幕間 その1

 日本国には、民を守護する神がいる。

 八百万の神その一柱であるとされ、国民に深く愛されている。

 自然現象を人格化したものではなく、現実に顕現し見て触れられる存在としてあった。


 文献には、約千年前からその名が現れる。

 それから現在まで、変わらず民を守護し続け、病と怪我を振り払ってきた。


 全国各地に分社を持ち、その総数は四万を超えるとされる。

 国民の八割に信仰されている神の名は、御影豊布都大己貴神みかげとよふつおおなむちのかみと言った。

 普段呼びするのには長すぎ、また不便なので、単にオミカゲ様とも呼ばれる。


 御神処として祀られる場所、そして実際に降臨御わす場所が御影神宮であり、『一生に一度はお御影参り』とは良く知られた常套句だった。

 神宮は低山に建立されていて、まるで巨大な掌で三方から寄せ集めた上で、潰した形に見える事から三掌山と呼ばれていた。


 参拝するに高すぎず、そして敬って歩くに丁度良い。

 そうした場所に建立された神宮には、年間八百万もの参拝者がやって来る。


 今年は遷宮される年でもあり、だから例年よりも人が多いようだ。

 二十年に一度の、オミカゲ様御神処、奥御殿の一部を新調する神事があるからだった。


 経年劣化を鑑み、一度古いものを崩し、また新しく作った神処に居を移す。

 常に神と、その神威を瑞々しく保つ意味を込めて行われる。


 常に最も古い部分から打ち壊されていく循環が出来上がっているので、無尽蔵に広がる事はなく、そして一定周期で元の部屋へと戻るのだ。

 例えばそれは星座の様に、時と共に移り変わり、一度は見えなくなろうとも、必ず元に戻る姿と似ている。


 永久不変である事を望まれ、そしてそう在り続けて欲しい、との願いを込められた神事でもあった。

 だが今、荘厳でありつつ厳粛な純和風の一室にて、その遷宮に憂いを持って溜息をつく人物がいた。


「また、この年が来たか……」


 襖を開け放った部屋には耿々こうこうと、日の光が差し込んでいる。

 その向こうには、広々とした明るい空が見て取れ、爽やかな風が緩やかに、その人物を撫でていた。


 部屋の中央にいるのは、総白髪の女性だった。ただし、老婆ではない。

 新雪の様に美しく、曇りもなければ輝いてすら見える白髪は、彼女独自、また唯一のものだ。


 その瞳は紅玉のような美しく、その肌は瑞々しさで溢れる。

 永遠の若さと美しさを今も保ち、国民をその神徳から守護する、オミカゲ様と呼ばれる神がそこにいた。


「ふぅ……」


「またで御座いますか、オミカゲ様」


 部屋はオミカゲ様の個人的な居室であろうとも、決して一人にはならない。

 この日も傍には女官長である、齢七十の京ノ院けいのいん鶴子つるこが控えていた。

 その鶴子が、物憂げなオミカゲ様に対し、慮りながらも呆れた声音で語り掛ける。


「今に始まった事でも御座いません。遥か以前から行われてきた神事で、オミカゲ様にとっては慣れた事でもありましょう……。何を憂う事が御座いますか」


「我ほど気長く生きておると、二十年程は瞬きの間。ここにもようやく、馴染んで来たと思うたに……。慣れ親しんだ家を離れるのは、誰とて嫌なものであろう」


「それは大変、良く分かります。けれど、いつでも新しく、またいつまでも瑞々しくあって欲しいという、民の願いが形になったもので御座います。何より、神事です。お受け入れなされませ」


 女官長は神の世話係として、その頂点に立つ役職だ。

 最も身近に接し、最も長く付き合う時間が長い為、神としもべ以上の関係になり易い。


 オミカゲ様が堅苦しい関係を嫌う事もあり、傍目から見ると教育に厳しい祖母と、その孫の関係にも見える。

 今も鶴子の言葉は、助言というより嗜めるものに近い。

 オミカゲ様はそれに苦く微笑み、開け放たれた襖の奥、縁側から見える中庭へ目をやった。


「……かつては、信仰を向けさせ、また受け取る大義名分が必要だった。有り難がるもの、参加しがいのあるもの、そうしたものがな」


「今も必要とされてございます。昔から続くものを今へ繋げるものも、神聖であり敬われるべきものなのです」


「分かるがの……。我はもう、必要と感じておらなんだ」


「――オミカゲ様」


 鶴子から強く嗜める声が上がった。

 無関心とは恐ろしいものだ。


 何より、神が人を見限るような言動は、何より恐ろしい。

 幼子が母を求めるように、誰もがオミカゲ様を求めずにはいられない。


 突き放されては生きていけないと思うからこそ、自然、鶴子の表情も強張っていた。

 オミカゲ様は顔を鶴子の方へと戻し、また別種の苦笑を見せた。


「お前が思うような意味とは、少し違う。神にとって、信仰は水と食料に等しい。なくてはならず、力を付ける為にも欲するものだ。とはいえ……ただ、今はもう、多くは必要ない」


「されど、オミカゲ様……」


「分かっておる。何が言いたいのかは……」


 オミカゲ様はやはり困った様な顔をして、再び外へ向き直り、青々とした空へ視線を向けた。


「想って貰えるのは有り難い事だ。二十年に一度だとしても、その為に掛かる費用は寄進によるもの。我の新居の為と思えば、惜しまず出せるものでもあるのだろう」


「宮大工の技術継承にも欠かせないものです」


「伝統技法故な……。我の神処だからと、今や専門の建築様式となっている部分もある。廃れさせたくはなかろうな……」


 特別なものに価値を感じるのは、人類にとって共通の認識だ。

 そして気位が高いもの程、それが重要である程、価値が高まる事も共通している。


 それを考えると、現存する神の為に捧げる専門技術は、決して絶やしたくない気持ちがあるだろう。

 何より、神の助けとなるものを捧げられて嬉しいのだ。


 人が神に出来る事は少ない。

 普段の御恩返しと思えばこそ、携わる誰の顔にも誇りが満ちている。


「我の役目は、もう終わった……。終わった、と思っていたのだがな……」


「役目などと、そんな……! 誰もがオミカゲ様を愛しております。居てくれて感謝を、見守って下さり感謝をと、誰もがそう……!」


「分かっておる。皆が想ってくれておることはな……」


 オミカゲ様はそこで言葉を止めたが、続く言葉があったように思えてならない。

 『だが』、『しかし』、そうした接続詞を飲み込み、それを漏らさないようにしているかのようだ。


 役目の意味合いも、オミカゲ様と鶴子では違う事も理由の一つだ。

 人を守る、守護する、それがオミカゲ様として在るべき姿だ。

 しかし、見えない病魔や災害から守る……。それだけを意味する事では決してなかった。


 ほんの半年前まで、日本は異世界から侵略を受ける身だった。

 その厄災から守り、また解決するのが役目だと、オミカゲ様は心得ていた。

 侵略には次元と空間を繋げる『孔』が使われ、その為に発生と同時に感知、結界に閉じ込める術を作り出した。


 人心と泰平を乱さぬ為、外からは見えない形で閉じ込め、ここから出現する外敵を処分する組織の設立も行い、また育てた。

 己の死さえ踏み台に、これを解決する為に準備を進め――そして、思わぬ形で、完璧な形で収まったのが現在だ。


 千年に及ぶ抵抗が、ここに決着した。

 無論、これはオミカゲ様個人の功績ではない。


 自分とは違う自分自身、ミレイユと呼ばれる存在の力が何より大きい。

 その彼女が、数多の想いを受け取り、無限に続くと思われた螺旋を打ち破った。


 ただし、彼女のみの功績とも、オミカゲ様は思っていない。

 千年を繋ぎ戦い抜いた御由緒家、それを支える巫女と神官達がいて、実力を見出され共に戦った隊士達がいてこその勝利だった。


 オミカゲ様にとって、千年の時間はその勝利の為にこそあった。

 同時に、生きたまま勝利できないと悟っていて、今は望外な展開であり、思わず手に入った余生でもある。


 己の意義がどこにあるか、それを見失った訳でないものの、以前のままである必要もない、と考えていた。


「まぁ、最近は随分、我が儘も許してくれるようになったしの……」


 そう言って、袂にしまってある四角い板状の物体を、神御衣の上から触った。

 取り出すか、どうするか、迷っている内に一つの気配が背筋を流れる。

 ほんの一瞬、そして即座に消えたものではあったが、同時に感じ慣れたものでもあった。


「ム……!」


 それは既にこの世から消え、また二度と外で感知されないと思っていた、『孔』のものに違いなかった。

 昔は発生と同時、自動的に結界を生じさせていたものだが、事態の解決と共に解消させてしまっている。


 ほんの数日前までは一応残していた結界機構も、長らく出現しなくなった事で止めてしまっていた。

 それが今、あまりに早計だったと後悔に変わる。


 突然、険しい顔をさせて動きを止めたオミカゲ様に、鶴子が気遣わし気な声を掛けた。


「オミカゲ様、どうかなさいましたか? そのような……」


「分からぬ。『孔』の微弱な反応……、それすら即座に消え……。侵入? 何者かが……だが、これは……隠蔽されている?」


「あ、『孔』で御座いますか……!?」


 オミカゲ様に近しく、その事実を知っている者ほど、『孔』への忌避感は強い。

 殆ど反射的に拒絶反応を示した鶴子とは別に、オミカゲ様は深く精神を集中させて原因を探った。


「もしも、が開閉させたなら、何処で開くべきかは熟知しておるはず……。また先触れの必要性も、よく理解しているはずだ。……であるなら、他の何かと考え――」


 そこまで口にして、唐突にオミカゲ様の動きが固まる。

 何かを感じ取ったに違いなく、そして眉間に寄った皺の数が、その重要性を示していた。


「お、オミカゲ様……?」


「御由緒家へ連絡。いや、阿由葉に任せよう。まったく、何を考えて……」


「あの、どういう……?」


「客人だ。出迎える準備をいたせ。面倒事か、悪戯のつもりか、それは確認してみるまで分かるまいが……。とにかく急げ、場所は追って報せる」


「し、承知つかまつりました……! これ!」


 オミカゲ様は短く命じると、鶴子は直ちに頷いて、他の女官へ鋭く命令を伝達しに行く。

 それを横目で見ながら、一体なにが起きているのか、オミカゲ様はしばし黙考した。

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