喪失 その8

 レヴィンが宣言した通り、ハスマルクの屋敷からは朝一番に辞去することになった。

 礼節を損なわず、また同じ辺境領を預かる者同士だ。

 互いに思うところはあれど、それに相応しいだけの敬意を払って挨拶を済ませ、それから街を後にした。


 南方領は山を背中に、正面には森林地帯を持つ領地で、平地というものが殆どない。

 農業に全く向いていない土地だが、豊富な鉱山資源と森林資源があり、それらの貿易で成り立つ領地でもあった。


 何より、森は天然の要害として、淵魔を擦り減らせる防波堤の役割を持つ。

 樹木は何も、木材として利用されるばかりではない。

 中には『破裂毒の樹』と呼ばれる、幹に毒棘があり、実にまで毒が含まれる厄介な樹木が存在する。


 ほんの少しの衝撃で実を落とし、その実が四方八方に毒種を飛ばす、という極悪さだ。

 本能で突進しかして来ない淵魔は、それだけで数を目減りさせるので、こうした『罠樹トラップツリー』をわざと植えているのだ。


 レヴィンが森の中を歩きながらそう説明すると、アイナは顔を青くさせながら周囲を見渡した。


「じゃ、じゃあ……その危険な樹は、この辺にも植えられているってことですか……!?」


「いやいや、流石にこの辺りにはないよ。街道近辺の……それも、西へ向かう森には、そうした危険な樹は無いはずだ。あったとしても、致死性の薄いやつかな」


「やっぱり、あるんじゃないですか!」


 アイナが堪らず叫んだが、レヴィンの顔は暢気なものだ。

 朗らかな笑いを見せて、彼女の醜態を楽しんでいた。


「精々、警告止まりの軽いものさ。かぶれたり、腫れたりするかもしれないけど……。まぁ、その程度だろ」


「十分、恐ろしいじゃないですか……!」


 そう言われたらそうか、とレヴィンはやはり、深刻さを感じさせない笑みを浮かべる。

 女性にとって肌の傷は、時として死にもよく似た恐怖を感じさせるものだ。


 ロヴィーサなどは我関せず、とした表情を浮かべているものの、周囲へ向ける視線は強まったように思える。

 肌への大敵は、彼女にとっても警戒を強めねばならないものらしい。


「素直に街道、通りましょうよ……」


「そうしたいのは山々だが、俺達は追われてる身だからな。本当に追っ手がいたかどうか不明だが、いたならあの崩落で撒けたと思う。でも、見つかるリスクは、なるべく低くしておいた方がいい」


「分かります。分かりますけど、森の中は歩き難くて……!」


 体力がある者でも、慣れていない森の移動では、やはり多く消耗するものだ。

 硬い地面と違って、踏み込めば滑る足元は、普段より余計に力を必要とする。


 体力もなく、慣れもないアイナに、森の移動は相当つらい。

 それでも、ここは我慢して貰わねばならなかった。


「暫くの辛抱だ。あの神殿を知っている者なら、出口が何処にあるかも知ってるはずだ。次に行く方向も、それで何となくは予想できる。街道を歩く目撃情報なんて知られたら、それこそ一発さ」


「……でも、どうして西へ? 来た道を戻ってるってことですよね?」


「そうだな……。まず一つは、いるかも知れない、追っ手の目から隠れる為」


 言いながら、レヴィンは指を一本立て、言葉を続けながら指の本数を更に追加していく。


「もう一つは、普通なら北か東へ向かうとする判断を、逆手に取る為。一度テルティアに帰ろうとする予想だって、きっとしてるだろうからな。だから、その逆――山岳越えして、別の神殿を襲う為。……とりあえず、そんなとこかな」


「このうえ更に、山登りもさせられるんですか……!」


 アイナは悲鳴を上げて、愕然とした顔をレヴィンへ向けた。

 しかし、彼はそんなアイナの様子を気にした素振りも見せず、至極当然のように頷く。


「裏を掻こうと思えば、それぐらいしないといけないだろう。辛く険しいからこそ、俺達もそちらは選ばないと思うはずだ。だからこそ、選ぶ意味もある」


「そうかも、そうかもしれませんけど……。ひぃぃん……!」


 レヴィンに覆す意志がないと分かると、アイナは悲惨そうな泣き声を上げた。

 ロヴィーサもヨエルも、気の毒そうな視線は向けるものの、これに異を唱えるつもりはないようだった。

 ただし、確認するつもりで、ヨエルはそこへ口を挟んだ。


「若、やっぱり向かう先は、まず神殿ってことにしたのか?」


「あぁ、そうだ。抵抗らしい抵抗が出来るとすれば、それは封印以外にない。ほかの誰もが信用できないなら、それ以外に方法もないと思う」


「そうよなぁ……」


 ヨエルも難しい顔をさせながら溜め息をつき、下生えを蹴りつけるように足を持ち上げ、倒木を跨ぐ。


「まずはそれが、第一目標には違いないんだろうが……。神が計画を前倒ししたら、って話はどうなったんだ?」


「その時はどうにもならない。元より、これは勝ち目のある戦いじゃないからな。結局、足を引っ張るくらいしか出来ないのかもしれない」


「あるいは、計画を少し遅らせるだけか……」


 全ての神殿に淵魔が潜むのなら、そういう話になってしまう。

 しかも、当然だが神殿の数は十や二十では利かない。


 もっと多く……、遥かに多い数が建立されている。

 今のところ、五つの神殿は封印できたが、これが雀の涙ほどの効果しか上げてないなど、レヴィンもよく理解していた。


「勿論、これの反対意見、より良い意見は随時募集中だ。何が出来るか、何なら出来るか……今は移動しながら考えるしかない」


「先生が――」


 いてくれたら、というアイナの言葉は、咄嗟に呑み込まれた。

 レヴィンを不甲斐なく思っての発言でないことは、彼自身も良く分かっている。

 だから、それについて突っ掛かったりしなかった。


 アクスルは知見を多く得ていて、また深く知識を備えていた。

 ブレイン役として頼りに出来、その信頼に値する働きをしてくれたものだった。

 それはアイナが一年を通じて感じたことでもあったろうし、『先生』と呼び習わす程には、寄り掛かれる存在でもあった。


 失う前から、その存在には助けられ、頼りにしていた。

 そして失い、どれほど頼りにしていたか、改めて再認識することにもなっていた。

 アイナは自ら失言を悔い、レヴィンに深く頭を下げる。


「申し訳ありません、失礼なことを……」


「別に失礼じゃないさ。先生が頼りになっていたのは本当のことだ。俺だって、こんな時に先生がいてくれたら、と思ったりするしな。でも俺には、今のところ先生の遺志を継ぎ、神殿を封印し続ける以外、思い付くものがない……」


 それに反論する声は、一つとして上がらない。

 だから、それからは黙々と移動を続けることになった。


 適度に休憩し、水や食料を腹に入れ、それからまた移動を繰り返す。

 昼が過ぎ暫くしてからのこと、木々の間から僅かに見える空が、曇掛かってきたのに気が付いた。


 それまで雲一つない快晴だったのに、早い雲の動きには嫌なものを感じさせる。

 その時、ロヴィーサから鋭い声で静止が掛かった。


「――お待ちを」


「どうした?」


「後ろから……」


 それ以上は声にしなかった。

 レヴィンもロヴィーサの視線に釣られて顔を向けたが、見えるのは暗い森の木々ばかり。

 動物の気配もなく、他の何者の気配も感じられない。

 しかし、不穏なものの気配は、確かに感じ取れた。


「……急ぐか」


「それがよろしいでしょう」


 それまではアイナに合わせていた歩調が、それで一気に速くなった。

 アイナも置いていかれまいと必死なのだが、流石に戦慣れした討滅士より何枚も劣る。

 それでヨエルが、胸の中に抱いて走ることになった。


「す、すみません……! 大変な思いまでさせて……! お、重いですよね……っ」


「なに、軽いものさ。俺の大剣の重さ、どのくらいか知ってるか?」


 ヨエルがにかりと笑えば、アイナも顔をほころばせる。

 そうして一時間ほど歩いていると、唐突にロヴィーサが動きを止めた。


「――どうした」


「いえ……、これは……」


 ロヴィーサが背後を凝視し、暗いものしか見えない木々の間を睨む。

 それに合わせてレヴィンも見つめていると、木々が騒いでいるのが分かった。

 まるで木々そのものが意思を持つかのように、左右へと揺れている。


 強風で葉が揺れ、それで幹まで動いている――わけではない。

 幹が揺り動かされ、結果として葉が揺れているように見えていた。


 それが視界に映る範囲で、多くの木々がざわめきを上げているのだ。

 そんな現象が何故起きるのか、悟った時にはもう遅かった。


「――淵魔だッ!」


 その一言で、全員が前へ向き直って、全速力で地を蹴った。

 木々が背後で、音を立てて激しく揺れる。


 それは淵魔が直進する際、木々にぶつかって起こる動きだった。

 視界いっぱいに揺れる木々、その間には数え切れない程の淵魔が、ひしめき合っていたことになる。


「何でこんな所に!?」


「近くに神殿なんか、無かったはずだろう!」


「まさか、崩落を力付くで!? そこから抜けてきたんでしょうか!?」


「分からん! 分からんが、とにかく不利だ! 逃げるしかない!」


 南方領の備えが突破されたわけではないだろう。

 仮にそうであれば、もっと速い段階で前兆がある。

 彼らも南の護りを任されている自負があり、決して易々と突破させない。


 レヴィン達が屋敷を辞去した際に、何の音沙汰もなかったのが、その証拠とも言えた。

 しかし、それならば、この淵魔がどこからやって来たのか、皆目見当も付かなかった。


 その問題は大いに気になるところだが、それよりまずは逃げねばならない。

 木々が多く、自由に武器が振り回せないとあっては、戦うどころではなかった。

 足場は緩く踏ん張りも利かず、また倒木も多いから、上手く対応するのも難しい。


 しかし、淵魔からすれば、ただ飛び掛かって喰らいつくだけで良いのだ。

 そこまで不利な戦いを、敢えて受けてやる理由がなかった。

 ――ただし、問題もある。


 相手は四足獣で、走る速度もレヴィン達より速かった。

 平地ならば速度でも劣らないと自負する彼らだが、いかにも地形が悪い。

 レヴィンは自分で選んだ森の移動を、今更ながらに激しく後悔しなくてはならなかった。


 走りながらも背後を振り返り、淵魔との距離を量る。

 ――やはり、いくらか向こうの方が速い。

 追い付かれるのは時間の問題だ。


 そうとなれば、いよいよ覚悟を決めなければならない。

 レヴィンは意思を込めた視線を背後に向けた。

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