとしよう」


「……は?」


 言っている意味が理解できず、ミレイユは口を半開きにして見返した。

 それはアヴェリンにとっても同様で、オミカゲ様の発した言葉に理解が追い付いていない。

 当のオミカゲ様は、全く気にした素振りも見せず――それどころかふてぶてしい態度で鷹揚に頷いた。


「だから、言うたであろう。我は一人暮らしを、したいと思う。なれど女官たちが許してくれぬのだ。その説得を、そなたらに任せようと言うのだ」


「なに言ってるんだ……?」


 やはり意味が分からず、ミレイユは首を傾げた。

 そして、ようやく理解する。

 それまでしおらしく見せていた態度全てが、演技だったことを。

 ミレイユは勢いよく立ち上がり、指を一本突き付けて詰問する。


「お前、まさか……! 昨日見せた態度から全て、計算づくだったんじゃないだろうな!?」


「だったら何だと言うのだ。吐いた言葉は、もはや飲むこと叶わぬぞ。何より、神が約束した事なのだ。今さら反故になぞするまいな?」


 突き付けられた指を払い、顔を上げたオミカゲ様の表情には、会心の笑みが浮かび……。

 そして、ミレイユの顔にはそれと正反対の、苦々しい表情が張り付いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る