辺境領の変事 その8

「あぁ……、旅立つには良い日和だ」


 レヴィンは手の平で眉の上に庇を作りながら、遠方の空を見つめて言った。

 空は高く雲もまばら、風は柔らかくそよぎ、山に掛かった雲を見る限り、天候も崩れそうにない。

 ひとしきり空模様を見て満足すると、自らの愛馬に蔵を乗せた。


 今は馬房でたらふく飼葉と水を与えた後で、隣ではレヴィン同様、ロヴィーサが自らの馬に蔵を乗せていた。

 既に旅支度を準備万端整えており、馬具の調子を確かめたりと、その余念がない。


 ヨエルもまた蔵以外にも、テントなどの旅の必需品を積み込み、馬の両サイドに渡って括られた荷物が落ちないか確認していた。

 そうして、それら二人の傍で、熱心に作業を見つめているのがアイナだった。


 何しろ手伝おうとする気概はあっても、何をするべきか分かっていない。

 これから幾度も行う事ではあるので、今はそのやり方を覚える方に注力している段階だった。


「それにしても……」


 レヴィンは旅の準備を、黙々と進める二人を見る。


「話の流れからして、俺一人で送り届ける感じじゃなかったか? お前達を使おうとした時にしろ、やっぱり単独で送り届ける感じだった。それなのに……」


「それは当然、私は若様の護衛なんですから、離れる訳にはいかないでしょう」


「俺も同じく」


 ロヴィーサとヨエル、二人から順に返事があって、分からないでもないが、と前置きしてからレヴィンが言った。


「今は東がキナ臭い、だから予断を許さない状況って話だったろ。護衛は分かるが、危険も少ない。有効な戦力を領から引き剥がすのも、どうかと思うんだよな……」


「まぁ、万が一を考えずにはいられないって事だろうさ。お前だって大事な身だ。実力を疑っての話じゃない」


「それに……、女性との二人旅など、若様にさせられません。どこでお手付きするか分かりませんから」


「何で俺は、そんなに信用ないんだよ……」


 レヴィンが辟易とした息を吐くと、黙ってロヴィーサの支度を見て学んでいたアイナが顔を向ける。

 そこには一抹の不安と懐疑の瞳が浮かんでいた。


「あの……レヴィンさんって、そんなに手が早いんですか?」


「いやいや、そんなこたぁねぇよ。あれはロヴィーサが、下手な心配し過ぎってだけさ。俺から言わせりゃ、むしろ奥手だ」


「え、でも……、ロヴィーサさん……」


「二年前のお祭では、草陰でゴソゴソとやっていたの、私は忘れていませんからね」


 ロヴィーサがレヴィンに目を合わさぬまま低い声で言うと、レヴィンは大袈裟な身振りで否定した。

 それを聞いたアイナは、口を両手で抑えて目を見開いている。


「いや、あれは散々説明したろ! 一緒に落とし物を探してただけだって! お互いに這いつくばってたのは、草の丈で隠れて致してたからじゃないんだって!」


「……どうですかしら」


 ロヴィーサはやはり視線を合わせぬまま、点検を終えた馬具をポンポンと叩いた。

 アイナは二人を交互に見た後、ヨエルに向かって声を掛ける。


「実際、どうなんですか?」


「俺もその時、偶然居合わせたんだが、着衣の乱れなんかも一切なかった。女の方にも聞き取りをしてる。ロヴィーサの勘違いで間違いない」


「えぇ……? じゃあ、何だってあんな態度なんですか?」


 アイナが眉根を顰め、ロヴィーサとレヴィンを交互に見つめると、ヨエルはひょいと軽めの調子で肩を竦めた。


「さぁて……。そこは……複雑な女心ってヤツなんじゃないか。勘違いと分かりつつ、どうにも素直になれないだけと見てるね」


「ははぁ……」


 アイナが感心したように息を吐き、妙なしたり顔で首肯して見せる。

 そんな二人をレヴィンは恨みがましい目で睨んだ。


「これはこれは……。二人して随分仲良くなったようで良かったな。その仲良しついでに、少しはフォローしようってつもりはないのか」


「夫婦喧嘩は犬も喰わねぇよ。好きにじゃれてりゃいいんだ」


 その時、鞭で叩く様な鋭い衝撃音と共に、ヨエルがうめき声を上げて膝を付いた。

 ヨエルは膝辺りを庇いながら痛みに喘いでいて、ロヴィーサは振り払った右足を元に戻している最中だった。


「何を言うんですか。私が若様となんて恐れ多い」


「お、おま……ッ! 手加減ってモンを知らねぇのか……! 可愛らしい台詞言うんだったら、もうちょい手加減してから言ってろよ!」


「……もう一撃、ご所望で?」


「いや、いい! いい……!」


 顔を激しく振って、片手も同様に横へ振る。

 持ち上げ始めた右足を、それでロヴィーサも静かに下ろした。


 しかし、貰った一撃は確かなダメージを与えたらしく、ヨエルは未だに立ち上がれていない。

 冗談でも何でもなく、本気で痛がっているようだ。


 淵魔との戦いでも、仲間を庇って傷を負うのに躊躇わない男だから、多少の傷などものともしない。

 そのヨエルが痛がって立ち上がらないというのだから、相当なダメージだろう。

 実際に、骨まで折れているかもしれなかった。


「大丈夫ですか? 傷を見ましょうか?」


「う、ム……。これ、折れてるかもしれねぇ……」


 アイナが屈んで手を添えると、ヨエルは尚も強く顔を顰める。

 そんな二人をよそ目に、ロヴィーサは気楽な調子で首を傾げた。


「そこまで強くしましたかね……?」


「当たりどころの問題かもな」


 レヴィンも顔を向けはしたが、互いに緊迫した様子もない。

 骨折程度、治癒術を駆使すれば、即座に元通りだ。

 戦場で受けた傷でなければ、まず大事になるという認識がない。


 普段から殴る蹴るの応酬は当然で、暴力が非常に身近なものだから、二人が暢気な顔で傷を見分するのも当然だ。

 しかし、それに免疫がないアイナは違った。


「すぐ治癒します……!」


 手の平を患部に翳し、魔力を集中させる。

 身体のマナを制御して、体内で循環、安定させた力を、外へと放出して傷を癒やす。

 緑色の仄かな明かりが手の平を包み、その光が瞬く間にヨエルの傷を癒やした。


「ほぉ……。話には聞いていたが、見事なものだ。すっかり良くなった、礼を言う」


 ヨエルが立ち上がり、膝の調子を確かめながら言えば、アイナは安堵の笑みを浮かべた。


「いえ、何事もなくて良かったです」


「凄い特技じゃないか。本当に治癒術、使えるんだな」


「実際、制御の方も見事なものでした。先生からの付け焼き刃でないのも、確かなようですしね」


 この世界において、魔力とは身体強化に使うもの、という認識だった。

 魔術を顕現させる為には刻印を用い、複雑な制御を必要とする魔術を代行させる。

 それが一般的とはいえ、刻印を使わず自らの技量のみで、魔術を行使する者もまた存在した。


 アクスルもそうした稀有な者の一人で、だから制御に対して非常に詳しい。

 そして身体強化と魔術行使を、己の身体一つで行う者は尊敬もされるものだ。

 刻印は付け替え可能であることから、武器の一種と考えられたりもする。


 回数制限も個々の刻印に起因するから、魔力が余っていても特定魔術が使えない、という状況もあり得る。

 その点、全てを自己完結している魔術師は、そうした制約はないが、制御し行使する工程が難関という問題もある。


 それぞれ一長一短ではあるのだが、やはり難しい技術を扱える者は賞賛されるものだ。

 魔術士はそれを理由に重宝されるし、敬意を向けられる。


 アイナはその数少ない魔術士であり、アクスルから手解きを受けた者でもあった。

 共に旅するメンバーとして、単なる荷物にならない、という言は確かだと改めて証明された。

 ヨエルも蹴りつけられた膝を叩きながら、アイナへと笑みを向ける。


「いやいや、どうして……これは凄い。立派なもんだぜ。たった一年で、これだけ出来るようになったのか?」


「いえ、違うんです。あたしのいた世界では、こちらの方が当然で……。刻印なんていう技術、ない世界でしたから」


「へぇ……。じゃあ、君の世界の人間は全員が全員、魔術士なのか」


 レヴィンが尋ねると、アイナは困った様な笑みを浮かべる。


「そういう訳でもなくって……。こちらでいう魔力を扱える人は、そもそも希少なんです。あたしは魔術士というか、そもそも巫女見習いでした」


「ほぉ、巫女……」


「いえ、ちょっと盛りました。見習いの、見習いです。これからって時に、転移……というか、……こっちに来たので」


 言葉を止め、苦みを噛み潰すような顔をしたのを見て、レヴィンは労しそうに声を掛ける。


「巫女様ともなると、神へ奉仕する為、さぞ心身を鍛えていた事だろうな」


「本当に、これからって時でした。努力が認められて、これからお仕えするにあたり、もっと勉強しようって意気込んでいたんです」


「そうだろうな……」


「あたし、帰りたいです……。何もかも、あちらに置いて来たんです。あたしの存在が、こちらの世界にご迷惑を掛けるというなら、すぐにでも出て行きたいです……」


 アイナの顔が苦渋に歪む。しかし、涙を流す程ではなかった。

 何故なら、この世界へ流れ着いて一年、幾度も涙は流している。

 故郷を思って涙するには、あまりに多くを流し過ぎていた。


「あたしの治癒術が、皆様のお役に立つなら力を惜しみません。どうか、神殿までよろしくお願いします」


「分かった。既に任されていた事だが、改めて約束しよう。君を必ず故郷に帰す」


 レヴィンは胸を張って宣言して、アイナも安堵の溜め息をついて頭を下げる。

 だがそこに、ヨエルの水を差す一言が刺さった。


「若、安請け合いはどうかと思うぜ。その神殿に行ったとて、本当にアイナを帰してやれるかは、まだ分かっていないんだ」


「先生も確かに、そう言っていた。神殿へ到達したからと、送還を約束するものじゃないと。けど、気持ちだけは高めておかないといけないだろう。時に意思の力が、現実を捻じ曲げる場面を、俺は幾度も見て来た」


 それは例えば、淵魔を前にした絶体絶命の瞬間だったり、絶対間に合わないと思った一撃が、敵の腹を抉った時などに当たる。

 駄目で元々ではなく、駄目でも覆す――その気概が、現実を決定させるのだ。


「だから、無事送り届けるだけでなく、送還させる気持ちと共に護衛する。皆も、そのつもりでいろ」


「了解だ、若。確かに、嬢ちゃんの身の上に降り掛かった不幸は、あまりに不憫だ。俺だって家に帰してやりたいと思うぜ」


「――では、準備も終わりました。参りましょう」


 ロヴィーサが一声掛ければ、アイナを除く全員が騎乗する。

 彼女は立ち上がった馬に一人で乗れないので、ロヴィーサと二人乗りする手筈だった。

 先に騎乗したロヴィーサが手を伸ばし、うまい具合に後ろへ乗せてやる。


 馬房付近から屋敷正面へ出ると、そこにはエーヴェルトと両親、アクスルが揃って待ち構えていた。

 見送りに来て、待っていてくれたのだ。


「まぁ、領外への旅とはいえ、片道で長くて十日だ。心配はしとらん。……が、お陰でこっちは前線へとんぼ返りよ。少しは骨を休めたかったところだが……!」


「緊急時です、お祖父様。すみませんが、よろしく願いますよ」


「うむ、お主もしっかりやれぃ!」


 それに首肯して応えると、次にエーリクデシレアが声を掛けてきた。


「旅の無事を祈ってるよ。けど、父上が言った通りだ。お前のことだから、心配はいらないだろうけどね」


「レヴィン、どうか無事でね。領外は色々と大変なんだから。こちらの常識を当然のように持ち出さないよう」


「はい、母上。精々、気をつけると致します」


 その返事に頷くと、デシレアはその後ろ、ロヴィーサ達へと目を向ける。


「ロヴィーサ、ヨエル、この子をお願いね」


「お任せあれ」


「若様の身辺は、私が必ずお守りします」


 それにも頷くと、やはりレヴィンへ心配そうな目を向ける。

 デシレアは領外から嫁いできた。だから、この場にいる誰より外を知っている。


 だから心配でたまらないのだろうが、いつまでも心配する声に引き止められてもいられない。

 レヴィンの返事がおざなりになり始めた所で、アクスルが前に出てくると、軽やかな声音と共に手を挙げる。


「こちらからも、支援すると言ったがね。……それでなんだが、淵魔について少し調べたい。今回の異常、何か分かることがあるかもしれない」


「今更、調べて分かることなんてあるのですか?」


「そこは実際に見てみるまでは何とも……。期待は薄いかな。でも、見落としってのは、どこにだってあるものさ」


「それなら、途中まで一緒に……とは、ならないんですね?」


 既にこれは聞いていた話で、アクスルはこの旅に同行しない。

 一人の方が身軽だから、という返答が、言葉通りの意味でないのは確かだった。


「淵魔を調べるなら、まず神殿関係になるし、きっと禁書棚を狙うことになるだろうから。君に下手な冤罪、掛けるわけにはいかないよ」


「まさかとは思いますが、神殿へ素直に顔を出せない、と言っていたのは……」


「いやぁ……、つまらない理由だよ。読みたいもの読んで逃げ出す時、棚に肩をぶつけてしまったのさ。またタイミングも悪くてねぇ……」


 全く悪びれずにフードの下から笑うと、レヴィンはがっくりと肩を落とした。


「それは先生にとってつまらないだけで、神殿の方々からすると、とんでもない話ですからね……」


「まぁまぁ、僕の話はいいじゃないか。ともあれ、現状はまだ兆しで、何かが起きる手前の段階だろう。ただ、送還さえ叶えば、全て綺麗に消える可能性もある。それでだ……」


 アクスルが軽薄な態度を止め、真剣味を増した声音で、アイナを見ながら言う。


「人攫いなんて、あちらじゃ珍しくないからね。気をつけたまえよ。手口が巧妙化していて、時に詐欺と気付かせず攫う場合もある。自分は異世界人だ、と言いながら好奇心を餌にする輩さえいると聞くよ。十分、気を付けて」


「それは何とも……我らにとっては、聞き捨てならない売り文句に聞こえてしまいますね。――はい、気をつけます」


 最後にそれぞれ別れの言葉を言って、それでレヴィン達は出発した。

 レヴィンが領都テルティア内で供を連れ、勝手気ままに見て回るのは良くあることだ。


 しかし、旅装姿で馬に乗って、という姿は早々ない。

 だが、領民には隣町まで遊びで、ちょっとした息抜き行く、と既に説明されてある。

 メンバー的にもそう不審ではなく、単に簡単な挨拶をされて見送られていた。


 そうして和気藹々わきあいあいとレヴィン達が屋敷を離れていき――。

 その後ろ姿が見えなくなる頃、アクスルが誰にも聞こえない小声でポツリと呟いた。


「とうとう駒は揃った。……ようやく、始められるのかな」

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