第15章 三夏
#85 不安と恐怖
高校卒業後、地元を離れて関西の国立大学に進学した。
母の元を離れたかったというのもありますが、何よりも石荒さんと離れたくなかったから。
だから高校時代は必死に勉強して、石荒さんを追いかける様に同じ大学を目指し、無事に二人揃って合格して、大学の4年間もずっと傍に居ることが出来ました。
大学合格のお祝いを石荒さんのご両親が催して下さった時、お母様から「ケンサクのことよろしくね。この子しっかりしてるようで抜けてるところあるから、ツバキちゃんが傍に居てくれたら安心ね」と頼りにされたことが嬉しくて、石荒さんのお世話をする為に大学の4年間は石荒さんの部屋にずっと入り浸って寝食を共にして、ほぼ同棲している状況でした。
勿論、年頃の男女がそんな生活をしていれば、することもします。
私が19歳になった日に初めてのキス。
その夏にはロストバージン。
この頃には一緒のベッドで寝る様にしてましたし、お風呂にだって一緒に入ることも多くなりました。
そしてお互い二十歳を過ぎた大学2年のクリスマスイヴ。
夢にまで見たプロポーズを石荒さんにして頂き、私たちは晴れて婚約者に。
お母様とお父様に婚約の報告をした時は、お二人とも泣いて喜んでくれて、私も号泣してしまいました。
だって、ずっとずっと『この方たちと家族になりたい』と想ってたんですから。
その夢が遂に叶い、そしてお母様もお父様もそのことを喜んで下さってる。
こんなにも幸せなことはあるのでしょうか。
就職は二人とも地元に戻り、大学を卒業と同時に石荒さんの実家で同居を始めて、就職2年目に籍を入れました。
細やかながら結婚式も挙げて、そこには元恋人の六栗さんや高校時代の友人達もお祝いに駆けつけてくれました。
そして結婚3年目に妊娠が発覚。
私は仕事を休業して、出産の準備を始めた。
お母様に教わりながら、ベビー服やお包みを作ったり、離乳食の勉強も沢山しました。
翌年には男の子を出産。
石荒さん、泣いて喜んでましたね。
アナタが泣く姿なんて、初めて見ましたよ。
そしてその3年後には女の子を出産。
お母様とお父様、息子と娘、そして石荒さんと私。
石荒家はいつまでも、賑やかで笑い声が絶えない幸せなお家です。
そんな私の妄想が、今、音を立てて崩れようとしていた。
石荒さんを怒らせてしまった。
ただ怒るだけなら普段からも良くあることでしたが、今日の石荒さんの表情はいつもと違ってました。
普段なら、口では怒ってるようなことを仰ってても、表情はニヤニヤしてたり笑顔だったり、機嫌が悪くても精々呆れ顔でした。
ですが、先ほどの表情は、無表情。
出会ったばかりの4月に良く見たあの何を考えているのか読み取れない表情と同じだったんです。
本能的に『完全な拒絶』だと分かりました。
手を振りほどかれた瞬間『しまった』と気付くも、既に石荒さんは背を向けて歩き始めていました。
離れていく石荒さんの背中を見て、猛烈に不安が押し寄せ、必死に追いかけました。
石荒さんの拒絶する姿が、いつもと違う。
これはただ嫌がってるだけじゃない。
私という人間を拒絶したんだ。
そんな気がしてならない。
このままでは石荒さんが私から離れて行ってしまう。
もう一緒にお弁当を食べることも放課後の部活も勉強も、休日を二人で過ごすことも出来なくなってしまう。
不安と恐怖に苛まれる。
何がいけなかったのか必死に考える。
嫌がってたのにしつこく汗の匂いを嗅いでいたから?
暑い中、腕に抱き着く様にずっと密着してたから?
六栗さんのことを好きだと知ってたのに、恋人の設定なんて言い出したから?
何がいけなかったのか分からない。全てがいけなかった様に思える。
他人と踏み込んだお付き合いをしたことの無い私には、何が悪かったのか、こういう時にどうすれば良いのか、全く分からない。
気ばかりが焦り、でも、必死に追いすがって謝罪の言葉を繰り返すけど、自分でも今更謝ったところで焼け石に水としか思えない。
案の定、私の言葉を聞いても、石荒さんは足を止めてくれない。
これ以上離されてはいけないと、私は手を伸ばして石荒さんの腕を捕まえた。
ただ必死だったので、そうした。
でも、私に腕を掴まれた石荒さんは、大きな溜め息を吐いた。
ああ、もうダメかもしれない。
石荒さんは、完全に呆れている。
見捨てられるんだ。
そう思った途端、眼がじんわりしてきた。
涙が零れそうになる。
けど、泣いて許して貰おうとしてるなんて思われたくない。
都合が悪くなると泣いて被害者ぶるような女性が大嫌いだった。
私はそういう人間を嫌悪し軽蔑してきた。
だから、唇を引き結んで必死に涙をこらえる。
そして、言葉が出せなくなった。
今、口を開けば、私は泣いてしまう。
涙で視界がぼやけて、石荒さんの表情が良く見えない。
黙って私を見つめているのは分るけど、怒ってるのか呆れてるのか悲しんでいるのか分からなくて、不安と恐怖が纏わりついたまま。
大切な人に拒絶されることが、こんなにも怖くて辛いことだったなんて、知らなかった。
いえ、理解してるつもりで、解ってなかったんです。
私は多くの人を拒絶してきました。
異性に好意を寄せられる度に繰り返した拒絶。
そんな私への罰なんでしょうか。
だったら、これまでのことは誠心誠意謝罪しますから、私が石荒さんにした仕打ちを無かったことにして欲しい。
まだ幸せ一杯だった今朝に時間を巻き戻して欲しい。
もう我儘なんて言いませんから。
どうかお願いします。
「少し座って休もうか」
私の祈りが届いたのか、石荒さんはそう仰って私の左の掌をしっかりと握って歩き出した。
石荒さんの掌が大きくて暖かくて、汗ばんでいます。
その掌の力強さは、痛くは無くて安心させてくれる力強さ。
ああ、私はこの手が、この人のことが、堪らなく好きなんだ。
こんな時に、そんなことを再認識した。
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