第41話 眠れる王子に謁見

 濃紺を基調としたファブリックで統一された、豪奢さはないが品の良い設えが揃った部屋だ。

 家具は必要最低限だけ揃えられており、どれも無駄な装飾はないが、職人が丹精込めて作ったのが見てわかる。

 

 第二王子の部屋は、想像していたような煌びやかさはなかった。

 フレイヤは、そこに彼の人柄が現れているように感じた。

 この部屋の持ち主は、華美なものを必要としないのだろう。

 

「さあ、この子にあなたの香水を紹介してくれるかしら?」

「ええと……」


 自分でいいのかと、問うようにシルヴェリオに顔を向ける。

 フレイヤの無言の問いに答えるように、シルヴェリオは首肯してみせた。


「――かしこまりました」

「よろしくね。寝台の隣にあるサイドテーブルを使ってちょうだい」

「ご配慮に感謝申し上げます」


 ゴクリと固唾を飲み、第二王子が横たわる寝台に歩み寄る。


 清潔なリネンの上に横たわるのは、精巧に作られた人形のように美しい、眠れる王子――ネストレ・エイレーネ。

 彫りが深く、騎士にしては色白で、華やかながらも精悍さのある顔立ちだ。

 枕の上に広がる水色の髪は緩くウェーブがかかっており、光の当たり具合によっては銀色にも見える。


(わぁ、綺麗な人。花に例えられるのも納得しちゃう)

 

 思わず鑑賞してしまいそうになり、慌てて自分を律する。

 貴人の顔をジロジロと見るのは不敬だ。

 盆を持っていない手でスカートを少し摘まむと、丁寧に礼をとった。

 

「第二王子殿下、お初目にかかります。私はコルティノーヴィス香水工房の調香師、フレイヤ・ルアルディと申します。本日はシルヴェリオ様のご依頼で調香した香水をお持ちしました」


 持っていた盆をサイドテーブルの上に置き、香水瓶を手に取る。

 濃紺で細身の香水瓶にはさりげなくダイヤ柄のカッティングが施されている。

 これはヴェーラの商団を経由してガラス職人に作ってもらったものだ。

 

「この香水の名前は『夜明けの大樹アルベロ・デ・ラルバ』です。ベースノートはシダーウッドとベチバー。トップノートにはベルガモット、ハートノートにオークモスを調香しました。早朝の森の中で静かに佇む木々から着想を得て作った香りです」


 フレイヤは香水瓶の蓋を外すと、ネストレの顔にかからない位置に噴き出し口を向け、シュッとひと吹きする。

 森を思わせる香りがふわりと広がった。


「まぁ! 温かみと、少し重厚感のある香りね。この子がつけている香水と似ているけど、この香水の方が深みがあるわ」


 王妃がくんくんと鼻を動かして匂いを嗅ぐ。


 一方で、ネストレの閉じられた瞼は少しも動かない。

 

「殿下がよく訪れていると聞いた、王都北部の近くにある森の香りを表現しました」

「……」 

「シルヴェリオ様に連れて行っていただいたのですが、荘厳な雰囲気があって素敵な森ですね」

「……」 

「殿下は騎士団長として国を守るという目標を掲げて鍛錬に励んでいると伺いました。それに、シルヴェリオ様にとって殿下はあの森のように安定感のある、頼もしいお方だと仰っていました。この香りは、シルヴェリオ様から聞いた殿下を表したものでもあります」

「……」

 

 懸命に話しかけてみるものの、ネストレは少しも動かず、依然として眠っている。

 沈黙が、フレイヤの胸を抉る。


 変化の兆しが見えず、焦燥に香水瓶を持つ手に力が入った。


「……ありがとう、ルアルディさん。素敵な香りのおかげで、この子はきっといい夢を見られていると思うわ」

 

 王妃が優しく声をかけるが、フレイヤの心の慰めにはならなかった。

 

(私の香水では、力になれなかったんだね……)


 ――眠ったまま目を覚まさない友人を助けるために力を貸してほしい。

 故郷の街、ロードンで再会したシルヴェリオの、思いつめた表情が脳裏に浮かぶ。


 正直に言うと、自分の香水が奇跡を起こすとは思っていない。しかし友人を助けたい一心で奔走しているシルヴェリオの努力に報いたかった。

 

「シルヴェリオ様……申し訳ございませんでした」


 震える声を、懸命に喉から押し出す。

 悔しさとやるせなさで、つんと目の奥に痛みを感じた。


 ともすると溢れ出そうな涙を、目に力を入れて押しとどめる。

 

「謝る必要はない。たとえ君の作った香水が奇跡を起こさなくても責任を問わないと言ったではないか」

「でも私は、シルヴェリオ様の願いを叶えたいんです。だから、私の香水がお役に立たなかったのが悔しいんです」

「――っ」

 

 シルヴェリオが息を呑んだ。

 濃い青色の目が大きく見開かれ、フレイヤを見つめる。


 涙を堪えるフレイヤの姿に心がざわついた。

 

「なぜだ? なぜそこまで俺のために……悔しがってくれるんだ?」

「殿下を目覚めさせるために、シルヴェリオ様が駆けまわっている姿を見てきたからですよ。一生懸命に方法を探しているシルヴェリオ様を、手助けしたいからです」

 

 これまでに何度か、シルヴェリオの気を惹こうとして失敗しては泣く令嬢たちの姿を見てきた。

 しかし自分のために泣いてくれるのは、フレイヤが初めてだ。


 どうか泣かないでほしいと、そう言葉をかけたくなるのも、生まれて初めてのことだった。


 自分のために泣いてくれた彼女の心優しさに、胸の奥が微かに軋む。

 感じたのは温かさと――ほんのわずかな、未知の感覚だった。


 浮かれていると言い表すべきなのだろうか。

 こんな時だというのに、ふわふわとした心地になる。


 シルヴェリオはゆっくりと胸元に手を添えると、緩く拳を握りしめた。


「……ありがとう。奇跡はその場で起こるものではないのかもしれない。しばらく様子を見てもらおう。――その間に、もし良ければ別の方法を探すのを手伝ってほしい」

「――っ、はい!」

 

 フレイヤは香水瓶をサイドテーブルの上に置くと、ネストレに礼をとる。

 そしてくるりと背を向けて歩き出そうとしたその時、ぐんと後ろから何かに引っ張られた。


「へっ?!」


 思わず素っ頓狂な声を上げたフレイヤの声に釣られ、シルヴェリオと王妃が彼女を見る。


「ネ、ネストレ殿下?!」

「ネストレ! 目が覚めたの?!」


 二人の言葉に驚いて振り返ると、いつの間にか布団の外に出ていたネストレの手が、フレイヤのケープの裾を掴んでいるではないか。


「だっ、第二王子殿下……?!」

 

 突然のことでアワアワと慌てるフレイヤの声を辿るように、ネストレの手がゆっくりと動き、フレイヤの手を握る。

 

「いっ――」


 咄嗟に掴むその手は力が込められており、フレイヤは痛みのあまり顔を顰めた。

 男性――それも騎士をしているネストレの力は強い。骨が軋むのを感じた。

 

「――たの……む。火の死霊竜ファイアードレイクを……」


 ネストレの唇が動き、掠れた声が言葉を紡ぐ。

 

火の死霊竜ファイアードレイク……?」

「奴を……眠らせて……くれ」


 言い終えると、ネストレの手から力が抜ける。そのまま下へと落ちていき、だらりと下がった。


「だ、第二王子殿下……?」

「……」


 フレイヤが呼びかけても、ネストレの手は動かない。

 また眠ったままの状態に戻ってしまった。


「フレイさん、大丈夫か?」


 シルヴェリオが駆け寄り、フレイヤの手を取る。

 ネストレに掴まれた手は赤くなっていた。


「少し痛いけど、大丈夫です。それより、先ほどの言葉は何だったのでしょうか?」

「……火の死霊竜ファイアードレイクとは、ネストレ殿下が倒した竜だ。殿下に呪いをかけた竜でもある」

「葬り去ったドラゴンを眠らせろとは……どういうことなのかしら?」


 王妃はポツリと呟くと、側仕えに国王を呼ぶよう言いつけた。

 

「ええ、ネストレ殿下は己の手で火の死霊竜ファイアードレイクの死を確認したはず……となると、更なる眠りが何を指しているのかが気になります」

「更なる眠り――もしかして、第二王子殿下は安らかに眠らせることを指しているのでしょうか?」

「安らかに眠らせる?」

「はい、私の祖父は元修道士だったのですが――人の眠りは二通りあると言っていたんです。一つは休息のための眠り――『睡眠』です。そしてもう一つが『永眠』でした。永眠は遺された人々の祈りによって、安らかなものになると話していました」

「……つまり、ネストレ殿下はあの火の死霊竜ファイアードレイクのために祈ってほしいと言っていると?」

「推測ですが、そうなんだと思っています。そこで一つ、提案なのですが――」


 フレイヤはぎゅっと両手を握りしめる。

 カルディナーレ香水工房では言われるがまま仕事をするしか道がなかった彼女にとって、提案はとても勇気がいることだった。

 

「香りでその竜の魂を鎮めるのは……どうでしょうか?」

「香りで……?」

「はい、王都北部の森で私とエフティーアさんが話していたことを覚えているでしょうか? 香りはもともと、祈りのための道具なんです」


 ドキドキと心臓が早く脈を打つ。その音が全身に響き、耳にまで届く。

 

 緊張と、提案を拒絶される不安に、胸が押しつぶされそうになる。

 

「……なるほどな。試してみる価値はあるだろう」


 不安が渦巻く心の中に、シルヴェリオの言葉が吹き抜け、重苦しい感情を一掃した。


「試して……くださるのですか?」

「ああ、フレイさんが一生懸命考えてくれた提案を無下にはしない」

「――っ」


 フレイヤは喜びに押し黙った。

 もにょもにょとする口元をきゅっと結び、密かに打ち震える。


 自分の意見を受けとめてくれる誰かがいることは、こんなにも嬉しいことなのかと、新鮮な喜びを噛み締めた。

 

「よろしい。祈り手となる司祭は私が手配するから、コルティノーヴィス卿とルアルディさんは香りを準備しなさい」

「かしこまりました。――フレイさん、さっそく準備しよう。まずはその手の治療からだ」

「はい!」


 フレイヤはケープの裾を翻すと、ネストレの自室を後にした。

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