ロシュ大神殿の攻防 その2

 淵魔の大群は、弓の射程まで後わずか、と言う位置まで迫っていた。

 歩廊に並んだ兵達は弓を構え、あるいは刻印の刻まれた手を前へ突き出し、有効射程範囲に入るのを待っている。


 緩く湾曲した歩廊の上は、お世辞にも広いとは言い難い。

 弓を構え矢を番えることを考えると、三列並ばせるのが限界だった。

 ひと一人分の間隔を空けて並ばせれば、自然とそうなる。


 その隙間を縫うようにして、ルミが激励の声を上げながら練り歩いていた。

 敵前を前にして臆する者など、ここにいない。

 しかし、いよいよ戦闘開始となれば、士気を高める為、こういった儀式も必要になる。


 ――アタシには向かない仕事なんだけどね。

 レヴィンの傍を離れる時、彼女はそう言って、困った顔で笑った。

 本人からすると、適役は他にいると思っていて、もっと戦士然としたリンなどが、正に向いていると評すだろう。


 しかし、残念ながらここにはおらず、そしてこの場に神使以上の適役などいなかった。

 ルミは兵達の間を左から右へと歩きながら、声を張り上げる。


「ここが正念場よ! 奴らに自由を与えれば、この世の生命全てが飲み込まれ! 奴らに限度などない! 躊躇いも、慈悲もない! この一戦は、世界の興亡を左右する!」


 一人一人の顔を見て、あるいはその背に言葉をぶつけ、ルミは歩廊の端から順に声を掛けた。


「我らも当然、慈悲などない! 奴らの身を泥の一片に変えるまで、決して攻撃を止めない! 淵魔の全てを、この世から討滅する為、武器を振るい続けろ!」


「オォォォオオオ!!」


 ルミの鼓舞に呼応して、兵達も声を上げる。

 そこへ淵魔が、ルミの言葉に蓋するような威嚇音を上げてきた。


『ギィィィィァァァアアア!!』


 淵魔は言葉の意味すら理解していないだろうに、まるでその鼓舞を掻き消し、対抗するかのようだった。


 そうして、城壁へ迫ろうと足の動きを止めないまま、淵魔は口々に奇声を上げる。

 足音は大地を鳴らし、その奇声も相まって、歩廊の上にあって振動として伝わって来る程だ。


「――打ち方、用意ッ!」


 ルミは演説を終えるなり高見台へ戻り、その上で大きく腕を振り上げた。

 号令に合わせ、弓兵が乱れぬ動きで矢を番え、刻印術士は片手を添えて掌を突き出す。


 弓弦が引き絞られ、ギリギリと音を立てた。

 前面どこを見渡しても淵魔の群れ、まとには困らない。

 どれほど弓下手でも、こうも敷き詰められていれば、外す方が難しい。


「矢を放てッ!」


 ルミが掛け声と共に手を振り下ろすと、限界まで引き絞られていた矢が放たれた。

 雨の様に降り注ぎ、前面にいた淵魔の頭や体へ、次々と矢が刺さる。


 無垢の淵魔サクリスは、基本的に脆い。

 その一矢で射抜かれ、泥へと変貌し、土の中へ溶けていく。

 しかし、それを全く物ともしない数が、後方には幾らでも続いていた。


「刻印、放て!!」


 矢番え動作の合間を縫って、術士達が魔術を放った。

 刻印を使う者、魔術をそのまま放つ神官、その姿に違いがあって、また効果も様々だ。

 多くの魔術が飛び交い、爆風や雷撃、旋風が巻き起こり、淵魔が翻弄されながら吹き飛んだ。


 それでも、淵魔の足が緩むことはない。

 後続は幾らでもおり、泥となり、消えていく前の淵魔を踏み潰して前進して来る。


 そしてその間にも、休みなく矢と魔術が城壁下へと打ち込まれ続けていた。

 だが、それは敵の進軍速度を、ほんの少し遅くさせるだけの効果しかない。


 間断なく、矢と魔術が撃ち込まれ、その餌食となるものの……しかし、淵魔の進軍は止まらなかった。

 そして、とうとう――。

 湾曲した城壁に、淵魔の一体が辿り着いた。


「――来たか」


 レヴィンが刀を胸の前で掲げ、城壁下を見据える。

 一体が辿り着いくのと同じくして、後続もまた波の様に押し寄せ、そのまま壁にぶつかった。


 これが知恵ある者なら、攻城用の梯子などを用意しているところだろう。

 しかし、淵魔には当然そうした物が無いので、爪を立てて登ろうとする。


 元より淵魔へ対抗する為に用意され、そして実際に返り討ちにした過去を持つ城壁だ。

 引っ掛ける場所も、力任せに傷を付けるのも容易でない壁は、そこで一旦、淵魔の動きを止める。


 だが、いつまでも、とは行かなかった。

 城壁に張り付いた淵魔の上に、別の淵魔が乗り上げる。

 そこへ更に別の淵魔が加わり、連鎖的な連なりが山成を形成される事で、梯子代わりとなっている。


 淵魔は前の淵魔の背中を蹴り上がって壁に張り付き、次々と城壁を越えようとした。

 だが当然、それを黙って許す討滅士ではない。

 ルミが声を張り上げ、命じる。


「刻印部隊、爆炎と暴風は積極的に眼下を狙えッ!」


 城壁の弓狭間から顔を出し、魔術士達を中心とした部隊が掌を下へ向ける。

 山なりに膨れ上がった淵魔の群れは、魔術の爆風で吹き飛んだ。


 だが、一つを崩しても、またすぐ淵魔は壁に張り付き、次々と山成が形成されていく。

 爆炎によって吹き飛ばされ、泥へ帰っていく淵魔の数は膨大だ。

 しかし、攻撃されようとも全く意に介さず、壁へ張り付く淵魔の数と勢いに衰えはない。


 淵魔の恐ろしい所は、喰らった糧の力を取得し、強化する事ばかりではない。

 知恵もなく、感情がない所もまた、奴らを構成する恐怖の一部だ。


 恐怖も躊躇いもないとは即ち、全てが死兵であることを意味する。

 己の死も、群体の敗北や消滅など、一切気にせず猛攻を継続するのだ。


 護る者、愛する者を持ち、生還を待つ誰かを持つ人間には、とうてい持てない心理だ。

 魔獣や魔物でさえ、自己の損失や終焉の恐怖には逆らえない。

 不利と悟れば、逃げ出すのが自然だ。

 しかし、淵魔にそれはない。


 ルミが最後の一片まで滅せよ、と放った言葉は、文字通り――最後の一体まで、その猛攻を止めないからこそだった。

 そうして、遂に最初の一体が、城壁の頂上に手を付ける。


「剣を取れェェッ!」


 ルミが叫ぶ様に命じると、弓兵達は弓の代わりに剣へ持ち替え、魔術士達も腰から剣を引き抜いた。

 レヴィンとヨエルも、互いに目配せして正眼に構える。


 淵魔は城壁の弓狭間に手を掛け、目の前のレヴィンへ飛び掛かった。

 それを一刀の下に両断し、下半身を城壁下へと叩き落す。

 残った上半身は歩廊の上へボトリと落ち、跳ねる様な痙攣を見せてから泥へと帰った。


「来るぞッ! 蹴散らせッ!」


 その言葉を皮切りとして、淵魔が次々と城壁に残り込んでくる。

 討滅士の集団については問題なくとも、神殿兵の方は呆気なく、既に二名が犠牲になった。

 首元へ食い付き、噛み千切った直後の淵魔を、レヴィンは背中から両断する。


 犠牲者が発生しても、直後に淵魔が強化されるわけではない。

 咀嚼し、呑み込み、形態変化が起こるまで、幾らか猶予がある。

 その間に倒してしまえば、最悪の事態は防げた。


 しかし、戦闘は一気に混迷を極め、敵味方入り乱れる状態になってしまった。

 目の前で淵魔の首を落とす一方で、隣の兵が淵魔に組み敷かれている。

 防具の隙間、僅かに見える喉元目掛けて食らい付き、血しぶきが舞った。


「喰らった淵魔を優先しろ! 奴らを強化させるなッ!」


 その淵魔を処理しながら言ったレヴィンにも、酷なことを言っている自覚はある。

 もしかしたら、救えるかもしれない命だが、淵魔の強化は何にもまして、防がなければならない事態だった。

 敵味方入り乱れる中で、一つの淵魔を許したら、次々と犠牲者が現れ始め、そして瓦解するのだと経験で知っている。


 淵魔は弱い者を嗅ぎ分けて狙う習性もあり、今では討滅士より神官兵の方へ敵が殺到していた。

 それをレヴィンとヨエルでフォローしているが、全てを補うことは出来ない。

 中には、歩廊の中へ入れまいとして、前へ突出し過ぎる者までいた。


「待て! 下がれ! 上がって来た奴らだけ対処しろ!」


 壁に張り付き、這い上がって来る瞬間の淵魔は、無防備同然だ。

 飛び掛かって来るより前に、城壁下へ落としてしまいたい気持ちは分かる。

 しかし、落とした程度で淵魔は死なない。


 問題の先送りに過ぎず、そしてスタミナの概念を持たない淵魔は、幾らでも這い上がって襲って来るのだ。

 それならば、致命傷を与えやすい歩廊の上で、体を両断してやった方が得策だった。


 口で説明する余裕があったなら――。

 レヴィンは淵魔を斬り伏せながら、今更ながら後悔する。

 兵として準備された以上、そうした最低限の戦術は理解していると思っていた。


 だが、たとえ理解していたとしても、生死が掛かった状況で、常に冷静でいられるはずもない。

 危険を遠ざけたい、淵魔を少しでも遠ざけたい――。

 それで城壁下へ突き落したい衝動に駆られても仕方がなかった。


 それは理解できる。

 しかし――。


 前へ突出し、歩廊上から剣を突き下ろしていた兵士は、淵魔の爪に引っ掛けられ、諸共に落ちて行った。

 城壁下では男の悲鳴と、肉を裂き、骨を砕きながら食い漁る咀嚼音が聞こえて来る。


「くそ……ッ!」


 城壁下へ落ちた兵は救いようもなく、またそこで喰らった淵魔を処理しようもない。

 奴らには、安全に強化させるだけの、時間と余裕を与えてしまったことになる。


「前に出過ぎるな! 落ちたら助からない! 敵も強化されてしまうッ!」


 レヴィンの声が届いた範囲では、落ちた兵の代わりをしようとしてか、前に出ようとした兵は踏み留まった。

 微妙な空白地帯が出来上がってしまい、そこへ淵魔が浸出して来た。

 それをヨエルの大剣が薙ぎ払い、身体を二分させながら吹き飛ばす。


「オラァァ! もっとこっちに寄越せ! お前達は漏れた奴を相手しろ!」


「オォォォ!!」


 ヨエルの豪快な一撃を見て、気圧され気味の兵達も士気を取り戻し、大きな声で応えた。

 未だ途切れることなく続く淵魔を斬り払っていると、城壁に人型の手が掛かる。

 おおよそ人らしい姿であるものの、覗かせた顔には目も口も無かったし、何より泥状に帯びた身体が、何者かを物語っている。


 先程落下し、それを喰らった淵魔がやって来たのだ。

 人を喰らった淵魔を、ドルディと呼ぶ。

 かつてにおいても、淵魔と戦い、その犠牲となるのは、まず人間からだった。

 だから、人形を意味するその言葉で呼ばれる。


 人間一体を一度に喰らった時、他の淵魔も殺到し、腕や足を取り合い、我先にと喰らったはずだ。

 だから、あれ一体のはずがなく、最低でもあと二体は出て来ると予想できる。


 そして、その予想は、その直後正しかったと証明された。

 最初の人型を見たのを皮切りとして、更に三体の人型が登って来る。


「だろうと思ってたぞ、糞ったれ……!」


 淵魔の手には、腕の延長線上に、剣を模した何かが握られていた。


「ギィィィィッ!!」


 淵魔の威嚇とも、咆哮とも付かぬ声と同時、レヴィンは裂ぱくの気合いと共に、刀を構えて突進した。

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