未知の世界 その8

 メニューに描かれていた絵と変わらぬ――あるいはそれ以上と思える出来栄えの料理が、順次運び込まれてくる。

 芳しい香りが鼻腔をくすぐり、食欲をこれでもかと刺激した。


 先に運び込まれた料理は幾つかあるが、それら全て神々の分で良かった、とレヴィンは密かに安堵する。

 もしも自分の料理が先に来ていたら、神と神使を差し置いて、食べてしまうところだった。


 また、その食事は神でさえ満足させてしまう物らしい。

 美味しそうに咀嚼する所を見ていると、見た目を裏切らない完成度であると分かり、レヴィンの口の中に唾液が溢れる。


 そうしてお預けを食らって待つことしばし、遂にレヴィンの料理も運ばれてきた。

 愛想良い笑顔と共に、こちらハンバーグ定食です、と紹介しながら置いて行く。


 鉄板の上で焼きたての音を立てながら、滴る油が跳ねている。

 そればかりでなく、輝かんばかりの光沢を持つ、キツネ色に焼かれたパンも一緒に置かれた。

 あまりに見事なそれに触れると、ふくよかな弾力が返って来る。


 手に取って二つに裂こうとすると、殆ど抵抗なく割れ、中からは雪のように白い断面が見えた。

 きめが細かく、気泡も殆ど見えない。

 堪らず齧り付けば、その食感はまるで溶けるかのようで、レヴィンは我知らず口に出していた。


「美味い……!」


 殆ど無意識のものだった。

 口に含む事さえ、無意識だったのかもしれない。

 ひと噛みする毎に相好が崩れる様を見て、ヨエルとロヴィーサも、我慢できずにパンを手に取った。


「うンま……!」


「仄かに甘い……。噛む程に香りが際立つ様です……」


 二人の反応も激的なものだった。

 それまで神前だからと、大人しく座るに任せていた二人だ。

 不興を買わぬように、また神と直接会話する不敬を働けない、と心得ていた二人の緊張は強いものだった。


 しかし会話が一段落し、神のみならず、自らの主まで食事に手を付けたとなれば、少々の気が緩むのも仕方ない。

 何より、これまで口にした事のない、天上の美味である。


 自分達が生きて来た現実と、異にする世界――。

 それはここまでの街の様子、通行人の服飾からも理解はしていた。

 しかし、何より実感したのは、この食事を口にした瞬間だった。


 汎ゆる美食を経験した、などと言えたものでない二人でも、同じ料理は何処を探しても存在しないと断言できる。

 しかも、単なるパン一つでこれなのだ。

 他の料理はどうなのか、興味はすぐに目の前で鎮座するハンバーグへ移った。


 鉄板の上に置かれた、丸く成形された肉とも言えない肉は、レヴィンのみならず、誰からも奇異に映る。

 しかし、パンの味を知ってしまうと、期待感が勝った。

 きっと、この料理には、あれと同じか、それ以上の美味がある。


 チラリ、とレヴィンは視線を対面へ向ける。

 神と神使の彼女らは、ナイフとフォークで小さく切り分けた肉片を、美味しそうに口へ運んでいた。


 左右に座るヨエルとロヴィーサも、期待を込める視線を向けている。

 主が口を付けるより早く、臣下が先に肉を食べるわけにはいかない。

 その視線に後押しされ、レヴィンは対面のナイフ捌きを真似して、ハンバーグに切り込みを入れた。


「柔らかい……」


 見ていて分かっていた事ではあった。

 しかし、予想以上の柔らかさ、抵抗のなさに絶句する思いがある。

 断面からは肉汁が溢れ、鉄板に触れるとそこからまた、食欲を唆る音と香りが立ち上った。


 ハンバーグには茶色のソースが掛かっていて、それを絡めて口の中へ運ぶ。

 そうして舌の上に乗せ、ひと噛みした瞬間、味と香りが爆発した。


 ナイフで切った時から、柔らかな食感であるのは理解していた。

 肉なのに噛む必要がないと思える程、勝手に肉が解けていく。

 そして、噛む程に味が染み出し、それがソースと相まって、複雑で芳醇な旨味が口の中で暴れていた。


「む、ぉ……ッ!」


 これ程の美味を、レヴィンは体験した事がなかった。

 ただ肉が柔らかいだけでなく、ただソースが美味いだけでもなく、もっと何か複雑な味の複合が、この奇跡を生み出しているのだと悟った。


 十分に咀嚼し惜しむように飲み込むと、大きく息を吐いてから、眦を強く閉じる。

 ナイフとフォークを握った手が、感動で震えた。

 レヴィンは何を言うでもなく、口を強く引き絞って眉間に皺を刻んでいる。


 その並々ならぬ態度に、ロヴィーサが表情を険しくさせ、レヴィンの顔を覗き込む。

 首筋に手を伸ばし、腕を手に取って手首に指を這わせた。

 脈を計ろうとしているのだと察して、レヴィンは大丈夫だ、と示して首を横に振った。


「いや、違うんだ。……美味い。余りにも美味い。俺は感動で打ち震えてしまった……!」


「何事かと思いました。毒見をすべきだったと、自らを恥じた程です」


 悔恨を感じさせるロヴィーサに、レヴィンは改めて首を横に振る。

 それからヨエルにも安心させる様に微笑むと、二人にも食べるように勧めた。


「大丈夫だから食ってみろ。きっと俺の態度を理解するぞ」


 そう言われれば、元より興味しかなかったヨエルだ。

 レヴィンより余程豪快にハンバーグを切り分け、たっぷりとソースを乗せて口に運ぶ。


 口の中へ入れた瞬間、その表情の変化は激的だった。

 目を丸く見開き、口の中たっぷりに含んだ肉片を、何度も咀嚼して飲み込む。

 そうして大きく息を吐いた後、ヨエルの身体はワナワナと震えていた。


「何だこれは……! 美味い、美味すぎる……! こんな味が、この世にあったのか……!」


「大袈裟ねぇ……」


 そう言って笑ったのは、丁度ヨエルの正面に位置するユミルだった。

 彼女の料理はハンバーグではなく、別の厚切り肉を食していた。

 彼女は上品と言えない所作でありつつ、どこか優雅に見える手付きで切った肉を口に運び、それから悪戯好きそうな笑みを向けた。


「ま、結構アタリって感じではあるけど。このレベルで驚いてると、アンタら身体たないかもよ?」


「これが……、これ程の料理が、最上じゃないと言うんですか……!?」


 ヨエルは違う意味で、またワナワナと身体を震わせる。

 そうして、ハンバーグとユミルを交互に見つめ、それからアイナへと視線を移した。

 既に一口食べていたアイナは、口元に手を当てて飲み込むと、小さく頷いて肯定する。


「私はここの料理、とっても美味しいと思いますけど……。でも、最上かと言われたら、やっぱり……違うんじゃないかなぁ、と……」


「これ程の料理でか……!」


「勿論、食には好みって物がありますから、絶対そうだとは言いません。時として、思い出と合わさる味もあると思いますから。でも、それを抜きに考えたとして……」


 アイナは最後まで言葉を続けなかった。

 しかし、何を言いたいかは明確で、そしてそれは、しっかりとヨエルにも伝わった。


 改めて思い知らされて、懐疑的な息を吐きつつ、更に一口ハンバーグを運ぶ。

 咀嚼しながら小さく首を降る姿は、到底信じられない、と如実に語っていた。


 そして、それはレヴィンにとっても同様だった。

 小さく切り分けた肉片を口に運び、複雑な味のグラデーションを楽しむ。

 咀嚼した後、やはり惜しむ様に飲み込むと、感嘆たる息を吐いて眉根を顰めた。


「アイナの言葉を疑うわけじゃないんだが、これは最早、芸術のようなものだ。これより上の料理なんて物が存在するのか、本当に? ……とても信じられない」


 そう言いながら、レヴィンはまた一口、ハンバーグを切り分けて口に運ぶ。

 その頃にはロヴィーサも同じく食べて、指先揃えた手を口に当て、感動の面持ちを顕にしていた。

 アイナは満足そうに二人を見やり、それから小さく笑って言った。


「こういうのは、口で言っても理解できる事じゃない気がします。それに、唯一の正解がある問題でもないと思いますし。だから、美味しいものを美味しいと感じるだけで、良いんじゃないでしょうか」


「そうだな、そうかもしれないな」


 レヴィンは思い直して、アイナに同意する。

 母の手料理ほど美味いものはない、と断言する者を否定すれば、その者の品格を貶める事にも繋がるだろう。


 何が美味いかを判断するのは、自分の主観で良い。

 しかし、異なる世界で出会った異なる料理に、衝撃を受けたのも事実だった。


 アイナの言葉を蔑ろにするものではないが、ユミルの発言からも、これ以外の料理との出会いに、期待を寄せてしまうのは止められない。


 そして、次に運ばれてきた料理には、ハンバーグとは趣の違うものもあった。

 糸よりは余程太いが、糸のように細長い、非常に奇抜な料理だった。

 外でガラス越しに見た時、一部が宙に浮かび上がっていた、謎の料理――。


「それで、この料理は一体、どういうものなんだ……?」


「それはパスタって名前で、上に乗っているソースと、細長いものを搦めて一緒に食べます。少し酸味を感じるかもしれませんけど、一般的には人気のある料理ですよ」


「ほぅ……」


 そう言われたら、食してみる以外ない。

 早速、フォークを突き刺し持ち上げてみるものの、三叉に分かれた隙間から、細いそれらが落ちて行ってしまう。


「なん……?」


 上手く掬い上げようとしても、全く成果を見せず、何度やっても逃げるように落ちていく。

 いい加減、手掴みで食べようとしたところで、含み笑いにアイナが手本を見せてくれた。

 

「ほら、こうやるんです。――突き刺した後、くるくると回して巻きつける。そうすると簡単に食べられますよ」


 器用な手付きに感心し、それと同時に奇妙な食べ方だと悪態付きたくもなる。

 しかし食べてみると、この細長い物の食感と、ソースの酸味と甘味――それ以外にも感じられる複雑な味わいに病みつきになった。


 ――何を食べても美味い。

 確かにこれは、好みの問題であるかもしれなかった。


 この時点でレヴィンは、ハンバーグとパスタ、どちらが良いか甲乙つけ難い気持ちになっている。

 そうして、まだ残っているハンバーグやパンにも舌鼓を打ち、談笑の内に食事が済んでいった。


 しかし、後にはまだ大きな問題が控えている。

 戦いと反撃の狼煙を上げねばならない。

 だが、それとは全くの問題が、全く別の方向から落とされるなど、この時のレヴィンは思いもしていなかった。

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