反撃、逆転。そして…… その7
ある日突然、こちらの世界へ落とされてから、既に一年が経っている。
その時間の何もかもが、掛け替えのないものだったとは言えない。
何度も望郷の念で泣き、幾度となく故郷の家族を思って泣いた。
不便さで言えば、生活の何もかもが不便で、初めはその多くが全く受け入れられなかった。
しかし、受け入れなければ生きていけない。
始めからそういうものだった、と自分に言い聞かせて、慣れるよう――馴染むよう努めなければならなかった。
一時は、この世界の何もかもが嫌いになった。
何度となく、今すぐにでも帰りたいと願った。
しかし叶えられず、そうした先で得たレヴィン達との出会いは、掛け替えのないものとなった。
信頼できる友は、得難い宝だ。
故郷にあってさえ、手に出来ていない宝だった。
帰るとなれば、それを手放さねばならない。そこに躊躇いはある。
しかし、それが帰還との引き換えと言われたら、苦悩し躊躇いながらも頷くしかなかった。
アイナは、すぐ隣にいるレヴィンの方を盗み見る。
すると、レヴィンもまた同じ様に横目を向けていて、受け入れろ、とでも言う様な笑みを浮かべていた。
その笑みに背中を押されて、アイナは顔を上げる。
そのとき初めて、オミカゲ様と瓜二つの大神を見た。
紅よりも
望郷の神と同じくするその目と合わせたその瞬間、アイナの意識へ直接殴るような衝撃が走った。
「あ、う……」
目の前――という程に、神との距離は近くない。
何しろ面前には、まず巨大な赤い竜が身体を丸めて、巨大な顎をその両手の上を乗せている。
その頭に鎮座して見下ろしている相手と合わせるのだから、互いの距離は二階のベランダ程度には隔たりがあった。
だが、その玉顔と紅瞳を視界に収めた後、アイナの思考が唐突に飛んだ。
まるでスイッチを押したかの様に、視界が一瞬で暗転し、あらゆる動きを停止させる。
唐突に糸が切れたかの如く動きを見せなくなったアイナに、レヴィンも怪訝な視線を向けた。
一切の動きを見せず、固まっただけならば、緊張の一言で片付けられた。
しかし、その目は明らかに虚ろで、何者の姿も映していない。
ともすれば、それは自意識の喪失とも見られるものだった。
そこでレヴィンは唐突に思い至る。
つい先程も、
――異世界人は召喚に際して、例外なく洗脳を受ける。
ルミ……ユミルもまた、襲撃が起こるよる前、似たことを発言していた。
――それは
もし、その発動する条件が、神との対面――その目を直視することだったなら……。
あるいはそれに類する条件だったならば、アイナの不自然な動きにも説明が付く。
レヴィンが咄嗟に手を伸ばし、アイナを拘束しようとした、その時だった。
伸ばした手は、その肩に触れる事なく空振り、俊敏な動きで跳躍して回避してしまった。
ユミル達の頭上を飛び越え、竜の鼻面を一足飛びで駆け抜け、そのまま
「――アイナ!!」
レヴィンもまたその手を伸ばし、後を追おうと立ち上がった時には、既に遅かった。
アイナの手には『鍵』が握られていて、それが
その神器が悪意を持って使用された時、一体何が起きるか、レヴィンには想像も付かない。
概念的な扉さえ開かせるので、大幅な弱体化だけでなく、もっと別の恐ろしい何かが起きるかもしれないのだ。
その懸念を、
しかし、あくまで余裕の態度を崩さず、精霊の頭に肘を付いたまま、退屈そうにその動き目で追っていた。
そして、それは神使の三人もまた、例外ではなかった。
神を信じているからか、やること為すこと無意味と思っているからか。
その気になれば止められるだろうに、指一本動かすつもりはない様だ。
「……フン」
取った行動といえば、それだけの事だった。
その直後、突き出された『鍵』は見えない壁に阻まれ、その発動を止められる。
『鍵』の発動には、鍵山を直接対象へ差し入れ、そして捻転させる動作が必要となる。
しかし、見えない柔らかい壁で堰き止められ、一定の距離から以上近付けていない。
それでもアイナは『鍵』を握り込んだまま、更に力を込めていた。
見えない力場のせめぎ合いが起こり、腕と『鍵』とが細かく震える。
だが、攻撃を認識している神犬は、威嚇しようと鼻の頭にシワを寄せる。
攻撃に転じるには絶好の機会なのだが、
「お前にそれを渡したアルケスは、私の権能について何も話さなかったのか? 汎ゆる権能に対し抗い、無効化させるのが、我が権能。神器を用いたところで同じことだ。お前が持つそれも所詮、権能を人でも扱えるよう、劣化させて道具に落とし込んだ代物に過ぎない」
神器とは、それら全て権能を有した道具という訳ではない。
神がその神力を持って、作り出した道具全般を指して神器と呼ぶ。
何の特別な効果もない、ただ神力を込めただけの器を神器と呼ぶこともあり、その形や能力は実に様々なものだ。
しかし、今アイナが使用したのは見せ掛けでも、既製品より少し強力なだけの魔術秘具ではなかった。
明らかにそれ以上のものであり、神力を多く込められた逸品に違いない。
だが、どういう用途を持ち、どういった意図があって使われたにしろ、それが神力を伴うものなら
かの神は、神へと対抗する為に生まれた戦神だった。
汎ゆる権能は、
この世界に生きる小神ならば、誰もが知っている常識だった。
だからこそ、何故、と思わずにはいられない。
全くの無意味で終わると知って尚、アイナにこの洗脳を施した意味があるとは考えられなかった。
「殺すのは容易い、が……」
大人しく肘掛けに徹していた神犬も、今度はどうする、と窺う様な視線を向けていた。
アイナは完全に鍵を受け止められた状況にもかかわらず、それでもまだ鍵を押し込もうと腕を伸ばし続けている。
その目は洗脳された者特有の、一切の景色を移さない虹彩を放っていて、自らの意思で行っていないのは明らかだった。
神への暴言や不敬は、それだけで死罪とする程、重い罪ではない。
しかし、直接の暴力や害意は、その理由如何によって死罪になり得る。
とはいえ、今は例外……洗脳されて、無理やりさせられた行為に過ぎなかった。
このまま腕を振り払い、ひと撫でする気安さで殺してしまえば、神としての威厳に傷が残る。
神の裁決に、不満を持つ者も出るかもしれない。
だが、アルケスの目的が、たかがそのような小さな傷を付ける事とも思えなかった。
無垢で利用されただけの少女を、無慈悲に殺した――。
それを騒ぎ立てて糾弾したところで、些事だと切り捨てることも可能なのだ。
そして実際のところ、大神庇護の方へ形勢は傾くだろう。
多くの信者も、それに文句を唱えまい。
――いや、と
彼はきっと反抗や、反骨心を示すだろう。
表面的にはともかく、確実にその心へ爪痕を残す。
ユーカード家を
その切っ掛けともなりそうだが、それだけの為にアイナを利用する価値があるかは、甚だ疑問だった。
全く無意味に思える行動でも、実際に行われたなら、そこには必ず意図がある。
失敗で思わったにしろ、ロシュ大神殿へ淵魔を侵攻させた様に、そこには強い意志が介在していた――。
神殿の破壊ないし、龍穴を確保する目的が、その根底にはあった筈だ。
「……だが、本当にそうか?」
この大侵攻には、不可解な部分が多く残っていた。
そもそも、神が黙って座視するなど、全く考えてはいなかったろう。
阻止する為に動くと思っていたからこそ、『虫食い』が発生したタイミングに合わせて、この凶行を決行していた。
だというのに、肝心の『虫食い』に対する妨害が、余りにお粗末だった。
合流させない、あるいは神殿が落ちてから合流させる、そうした遅滞行為を期待していた筈だ。
実際に、それは十分な時間稼ぎとして機能すると思われた。
だというのに、
『虫食い』は自然消滅や、何かを切っ掛けに自滅したりしない。
外部から排除行為があって、初めて世界から取り除けるものだ。
また、その排除を外部から隠す為には、極めて高度な結界術も必要となる。
何者か――その『虫食い』を、わざわざ排除した何者かがいなければ、到底説明の付かない問題だった。
龍穴奪取を成功させる為、神には外部に目を向けて貰わなければならなかった。
救援は止められないにしろ、それは後の祭りと言える段階でなければいけなかった。
そうであるべきなのに、『虫食い』は排除され、間に合ってしまっている。
――では、そうと気付かせず、間に合わせる事が目的なのか。
間に合えば、
勝利は容易く、そして凱旋も行うだろう。
ならば、ここまでは全て、計算通りという事になるのだろうか。
「……欺瞞? 何が……どこから、どこまで?」
全てが上手く行った結果、ではないだろう。
危ない綱渡りと、幾度か足を踏み外した結果であるのは間違いない。
だが手に入るなら、龍穴は奪取したかったろう。
わざわざ手助けてしてまで、間に合わせてやる必要があるとも思えなかった。
どこまで計算していたにしろ、それが計算内にあるとは思えない。
それとも、あくまで不慮の事故でしかなかったのか――。
あるいは単に、絶対目標でなかった可能性もある。
もしも、釣り餌としての目的が前提にあり、手に入るならそれで良い、という気持ちでしかなかったなら――。
そして、この状況が想定の内というなら、それに付き合ってる現状は、いかにも拙かった。
「だが、何を考えていようが関係ない。その全てを打ち砕いてやるだけだ」
「――できるかな?」
突然、上方から降って沸いた声の闖入に、
念動力を使って腕を払い、アイナを吹き飛ばそうとしていた、その瞬間のことだった。
死角となる直上に突然現れた何者かは、その手に神器を握っている。
アイナが手にしたそれとは、また別の形をした神器を、今まさに脳天目掛けて突き出していた。
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