未知の世界 その3

「うるさいの……? それは一体……」


 レヴィンは念のため腰を低くして身構え、視線を通路の前後へ素早く向けた。


「まさか、追手や刺客みたいのが、ここへ送り込まれてくると……!?」


「そういう意味じゃない。危険度でいうなら、殆どないんだ。……が、見つかると面倒なのは変わらないだろうな」


 そう言って、大神レジスクラディスは傍らのユミルに目を向けた。


「隠蔽は?」


「既にやってるわ。魔力も上手く隠せたと思う。一般人からも、奇異に見られるコトはないでしょう。風景に溶け込んだ、ごく普通の他人としか映らないはず」


「うん、それで良い」


「……とはいえ、そこまで気を配る必要ないと思うけどね。結界が張られていない所を見るに、既にそうした感知と対策は止めた時期……だと思えるし」


「そうだな……」


 大神はそれとなく上空を見つめて、それから肩の上に頭を乗せたままだった、神犬の頭を撫でた。


「魔力ある者が孔を通過したなら、自動的に結界が展開されるはず……。それがないのだから、完全な終結を宣言した後……あの大戦から半年以降、と見る事が出来る。あまり神経質になる必要はないかもな」


「一体、何の話を……」


 ここはアイナの世界――レヴィンからすれば、未知なる異世界だ。

 そして当然、大神にとっても異世界であるはずだ。

 それなのに、世界の事情を詳しく知っている風なのが気に掛かる。


 ただ詳しいだけでなく、精通している様子すらあり、孔を通っている間でさえ、全く動揺を見せなかったのだ。

 だが、それは単純に人間と比較して良いものか、レヴィンは迷った。

 神ならば世界に対して詳しいのは当然で、それは異なる世界においても同様だ、と言われれば納得してしまいそうになる。


 もしかしたら、本当にそういう事なのだろうか――。

 同じ疑問に行き当たったのか、アイナがそれを口に出して問う。


大神レジスクラディス様、あなた様は……一体、何者なんですか? オミカゲ様と瓜二つの容姿といい、この世界の事情――結界について知ってる事といい、異世界の神というだけでは説明つかない気が致します。もし、もしも……!」


 言葉を口にするほど熱を入れ始めたアイナに、大神レジスクラディスは手を振って強引に止める。

 面倒そうな、あるいは疲れた顔をさせながら、通路の奥に見える光を指差した。


「だから、そういう説明をしてやっても良いと思ってるから、移動を提案してるんだ。こんな所で長話なんかしたくない」


「あ、は、はい……。そうですね……。確かに、仰る通りです」


 アイナは帯びていた熱を一瞬にして鎮火させると、肩を落として同意する。

 大神レジスクラディスは小さく首肯して、それから肩の上に乗った神犬の頬を撫でた。


「そういうわけだから、フラットロ。お前も今は隠れてろ」


「邪魔はしない」


 狼にもよく似た精悍な顔付きから違わぬ、いかめしい声がその喉奥から出て来た。

 今までレヴィンが出会った精霊たちとは違う、確かな発音だ。


 彼らは言語を話せても、どこか辿々しいところがあった。

 しかし、そこは流石に、大神が契約している大精霊、と言ったところなのだろう。

 その確かな口調は、目を瞑って聞けば、人と錯覚してしまう程流暢だった。


「人混みの中を歩くとなれば、流石に隠蔽も何もない。今だけは堪えてくれ。すぐにまた呼ぶから」


「……すぐだぞ」


「あぁ、すぐに」


 大神が目を合わせて頷くと、それで渋々ながら火の玉へと変化し、そのまま体積を小さくさせて消えていった。

 そうして大神レジスクラディスが一歩踏み出すと、またすぐ火の玉が出現し、顔だけ元の姿を見せて精霊が問う。


「もういいか?」


「……まだ幾らも経ってない」


 大神が苦笑しながら、その頭を撫でた。

 目を細めてされるがままの所を見させられると、まるで人馴れした犬の様な印象を受けてしまう。

 大精霊というより、まるっきり主人を慕う飼犬そのものだった。


「問題ないと思ったら、その時は必ず呼ぶから。だから大人しくしていろ、いいな?」


「……分かった」


 渋々ながら、と良く分かる表情で頷き、フシッと鼻息を荒く飛ばすと、今度こそ消える。

 しばらく待っても姿を見せず、それで今度こそ移動できるようになった。


 レヴィンが何とも言えない表情で固まっていると、大神レジスクラディスはレヴィン達を無視して歩き出した。

 その後ろに付き従う神使らも、苦笑いを噛み殺しながら、レヴィンの前を通り過ぎていく。


「まぁ、ほら……付いて行こうぜ」


 ヨエルに声を掛けられて、レヴィンもそれでようやく動き出した。

 歩幅は大きいものでないのに、反して歩速はそれなりに速い。

 置いていかれまいと、レヴィンは小走りになってその背を追った。



  ※※※



 裏路地から表に出て光を浴びると、そこには全く別の世界が広がっていた。

 この異世界に降り立った時も、レヴィンは違和を大きく感じたものだが、それとはまた別種の、想像も付かなかった世界が目の前にあった。


 まず目に付いたのは、馬を超える速度で通り過ぎていく箱だ。

 驚くべき事に、牽引する動物すらいないのに、荷台部分だけが進んで行く。

 酷い悪臭を撒き散らすのも特徴で、中には黒い煙を尻から吐き出す箱すらあった。


「なん……、何だアレは……? 何をどうしたら、あんなものが動くんだ? 箱の中に魔物でも飼ってるのか?」


「それはもうやった」


「は……?」


 ユミルから半眼になった生暖かい笑みを向けられ、レヴィンは困惑する。

 向けられる笑みや感情に戸惑い、何を意味するのか理解できない。

 そして、そんな揶揄すら即座に耳から飛び出して行くほど、目の前の光景は衝撃の連続だった。


 驚くべきは、動く箱だけではない。

 石でも、そして木でもない建材を用いた建物は、五階建て以上の物も多く、ガラスをふんだんに用いられていた。


 人の身の丈を超える一枚ガラスも珍しくなく、むしろそれが当然と言わんばかりに使われている。

 道の両端には等間隔で柱が聳え立ち、それら同士を何らかの線で結ばれていた。

 どこまでも続く様は凡そ偏執的であり、レヴィンは狂気すら感じて身震いした。


「どれ程の信心があれば、これほどの柱を立てられるんだ……。道の先には、さぞかし立派な神殿があるに違いない……」


「あの柱に巻かれてる、黒と黄色の縞々を見ろよ。きっとアレが、神への敬意を示すシンボルなんだろうぜ……」


「それも、もうやった」


 またもユミルから生暖かい眼差しが向けられ、レヴィンは何とも居た堪れない気持ちになる。

 その視線から逃げるように顔を外へ向ければ、道行く人々の姿が目に入った。


 身に着けた衣服もまた見たことのない薄着で、しかも実に多彩な上、多種多様だった。

 普通、衣服には決まった型があるもので、それを基準に作られる。


 身長や体格などによって、ある程度は変わるものだが、基本的な型を基準に服は作られるものだ。

 だから、使用される布などによって違いが出るとしても、変化は些細なものとしか表れない。


 しかし、目の前を通り過ぎていく者達は違う。

 使われる素材だけでなく、その着色に至っても多く違いがあり、しかも余りに防御を考慮に入れていない。

 特に女性が顕著でその傾向にあり、膝を見せている者すらいる。


「魔獣や魔物に襲われる可能性を、まるで危惧してないのか? 死にたいのか、あの女……」


「あら、その発想は無かったわね」


 面白そうにユミルが笑い、またも視線を向けてくる。

 レヴィンは文句の一つも言いたくなって、思わず睨みつけようとした。

 しかし、それより先に、風で流されてきた匂いが鼻腔をくすぐる。


 食欲を唆る、これまで嗅いだことのない匂いだった。

 身体は正直なもので、こんな時だろうと腹が鳴る。

 思えば、ロシュ大神殿を襲った未曾有の大侵攻からこちら、一切物を口に入れていないと気付いた。


 思わず腹を抑えていると、その隣でヨエルも似たような格好で前屈みになっていた。

 疲労の色が濃いのは誰もが同じで、ロヴィーサも気丈に振る舞っているが、限界は近いはずだった。


 それを悟ってか否か、大神まで面白い見世物を見るような目で見つめ、それから指先を一つの建物へ向ける。


「……そうだな、まずは飯か。落ち着いて話をするにも、丁度良いだろう。……どうだ?」


「ま、いいんじゃない?」


 軽い調子でユミルが同意し、それからレヴィン達へ悪戯好きな笑みを浮かべた。


「空調の効いた室内で、冷たい飲み物片手にお話ね。そっちの方がいいでしょうよ」


 他二人の神使は何も言わなかったが、異議を唱えないところを見ると、同意と見做して良いらしい。


 レヴィンには、こちらの飯屋事情など分からない。

 だから、勝手知ったる者がいるなら、そちらに任せてしまいたい、という気持ちもある。

 それでアイナの方を見て伺うと、彼女もまた同意する仕草を見せた。


「はい、良いと思います。混み合う時間でもないなら、きっとこの人数でも、問題なく入れてくれるでしょうし……」


 八人は大所帯と言える人数ではないが、店によっては入れない懸念があった。

 現在の時刻は分からないが、日は高く、まだ中点から傾き始めた頃合いに見える。

 レヴィンの目から推察して、昼飯時は過ぎている様に思えた。


「まぁ、目に付く店、片っ端から試してみましょ。そうすれば、どこか席につける所だってあるわよ」


 ユミルの軽い提案に、誰もが同意する。

 そうして、まず大神レジスクラディスが指を向けた店の前に立ったのだが、そこでもレヴィンは度肝を抜かれる事になった。


 店の入口横には、見たこともない料理らしきものが飾られている。

 やはり見事な一枚ガラスで仕切られた中に並べられた料理は、出来立てその物を飾っているらしかった。


 皿に乗った料理は見易いよう、斜めに傾けられている。

 だというのに、落ちて零れる様子はなく、それどころか重力に逆らっているものさえある。

 何がどうなっているのか、レヴィンはガラスに額を付けて、まじまじと見つめた。


「これは……、これも一体、どうなってるんだ? この中では時が止まってるのか……!?」


「それももう、あー……また、どこかで見たことある光景ねぇ……」


「さて、私にはサッパリ、何を言っているのか分かりせんけど……」


 神使の一人、銀髪の妖精女王が顔を背ける。

 それを尻目に、大神レジスクラディスがくつくつと笑って扉へ手を掛けた。

 レヴィンを気にした素振りもなく、殆ど無視する形でそのまま中へ入って行く。

 

 神使の三人が中に入って行くのを見ても、レヴィンは目の前の料理に釘付けで目を離せなかった。

 見たことのない、細い何かがフォークで持ち上げられ、その形のまま固まっている。


 今まさに、食べようと持ち上げたその瞬間で時を止めた様な――。

 世界の理を正面から無視しているそれが、とにかく気になって仕方がなかった。


「若様、今はそれより、お早くお願いします」


「いや、ちょっと、ちょっと待ってくれ……。これ……!」


 右から左からと、ガラスに頬を押し付けて、その原理を確かめようと四苦八苦していたのも僅かな間だった。

 そんなレヴィンをロヴィーサが肩を揺さぶり、強引に動かす。

 未練がましくガラスの前に戻ろうとするのを、今度こそ腕を掴まえ、店内へと引っ張り込んでいった。

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