鍵と穴 その6
※※※
大地の最果てより、更なる果て。
海を渡り、周囲には完全に海しか見えない遠い孤島、そこにこの世の悪意を煮詰めて蒸溜したかのような淵魔がいた。
いた――、というのは語弊であるかもしれない。
かつてより、かねてより、その淵魔はいつだってそこにいて、また何処にだっていた。
ただ、形を取れる程、明確な力を有していなかっただけだ。
――淵魔は神への怒りで動いている。
更に言うなら、大神への湧き出る怒りが、その原動力だった。
全てを奪われ、全てを蔑ろにされ、塵芥一滴まで貶められた。
その一滴が布に染みを作るが如く、かつては力を拡大させたものだった。
しかしそれも、すぐに対抗されて見動きを封じられてしまっている。
明確な個体を持たず、故に何にでも成れ、だから龍脈に乗り、どこへでも出現できるはずだった。
淵魔とはたった一体から生み出されるものだが、同時に全ての淵魔と存在を一つにするものでもあった。
個にして全、全にして個。
現在の主体を滅したところで、別の個体が主体となるだけ……。
どこにでもいて、またどこにもいない。
完全な消滅は不可能――。
その確信も既に昔のことで、今や風前の灯だった。
龍脈を悉く抑えられ、逃げる先をも失いつつある。
別の個体へと主体を移せるのは、その龍脈を自由に移動できていればこそだ。
その『道』を封鎖され、そしていつか全ての道に封がされたなら――。
今度こそ、決定的な敗北を喫する。
――大神を……創造神を名乗る偽神へ、誅することも叶わなくなる。
それが何より腹立たしい。
神が作った世界を奪い、砂上の楼閣である世界を隠し、汎ゆる信仰を
それが赦し難い。
それを是正したい。
原動力というなら、その反抗心こそが、淵魔の力となっているのかもしれなかった。
この恨みを、この怒りを、塵芥まで貶された非業を――。
ぶつけてやらねば、気が済まない。
しかし、身を
全ては無駄な足掻きと諦めかけた時、一つの声から接触があった。
本来、それは簡単なことでない。
不可能と言っても良かった。
復讐心で固まっていた心に、届く声などありはしない。
――だというのに。
意志疎通できるはずのない心に、確かにその声は届いたのだ。
その声が言う。
同じ復讐心と反抗心を持つ者同士、協力できるはずと――。
この世の最果てで、淵魔は蠢く。
一体、また一体と数を増やし、孤島の地中深くに巣を作った。
神の意志を砕くには……この怒りを全うさせるには、数が足りない。
時より、少数を放って攻撃するのも、全ては大事を隠す為の陽動だった。
不定期に攻撃してやれば、意志なき突貫を見せていれば、そういうものだと思い込む。
今はまだ、耐え忍ぶ時。
乾坤一擲の一撃が、全ての壁を壊せるように……。
淵魔は泥の渦巻く地の底で、形を取ることもなく、怒りを蒸溜するようそれを溜め込む。
いつか神の胸元を貫く日を思い、ひたすら厚く重ね、研ぎ澄ますのだ。
より一層、力を溜め込み増幅させ、いつか爆発させる日を思い、執念を燃やす。
その思いは留まるところを知らないが、そこへ水を差すように、いつもの『声』が届いた。
「やぁ、……こちらは手筈通りだ。
※※※
レヴィン達は一路、アルケス神殿へ馬を走らせていた。
あれから淵魔の追撃もなく、見て分かる危険こそなかったものの、背後を脅かされている事実は変わらない。
急がせすぎると馬が先に疲労してしまうので、途中の休憩も十分に行わなければならなかった。
今はその休憩時間の最中で、丁度よい川の畔で、倒木を椅子代わりに保存食を口にしていた。
あれ以降、一応の警戒として、なるべく火は使っていない。
生水は飲めないので、一度沸騰させる為に、どうしても必要な場合もある。
しかし、火の使用時間は最低限に絞っていた。
今は少しでも、発見される危険を少なくしたい為の措置だ。
自分達の食事が終わっても、馬の食事は長く、すぐ済むことはない。
馬も十分に草を食んだ後でなければ、素直に動くものでもなかった。
レヴィンにとってそれは自然なことだったが、今だけは忸怩たる視線を向けていた。
これまで来た道、また周囲にも十分に警戒しているレヴィンへ、ヨエルが苦笑交じりに言葉を投げる。
「……そう忙しなく見ても仕方ねぇよ。リーダーはドンと構えてくれてなきゃ」
「普段ならそうするさ。けど、今は緊急事態だ。気は抜けない」
「分かるけどよ、俺らだって警戒してるんだ。一人で抱え込まなくていい」
「あぁ、お前達は頼りにしてる。……が、嫌な予感がする。落ち着いていられない」
そう言って、レヴィンは再び周囲を見回す。
神殿までの距離は近く、日が暮れる前に到着できると見込んでいた。
既に目と鼻の先、と言って良い。
だからこそ、レヴィンは落ち着かない気持ちになっていた。
「神殿が本当に安全地帯であるのなら、淵魔としては近付けたくないはずだ。仕掛けるポイントは、そう多くない」
「それも一理あるな。とはいえ……」
ヨエルもまた周囲を油断なく見渡し、それにつられて、ロヴィーサとアイナも首を巡らせた。
「そんな気配は窺えない。あれから一度も姿を見せていない事といい、本当に追って来ているのか疑いたくなる」
「そして、懸念が正解だった場合……」
ロヴィーサが眉間にシワを寄せ、遠く視界へ映る神殿を見据えながら呟く。
「逃げているように見えて、その実、罠の中へ自ら飛び込もうとしているのかも……」
「けど、神殿へ近付くほど危険なら、ここも既に危険地帯なのではないでしょうか」
アイナも不安そうに肩を窄めてそう言うと、レヴィンはつまらなそうに首肯する。
「だから、静か過ぎるのが危うく思える。むしろ、追ってくる淵魔がいれば、まだ安心できた」
「……今更、ここで進路変更もないだろうしな」
「この目で確認できるまでは、どんな推論も空想だ。行って見なければ始まらない」
全員からの首肯があり、レヴィンもまた頷きを返した。
そうした時、傍で好きにさせていた馬が、馬蹄を鳴らして暢気に近付いてくる。
「あいつらも十分、満足したらしい。……さ、鞍を乗せたら出発だ」
実際には鞍以外にも、多く荷物を括り付けなければならないので、そう単純ではない。
しかし、既に何度となく繰り返されてきたことなので、アイナでさえ慣れた手付きで持っていたマグなどを仕舞っていく。
全員の準備が終われば、いよいよ騎乗して出発だ。
その前にレヴィンは、一度鞍の上に立って遠くを見渡してみた。
しかし、ただ遠くまで続く道が見えただけ、疎らに点在する林が見えるだけで、淵魔どころか魔獣の姿すら視界に映らない。
舌打ちしたい気持ちを押し殺し、レヴィンは鞍へ座ると、軽く馬の腹を蹴る。
目指す方向には、神殿の掲げる篝火らしき煙が、天へ糸を伸ばすように続いていた。
※※※
夕刻より少し前、空が橙色へ染まり始める頃合いで、レヴィン達は神殿前に到着していた。
外観は石造り、平屋根で覆われ、それを円柱によって支えられている。
長方形に柱廊が配置され、奥へ進むと壁があり、そこに龍穴を封じる小室が設けられているようだった。
神殿は基礎部が小高い丘にある為、階段を使わず近付くことは出来ない。
階段の両端には定期的に篝火が焚かれ、神殿への神秘性を高めていた。
馬で進めるのは階段までだから、近くには質素ながら馬留まで用意されている。
信仰の薄い神なので、信者も引っ切り無しに出入りする訳ではないようだ。
設備が小規模な所からも、それが察せられる。
同じことを思ったのか、アイナも長く続く階段を仰ぎ見ながら、呟くように言った。
「神殿というから、もっとご立派なものを想像してました……。いえ! この神殿も十分ご立派だと思うんですが……!」
「いや、分かるよ」
ヨエルが苦笑しながら、その肩を叩く。
「実際、レジスクラディス様の神殿とは規模も随分違う。今は人の姿が見えないが……、時間のせいもあるだろう」
「近くに宿場町があるんでしょうか? この時間なら、皆さんそっちに?」
「多分な。松明一つ持って、夜道を移動したいと思う人間は稀だ。それに、レジスクラディス様以外は、どうしても一段下に見られがちだしな」
小神神殿ならば、こうした規模は決して珍しくない。
それに比例して、信徒の数が見られないのも、別に珍しくなかった。
だとしても、管理している人間はいるもので、こうして篝火もしっかり準備されている。
「……何より、淵魔の気配がない。神殿が無事であるなら、懸念は懸念でしかなかった……と思って良いのか」
「仮にここが奴らの巣なら、とうに襲撃されているだろうよ」
それがないのだから、ここは安全だ。
そう思って良いはずだった。
しかし、レヴィンは表情を険しくさせたまま、階段に一歩足を乗せる。
「最後まで油断しないでおこう。俺達の目的は、無事アイナを神殿まで送り届けるだけじゃない。実際に送還されるまで、安心しちゃいけないだろう」
「……そうだった。最後の最後で、掻っ攫われちゃ堪らねぇ」
「そうですね。そして、そこが一番の肝です」
ロヴィーサが声を上げると、レヴィンは更に踏み出そうとしていた足を止める。
「そもそも、本当に送還してあげられるのか、そこからが未知数なんですから。神の権能に関わる話でしょうから、こちらの願いに応えてくれるとも限りません」
「そうだな……、病毒の加護とは違う。祈れば即座に返って来るような、簡単な話じゃなかった……」
「てっきり、行き着けばそれで安心と思ってたが……。叶えてくれない可能性は勿論、よくよく考えてみれば、交換条件が必要な場合もあるか……」
神は請えば応えてくれる便利屋ではない。
毎日変わらず通い詰めて、数年後しに初めて耳を貸してくれる場合もあった。
供物を求められることも、対価として無茶な条件を提示されることもある。
「異世界からの闖入者だと、特別視していたけど……。神からすれば、知ったことじゃないかもしれないな」
「そんな……」
アイナが暗い顔をさせた時、ヨエルは再び気安い調子で肩を叩く。
「それもまず、確認してみなきゃ分からん話さ。まず、淵魔はいなかった。喜ばしいよな。そして、次に神官に伺い立てる。可能かどうか、許されるかどうか。可能かどうかはともかく、許しを貰えりゃ願ってみればいい。やってみなきゃら始まらん」
「……ですね。元より手探りって話でしたもん」
アイナが自信なさげな表情ながら無理にでも笑うと、ヨエルもニヒルな笑みを浮かべた。
再度肩を叩くと、彼は率先して階段を登り始める。
レヴィンと肩を並べている所を見ながら、ロヴィーサへ目配せして、二人もまた階段を登り始めた。
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