第44話 甘酸っぱいレモンのクロスタータ

 銀星杉に広がる熱が、その表面を灰色に染めている。

 先からたなびく煙の筋が徐々に細くなり、ぷつりと切れた。

 

 辺りにはまだ、甘い香りが漂っている。もう二度と嗅げないかもしれない、太古の木の香り。

 フレイヤは最後にもう一度深く吸い込んでその香りを堪能すると、呪文を詠唱して水を呼び起こした。指をくるりと宙で動かし、その先を銀星杉に向けて水をかける。


 熱は静かに、水の冷たさの中で勢いを失った。フレイヤはホッと息を吐き、ひと仕事終えた後の充足感を噛み締めた。

 

「シルヴェリオ様、香木の火を消しました」


 顔を向けたシルヴェリオの目が、フレイヤの顔から首飾りへと移り――ツイと逸れる。


「……わかった。俺たちはまだ調査を続けているから、しばらく休んでいてくれ」

 

 魔導士と騎士たちは、火の死霊竜ファイアードレイクの骨を調べている者や、周囲でを警戒している者がいる。

 皆、いまだ表情を強張らせている。

 

 無事に祈りを終えられたが、まだ全てが終わったわけではないのだ。

 

「見ろ。骨に呪術の痕跡があるぞ」

「もしかして、亡骸になった後に何者かがつけたのか?」

「そもそもこの火の死霊竜ファイアードレイクは、何故か人里に下りて来た。呪いが関係しているのかもしれないな」


 切れ切れだが、不穏な言葉が聞こえてくる。


 呪術は魔法の一種だが、禁術であるが故にその使い手は少ない。研究以外の目的での使用は禁止されている魔法だ。

 

 かつて今ほど魔法関連の法が整備されていなかった頃、呪術は身近な闇の中に潜んでおり、人々を脅かしていた。

 生き物や物質を醜悪に変える忌々しい力――時にそれは命や理をも捻じ曲げ、混乱を招いたと言われている。

 しかし今では、魔導士でもない限り、なかなか耳にしない名前となっている。

 

 フレイヤが呪術の名を最後に聞いたのは、学生の頃だった。それも、魔法史の授業でのみ。

 それが自分の生活と交わるなんて、夢にも思っていなかったものだ。

 

(この国にいる誰かが、禁術を使ったの……?)

 

 人類が遠い過去に取り残してきたはずの負の遺産。それを今しがた目の前で見たのだと思うと、心の奥に不安が芽生えるのだった。


    ***

 

 森の中が薄暗くなり始めた頃、シルヴェリオが魔導士と騎士たちに声をかけた。

 

「瘴気はもうこの辺りにはないようだ。調査はここまでにする」

 

 幸いにも、周囲には瘴気の気配も魔物の気配もなかった。呪術を使う魔導士もまた、見当たらない。

 

 シルヴェリオは紙とペンを取り出して書きつけると、呪文を詠唱する。彼の掌の中にある紙はひとりでに折りたたまれ、瞬きをする間に青い鳥へと姿を変えた。


「国王陛下のもとへ行け」


 その一言を合図に、鳥が飛び立つ。あっという間に上昇し、青空の中に溶け込んだ。

 

「町に戻るぞ。王宮から便りの返事が来るまで待機する」


 シルヴェリオが国王に送ったのは、祈りを終えたという報せだ。国王からは、手紙の返事にネストレが目覚めたか否かを書いて送ると事前に伝えられている。


 町で待機するのは、ネストレから新たな指示があった場合に備えているためだ。

 周りにいる魔導士と騎士たちが、それぞれの連れて来た馬に乗る。一人では馬に乗れないフレイヤは、誰かに頼るしかない。

 

(どうしよう。シルヴェリオ様にまた乗せてもらうなんて、できないよ……)

 

 畏れ多くも上司に――それも、自分の故郷を治める貴族家の令息であるシルヴェリオに頼むのは、なかなか勇気がいる。平民が貴族に頼んで馬に乗せてもらうなんて、不敬だと捉えられるのが一般的な世界だ。


 平民の魔導士か騎士はいるだろうか。もしもいるなら、彼らに頼んだ方がいいだろう。

 とはいえ、誰が貴族で誰が平民なのかわからない。

 身分を問うわけにもいかず、ひとまず馬に乗せてもらえるよう頼もう。

 

「あの、どなたか馬に乗せていただけませんか?」

「フレイさんの頼みとあらば、ぜひ叶えましょう」


 意気揚々と現れたのは、行きと同じ白馬に乗ったテレンツィオだ。


 ありがたい申し出だが、テレンツィオは貴族だ。それも、エイレーネ王国では皆知っている名門の。

 断るべきだろうかと悩むフレイヤの目の前に、見慣れた手が差し伸べられる。その手の先を見ると、シルヴェリオが眉間に皺を刻んだ顔でテレンツィオを睨んでいる。


「帰りも俺が乗せますので、イェレアス卿は先に町へ戻ってください」

「あ~あ、もう見つかってしまいましたか。副団長殿に見つかる前に手を取ろうと思っていましたのに」

「司祭が女性を口説かないでください」

「親交を深めるためですよ」

「……」 


 今にもテレンツィオを射抜いてしまいそうなほど眼光が鋭くなる。どうやらこの生真面目な上司は、ややだらしない司祭の言動のせいでご機嫌斜めのようだ。

 

 それにもかかわらず、テレンツィオはコロコロと笑っている。まるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。


「うわぁ、副団長から冷気を感じる……」

「司祭殿が氷漬けにされるのでは?」

 

 聞こえてくる魔導士たちの声音に緊張感が宿っている。

 

「シ、シルヴェリオ様、ご迷惑をおかけしますが、町まで馬に乗せていただけませんか?」

「……ああ、もとからそのつもりだ」

「ありがとうございます……」

 

 結局、フレイヤはやや不機嫌気味なシルヴェリオと一緒に馬に乗り、町へと戻った。

 

     *** 


 町に戻る頃には、とっぷりと日が暮れていた。

 満月が空に浮かんでおり、夜空を明るく照らしている。


 フレイヤたちは到着した際に立ち寄った宿屋の中に入る。

 今夜はここで滞在だ。宿屋の従業員たちは帰還したフレイヤたちを盛大にもてなしてくれた。


 部屋に備え付けられている風呂で疲れと汚れを洗い流したフレイヤは、食堂へと向かう。

 食堂では新しい服に着替えた騎士と魔導士たちが、思い思いの席に座って食事を楽しんでいた。


 シルヴェリオは部屋の奥の方にいた。隣に座っている騎士と、真剣な面持ちで話している。

 瘴気について話しているのかもしれない。

 声をかけようか迷うものの、邪魔をしてはならないと心のブレーキがかかる。

 

(う~ん……端に座ろうかな?)

 

 ここにいる魔導士や騎士たちとは簡単な挨拶を交わしたものの、まだまだ初めましてな状態だ。

 やや気後れしつつ、扉のすぐ近くにある席に腰かける。

 

 ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。香りの正体を探る前に、目の前にケーキを乗せた大きな皿が置かれた。

 

「調香師さん、お疲れ様です。どうぞ当店自慢のケーキを召し上がってください」

「わあっ! タルトだ!」


 きつね色に焼けた生地は、ダイヤ柄を形作られている。美味しそうな格子の合間には、つやつやとしたレモン色のフィリングが覗く。


「副団長さんから依頼があって用意したんだよ。今日の夕食のデザートだと言っていたわ」

「ありがとうございます! ひと仕事終えた後はお菓子が食べたくなるので嬉しいです」


 一切れを乗せた小皿と銀色のフォークを受け取ると、さっそくフォークで一口大に切り分けて頬張る。

 

「しっとりしたこの舌ざわり……タルトではなく、クロスタータですね!」


 クロスタータは一見すると似ているが、タルトとは少し異なる。フィリングと一緒に焼くため、生地がしっとりしているのが特徴だ。


 ひと口、またひと口と甘酸っぱいケーキを堪能する。

 そんなフレイヤを、周りにいる騎士たちがこっそりと見ている。


「幸せそうに食べていて可愛い……」

「俺、ルアルディさんって高嶺の花みたいな近寄りがたい美人だと思ったけど、意外と癒し系なんだな」

「ちょっと声かけてみようか?」


 ヒソヒソと小声で囁かれている言葉に、フレイヤは気づかない。夢中で甘酸っぱいレモンジャムとほろほろした生地の食感に夢中だ。

 

 彼らがフレイヤに話しかける機会を窺いながら遠巻きに見ていると、フレイヤの隣の席にテレンツィオが腰を下ろした。それも、椅子を少しフレイヤに近づけながら。

 

「ふふっ、美味しそうに食べますね。なんだか私も甘い物が食べたくなってきました」

「たくさんあるので、レン様もご一緒にいかがですか?」

「それでは、喜んで。あーん」

「えっ!?」

 

 司祭が雛鳥の如く口を開き、食べさせてもらうのを待っているではないか。


 フレイヤは固まった。司祭――それも、エイレーネ王国では言わずと知れた名家の令息にケーキを食べさせる事態に、心が追いついていない。

 キャパオーバーな事態に、困惑のあまり思考が停止してしまった。

 

「――イェレアス卿、俺の部下を困らせないでくれ」

 

 ぶっきらぼうな声が耳元に届く。差し向かいの席にシルヴェリオが座った。


「それに――お前たち、人をジロジロと見るな」

 

 冷えた声と眼差しが、フレイヤを見ていた騎士たちに向けられる。

 ビクリと肩を揺らして、三人は慌てて視線を外した。


「おやまあ、牽制ですか」

「何を言っているんですか。部下を守るのが上司の仕事でしょう」

「はぁ……実にじれったい」


 いったい、何が。そう言いかけたシルヴェリオのもとに、金色に輝く鳥が現れた。

 鳥はシルヴェリオが手を伸ばすと、その中に降り立ち、一枚の紙に姿を変える。


 手紙を開いたシルヴェリオの深い青い目が、大きく見開かれる。

 

「ネストレ殿下が――目を覚ましたそうだ」

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