喪失 その1

「……他に手も無ぇか!」


 ヨエルが武器の柄に手を添えるのと、淵魔が勢い良く飛び掛かってきたのは同時だった。

 突出していた一体は、他の個体より身体が大きい。

 だからこそ追い付けたのだろうが、それはヨエルの一撃によって、いとも簡単に両断された。


 しかし、足を止めずに振り向きざまの一撃だったからこそ、その分、走る速度は鈍った。

 これがあと何度か続くだけで、追い付かれるのは明らかだった。

 それを横目で見たアイナが、息を切らせつつ叫ぶ。


「先生っ! どうにか……っ、ならないんですか!?」


「どうにかする方法ねぇ……。この状況で、全てが綺麗に収まる方法なんてないよ。誰か一人を犠牲にする。その間に他は逃げる。それが一番、現実的だね」


 アクスルの口調はどこまでも穏やかで、そしてどこか他人事だった。


「本当に、本当に……っ! それしかないんですか!」


「あったら僕が既にやってるよ。けれども……、見たまえ」


 道の先を照らす光球が、更に大きく輝き出した。

 それで薄っすらとしか見えていなかった背後も、より鮮明に見えるようになる。

 そこでは、大人が三人横に並んでも、なお余裕ある道幅が、淵魔によってぎっしり埋められていた。


「追い付かれたら、なす術がない。一つの魔術で綺麗に解決する方法なんて……」


 言っているアクスルの言葉が、不意に途切れた。

 その目はフードに隠れて良く見えないが、前方を注視していることは分かる。

 その視線に釣られたレヴィンも、同様に前へ目を向け、そこで思わず声を上げた。


「――道がない!?」


 突如、道が途切れて無くなっている。

 アイナが咄嗟に足を止めようとしたが、それをアクスルは声を荒らげて制止した。


「違う、止まるな! 道はある!」


 そうは言っても、光球に照らされていて尚、一寸先は闇だった。

 ぽっかりと闇が口を開けていて、道の先は奈落に繋がっているように見えた。

 しかし、アクスルの言うことだからと、誰もが足を動かし続ける。


 そうして、分かる。

 道が無いのではない。

 道となるものがたわんでしまって、見えなかっただけだ。

 この先は深い空洞となっているが、代わりに吊り橋が続いている。


「走れ、止まるな! あの数に追ってこられると、橋はあっという間に落ちる!」


 それは間違いない指摘だった。

 頑丈そうに見えるロープで吊り橋を作られているが、何百と押し寄せる淵魔を支えきれるとは思えない。

 追い迫ろうとする淵魔を、再びヨエルが一撃の元に両断しながら声を上げた。


「……といっても、これじゃあ! 渡り切る前に橋が落ちる!」


 ロープが撓む程なので、向こう岸まで相応に長い。

 すぐ後ろまで迫っている淵魔といい、渡り切るまでに橋が持ち堪えられるとは思えなかった。


「だったら祈るしかない! 淵魔に呑み込まれるか、落下して闇に呑まれるかだ!」


 レヴィンもまた、破れかぶれになって叫んだ。

 実際、他に手はないように思われた。

 後は橋を繋ぎ止めているロープが、予想を超えて頑丈であることに賭けるしかなかった。


 最初にアイナが吊り橋へ辿り着き、それまでと違う、揺れ動く足場に動揺した。

 足を止めたりはしなかったものの、その足取りは覚束なく、速度も恐ろしく落ちている。


「それじゃ駄目だよ……!」


 アクスルが声を掛けつつ、後ろから抱き留める様に持ち上げ、アイナとは真逆の足取りで吊り橋の上を駆けた。

 バランスが崩れ、一歩踏み込む毎に橋も大きく揺れる。

 それを無理にでも制御して、とにかく走る。


 だがそれは、後続のことを考えない暴挙とも言え、本来なら咎める所だ。

 そんな余裕がない今は、レヴィン達は暴れる様に揺れる橋の上を、飛び跳ねる様に渡る。


「あぁ、まったく……! こりゃ予想以上に揺れるな……!」


 口では悪態を吐きつつ、転ぶことはおろか、むしろ上手く乗りこなして走り抜ける。

 多少バランスを崩す時もあったものの、持ち前の体幹や身体能力で、無理矢理に捻じ伏せ、転ぶことなく駆けていた。


 しかし、問題はその直後だった。

 淵魔が雪崩のように押し寄せ、その半分は奈落の底へ落ちる。

 残りの半分は、それらを一顧だにせず、橋の上を駆けてきた。


 橋を渡るといっても、淵魔は協調性など持ち合わせていないので、その間にもボロボロと落ちていく。

 中には橋ではなく、繋いでいるロープの上を走って来るものまでいる。


 レヴィン達が中腹あたりまで来た辺りには、荷重過多でロープが悲鳴を上げていた。

 ミチミチと嫌な音を立て、ロープのいたる所が千切れ始めた。

 激しい揺れと荷重が加わり、その限界をいとも簡単に超えた。


「――ロープに掴まれ!!」


 レヴィンの発した一言で、全員が両手を横に伸ばし、荒い縄目を掴む。

 それと吊り橋が切れるのは、ほぼ同時だった。

 中央で千切れ、分断された橋は、その時一瞬だけ制止する。


 荷重が掛かり、落下する力がロープに引っ張られ、振り子運動を起こしながら両岸へと叩きつける。


 息を止め、衝撃に備えたレヴィン達は事なきを得たが、淵魔達はそのままボロボロと地下の空洞へと呑み込まれていった。

 対岸で威嚇している淵魔たちも、流石にそこから飛び掛かろうとはして来ない。


 ――何とか凌げた。

 誰の顔にも安堵が浮かび上がった時、アクスルが恨み言のような声を発した。


「……アイナ。いい加減、上に登ってくれると助かるんだけどね……!」


「す、すみませんっ!」


 今の二人の状態は、アクスルが肩車しているに近い状態だった。

 一人で二人分の体重を支えている格好のアクスルは、その腕がプルプルと震えている。


 アイナは恐縮しながら床板を登り始め、疲れた身体に鞭打って身体を持ち上げていった。

 魔力制御自体、彼女は良く精通しているので、単純な筋力量では不可能な登攀でも、苦がありつつ成し遂げる。


 上まで辿り着いた時には疲労困憊していて、全員が登り終わっても、彼女は未だ横になって息を整えていた。

 しかし、それを咎める者はいない。

 レヴィンもまた肩で息をしながら周囲を窺い、崖下を覗き込むと、呻く様に言葉を零した。


「……落ちた淵魔の様子は分からない。とりあえずは、どうにか切り抜けた……ってことで良さそうだ」


「これで駄目なら恨むぜ……」


「誰を?」


 アクスルが面白がって尋ねると、問われたヨエルは肩を竦めながら答えた。


「さぁね……。神に対して、ってことになるんじゃねぇかな」


「そりゃあ、いい」


 アクスルが愉快そうに口元を歪めて笑う。

 そうして彼も、光球で崖下を照らしながら、レヴィンへ倣うように崖下を覗き込んだ。

 そうして見ること数秒、アクスルの喉奥から、まさしく恨みの含んだ言葉が吐き出される。


「恨んでいいよ、ヨエル。どうやら、我々を逃すつもりはないらしい」


「何です、まさか……」


「そのまさかだ。――立て、アイナ! 走れ!」


 その一言で、アイナは涙目になりながら、悲鳴を飲み込みつつ立ち上がった。

 恨み言を言いたい気持ちは顔面に張り付いていたが、そんな余裕もなく逃げ出す。


 向かう先は入口が狭く、大人二人が通るにギリギリな幅しかなかった。

 到底、腕を振り回して走るのには向かず、だから一人ずつ通るしかない。


 剣を振り回すにも十分なスペースがなく、最後尾はまさしく死を賭して、殿を務めることになりそうだ。

 誰が行くか、と視線でロヴィーサとヨエルが確認し、そしてヨエルが手を挙げそうになった時、それより早くレヴィンが声を出した。


「俺が最後尾だ。二人は先に行け」


「有り得ません! 若様より先に行くなど!」


「そうだぜ、何の為の護衛だ! こういう時、真っ先に死ぬのが俺の役目だろうが!」


 二人の激昂は正当なもので、護衛としての矜持から出た当然の主張だった。

 しかし、レヴィンは頑として譲らない。


「武器も満足に振るえないから言ってるんだ。だが、俺の刻印なら耐えられる。それまでは俺を盾にして逃げろ。逃げ切った先で、さっきみたいな部屋があれば、誰も犠牲にせず済む」


「場合によっては、そこで俺を置いて行け。そこまでちゃんと計算に入れて、そんな提案してんだろうな?」


「それしかない状況なら、当然そうして貰う。だから、それまでの辛抱だ。適材適所で行こう」


「しかし……!」


 尚も言い募ろうとしたロヴィーサの肩を押し、無理やり正面を向かせる。

 それでも渋るロヴィーサを、ヨエルまで背を押して怒鳴った。


「部屋なんか無く、その前に若の刻印が切れたら、そん時ゃ場所を代われば済むことだ。だから、今は走れ! どうせなら全員で、生きてここを出たいだろうが!」


「……分かりました。では、その時は私が」


「いいや、一番手の殿しんがりは俺と決まってる。誰にも譲らんね」


 不敵な笑みを見せると、ロヴィーサが顔を顰めた。

 不満を押し殺し、未練を断ち切るように身体を背けて走り出す。

 ヨエルがその後ろに付いて行くと、レヴィンも刻印を発動させて後を追った。


「全員で生還できる道は潰したくない。我儘だと思うが、こうするのが一番だ」


「そうとも。何しろ俺達ゃ、ことの真相を広める役目だってある。ここで死んじゃ、神々の思う壺だ。奴らに上手く乗せられて、そのうえ死んでやるもんかよ!」


 もっともだ、と口の端に笑みを浮かべた時、崖下から這い上がってきた淵魔が姿を現した。

 中には体が潰れながらも、なお諦めない個体までいて、淵魔の執着の強さを物語っている。


 道が狭いので、飛び掛かってくる淵魔の数も少なく済んでいた。

 しかし、その牙や爪が背中を掠る度、生きた心地がしないのも事実だった。


「出口はまだか!」


「――あった! 見えます!」


 アイナが歓喜の声を上げ、遙か先には点のように見える光があった。

 それはまさしく、これまで強く願っていた、出口へ通じる穴に違いなかった。

 レヴィンは淵魔の攻撃を刻印で防ぎながら、声を上げて皆を鼓舞する。


「よし、いいぞ! 全員で逃げ切るんだ! もう少しだ、頑張れ!」


「――いや、そうはいかないね」


 全員のやる気を削ぐような言葉は、アクスルから放たれたものだった。

 アイナのすぐ後ろを走るアクスルは、レヴィンへ振り返りながら、フードの下から底知れぬ表情を浮かべていた。

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