喪失 その3
レヴィン達が足を進めた山林は、想像以上に深い森だった。
奥へ行く程に木々は高くなり、密度も増す。
葉の隙間から見えていた空も、次第に狭くなっていき、光も十分に差さなくなった。
起伏も多く、土は柔らかく足を取られる易い。
その上、樹の根が所々張り出していて、これにも注意せねばならなかった。
一つ一つは些細なものだが、慣れていない者にはそれが大きな負担となる。
一時間も歩けば、アイナの息は荒くなり、肩を上下させる程になっていた。
元よりアクスルの死が直前にあったせいで、皆の口は重い。
それもあって、励ましの言葉さえどこか重かった。
「もう少し、先へ進んでおきたかったんだが……。アイナ、もう限界か?」
「いえ……っ、その……、はい……!」
アイナの足手まといにはなりたくない、という気持ちは、その姿勢からも伝わってくる。
しかし、洞窟内では緊張の連続で、淵魔に発見されてからは、全速力で逃走してばかりだった。
討滅士として生きて来たレヴィン達は、疲れそのものに慣れているせいもあって、多少のことではへこたれない。
だが、そうした世界で生きてこなかったアイナには、この状況が辛いものだと、当然理解できていた。
周囲を見渡しても森が続いていて、開けた場所など有りはしない。
だが、休ませなければ、アイナは無理を続けるとも想像できた。
倒れられた方が厄介なので、良い場所があれば、彼女を休ませてやらねばならない。
「――おい、若。あれを見ろ」
ヨエルが指を向けた方には、周囲から隠れられる窪地があった。
五十歩程離れた位置であり、限界の近いアイナでも、流石に歩いて行けるだろう。
身体を隠すに十分というわけでもないが、何もないより安心できる。
何より背中を隠せるだけの高さがあるだけで、心に余裕もできるものだ。
「いいな、あそこにしよう。……アイナ、いいか? もうちょっと辛抱してくれ」
「は、はい……! すみません、早く森を抜けないといけないのに……」
「いや、ここが何処かも分かってないんだ。急いだところで仕方がない。それに、あの場所からは、早く離れたかっただけだしな……」
その
だが、それを敢えて指摘する者はいない。
誰もが意味を察して黙り込み、そしてレヴィンが歩き出したのを皮切りに、後へと続く。
窪地に入ると手早く枯れ木を寄せ集め、火を焚いて、それから湯も沸かした。
森の中は日差しが入り込みづらいだけに、気温も低い。
これまで動き続けて、喉を潤すのにも冷たい水が良さそうに思えるが、身体を冷やすのは推奨されなかった。
アイナとしては、きっと喉を鳴らして水を飲みたいだろうが、ぬるま湯で我慢して貰わねばならない。
焚き火に当たり、水分の補給も終われば、誰もがホッと息を吐いた。
ただし、そこに会話はない。
手に持ったカップの底を見つめて、直前の悲劇を悔いていた。
レヴィンもその悔いを強く浮かべる一人で、時折重い息を吐いている。
そのレヴィンが、遣る瀬ない笑みを浮かべながら、言葉を吐露した。
「黙ってこうして座ってると……、色々考えてしまう。あれは回避できた悲劇だったんじゃないか、もっと上手くやる方法があったんじゃないか……」
「あの人は……」
言い差して、ヨエルは一度言葉を飲み込み、それから息を吐き出して続けた。
「なに考えてるか、腹の
「旧くからの知り合いだって、言ってましたよね……」
アイナが確認のつもりで問うと、ヨエルは儚い笑みを見せて頷く。
「どれだけ旧くからの付き合いか、詳しく知ってるのは
「えぇと、確か……レヴィンさんのお祖父様、でしたけ」
そう、とレヴィンが頷いて、カップの中に視線を落とした。
「当時から、淵魔関係で多く協力して貰っていた。その知識の幅広さや知見の深さには、何度となく助けられて来た。お祖父様の若い頃には、既に家との付き合いがあったらしいし、だから親戚の様な扱いだ」
「先代様相手に気楽な態度でいられたのは、先生だけだったな。本人の性格もあるんだろうけど、多少の無礼が許されるだけの信頼と、そして実績があった」
ヨエルが説明に捕捉を加えると、アイナは少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「……本当に、長い親交があったんですね。あたしの一年なんて、それに比べたら……」
「別に長さだけで量るもんでもないけどな。お前さんの感謝や恩義は、そう思えるだけの重さがあるんだろう。他と比べて卑屈になる必要あるもんか」
「……ありがとうございます」
やはりアイナは寂し気に笑い、カップの縁を濡らすように啄む様にして飲む。
それから少しして、再び口を開いた。
「でも、多分……。あたしは羨ましかったんだと思います。そうした濃密な付き合いがあって……、子どもの嫉妬みたいなものですかね。自分が一番親しいと思いたい、というか……」
「そりゃあ、命の恩人だもんな。そういう意味じゃ、俺達より気持ちは強いだろうさ。俺なんて別に、そういう感情更々ねぇから。恩義はあるし、先代様もそうしてるから、倣ってるってだけさ」
それは事実だったが、アイナにはフォローするのに自分を卑下したと伝わったらしい。
困った笑顔を向けて、何を言うでもないところに、ロヴィーサがぽつりと呟いた。
「私は……今になって、申し訳無さが募ってきます。こんなことを今更言うのは、卑怯という気がしますが……」
「いいさ、こんな状況だ。気持ちを吐き出せば、少しは楽になるし、心の整理にもなる。……聞かせてくれ」
レヴィンが優しく諭すと、ロヴィーサは何度か言葉を飲み込みながら、それでもポツリポツリと話し始めた。
「私は……先生を、信用していませんでした。旅に出る前までは、他の皆同様……皆に倣って敬意を向けていましたけど……。でも、何かを隠していると思えてなりませんでした」
「さっきヨエルも言ってたろう。先生が外で何してるか詳しく知らないのも、腹の中を探らせないのも、旅を始めるよりも、ずっと前からあったことだ」
「それは、そうなんですけど……」
見れば、アイナまでレヴィンの言葉に同意している。
アクスルは相手で誰であろうと、多くの場合、態度を変えない。
それは平民だろうと、たとえ領主だろうと対等に扱う姿勢に見え、人によっては好意的に映る。
しかし、敬う人物を軽んじられると、それだけで反感を買う場合もあるものだ。
ロヴィーサの場合は、その反感を買う側の人間だった。
ユーカード家に仕える人間として、それを誇りと思う者からすると、看過できない時もある。
それもあって、最初からアクスルへの気持ちは他の誰より平坦だった。
「何かを隠すというより、腹に一物抱えているように見えてなりませんでした……。でも、それは神々からも、真意を隠す為に必要な措置だったのかもしれません。そして、最期には若様を逃がす為、その命を投げ出しました……」
「別に俺だけの為でもなかったろうけどな……」
「総合的に見ての結果だとは分かります」
ロヴィーサは深く悔やみながら、溜息を零した。
「あの場で洞窟から逃げるだけでは不十分でした。淵魔を外へ逃さない為には、洞窟を崩落させるのが一番早く、確実です。それが出来たのは、あの場では先生だけでした。足止めだけなら、あるいは他の誰かでも良かったでしょう。でも……」
「先生も納得しての行動だった。長く生きたから、老いた者から順番なんだって……先生は言ったんだ」
「……分かります。でも、私は詫びなければなりませんでした。それまでの疑惑や懐疑に……。彼が亡くなる前に、そうすべきだったんです。それが誠意というものでしょう」
ロヴィーサは力なく肩を落とし、両手で包み込むようにカップを持つ。
口を付ける訳でもなく、手の中で弄び、それから深い溜め息をついた。
後悔は誰の中にもある。
しかし、レヴィンを守るという大義名分の元に、敵愾心と近いものを持っていた。
それだけに、ロヴィーサは余計に思うところがあった。
それが彼女の心を、より重たいものにさせている。
傍でその様子を見ていたヨエルが、いっそ笑い飛ばすような声を上げた。
「なに、心身ともに若を護るのが、お前の役目だ。怪しいと思えば、味方だって疑う奴は必要だろ。俺は武器を振るうことでしか、若を護れないからな!」
下手な慰めだった。
凡そ、男が女に掛ける慰めでもない。
しかし、身も蓋もない気遣いだからこそ、ロヴィーサの顔に笑みを生んだ。
「……そういう事にしておきます。時として、嫌われ役を買ってでも、やらなくてはならない事があるのでしょうから。……先生が、そうだったように」
ロヴィーサが決意めいた宣言をすると、再び沈黙が落ちた。
焚き火から火の粉が爆ぜ、やけに甲高い音を立てる。
アイナは焚火の揺れる炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「先生は、老いた者と言いましたけど、見た目は若いですよね。こっちの世界じゃ、そういうの珍しくなんですか?」
「いや、そんなことはないな」
考える様な素振りをしながら、レヴィンは薪代わりに枯れ枝を焚き火に投入する。
「むしろ、魔族ぐらいじゃないのか。……勿論、神は例外で不老不変とされてるけど、それを聞きたいわけじゃないんだろ?」
「はい。……でも、そうですか。先生は魔族だったんでしょうか」
「多分、違うだろうな……。その昔、聞いた時にも、やっぱり違うと言われた覚えがある。それに……」
それに、魔族の耳は例外なく長いものだ。
その耳を誇りにしているくらいなので、基本的に隠そうとしない。
常にフードを被って顔を隠していたところかしても、そうした部分に齟齬がある。
だが、レヴィン達はどうして顔を隠していたのか、その理由すら知らないのだ。
どちらにしろ――。
レヴィンは頭を振って、最後に見せたアクスルの笑顔を思う。
最期の瞬間、崩落させた衝撃で見えた、一瞬の素顔には――。
耳は人間と変わらぬ、普通のものだった、という印象しか残っていない。
笑顔に気を取られたのは確かだが、それでも特徴的な耳なら目に入ったはずだ。
「……うん。やっぱり、先生は魔族じゃなかった。多分、俺の見間違えじゃなければ……」
ならば長命の理由はどこにあったのか。
今となっては、永遠に分からない所へ行ってしまった。
尚もアイナが質問しようとしたところで、ヨエルが鋭く制止する。
それでロヴィーサも勘付いて、カップを音を立てずに下ろしながら武器へと手を伸ばした。
「あの……?」
「動かず、静かに。でも、身構えろ。……既に囲まれている」
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