未知の世界 その4

 レヴィンが店内に入って驚いたのは、まずその清潔さだった。

 床は綺麗に掃き清められており、ゴミや汚れなど全く見当たらない。

 飯屋と言えば、大抵食べかすが落ちていたり、パンの屑などが散乱しているものだった。


 酒を提供する店なら、更に汚れも酷くなる。

 酔えば上品な飲み食いなど誰もしなくなるので、その過多に違いはあれど、足の踏み場を探して歩かねばならない程だ。


 しかし、それを差し引いても、この店内は王族を迎えるかのように清潔で静かだった。

 ただし、やはり昼飯時を過ぎているからか、客入りは余り多くない。

 チラリと見た範囲では、対面して共に食事を取る者達がいるのに、騒ぎ立てる事もなく、静かに食事を取っている。


 だが、何も沈黙を強要されているわけでもないらしい。

 話す時は周囲に気を配った小声で交わし合い、そこには配慮に似た何かを感じさせた。


 レヴィンが奇異の目で窺っていると、先に入店していた御方々が、店員に先導されて奥へ進んで行く。

 それを見ていたアイナが、ホッとした声音で小さく零した。


「良かった、席あったんですね……」


「そりゃ、あるだろ。見た所、満席には程遠い感じだし」


「そうじゃなくて……。八人が同時に座れる席なんて、結構ないものですよ。ここは個人経営のお店みたいですし」


「……個人で経営してない店なんてあるのか?」


 アイナは困ったように一度笑って、曖昧な表情のまま、手を前に向けた。

 説明は避けるべきと思ったか、あるいは面倒になったか、そのどちらかだろう。

 ともあれ、店員に先導されて付いて行く神と神使に、レヴィン達も置いて行かれるわけにはいかない。


 その背中を追って進みながら、食事を楽しむ客と料理を盗み見る。

 仄かに鼻腔を擽る匂いといい、楽しげな雰囲気といい、レヴィンに大いな期待を寄せさせた。


 案内された席は奥まった場所にある、壁を背にした席だった。

 一方はソファーで、もう一方はテーブルを挟んで背もたれのある椅子に座る、という形式だ。


 先行していた四人が壁際に座ったので、必然的にレヴィン達は椅子の方に腰掛ける。

 左から順にヨエル、レヴィン、ロヴィーサと座って主君を守る形になり、その右隣にアイナが座った。


 そのアイナが手慣れた様子で、光沢を持った目立つ紙をテーブルの端から取り出す。

 そして、差し出されたものをマジマジと見つめて、眉をひそめた。

 それは紙ではなく、もっと別の何かだった。


 触り心地はつるつると滑り、そのうえ固く、しかも弾力がある。

 描かれている内容も絵とは思えぬ程の精巧さで、レヴィンは唸りを上げて見入っていた。


 そこへ先ほど去って行った店員が戻って来て、人数分の水を置いて行く。

 更に白く清潔そうな丸めた布を置き、一礼すると別の客に呼ばれて去って行った。


「ごゆっくりどうぞ」


「なんだ、水なんてまだ頼んでないぞ……?」


「それは無料のサービスですから、好きに飲んで大丈夫なやつですよ。手元のおしぼりで、汚れた手を拭って下さい」


「タダ? これが? 水と、この……何だこれ!?」


 アイナが手本を見せる様に布を広げ、指先や手の平などを拭うのを見やる。

 見様見真似で自分も、と手を伸ばして動きを止めた。


 丸めた布は温かかった。

 まるで今しがた熱湯から引き上げたかのような感触があり、まずそれに驚いてしまう。


 アイナだけでなく、対面の四人も同じようにしているのを見て、レヴィンは布を広げて手を拭う。

 それを見たヨエルたちも、また同じ様に驚きつつ感動しながら汚れを落とした。


「これは……何とも、心地よいな。これほど行き届いた持て成しが、本当にタダなのか?」


「いや、どうだろうな……。見てみろよ、若。この白い布の美しいこと。俺のなんて、土汚れで真っ黒になっちまってる。汚れ度合いで、別に金取るんじゃねぇかな……」


「あぁ、汚す程に金を取るって魂胆か。あくどいこと、考えるよな……」


 その一言で、ロヴィーサの動きがピタリと止まる。

 指先の汚れを落としていた彼女は、そっと布から手を離し、汚れ部分が見えなくなるように畳んで置いた。


 自分は何もしていない、と澄ました顔を見せるロヴィーサに、アイナが大いに笑いながら執り成して来た。


「いや、違いますよ。幾ら汚そうと、水を幾ら飲もうと、お金なんて取られません。ここは……というか、こちらの国での飲食店は、そういうものなんです」


「あり得るのか……? そんなんじゃ、儲けなんて出ないと思うが……」


「色々と勝手が違うんです。でも、大丈夫。お金が取られない事は、私がしっかり保障しますから」


「そうか……? まぁ、アイナがそう言うなら……」


 如実には信じ難い事だった。

 しかし、アイナに嘘を言う理由はなかったし、何より彼女を信じたい気持ちが勝った。

 それで元は雪のように白かった布を黒く汚し、手元に置かれた水も一気に飲み干す。


 氷が入っていた水は驚くほど冷たく、新鮮な衝撃を押し込む様に、目を固く瞑った。

 そうして喉奥まで押し込んで何度も嚥下し、それから大きく息を吐く。

 握った杯を改めて見つめ、残った氷をマジマジと見つめた。


「氷が入っているのを抜いても……っ、水そのものが美味い! これがタダで飲めるのか……!」


「ですね。こちらでは氷も、美味しいと言ってくれた水も、別に貴重ではないですから」


「水はともかく、氷もか……」


 驚きを通り越して、レヴィンは恐怖すら感じ始めていた。

 彼もまた貴族として生まれ、十分な贅沢を享受してきたと自覚している。

 実際、彼の屋敷でも氷は十分に貯蔵されていて、氷室には夏でも困らないだけの量が用意されているものだ。


 しかし、庶民が通う飯屋に、無料で提供できる量はない。

 一国の王ですら不可能だと思えるのに、ここではそれが普通だと、アイナは豪語したのだ。


 目の前で座る神にしても、それに異議を唱えるでもなく、やはり平然としている。

 透明なガラスで作られた杯を小さく傾け、レヴィンの様子を面白そうに見つめていた。


 今更ながらに、神と対面どころか同じ食の席に座っていると自覚してきて、レヴィンは思わず顔を伏せる。

 不敬なだけでなく、大いに不快にさせた可能性すらあった。


 そもそも、着席前にその許しを得る確認を取るべきだったと、今更ながらに気付く。

 レヴィンは頭を深く下げて謝意を述べた。


「も、申し訳ありません! 不快な真似を……!」


「いや、少し懐かしく思って見ていただけで、不快という事はない。あちらの世界から来たのなら、誰もが通る道だしな」


 そう言って、大神は言葉通り微笑ましい物を見つめる視線で、レヴィンら一行をなぞった。

 それから手元に置かれた、光沢のある紙を手に取ると、隣へ渡して回し見をさせ始める。


「飯を食いに来たんだ。まずは頼んでしまおう。そっちは……事情を良く知るアイナとやらが、面倒見てやれ。メニューも読めないだろうし、どういう料理かも分からないだろう」


「へ、あ……は、はいっ! それじゃ、こちらは私が……レヴィンさん達の好みに合わせて決めさせて貰います」


「あぁ、任せる」


 言うなり、神と神使らは互いに話し合い、メニューを覗き込みながら、自分が食べる料理を決め始めた。

 レヴィンがアイナへ期待のこもった視線を向ければ、その視線に根負けしたアイナは、隣のメニューを手に取った。

 そして、幾つかの説明を始めた。


「とりあえず、レヴィンさん達男二人は、肉さえ食べられれば良いんじゃないかと思うんですが……」


「肉を嫌う奴なんていないだろ。ロヴィーサだって好きだぜ」


 ヨエルが口を挟むと、アイナはそういえば、と視線を右斜めへ向けた。


「そういえば、そうですね……。皆さん、戦闘漬けの生活ですし、食べてないと身が保たないですものね。じゃあ、そっちの方向で見てみると……」


 アイナがメニューを指でなぞり、幾つかの絵を経由していると、ある一点でその動きが止まる。


「定番ですし、まず嫌う人はいないと思うので……この、ハンバーグが良いと思います」


「どういう料理なんだ、それ?」


「お肉を細かく挽いてから、平らな円形に成形し直した料理です。掛けるソースで味も違って、それ以外にも色々と幅広く、皆に好かれる料理ですよ」


「ふぅん? じゃあ、とりあえずそれで。俺としては、さっき見た細長い奇妙な料理も気になるんだが……」


 アイナはレヴィンがディスプレイに張り付いて、熱心に見ていた光景を思い出し、メニューから一つの料理を指差して見せる。


「これですね、パスタ。これも幾つかソースの種類がありますけど、定番はトマトと挽き肉のボロネーゼなんじゃないでしょうか」


「良く分からんが、本当にこれか? この絵じゃ、細く長いのが宙に浮いてないぞ」


「いや、あれは単にそう見せかけていただけであって、料理として運ばれて来るものまで、浮いてたりしませんからね」


「そうなのか……」


 明らかに失望した様子を見せるレヴィンに、アイナは小さく苦笑する。

 まるで不貞腐れた様にも見えるのが、また彼女にとっては面白いらしい。


「じゃあ、それも頼んでおきましょう。他には……」


 そうして幾つか他のセットも決めると、神と神使らも同様に、どの料理にするか決めたらしい。

 店員を呼び付けあれこれと頼むと、その後に続けて、アイナも同じ様に口にする。


 全て注文を言い終わると、店員は手元のメモ帳らしきものに書き付けた。

 去って行く前に水まで補充してくれて、どこまでも至れり尽くせりの提供に、レヴィンは感嘆の息を禁じ得ない。

 

 どうやって採算を取るのか考え、料理の値段が気になり出した所で、大神がテーブルの上へ組んだ両手を投げ出す様に置く。

 そうして、やはり緊張も、更に緊迫もない口調で言葉を投げかけた。


「料理が来るまでには、もう少し時間が掛かる。それまで、まずは自己紹介でもしてみようか」

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