辺境領の変事 その5

「しかし、エーリクよ。お主が小間使いが如く、呼びに来るとはどうしたことか。間に一人として、余人を挟めぬ事態だと言うのか?」


「いえ、そちらは単にモノのついでなだけで。デシレアを連れ立って歩けるのは、僕だけの役得だ。使用人のメイドであろうと、その役を譲る気はないからね」


 そう言って、現ユーカード家の当主、エーリクはエスコートする妻へ微笑みを向けた。

 結婚して既に二十年も経つが、二人の愛情には些かの色褪せも見られない。

 デシレアも嬉しそうに微笑み、エーリクの肩に身を寄せた。


 ユーカード家へ嫁入りしたには珍しく、おっとりとした性格なのが、互いの馬に合ったのかもしれない。

 互いに戦闘を好まないとするのは、この家にあって異例中の異例だ。

 しかし、結果として似た者夫婦であり、互いに無くてはならないおしどり夫婦となった。


 デシレアは息子が常に危険な目に遭うのを憂慮しつつ、家の使命だと理解し受け入れている。

 心配そうな目を向けるものの、当主の座を降りてもエーヴェルトの発言力は強く、それに文句を言えないのにも理由があった。


 エーリクが二階の一室を用意してあると言うので、一同も階段を上がって行く。

 その間にヨエルが合流し、頬を擦りながらも不安そうに呟いた。


「治癒された筈なのによ、まだ顎が揺れてるような……。なぁ若、俺の顎大丈夫か? ちゃんと付いてるか?」


「付いてる、付いてる。……っていうか、ヨエルも呼ばれてたのか?」


「あぁ、治療完了ってタイミングで、使用人がな。先生が呼んでるんだと。何があった? ……っていうか、何が起きる?」


「既に起きる前提っていうのが、先生をどう思ってるのか良く分かるよなぁ。……けどまぁ、今すぐどうこうって話じゃないらしい。警笛を鳴らしに来ただけなのか……、さてどうだろう?」


 だが、本当に警告するだけなら、わざわざ一同集める必要はない。

 エーヴェルトか、現当主のエーリクか。

 どちらか、あるいは両方にそれとなく伝えれば済むことだ。

 ユーカード家全員に伝えたいと言うのだから、そこには相応の深刻さを感じ取れてしまう。


 そうして二階に上がると、エーリクが指し示した先は談話室だった。

 全員が座れる椅子やソファーが用意されていて、長話するのに困らない。

 室内に入ると、ドアの脇で待機していたメイドが一礼して退出して行った。

 その背にエーヴェルトが気楽な調子で声を掛ける。


「今からこの部屋には、誰も近付けないでおけ。淵魔関係でない限り、一切取り次ぐな」


「畏まりました」


 メイドが一礼すると、そのまま彼女が扉を閉める。

 その後は扉の守番となり、迂闊な誰かが近付いたりするのを防ぐ為、見張りをする役目だ。


 室内にはフードを被ったままのアクスルが、ソファに座って待機しており、こちらに友好的な笑みを向けていた。

 ソファは四人掛けのもので、その隣にはやはりフードで顔を隠した何者かが座っている。


 こちらはアルケスと違って深くフードを被っており、その顔立ちまで影に隠れて見えない。

 馬車の荷台に乗っていた人物は、この者で間違いないだろう。

 そして、もしかすると今回の話題は、この人物を中心としたものになるのではないか。

 そうした予感が、誰の顔にも理解の色として表れていた。


 室内にはソファーの他にも、座れるものは多く用意されている。

 ソファーの正面にはテーブルがあり、その対面にも同じ物があるし、上座と下座にもそれぞれ一人用のソファがあった。

 また、それを囲む様に別の椅子も用意されている。


 この人数全員が座っても尚余るのだが、上座はとりあえずエーヴェルトの物だ。

 当主の座を退いたとはいえ、こうした厄介事がやって来た時、誰を立てるかは決まっている。

 レヴィンが当主の座を継げば、エーヴェルトも素直に上座を譲り渡すつもりであるが、何しろまだ若い。


 難しい選択ではエーヴェルトかエーリクが決断する場面は多く、だから席順としても自然、そうなる。

 エーリクがアクスルの体面に座ると、妻であるデシレアも隣に座り、レヴィンは下座へ着席した。


 ロヴィーサは座らず、その左斜め後ろに立ち、あくまで臣従の立場を崩さない。

 ヨエルは空いている一人用の椅子を引っ張り、レヴィンとエーリクの間に座った。

 全員が着席したのを見終わると、アクスルは満足気に頷いて頭を下げる。


「いや、こちらから呼び付ける様な形になってしまって、申し訳ない。でも、こうした方がより無難かと思って、無礼を承知で来て貰った」


「宴が注意を逸らす目的で利用されたのも?」


 レヴィンが尋ねると、アクスルは大いに頷く。


「聞かれる人数は少ないに越した事はない。そこまで用心する事かとも思うんだけど、どうせそこにあるなら利用しようという……まぁ、過度な予防さ」


「――それで?」


 エーヴェルトが大義そうに胸を逸らし、それからアクスルを睨み付けた。

 彼としては長年、淵魔と戦ってきた自負がある。

 辛酸を嘗めさせられた事も、部下を殺され嘆いた事ある。


 今回見せた、淵魔の異常行動は、同じ事態を招きかねない危険なものだった。

 他より過敏な反応になるのは避けられない。

 それはアクスルも良く分かっていて、だから余計な話をせず、すぐに本題を切り出した。


「出会い頭に少し話したが、淵魔が異常な行動を見せた件だ。当事者たちに、今一度確認したい。奴らは目の前の敵……つまり君達だが、無視する動きを見せたりしなかったか?」


「分かっておった事だろう、お主には。今更、確認が必要なのか?」


 エーヴェルトは苛立たしげに応えたが、ヨエルは深刻そうな顔で頷き返答する。


「完全に無視とは違うんだがね、先生。目の前で武器を振るう奴は、やっぱりそれなりに目障りだったみてぇで……。だが、感触として、確かに先生の行った通りだ。俺達より、俺達の後ろを見ていた気がした」


「隔壁を?」


「あるいは、その向こうを」


 アクスルには予想できた答えの筈なのに、その顔面は苦渋に満ちている。

 やはりか、と思うのと同時に、外れていて欲しかった、とその顔には語られていた。


 そうして、隣に大人しく座る人物へと顔を向ける。

 手の平を視線の――恐らく視線の先に出し、それから場にいる全員へとゆっくり動かす。

 すると、それまで黙っていた人物が、自らフードを取り払って顔を見せた。


 ヨエルからヒュ〜、と軽薄な口笛が鳴る。

 姿を隠していた人物は若い女性で、それも十代半ばの少女に見えた。

 可愛らしい顔立ちをしており、肩を超す程の長さの髪色は黒で、申し訳なさそうな顔で俯いている。


 この場に居るのが不釣り合い、居た堪れない気持ちが全面に出た、気弱そうな少女。

 それが彼女の第一印象だった。


「彼女は……?」


 レヴィンが尋ねると、アクスルは人好きのする笑みを深めて言った。


「名前はアイナ。去年偶然拾い、それから行動を共にしている」


「拾った……? それはまた……、何か複雑な経緯でも?」


「何と言ったらいいか……。複雑ではないものの、少々困った問題がある。……彼女は、異世界人だから」


 言っている意味を理解できた者は、この部屋の中に誰も居なかった。

 言葉の意味を咀嚼し、どういう単語か理解しても、やはり首を捻るばかりだ。

 エーヴェルトは語気を荒くして、アクスルへ問い詰める。


「何だ、それは。どういう意味だ?」


「別世界から来た住人、と言う意味です。彼女自身、気付けばこの世にいたそうで、その直後に見つけたが私という有様で。当初は言葉も通じず、意思疎通も大変難儀したのですが……」


「だが、それがどうだと言うのだ。異世界人とやらが事実だとして、淵魔と何か関係あるのか?」


 重ねて問うと、アクスルは頷く。

 嫌々、あるいは懊悩しているのが分かる首肯だった。


「淵魔は彼女を狙ってる。私は、そう見ています」


「――馬鹿な!」


 エーヴェルトはソファを蹴って立ち上がる。

 それは理性を拒否した感情に任せた発言だったが、同時にこの場にいる一同の総意でもあった。


 淵魔が過去、個人に執着した事例など無い。

 目の前の人間をしつこく襲うことはあっても、それは獣が獲物を狙っての事と変わりなく、特定の誰かだからという理由ではなかった。

 もしくは武器を持った人間を、脅威と見做して先に襲って来る場合もある。

 その場合でもやはり、特定個人を狙う理由からではない。


「何を理由に! どうすればそんな事が分かる!」


「私達は南方から来ました。その南方でもやはり、淵魔の動きに異常が見られました。私も深淵渡りとして動いて長い。その異常性については、すぐに理解できたのです」


「目の前の敵ではなく、遠方の何かを睨んだ動きをしていたと……?」


「はい。あちらの混乱も相当なもので、もしかしたらと足を遠ざけると、異常性は消えるか、非常に緩やかなものに……」


 そうして逃げる様に、今度は東の辺境へ足を伸ばした。

 すると今度は、そちらの深淵が良く似た異常性を見せた。

 それでまず間違いない、とアクスルは確信に至ったらしい。


「此度、淵魔は異常性を見せただけでなく、その数を異常に増したでしょう? 南方でも同様でした。まるで……、どうしても彼女を亡き者にしたいかの様です」


「この、ひ弱そうな少女が、か……」


 エーヴェルトが胡乱げな視線を向けると、アイナと呼ばれた少女は身を縮こまらせて俯く。

 彼は只でさえ顔に傷をこさえて眼帯をし、そのうえ筋肉の鎧を纏った巨漢なので、見知らぬ人からはまず恐れられる。

 懐に入れれば非常に情の篤い人物なのだが、そんなものは初見の人間には分からない。


「あぁ、彼女――アイナは幼く見えますが、今年で十八歳です。それにひ弱ではありません。この一年、私が彼女を鍛えました」


「我らを鍛えたお主の手腕だ、そう言うのならば信じよう。己の身を最低限、守るだけの力量はあると認めても良い」


 上から下までアイナを睥睨し、それから大きく息を吐く。

 蹴飛ばした椅子を戻し、再びドカリと腰を下ろした。


「――しかし、だからどうだと言うのだ。結局、狙う理由には程遠い」


「えぇ、はい。それはごもっとも……」


 アクスルが苦い笑みを浮かべる様子を見ながら、今度はレヴィンの方から質問を向ける。


「それに、先生。彼女は強者には見えません。淵魔の一体を撃退できるにしろ、三体も同時に襲えば仕留められるでしょう。……俺の目は間違ってますか?」


「いや、正しい洞察だと思うね」


「ならば、どうして淵魔が頑なに狙おうと思うのですか? 然したる脅威でない相手に、何故そこまで躍起になるでしょうか?」


「もっともな意見だ。そして、エーヴェルトもまさに、そこを訊いていたわけだけど……」


 アクスルが頷き、眉間を指先で擦る。

 それから溜息に似た吐息を漏らし、それから続けた。


「こちらも今回の騒動で、どうやらそうらしい、と判断できた段階に過ぎない。だから、事実とは違う可能性がある。その前提で聞いて欲しいけれども、しかし……確信に近いモノは得られた」


「それは……?」


「彼女の存在は、どうやら淵魔を呼び寄せてしまうらしい」


「どうして、という理由は……分かってないのでしょうね」


「そうだね。だが、予想を挙げるとすれば、『彼女が異世界から来たから』、その一点に尽きる。過去、個人を狙う淵魔の存在は、こちらも確認していないのだから」


 今度はレヴィンの口から、溜め息に似た吐息が漏れる。

 アクスルの隣で息を潜める様にして座る彼女に、憐憫とも敵意とも取れない視線が向けられた。

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