笑止の沙汰 その2

「互いに忙しい身なれば、手早く済ませるのが良かろうな」


 その様に前置きして、御簾の奥へ鎮座する神は、厳かな口調に改めて続けた。


「此度、いかなる叱責以って呼び付けたか、身に覚えもあろう」


「……あぁ、女官長からも、それとなしに聞いている」


 レヴィンから見ても、ミレイユの返答は随分、礼儀を失している様に見えた。

 相手は身分の上で対等な神であったとしても、不利……または不義理な真似をしたのは確かな筈だ。


 不当に――理由も先触れもなく、世界を行き来してはならない。

 そうした取り決めや条約めいたものが、互いの間に取り交わされていたに違いなかった。


 そして、それは紛れもない事実でもある。

 突然、それを一方的に反故されたのだから、一方的な怒りも当然ではあった。


「我らの間には、揺るぎない信頼があると疑っていなかった。決して解れぬ、太い絆と信頼が、きつく結び付けられていると。決して一方的な思いではないと……。そうではないか?」


「あぁ、間違いない……」


「……では、我の一方的な勘違いではないと、ここに改めて表明されたと思ってよいのだな。大変、喜ばしい事である」


 喜ばしい、という言葉を使っている割に、その口調は対局と言って良いほど冷たい。

 御簾を通して伝わるから……、それだけが理由ではないだろう。

 表情も見えないだけに、それで余計に冷淡さが増している様にも感じられるが、それよりも安易に許さない、と思っているからに違いなかった。


、双方を結ぶ道は一つであるべき、と言ってきたのは、そなたからであった。何処へでも通じてしまう危険性故に、その運用は厳格であるべき、とも申しておった。そうであったな?」


「そうだ……」


「また、そなたが来臨する際には、必ず先触れも用意すると、約束してあった。しかし、これが破られたわけである。そなたなればこそ、破る事はあるまいと信頼し、ここに約定などを設けなかった。――何故か」


「上下なく、対等の神として扱われるから……それが一つ。もう一つが、信頼だ。敢えて破る理由もなく、また不法入国となる形だから、そこを考慮すると思っての事だった」


 まさしく、と御簾越しの神は、大いに頷いて見せる。

 シルエットとしか映らない姿でも、その動きだけは良く見る事が出来た。


「しかし、こうして禁を破る前例を、そなたは作った。一つの悪例は、次なる悪例を招く。ここは一つ、厳格な約定、厳格な罰を設けるべきであろうか」


「勘弁してくれ……」


 大神はそう言って小さく項垂れると、大袈裟に息を吐いて、それから背筋を正す。

 それから四十五度に近い、神が見せるべきでない一礼をしてから、苦々しい口調で言葉を落とした。


「そう苛めてくれるなよ……。事故だったんだ。見てれば分かるだろう?」


「ならば早々に、所在を明らかにした上で、こちらへ声を飛ばせば良かったのだ。それを隠れる真似をしておるから、こうしていらぬ怒りを買うておる」


「まぁ、確かに……いの一番、神宮に報せるべきだったろうが……」


「それだけではないぞ! そなたがすべきは、まず謝罪であるべきだった。それをまぁ、こちらがのらりくらりと話すに任せて、言葉を濁しおって!」


「分かった、分かったから……。悪かった、すみませんでした。……これでいいんだろ?」


 大神が根負けした様に両手を挙げると、御簾の向こうから届く雰囲気が、肌で感じ取れる程にやら若くなる。

 それまで、身体に重しを載せられているかの様な重圧が、それと同時に霧散した。


「そうとも、それで良い。この様な些事で、互いの関係を悪くなどしたくないものよ。……それに、事故という言い分も、あながち間違いでなさそうであるしな」


「ご理解頂いて何よりだ」


「しかし……」


 そこで一件落着かと思いきや、御簾の向こうから伝わる気配は、再び重さを取り戻す。

 ともすれば、それまでより更に重たく感じる程、発せられる気配には不快な色が浮かんでいた。


「事故であるのは良し。しかし、その後の対応が悪し。我も僅かながらに報告は聞いておる。あろう事か、わざわざ人通りの多い所へ、自ら出向いたらしいの。……相違ないか」


「……まぁ、そうだ。舌を楽しませようと……」


「舌を!」


 次に発せられた声は、信じ難いものを聞いた反応そのもので、御簾越しに見えるシルエットは、身を乗り出すように前屈みだった。

 しかし、余りに過剰で、大袈裟な反応でもある。


 食事自体は、特別咎められる事でもない。

 神とは強靭無比であり、個として、それより優れたものは存在しない。

 たとえ三日三晩、飲まず喰わずであったとしても、易々と体力を落とす事もなかった。


 厳密には、生命として数えて良い存在でもないのだろう。

 汎ゆる部分で、人と良く似ているのは確かだ。

 しかし、汎ゆる部分と比較して、逸脱している点もまた確かだった。

 生命として見た場合、根本的に別ものでもある。


 しかし、それでも食事を取ろうと思えば取れる。

 必須ではなく、ともすればマナから補えてしまう程に生命とは別物なのだ。


 だが、その味を楽しみたいとは思う。

 人にとって娯楽は大切だが、生命維持に必須ではない。

 神にとっても食事は楽しみであって、必須ではなかった。


 だから、大神は大袈裟な反応を見せた、その反応にこそ理解が及ばなかった。

 返す言葉を見つけられず、ただ御簾の向こうを見つめ返していると、姿勢を元に戻して言ってくる。


「そなた……、何が重大か、良く分かっておらぬようだな」


「あぁ、全く。何がいけない?」


「己が入店した場所を想起してみよ」


 不機嫌そうな声で言われても、なおミレイユはピンと来ていなかった。

 それどころか、怒気すら含まれた雰囲気を物ともせず、気楽な調子で腕を組んでは首を傾げている。


「……悪いが、何が悪かったのか、全く分からない」


「なぜ分からぬ! そこがどういう店で、どういう食を口にしたか、そなたが直接申してみよ!」


「あぁ、うん……? 多分、洋食店で……ハンバーグとか、スパゲティとか、そういう……」


「それ! それよ!」


 御簾の向こうで、苛立たしげに腕を振り、指を突き付けてきたのが分かった。

 しかし、分かってしまった今になっても、何に怒っているか理解不能なのは変わらない。

 ここまで来ると、もはや子どもの癇癪と変わらないように思えてくる程だ。


「洋食! ハンバーグ! スパゲティ! そなたばかり、そうハイカラな物ばかり食いよる……! まったく、けしからん……!」


「はい……、から……? 何だ、お前……。まさか、羨ましい……なんて言わないよな? たかが、ハンバーグだろ?」


「これだから!」


 御簾の向こうのシルエットが、大袈裟な動きで首を横に振った。

 大神は既に苦々しい顔付きをしていて、付き合うのが馬鹿らしいと思う様になっている。

 しかし、いきなり退室などしようものなら、当然その怒りや不機嫌は増大するだろう。


 それはこの場に居る者ならば、手に取る様に分かってしまう。

 だから、苦々しく思いながらも、言うがままにさせるしかなかった。


「神が口にする食とは、常に厳選され、定められた物でなくてはならぬ! 薬膳などと言わぬまでも、格式ある特別な料理であるべきで、大衆料理など以ての外……」


「今度、連れってやっても良いぞ」


「ま、まことか!?」


「――オミカゲ様」


 思わず食い付き、身体まで前に出した神は、女官によるピシャリとした声に動きを止めた。

 前のめりになっていた身体を戻し、咳払い一つして場を仕切り直す。


「まぁ……、なんだ。そなたはこちらの神ではないが、やはり好き勝手は困る。神に対し相応しい格式と持て成しをする故、現に謹んで貰いたい」


「いや、待て……。まさかお前、洋食に憧れとか、そんなミーハーな気持ちを持ってたりしないよな……?」


「するわけがなかろうよ。何を根拠に……」


 何をも何も、先程の食い付き様こそが全てだ。

 奥御殿における生活は、何不自由ないのも確かだろう。

 しかし、汎ゆる自由を保障されるものでもないと、その口が言ったようなものだった。


「ともかくも、そなたの来臨は喜ばしい。奮って歓迎いたそうぞ」


 厳かな声でそう言うと、とうとう御簾が引き上げられる。

 大神は仄かな笑みを浮かべ、神使の三人は懐かしい物を見る様に目を細めた。


 レヴィンたち三人は、拝謁を許されて目を丸くする。

 髪型は違う。髪色も、また違った。服飾や化粧の違いもある。

 しかし、そこから現れたのは、大神と全く瓜二つの顔に違いなかった。

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