階に導かれて

よなが

本編

ぐるぐると恋に登った。彼女との出会いは梅雨の終わりの夕暮れ時だった。仕事帰り、曇天が雨天へと変貌してから傘を忘れたと気づいた。いつもの私はこんな失敗しないのに、店長から理不尽なお叱りをもらったせいだ。


一人暮らしをしているマンションまで残り、徒歩で十分足らず。全力で疾走すれば五分かかるか、かからないかだ。踏み出す果敢な一歩目。けれども二歩目で地面がぐらつき、いや、私自身が滑って転がり、奇声を上げた。


情けない自分を、容赦なく濡らし続ける冷たい雨。零れかかる生ぬるい涙。そんな私に雨ではなく声が降ってきた、しかもあたたかな声が。転んだそこは、彼女からすると家の門を出て三歩もいらない地点であったらしい。


彼女の家は洋館だった。それはもう立派で、招かれても恐縮して断ってしまうぐらいの。しかし、その時の私は慈愛に満ちた誘いに応じた。趣味のいい花柄の傘を差す彼女の、上品な微笑みに惹かれて二つ返事をしていた。


門をくぐり、まず広い玄関、それからもっと広い脱衣所つきの浴室に案内された。着替えを準備しておくわとごく自然に彼女は言う。確かに背格好は同じだ。とはいえ、着ている服の値段は彼女のほうが一桁多そうだった。


シャワーを数分で済まし、清潔で大変肌触りのいい服におそるおそる袖を通した。服が乾くまで、紅茶でも一杯どうかしらと彼女が提案してくる。淹れ方にそれほど自信はないと冗談めかしながら。はい、の返事が裏返る。


彼女は亡き祖父母からここを継いだばかりらしい。来年には三十路を迎えるのだと自嘲気味に話したが、良い意味で年相応に見えた。大学を卒業してまだ一年の私と比べて大人の色気がぐっとある。結婚願望はないそうだ。


仕事はイラストレーターで小さな事務所勤めだと彼女は話した。近頃は基本的に在宅勤務らしく、私が羨ましがるとそうでもないわよと苦笑する。そんな表情も魅力的だ。頰の熱を悟られまいと、澄んだ茜色を慌てて啜る。


悪意がなさそうな年下の同性だから親切にしてくれるのだろう。善意を裏切りたくない。私が同性を恋い慕う人間だと知られるべきでない。初対面であればなおさらで、惚れっぽくて浮気な子だとは絶対に思われたくない。


ふと階段が目に入った。彼女から視線を逸らした先にあったのは螺旋階段。芸術的なまでに洗練されたスパイラルが巻かれ、ここと上階とを繋いでいるのだ。彼女から感じるのとは違ったふうに、不思議と惹きつけられる。


「あそこからはどこにも行けないの。どこにもね」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味よ。試しに登ってみていいわ。ああ、念のため一緒に行くわね」

「あの、それってつまり、階段の先がただの天井になって……」


こちらが言い終わるの待たずに彼女は席を離れて、その螺旋階段へと歩き始めた。その後をふらりと追う。階段脇まで来ると、彼女が人差し指をぴんと立てて上を示した。仰ぎ見てみると、階段は深い暗闇に繋がっている。


本能的な恐怖を感じた。私が足を竦ませたのを彼女は見逃さず、やめておこうかと心配そうに言ってくる。途方もない黒色を、なんとか見つめたまま考えた。登らず、そしてお礼だけ言って彼女と別れたら後悔するだろう。


「私がここを登って、どこかへたどり着けたなら」

「それができたら、私の叶えられる範囲であなたにご褒美をあげることにするわ」

「欲しいです、とても」

「そう?それじゃあ、勇気を出して進まないといけないわよね」


口許に妖艶な笑みを浮かべた彼女が、私の右手をそっと握った。一人で登らせはしないとそうやって教えてくれる。覚悟を決め、彼女の手を引きながら、ゆっくりと一段ずつ螺旋階段を登り始めた。登り方向に時計回りだ。


「ねぇ、知っている?昔のお城だとね、必ず登る側が時計回りだったそうなのよ」

「登ってくる、攻め込む側の右手を使いにくくするためですか」

「ええ、よくご存知で」

「それにこの階段よりずっと狭かったでしょうね」


私たちがどんどん登っている螺旋階段は、二人がすれ違うことのできる幅がある。闇の中へと入り込んだ。視力が頼りにならず、足と手の触覚こそが肝心だ。段差を踏む足、手摺に触れる手、そして彼女と繋がっている手。


「黙っていると余計に怖くならない?私は怖いわ、少しだけね」

「言い出しっぺなのに」

「挑戦するのが久し振りなのよ。あなたって、悪い妖怪か何かじゃないわよね?」

「せいぜい、雨女ってところでしょうか、なんて」


くすくすと彼女が笑う。聴覚も大事なのだと思っていると、耳元に彼女の吐息がかかる。可愛い雨女さん、と甘く囁かれた私は唇をぎゅっと噛んで動悸を鎮めようとする。すると今度は、彼女からする香りに心を奪われた。


階段は明らかに二階、三階を通り越して螺旋を紡ぎ続けている。でも会話を重ねるにつれて、私たち二人ともがその無限を気にしなくなっていた。彼女の母親は、今の彼女の年齢で結婚したそうだ。そして八年後に死んだ。


彼女には二歳年下の妹がいたが、小学五年生の時に暴走車に轢かれて亡くなった。多忙な父親は彼女の面倒を一人で見きれなかった。ゆえに彼の両親すなわち彼女の祖父母が身の回りの世話をした。その彼らはもういない。


「父とは何年も会っていないけれど、時々ね、電話ならするの」

「その声はあなたを安心させるものなんですか?」

「嫌いになれない声よ」

「逆って言い方は妙ですが、私の身内は父だけが他界しているんです、五年前に」


いつの間にか互いの深い部分まで話し込んでいた。必然的に話は恋愛方面へも及び、彼女は過ぎ去った恋を語った。私はこの何もかもが隠れてしまう闇の中で自分をも隠すのは全部を失うと感じた。だから打ち明けたのだ。


沈黙の後に光があった。すべてを白く染める眩さが消え、私たちは手を繋いだまま螺旋階段の傍らにいた。彼女がはにかみ、ご褒美は何がいい?と指を絡めて私に訊く。ここが二人でたどり着いた、螺旋の向こう側だった。

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階に導かれて よなが @yonaga221001

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