未知の世界 その5

 自己紹介と聞くなり、レヴィンは背筋を伸ばして次に備えた。

 目の前に御わすは、文字通り雲の上の存在で、言葉を交わすことさえ軽々しく許されものではない。


 レヴィンはこれまでの態度に鑑みて、今からでも椅子から降りて床に座り直そうかと思い立った。

 しかし、実際に腰を浮かそうとしたそれより前に、神から直接声が掛かって、その動きが止まる。


「お前が何を考え、何をするつもりか、何となく察せるが……。とにかく、そのままでいろ。気負った態度も必要ない。そう言うことで……まず、こちらの神使から名乗らせる」


 そこまで強く言われては、レヴィンも改めて背筋を正すしかなかった。

 視線を左右へ巡らせると、大神の右隣に座った長身の女戦士から名乗りを上げる。


「第一神使、アヴェリンだ」


「はい、何度か、お会いに……」


「えぇと、阿部さん……ですよね? 阿部、リンさん。……こちらの人なんですか?」


 横からアイナの声が挟まり、対面の女戦士は大いに顔を顰めた。

 一度眉根に皺を刻んでから無言で息を吐き、それから恨みがましい目を隣に向ける。


「やはり、変な覚え方をされてるぞ。だから、あぁいう名乗りをするのは好かんと言ったのだ」


「いやぁ、実にそれっぽい名前だし、これまでも問題なかったじゃない。そもそも、本名を名乗る機会なんてないだろうからって頷いたの、アンタだし」


「それは……! そう、だが……。しかしな……!」


 唐突に口論を始められ、アイナは目を丸くさせて事の成り行きを見守る。

 二人のやり取りはしばらく続き、どうやら黙っていても収まりそうにないと分かると、レヴィンの方から改まった口調で尋ねた。


「えぇと、つまり、どういう……? 偽名を名乗っていた……んですよね? それで名前が……」


「アヴェリンだ」


「はい、あべ……リンさん」


「区切るな。そうじゃない、アヴェリンだ。分かってて、わざとやってるのか?」


「い、いえ……! 決して、そのような!」


 眼力の迫力に気圧され、レヴィンは喘ぐように口を動かし、首を振った。

 しかし、彼にもかれなりの言い分がある。

 なにしろ、最初にされた自己紹介でのインパクトは、あまりに大きかった。


 受けた印象相応に記憶してしまい、認識の齟齬がどうにも埋まらない。

 それでレヴィンが非難めいた視線を、その発端となった人物へと目を向ける。


「何だって、そんな紛らわしい真似を……。貴女も、名前違うんですよね? えぇと、ルミ……じゃない。ユミル、さん……?」


「何でも何も……、説明したじゃない。ニホンから拉致召喚された人を、それと問わずに反応を引き出すには、名前を名乗った方が簡単だからよ」


「いや、はい……。確かに、そう聞いてましたが……」


「どうせ、もう二度と会わないと思ってた相手、だしね。誤解されたままでも、これまで困ったコトなんかなかったし。……ま、アンタらは最初の例外になっちゃったけど、それだって事故みたいなものじゃない。いつまでもグチグチ言うもんじゃないわ」


 そういうワケで、とユミルは悪戯が成功したかのような笑みを浮かべて、隣に座る神へ人差し指を向ける。


「こっちの二号さんの、ユミルよ。これからはそう呼びなさいな。まぁ、長い付き合いになるかは分からないけど」


「だから……。何でわざわざ、紛らわしい言い方するんだ。如何わしい意味になるだろ。普通に第二神使と言っておけ」


 大神レジスクラディスが顔を顰めて注意するも、ユミルは全く取り合う様子を見せない。

 からからと笑って、その反応を楽しんでいるようですらあった。

 不遜不敬の対応に、怒りを顕にするかと思いきや、仕方のないやつだ、とでも言うように息を吐いただけで終わった。


 そんな一柱と一人を見て、レヴィンは絶句する。

 大神とは世界にくんする偉大な神で、人を守り、世界を守る、遥か高みにおられる存在とされていた。


 そして、レヴィンもまた、そうであるものと疑ってすらいなかった。

 人間らしさを持たず、あるいは人格さえなく、超自然的な存在が人の姿を持っているだけ、とすら思っていたぐらいだ。


 アヴェリンとは反対側に座るユミルを、今まさに軽く小突いて窘める姿は、まるで気安い友人に向ける態度そのものだった。

 それが信じられず、レヴィンはただ凝視して固まるしかなかった。


 そうしていると、最後に妖精国の女王もかくや、という女性が、ユミルの隣で肩を竦める。

 皮肉げな視線を存分に向けてから、軽く頷く程度の礼を見せて口を開いた。


「この方々にとっては、いつもの事ですからお気になさらず。私は第三神使のルチアです」


「は、はい、よろしくお願いします。……い、いや、でもやっぱりおかしいですよ! さっきまで神と神使の間柄らしく、言葉も選んで使われていたじゃないですか……!?」


「あれはまぁ、外向きの……営業モードってやつですから」


「え、営業……!?」


「まさか信徒の前で、馬鹿みたいなやり取りを見せる訳にもいかないでしょう……?」


 困った様な笑みを見せたルチアに、レヴィンは人差し指を己の困り切った顔に向ける。


「ここにも一人、その信徒がいるのですが……」


「あら、そうでしたね……。でも、別に良いでしょう。あなたはユーカードですから」


「どういう意味で……?」


 やはり困り切った顔のまま、レヴィンは顔を傾げた。

 だが、これには目線を逸らす反応だけで、答えは帰って来なかった。


「とりあえず、私からも一応、よろしくの言葉と共に、短い付き合いである事を祈っておきます。……色々な意味で」


「は、はい……。しかし、色々、というのは……?」


「今は已むに已まれず、行動を共にしているに過ぎませんから。淵魔とその奥にいる者の対処が終わるまでの、共同戦線みたいなものです。こんなもの、早く終るに越した事はありません」


「そ、そうです……! 本来、こうしている時間すら――」


 惜しい、と言うつもりが、最後まで言葉は出なかった。

 大神レジスクラディスが、レヴィンの目を正面から射抜いたからだ。


 本来ならば、食事や自己紹介など、呑気にしている暇などない。

 あちらの世界では、今も淵魔や――あるいはアルケスが、思うままその力を振るっている最中なのだ。


 やるべき事は即座に帰還するか、その手段を確立する事であって、呑気に食事する事ではない。

 レヴィンは、そう強く抗弁するつもりでいた。

 しかし、それより前に小さく手を上げた大神が、有無を言わさぬ口調で断じる。


「何をするにしろ、疲れた身体で挑むべき状態じゃないだろう。腹が減っては戦が出来ぬ、とは至言だな。勝つ為にしろ、勝つ為の方策を練るにしろ、まず腹を満たさねばろくな結果を作れない」


「では、大神レジスクラディス様には、既にお考えがおありなのですね……!?」


「当たり前だろう、別に私は負けたわけじゃないからな」


「――それはそうだけど。そんな言い方だと、まるで負けを認められず、駄々を捏ねてるみたいよ」


 ユミルが茶化す様に口を挟むと、大神は眉根に皺を寄せて反論した。


「事実を言ったまでだ。何しろ、私は生きている。私に勝ちたいなら、殺して息の根を止めるしかない。――だが、アイツには出来なかったわけだ」


「それは、そう……なんですかね?」


 レヴィンが問うと、つまらなそうに鼻を鳴らして、大神レジスクラディスは頷く。


「それが分かっていたから、最初から追放することだけに全力を賭けた。淵魔を引き込んだこと、異世界人――日本人を拉致し利用したこと、お前たちユーカード家を駒として動かしたこと……。それら全て、私を世界から追放する為だけに使われた」


「何故なら、正面からにしろ、奇襲するにしろ、殴り合いで大神レジスクラディスには勝てないって分かってたからよ」


「あぁ、くそっ……、アルケスめ……!」


「今ここで、憤っても始まらないぞ。怒りは後まで取っておけ。奴の首に、その刃を突き立てるまで。だから、とりあえず今は飯だ。それから……」


 大神は一度言葉を切ると、それから自分を見せつける様に小さく手を広げた。


「自己紹介の続きをしよう。――ミレイユだ。よろしくな、ユーカードゆかりの者たち」


「み、ミレイユ? レジスクラディス……様、では?」


「それも私を表す名前には違いない。だが、長くて呼び辛いだろう?」


「い、いえ! 決して、そんな事は!」


 そもそも、神の御尊名を長いとか、呼び辛いなどと、レヴィンは考えた事すらなかった。

 レヴィンのみならず、大神の信奉者が、その様な不敬を胸の端にすら思うはずがない。

 余りにも余りな大神の発言に、レヴィンは何と返して良いか分からず、助けを求めて視線を彷徨わせる事になった。


「そうよねぇ……。やっぱり、その名前って長すぎよ。初めからホベンベか、それともテペロペにしておけば良かったのよ」


「ほ、ホベ……? テペロ……って、どういう事ですか? つまり、レジスクラディスの御尊名すら、後付けって意味ですか……!?」


「どうしても、ミレイユ神ってのが、しっくり来なくてな……」


 大神が遠い目をして、窓の外を見つめながら言う。

 名前は名前、対象を表す記号の一つに過ぎない。


 そうは思っても、神の名となれば話は別、と思えてる気持ちを、レヴィンは押さえつけずにはいられなかった。

 これを偽名と言って良いものか、彼の心中でも迷う。


 神の御名とは、それほど偉大で大切なもの、という思いもある。

 なじる気持ちなど最初からないが、それでもレヴィンは、どこか裏切られた気持ちになった。


「まぁ、ユーカードの者なら、むしろミレイユと呼ばれる方が私は嬉しい。こっちの世界じゃ、むしろそっちの方が通りは良いしな」


「こっちの……? それに……それに、どうしてそこまで好意的であらせられるのでしょう? 初代ユーカードへの敬意から、でしょうか?」


 目の前の神こそが、直々に初代様へと淵魔討滅の任を与えた。

 その事はレヴィンの代まで、長く言い伝えられてきた事実でもある。


 ユーカード家にとって大神は特別な存在だが、神にとっても同様であるなら、これほど誇らしいこともない。

 だが、大神は困ったような笑みを浮かべて、左右の神使へ顔を向けた。


「まぁ、何と言うか……敬意とは違う。……違うが、誠意に対し、誠意を返しているだけだ。お前の言う初代と私達は、気心の良く知れた間柄だった」


「気心の……!」


 それはつまり、単なる神と信徒以上の親密さがあった、という意味だ。

 そういった話を聞いたことのなかったレヴィンは、まさに寝耳に水の心境だった。

 レヴィンの表情から、その話が伝わっていないことを正確に察知した大神は、やはり困った笑みを浮かべて小さく頷く。


「まぁ、お前が詳しく知る必要はない。これは私達の間だけ、覚えておけば良い事だ。だからまず、こちらではミレイユと呼んでおけ。……いや、世を忍ぶ仮の名として、敢えてそう名乗る、という形にしておいた方が良かったか……?」


「今更だし、遅すぎでしょ」


 ユミルが失笑して言い放つと、ミレイユは左右のアヴェリンとルチアへ目をやり、返ってきた視線に苦笑を返した。

 人間味溢れるその姿は、やはり脳裏に描いていた神のものとは違う。


 しかし、レヴィンはその光景を嬉しくも思い、そして親しみ深く感じた。

 しばしの間、面前にいるのが神である事も忘れ、ただその戯れに見入っていた。

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