開扉奮闘 その1

 レヴィン達は森の中を遮二無二、走る。

 長らく走り続けようと速度を落とさず、森の中を懸命に駆けた。


 倒木を飛び越え、太い幹があればこれを左へ右へと回避し、木々が連なり視界の先が通らなくとも、とにかく駆ける。

 背後からは変わらず淵魔が追って来ており、そして距離が縮みつつあるのも変わらなかった。


 何しろ、淵魔は生物ではない。

 魔物の中には、時として生物の範疇に収まらないものもいる。

 アンデッドなどその最たるもので、動く屍は生物としての在り方に、正面から喧嘩を売っているようなものだ。


 しかし、淵魔はそれらとも明らかに異質だった。

 何しろ、生物としてあるべき骨格を持たないし、それに合わせて内蔵もない。

 当然、筋肉も無いので疲れとは無縁の存在なのに、並の兵士では拮抗できないだけの力強さも持つ。


 そして、淵魔とは明らかに、何かを捕食しようとせずにはいられない存在だ。

 生きる為の捕食ではなく、力を欲するが故に捕食する、とされていた。

 その力を我がものとしたい、その本能故に喰らいつく。


 だが、何故力を欲するのか、それは誰にも分かっていない。

 淵魔すら分かっていないかもしれず、だから本能というのかもしれない。

 だが、今までその捕食を散々見てきたレヴィン達からすれば、淵魔の捕食は忌避する行為だ。


 だから、剣を満足に振るえない環境、数の利に圧倒された状況にあって、必死に逃げていた。

 脅威から逃れたくて懸命に逃げる。

 ――それこそが、本能というものかもしれなかった。


「若、これじゃあ逃げ切れねぇ! やるしかない!」


 レヴィンにもヨエルが何を言いたいか、よく分かっていた。

 息を切らし走ったからといって、このまま逃げ切れる可能性は薄かった。

 援軍の予定もなく、また味方がいると分かっている方向へ逃げているわけでもない。


 山へ近付く程に斜面は急となり、そして逃げる足の動きも鈍るだろう。

 逃げる程に、窮地へ進んでいると言っても過言ではなかった。

 だが、もしそこに一縷の希望があるとしたら、川へ行き当たるかもしれない事だ。


 山の雪解け水が川となって流れるのは、決して珍しいことではない。

 そして、何処にでもあるわけでなくとも、走っている内に行き当たる可能性は、なくもないのだ。


 淵魔は川を越えられない。

 水を極端に嫌がるからだった。

 だから、いま全員が生きて逃げ切る為には、その川を求めて走る以外、方法がなかった。


 だがそれも、一縷の希望というには、あまりに細い糸を辿るしかないと理解していた。

 そして、細い糸を頼り全滅するくらいなら、そうなる前に行動するのがヨエルの役目だった。


「若、いいな!? 俺が引き受ける。その間に……!」


「待て、早まるな!」


 いざという時、その命を投げ出す覚悟がヨエルにはある。

 そして、それは正しい事と、レヴィンも理解していた。

 戦場で実際に庇われたこともある。

 先の洞窟では、実際にアクスルよりもヨエルが壁となって、淵魔を堰き止めるつもりでいた。


 その時は、それも仕方ないと、受け入れる覚悟があった。

 全員が淵魔に呑み込まれるより、遥かなマシな選択だったからだ。

 必要とあれば、レヴィンもそれを受容する。

 だから、レヴィンは情から、この場でヨエルを止めている訳ではなかった。


「あの時とは状況が違う! 奴らの狙いはアイナだ! お前は無視される!」


「――くそっ!」


 実際に横を素通りされることは、恐らくないだろう。

 何しろ数が数だし、その正面で剣を振るう者には、飛び掛かる淵魔もいるはずだ。

 しかし、良くて一割がその場に留まり、他はアイナを継続して襲う。


 周囲は遮蔽物と言える物は樹木くらいしかなく、それが通行を阻害しないのは分かり切っていることだ。


「じゃあ、どうする!? 全滅するのは時間の問題だぞ!」


「あぁ、いま考えてる……!」


 現状で打てる手など多くない。

 逃げ続けられないとなれば、戦うしかないのだ。

 しかし、数に圧殺されるのは目に見えていて、ただ戦うだけでは同じこと――。

 そこには工夫が必要だった。


「敢えて数匹釣り上げて、少しずつ数を削る。それしかない、か……?」


「それ以外……いや、アイナを一人走らせたんじゃ遅すぎる! あっという間に追い付かれるぞ!」


「だから、お前はそのまま逃げておくんだ」


「出来るか、そんな真似! ロヴィーサ、お前代われ!」


「必要ないでしょう。それならば、私が若様と共に淵魔を打ち払います」


 どちらがマシか、おいそれと決めかねる問題だった。

 ヨエルは実際、その戦力は非常に頼りになるが、この場にあっては、得意の大剣を思う様振り回せない。


 群生している樹木が、それを許してくれないからだ。

 戦力としては半減で、それならば、アイナを抱えたまま走っていた方がマシに思える。


 反して、ロヴィーサの獲物は小ぶりな短剣で、こうした場面であっても、戦力に陰りはない。

 どちらを使うか考えれば、ロヴィーサに軍配が上がった。


 しかし、複数と戦うには向かない、という短所もある。

 少数を釣ると言っても、常にレヴィン達の都合良い数が、喰らいつくとは限らない。

 予想以上に淵魔が突出して来たら、その時本当に凌ぎ切れるのか……その懸念は拭えなかった。


 レヴィンはロヴィーサとヨエルを見つめ、それから背後を窺って覚悟を決めた。

 これ以上迷っていては、釣り出すどころの話ではない。

 追い付かれてからでは遅いのだ。


「よし、ヨエルはそのまま――」


「待って下さい!」


 しかし、そこでレヴィンの声を遮って、声を上げたのはアイナだった。

 ヨエルの腕の中で、身を捩って顔だけ出そうと藻掻いている。


「あたしが残ります! 置いて行って下さい! 自分の為に誰かが犠牲になるぐらいなら、足手まといというのなら、それで良いです!」


「悪いが認められない。君が淵魔に捕食されたらどうなる? 君は最後の、望みの綱だ。他の誰より変えが利かない! 決して――」


 そこまで言い掛け、レヴィンの言葉が止まる。

 アイナを凝視し、それから背後を振り返って淵魔までの距離を測った。


「そうだ、アイナがいた。前に言っていたな、君の『鍵』は才能さえも開かせるのだと!」


「は、はい……! 試したことはないですけど……」


「じゃあ、今すぐやってくれ! この状況だ、賭けに出るならこの時以外にないだろう!」


 神器たる『鍵』の使用は、淵魔を大いに刺激するものらしい。

 それがアイナの存在を察知させ、淵魔を誘き寄せる手段ともなり得ていた。


 しかし、今この状況で、誘き寄せるも何もない。

 機会があればと思って先延ばしにされていたものが、今ここでようやく使う時がやって来たのだ。

 

「頼む、アイナ! すぐやってくれ!」


「はい! あなたの才能、堰き止めていた扉があるなら、それを今こじ開けます!」


 アイナが右手を突き出すと、そこに鍵歯が四方に出ている神器を突き出した。

 鍵歯はレヴィンに方向を定めると、次々と形を変え、その長さまで変えていく。


「もっと近くに!」


 アイナが叫ぶと、レヴィンも言われるままに身体を寄せ――。

 そして『鍵』が、その胸へと直接差し込まれた。

 旅装に防具は付いていないが、普段着より相当に厚手ではある。


 それを貫通し、『鍵』の根本まで入り込むと、アイナは手首を捻って開錠する仕草を見せる。

 すると鍵から光が溢れ、鍵穴となっている胸の内から、眩い閃光が溢れた。

 アイナが鍵を引き抜くと、それは虹色の光となってレヴィンを覆う。

 そうかと思うと、光は一瞬の内に掻き消えてしまった。


「どうだ……?」


 変わらず疾駆を続けながら、ヨエルから気遣わしい声が掛けられる。

 レヴィンはそれに力強く頷くと、それから不敵に笑った。


「やれる様な気がする。まるで、今まで身体に鎖を巻き付けて、無理やり動かしていたかのようだ。――負ける気がしない」


「そりゃあ良い。アイナ、こっちにも頼む!」


 ヨエルに頼まれるまま、アイナは同じ様に鍵を突き出し、その胸の中に埋める。

 手首をひねって鍵を開ける動作で、やはりレヴィンの時と同様に光が溢れた。

 そうして光が収まると、ヨエルもまた確信に満ちた不敵な笑みを浮かべる。


「あぁ、なるほど……! 確かにこりゃあ、枷が外れたって表現がぴったりかもな! 次はロヴィーサにもやってくれ。その間、こっちはこっちで片付ける!」


 言うや否や、胸に抱いていたアイナを前方へ向けて放り投げた。

 慣性が働き、緩やかな弧を描くように飛んでいく。

 枝の間を潜り抜けて、アイナが落ちてくる動きに応じて、先んじていたロヴィーサが受け止めた。


 悲鳴を上げてその腕に収まったアイナは、抗議する視線を背後に向けたが、何しろ非常事態だ。

 恨み言をぐっと飲み込み、ロヴィーサにも同様の手順で鍵を差し込む。


 やはり同様の光に包まれ、ロヴィーサもまた才能の扉が開放されたが、さりとてアイナを放り出して加勢するわけにもいかない。

 どうしたものかと思いながら背後を振り返ると、そこでは暴力の暴風が吹き荒れていた。


 レヴィンとヨエルは決して足を止めていない。

 右へ左へと走り、そして時に淵魔の群れに突っ込み、そしてまた離脱して奴らの先頭に躍り出る。


 噛み付こう、喰らいつこうとする淵魔は、それでまた取り逃すことになった。

 今や立場は逆転し、淵魔が必死に追い縋ろうとする番だ。

 レヴィン達へは、その速度差から決して追い付けない。


 そうかと思えばヨエルが大きく振り被って、大木があるにもかかわらず、その大剣を真横に一閃した。

 まるで枯れた小枝を両断するかのように、苦も無く大木を圧し折ると、数十体の淵魔諸共吹き飛ばす。


「なんとまぁ……」


 普段から決して平静を崩さないロヴィーサも、これには思わず目を丸くした。

 百は超すと思われた淵魔の集団が、完全に二人で圧倒されている。

 レヴィンはカタナの技が冴え渡り、目に見えない程の一振りで、次々と数を減らしていく。


 こちらもヨエル同様、木の存在など有って無いようなものだった。

 両断こそしないものの、幹が刀身の妨げになっていない。

 一枚布にカタナを突き刺すのと変わらぬ気安さで、その幹ごと淵魔を斬り捨てている。


 感嘆すべきか、呆れるべきか……。

 凄まじい力だが、あれは与えられたものとは少し違う。


 土台となる才能があって、初めてあれ程の力が開放された。

 将来得られた力が、今ここに現れただけであって、全くの才能なしであれば、あそこまでの力は発揮しなかったろう。


 それを思えば、非常に頼もしくも思う。

 だが同時に、これは彼らの頭打ちを示していた。

 比類なき、他に並ぶ者なしと思える力でも、それより強い力には決して届かない、と分かった瞬間でもある。


 淵魔の大多数は既に片付き、眼前には切り崩され、薙ぎ倒された森の一角が現れていた。

 局所的な竜巻が、樹林の一角で暴れたかのようにさえ見える。

 淵魔の亡骸は泥と消え、地面へ淵晶を残して消えていった。


 そうしてホッと一息ついた時、森の奥から更に、一際大きい黒い影が姿を現した。

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