ロシュ大神殿の攻防 その1

 山を背にした神殿は、それとは別に、高い石の城壁によって囲まれている。

 這い上がろうとする淵魔の対策として、城壁そのものも軽く湾曲しており、爪を立てて上るのも容易ではない。


 また、その石材はそれぞれ、魔術の付与された素材から成り、傷にも強かった。

 磨き上げられた石材は良く滑り、僅かな突起さえない城壁は、それだけで鉄壁の守りとなる。

 しかし、それだけ準備された防壁も、流石に万を超える数を想定されて、作成されたものではなかった。


 人間の戦争と違って、梯子などの道具に頼らないだけマシとは言える。

 だが、知恵がない分、城壁に辿り着いたが最後、その身の損失を厭わない猛攻を、愚直に繰り返すとは想像できた。


 それは経験の浅い神官兵でさえ、予想できることだろう。

 彼らが武器を握る手は強く、彼方を見つめる目には絶望が見える。

 鼓動は早鐘の様に打ち鳴らされ、吐く息は荒く震えていた。


 しかし、先頭に立ち、高台の上で城壁下を見るのは、神の代行者だった。

 淵魔の跋扈を許さぬと、世の安寧侵すべからずと、神が遣わした存在だ。

 その一点を以て、兵たちは戦意を高める。


 決して、見放されてはいないと。

 神は人を救い給うと、そう信じられるから、武器を握れるのだ。

 神使と共に戦えるのは栄誉でもある。


 だから、どれほど絶望的な状況でも戦意喪失することなく、現状はむしろ軒昂だった。

 知恵もなく、考えることもない夥しい数の淵魔は、既に目と鼻の先まで迫りつつある。


 城壁上の歩廊には弓兵が整然と並び、弓を肩にしたまま、胸壁の狭間から淵魔を睨んでいた。

 そして彼ら弓兵の間を縫うように、攻勢魔術に秀でた神官、遠距離攻撃を持つ刻印所持者が並ぶ。


 敵への距離は未だ遠く、弓を構え、魔術を準備するには早い。

 その時だった。


 ――プォッ、プォォォン!


 緊張で埋まる空を、角笛の重低音が高らかに響き渡った。

 淵魔を南に睨む傍ら、その左手側から、二度目の角笛が鳴り響く。


「古式ゆかしい旋律ね。どうやら、最初の一矢が届いたみたい」


「では、あれは……!」


「予定していた援軍の一つ。すぐに門を開けて! 淵魔の来襲まで余裕はある! 落ち着いて収容して!」


 ルミが高らかに命じると、近くにいた神官が一礼して下がる。

 一拍置いてから高台から降りると、彼女もまたその後を追った。

 そして、レヴィンの横を通り過ぎる際に、付いて来いと指名がある。

 それで困惑しつつも、現場をヨエルに任せて付いて行った。


 城門前まで足を運ぶと、そこには四列縦隊で、整然と門を潜る一団があった。

 全員が肩に弓を、腰に剣を佩き、そして身体には磨き上げれた鉄防具を身に纏っている。


 彼らの顔には自信と誇りに満ちていて、淵魔の万群体を見た後だと、まるで感じさせない。

 最初からその場で待機していた兵は、その彼らを通り過ぎていく様を、恍惚とした笑みで見送っていた。


 そこへルミが歩廊から階段を降りて来て、彼らを迎えて、その先頭に立つ。

 援軍の兵が訓練された動きで足を止めると、その集団から装備と体格が、一回り大きな戦士が進み出て来た。


 ルミのすぐ後ろに付いていたレヴィンが、あっと声を上げる。

 それは彼も良く知る女性で、南方領を任せられているハスマルクに違いなかった。


 そのハスマルクがルミの前まで進み出ると、頭二つ分は高い身体を、二つに折って礼を捧げる。

 胸に手を当て頭を垂れる姿は、神使に対し向ける、正当で礼儀に適った一礼だった。


「遅参致しまして、申し訳ありません。ユダニア家の誓いを、ここに果たすべく参りました。――全ての淵魔は討滅を。戦列の一翼に加えて頂ければ、幸いにございます」


「よく来てくれたわ、ユダニアの。早馬を飛ばしたつもりだったけど、南の山間は淵魔に占拠されちゃってたし、もう合流は無理かと思ってたのよ」


「山と森を良く知る我らだからこそ、知る道というものもあります。奴らめの大移動が見えてから、急遽進路を変えましたので、それだけ到着は遅くなってしまいましたが……」


 ハスマルクは顔を上げてルミを見つめ、その端正な顔に武骨な男臭い笑みを浮かべた。


「南の守りを放棄するわけには参りませぬ故、数は二千となりますが……我が領の、自慢できる精兵です。如何様にも、お使い下さい!」


「第二神使の名に於いて、その忠義と献身に感謝を申し渡す。――存分に滅してやって頂戴」


「ハッ! 神使様と共に戦えますこと、光栄に存じます!」


 ハスマルクがもう一度礼をすると、レヴィンは我知らず駆け出していた。

 感情の昂りそのままに、歓迎と感謝を込めて手を広げる。

 立ち上がったハスマルクは、目を合わせるなり破顔して、再開の抱擁を交わした。


「なんだ、レヴィン殿までいたのか! ユーカードまで招集されておったとは、随分な無茶をしたようだな!」


「いや、これを口にするのは心苦しいのですが……。殆ど身一つの様なものでして、兵はいないです」


「なに、そうなのか……? 確かにちと、距離があり過ぎるか……。しかし、この絶望的な数を前にして、尚も身一つで飛び込むとは……! 流石ユーカードと言うべきか!」


 ハスマルクは好意的な見方をしてくれているが、事実とは異なる。

 しかし、レヴィンはそれを馬鹿正直に口にしなかった。

 何より憚られるし、そして士気にも関わりそうな問題だ。

 東の雄が単身駆け付けていた、と思われる方が、何かと都合が良いのは確かだった。


「それにしても、ハスマルク様がいらっしゃるとは予想だにしてませんでした。というより、味方となり得る援軍などないものだと……。以前、私が話した淵魔の話は、袖にされてしまいましたし……」


「お主の話と、神使様の話を同列には語れまい。我ら討滅士、神の声を疑うなど有り得ん」


「それは……、確かにそうです。そして、その招集が掛かったとなれば、何にもまして駆け付けようとするでしょう」


 レヴィンのみならず、ユーカード家ならば全員そうする。

 東の辺境領へは距離があり過ぎて報は届いていなかったろうが、もしもハスマルクと立場が逆でも、必ず参戦したと断言できた。


 ともあれ、本格的な戦闘前に援軍が加わったことは、全体の士気を上げた。

 元の戦力の倍――それも、淵魔との戦いに慣れた討滅士が二千の増加である。


 単なる数字以上の戦力が増強され、誰の顔にもやる気が満ちた。

 元より神使と共に戦える、神はお見捨てになっていない――その士気のみで立っていた様なものだ。

 ここで更なる後押しがあって、いやが応にも盛り上がる。


『おうッ! おうッ! おうッ!!』


 歩廊の上へユダニア兵が上がって来た時にも、歓呼の声で以て迎えられた。

 ハスマルクを先頭として悠然と横切り、新たに陣が作り直される。


 より攻撃が激しくなると予想さる地点には、ユダニア兵が配置され、それを補う形で元いた兵が置かれる。

 全ての配置を終え、準備万端整った時には、既に日は暮れていた。


 歩廊の上から地平線を眺める兵の口から、白い吐息が漏れる。

 気温が低いことばかりが理由ではなかった。

 それほど強い気概と、高い士気によって、身体が熱を纏っている。


 暗い空と黒い地面、闇夜に浮かぶのは、爛々と輝く淵魔の瞳だけだ。

 それが大地を埋め尽くし、不気味な光点が左右に揺れつつ、音を立てて近付いて来ている。


 歩廊からそれを睨む兵に、声を出す者はいなかった。

 だが、それは動揺と恐怖からではない。

 まるで取るに足らないものの様に、決然とした表往で見下ろしていた。


 レヴィンは兵達の間を縫って、歩廊の上を歩く。

 自分が担当を任された位置に付き、隣にヨエルを立たせて淵魔を見据えた。


「いよいよだ。そして、これだけの数だ……。ロヴィーサは無事だろうか」


「心配か? そりゃそうだ。うかうかしてると、アイツの分が無くなるしな」


「そういう意味じゃないが……」


 レヴィンは苦笑しながら頭を振り、ヨエルが見せる笑みにつられて、その笑みを深くした。

 いっそ自棄になったような笑みだった。


「そのぐらい楽観的な方が良いか。ロヴィーサの傍には神使様がいる。滅多な事にはなってないだろう」


「じゃあ尚更、残しておいてやらねぇと。無事に帰ってきた時、戦闘が終わってたら、アイツぁヘソ曲げるぜ」


「まぁ、色んな意味で憤懣を溜めこみそうだ」


 レヴィンはヨエルと顔を見合わせ、笑い合う。

 ルミは間違いなく、ロヴィーサが無事だと太鼓判を押した。


 リンが助けに向かって、それで失敗したと露とも思っていないのだ。

 彼女が強く信頼するのだから、レヴィンもまたそれを信じた。

 ただ、これだけの淵魔が城門前に集合されてしまっては、もう合流は不可能と思っていた。


 だが、彼女が無事であるなら、レヴィンとしても憂いはない。

 そしてロヴィーサは、共に戦えないのみならず、その背を護って戦えないことを、きっと不満に思うだろう。


 だとしても、この絶望的戦況に放り投げなくて良い方が、気持ちとしては随分軽い。

 好いた女ともなれば、尚の事だった。


 辺境領において、今までも戦局的に不利、と言える状況は何度もあった。

 万全を期しても不慮の事態は幾らでも起こり、死を覚悟した経験は何度もある。


 それでも、今回の戦いほど敗色濃厚な場面を、レヴィンは知らない。

 本来ならば逃げ出して当然の場面だ。

 しかし、今ここで戦う気持ちが強いのは、淵魔に対抗すべく剣を取るからではない。


 傍に神使という、心の支えがいるからでもなかった。

 アルケスに何一つ借りを返せず死ねない、という執念が身を焼いているからだ。


 感謝と恩で蓋をして、欺瞞によって背信を促した。

 それだけでも許し難いが、世界の破滅――その片棒を担がされた事こそ、レヴィンにとって何より憎らしい。

 必ず一太刀馳走してやらねば気が済まず、叶うならば、その首落としてやりたかった。


「下手な励ましはいらないよな、……いつも通りだ。普段と少し勝手が違うだけ、普段より少し数が多いだけだ」


「若……。今はまだ大丈夫そうだけど、熱くなり過ぎるなよ。今はそれに歯止め掛けてやれる奴がいねぇんだから」


「あぁ、虚仮にしてくれてた借りを返すまでは、慎重に事を運ぶさ。何より、暫くは遠距離攻撃をぶつけるだけだ。俺達の出る幕は、もう少し後だ」


 淵魔との距離が近付く程に、弓兵たちが持つ弓に力が籠る。

 号令があるまで、その弓に矢を番えたりはしない。


 大地を踏みしめる音が、打楽器の様に聞こえてくると、冷静だった彼らの顔にも、いよいよ緊張の色が走る。

 それはレヴィンも同様だった。

 出番はまだ後、と分かっていても、戦端が切って落とされる瞬間まで、常に昂りが身体を駆け巡っている。


 今か今かと待ち構えて、淵魔の足音が更に迫った。

 暗闇の中にあって、醜悪な淵魔の顔さえ見て取れる気がする。

 耳朶を直接引っ掻くような不協和音の連なりを、淵魔は城壁に向かって叫んでいた。

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