喪失 その5

「我々は、故あって一つの神殿を目指していました」


「……参拝か?」


「その様なものです。片道に……掛かっても長くて十日程の旅、ほんの小旅行のつもりで向かっていたのです」


 ふむ、とハスマルクは未だ話の意図が掴めず、手持ち無沙汰に顎を撫でた。

 前置きは短い方が良さそうだ、と考え直したレヴィンは、さっそく本題を切り出す。


「そこで、淵魔に襲われました」


「――有り得ん。淵魔はこれまで、父祖の努力によって辺境へ押しやられたもの。辺境以外では出現せん!」


「はい、そう思っておりました。……ですが、事実なのです」


「それはつまり……、東方領での封じ込めに失敗した、という意味ではないのだな?」


「違います。むしろ、南方領でその様な凶事が起きたのか、と疑った程です」


 だが、そうではないと、レヴィンは事実として知っている。

 それに、本当に南方領での封じ込めに失敗していたら、それを預かるハスマルクが今も暢気に屋敷で寛いでいるはずがない。

 混乱の極みにあるか、それを討滅しようと戦場にいるのが道理だった。


「しかしだ、レヴィン殿。そうなると道理が合わん。淵魔は外に出ないのに、どうして襲われたりするのだ。よく似た魔物と、勘違いしただけではないのか?」


「そう仰りたい気持ちは分かります。しかし、その想定は荒唐無稽だと、ハスマルク様もまた、よくご存知でしょう」


 淵魔の外見は、捕食した対象によって様変わりする。

 だから魔物を喰らえば、それに似た姿は取るものだ。

 しかし、淵魔の特徴として、泥を被った姿になる所は共通している。


 何を捕食しようとも、それが唯一不変の特徴なので、淵魔とそれ以外を見間違えることは殆どない。

 そして、魔物の中に、そうした泥を被る存在はこれまで発見された例がなかった。


「ならば、その淵魔はどこから出たものだ? 湧いて出るのが淵魔のさが。なれど、どこからともなく現れるものでもない。それこそ、おぬしも良く知ってることであろうが」


「はい、奴らはどこからともなく現れるのではありません。そして、実際に出現した場面を、しかとこの目で見ています」


「ほぅ、どこだ……?」


「――神殿です」


 その一言で、部屋の空気が凍り付いた。

 それだけではない。ハスマルクの背中から、怒りとも嘆きとも付かないものが立ち昇っている。

 その目は剣呑に細められ、次の言葉次第で、決して容赦しないと告げていた。


「使う言葉と発言は慎重に行え。いらぬ誤解やわだかまりを生むからな。私もついつい、先走ってしまうところであった……。同胞に向ける態度でなかったこと、まずは詫びよう」


「いえ、詫びて頂く必要はありません。間違った言葉を口にしていませんから。……淵魔は、神殿から出て来たのです」


 今度こそ、ハスマルクの怒りが発露した。

 いきなり激昂し、暴力に訴えでないところに、彼女の理性を感じさせる。


 見た目は粗暴に見える女傑だが、南方領と淵魔への対抗を任せられるだけあって、短慮に物事を済ませない。

 レヴィンは一度小さく頭を下げて謝意を示し、改めて、その目を見つめて言葉を発した。


「ハスマルク様、これは決して侮辱するつもりで言うのではありません。私も父祖の誇り、レジスクラディス様への尊崇を心根に持っております。決して、世迷い言で申している訳ではないと、改めてユーカードの家名に誓って申し上げます」


「……そう、そうだな……! 同じ討滅士として、ユーカード家には多大な敬意を向けておる! エーヴェルト様への敬意もある!」


 声を張り上げてそう言うと、口から盛大に息を吐き、幾度か深呼吸する。

 三度目に吐く息は今までのどれより長く、そうして顔を上げた時、改めて目を合わせて問い掛けた。


「あまりの不敬に、我を忘れるところだったが……! されど納得まではできん! 見たものが本当だったと信じることすら! おぬしが言ったのは、それ程のことだぞ!」


「ご尤もと思います。ですが、真実なのです。何があってのことか、深いところまでは知っていません。しかし、神殿には淵魔が潜んでいる」


「むぅ……」


 レヴィンの真摯な瞳に見つめられ、ハスマルクはそこに嘘はないと悟った。

 しかし、口から出るものに嘘がないとしても、それを真実と素直に認められない気持ちが強い。

 レヴィンへ付き従う者たちへと目を向けても、それぞれが真実だと告げる視線を向けて来て、尚も信憑性が増すだけになった。


「とはいえ、だ……。にわかには信じ難いことだぞ……。むしろ、信じられんと声を大にして言いたい。それに、潜んでいる? まるで淵魔に占拠されているかのような言い分だな!」


「……間違いではないと思います。これまでの数百年、ひたすら淵魔の逃走経路……あるいは侵入経路を、一つまた一つと潰してきた……。そう、思っていました。ですが、逆なのです」


「封じていたのではなく、隠していたと……? そんなこと、あるわけがない」


 その疑問も尤もで、そんなことをする理由など本来はない。

 しかし、アクスルが言うには、それこそが目的だった、という話だった。

 根本からずれているのだから、そこに正当な理由など思い付くはずがない。


「ですが、これは私の一意見ではなく、先生も言っていたことなのです。本にも載っていた内容で、神殿は淵魔を隠す檻に過ぎない……その様なことを言っていました」


「本にも? 何の本だ? そんなものがどこにある?」


「いえ、それは……」


 アクスルはその詳細について、何も話してくれなかった。

 ただそういう記述を見つけたと、説得力を以て語ってくれただけだった。

 神殿に保管されていた、というニュアンスがあっただけで、実はその根拠となる部分を知らない。


「どこのどういう本かも知らないものを、見た読んだの一言で信じたのか? 神への不敬と天秤に掛けて!? それこそあり得ぬ話だぞ!」


「ですが、この目で見ています。実際に神殿で襲われもしました。本の出自は不明でも、信じられるだけの根拠が目の前にあったのです……!」


 レヴィンは懸命に、そして真摯に言葉を選んで口にしたが、ハスマルクの納得は得られなかった。

 彼女の見てくる目に共感はなく、むしろ蔑むものへ変わっている。


 忸怩たるものを感じて、レヴィンは膝の上に置いていた拳を強く握りしめた。

 それを横目で見ていたロヴィーサが、一礼した後、許可を得てから口を開く。


「その目で見ていないものを、容易に信じられないのは当然かと思います。しかも、信仰の根に関わる重要なことです。若輩者の言うことを、素直に聞けないところもあるでしょう」


「若輩だからと疎んでいるのではない! そこまで狭量ではないぞ。余りに荒唐無稽だから、受け入れられないと言っているのだ!」


「――分かります。前代未聞のみならず、神々へ不敬の表明をするようなものですから。ですが、淵魔の異常行動もまた、前代未聞のこと。先立って起きたことも、未曾有の事態ではありませんでしたか?」


 これにはハスマルクも、流石に考え込む仕草を見せた。

 腕を組み、顎を引いて、床を射殺す視線で睨み付けている。

 それからしばらくして、口の端を釣り上げて息を吐くと、その睨む視線のままレヴィンへと顔を向けた。


「前例のない異常行動はあった、それは確かだ。だが、淵魔とは時として、予想も付かぬ行動を取るものだ。それ一点のみで、おいそれと信じられるものではない」


「しかし、現に……!」


「現にというが、我らの領地でその様な報告は上がっていない。レヴィン殿の言うことが本当なら、この耳に届いていないのも不可解な話だ。それとも、どこか少数、限られた神殿のみ、そうした事態が発生しているのか?」


 レヴィン達はその場面に遭遇したが、あらゆる全貌を知る立場にはない。

 恐らくそうだろう、としか言えず、そして全ての神殿が一斉蜂起したわけでもなかった。

 その時が来るまで隠している……そういう話でもあったから、ハスマルクが知らないのも無理はないのだ。


「少数ではなく、大多数……あるいは全て。その様に言っておりましたが……」


「誰だ? アクスルか?」


「……はい。本の所在を知っていたのも、先生です」


「ならば呼び付けて、詳しく話を聞こう。何処に居る?」


「いえ、無理です。死亡、しました……」


 レヴィンの口から絞り出すような声が漏れた。

 握り込む拳を更に強く握り締め、その腕が震えている。


 他の誰もが、唇を引き絞って悲しみに耐えていた。

 そして、ハスマルクは信じられないものを見る瞳で呆然とし、大いに顔を顰めて息を吐く。


「死んだ……、あ奴が……。食えぬ男、殺されようと死なぬ男、と思っていたが……」


「俺達を庇う形で、生き埋めになりました。ギベナの森の奥地、山脈の肌にある入口の奥にて……。そして、その神殿では淵魔の氾濫が起きています」


「馬鹿な……! 有り得ん! あそこまで近距離に淵魔がいて、気付かぬわけがない!」


「ですが、いたのです!」


 一向に納得して貰えないハスマルクに、レヴィンも遂に声を荒らげて主張した。

 納得して貰えないもどかしさと、アクスルの死を思い出して、瞳の端に涙が浮かぶ。

 しかし、それも束の間、自らの涙を恥じて親指で拭う。

 それを見たハスマルクは、少し心を動かされた雰囲気を発したものの、やはり首を横に振った。


「我らの知らぬ龍穴が何処かに残っており、そこから来た淵魔が神殿を占拠した、と見た方がまだしも説得力がある。到底、納得できるものではない」


「しかし、そんなはずがないと、ハスマルク様にもよく――!」


「あぁ、よく分かるとも。しかし、荒唐無稽なのはどちらも同じこと。同じ荒唐無稽なら、神への信仰を捨てぬ方を選ぶ」


 レヴィンは歯噛みして目をきつく絞り、それから絞り出す様に声を落とした。


「山中の神殿は崩落で塞がってますが、掘り起こそうとはしないでください。むしろ、固く埋めたままが良いと思います。淵魔のことは信じなくても良い……でも、これだけは、どうか……!」


「元より、そんな所に神殿があるとは知らなかった。だから、それぐらいならば聞いても良い。同胞ゆえ、飯と宿の面倒は見るが……、余り長居しない方が良かろうな」


 苛立ちを隠そうともせずそう言うと、ハスマルクはレヴィンの返事も待たずに席を立った。

 本来なら、起立して退席する姿に一礼を示すべきだが、レヴィンたちはそれに反応できない。

 後には、ただ無気力感に身体を投げ出す、彼らだけが残された。

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