第36話 努力の軌跡

 宵闇のベールが少しばかり持ち上がり、地平線の向こうから朝が顔を覗かせる頃、フレイヤの家にシルヴェリオが来た。

 厳密には、シルヴェリオを乗せてきた獅子鷲グリフォンも一緒だ。

 

「も、もしかして一緒にその獅子鷲グリフォンに乗って行くのですか?」

「ああ、こいつなら早く目的地に連れて行ってくれるからな。それに、魔物や魔獣が出た時に自分で自分の身を守れる」

 

 森を見た後にフレイヤを工房に送り、そして王城に出勤。

 分刻みのスケジュールをこなすために空の移動を選んだらしい。

 

 おまけに馬車を使う場合は人間の御者の同行が必須となる。御者は戦闘力がないため、もしも魔物が現れると彼らの命が危ない。


(危ない森に近づくのだから、備えていた方がいいのはわかるけど……貴族と二人乗りなんて聞いていないよ……!)

 

 てっきり馬車に乗っていくものだと思っていたフレイヤは思わず頭を抱えた。

 

 これが馬車ならまだ座っているだけでかまわないからいい。しかし魔獣に乗るとなると話は別だ。

 自分は馬に乗れないから迷惑をかけてしまう。おまけにシルヴェリオと密着しなければならない。

 

「フレイさん、手を」

「は……はいっ!」


 獅子鷲グリフォンの上から差し出された手を握り返すと、ぐいと引っ張り上げられる。

 慣れない動きに思わず目を閉じると、体がトンと温かなものに受けとめられた。


(故郷のバラの香りがする……シルヴェリオ様が使っている香水なのかな?)

 

 記憶に深く刻まれた街の香りがすると安堵する。

 

 領主の息子と領民。

 身分は違えど同じ町に縁がある者と共に働くことになるなんて、一年前の自分には想像すらできなかった。


(女神様は私たちの人生に思いがけない贈り物を用意してくれているっておじいちゃんが言っていたけど……本当にその通りだね)

 

 ゆっくりと瞼を開けると、シルヴェリオの深い青色の目と視線がかち合う。

 思いがけず至近距離で見つめ合ってしまい、不意打ちに心臓が跳ねた。


「す、すみません。離れます!」

「危ないからつかまってくれ」

「うっ……わかりました」

 

 とはいえどこを掴めばいいのだ。

 平民の自分が貴族にしがみつくなんて畏れ多い。

 

 涙目になりながら宙を彷徨うフレイヤの手を、シルヴェリオは自分の腕に導く。


 今までに家族以外の異性とこんなにも密着したことがない。

 フレイヤの心臓が騒動を打ち鳴らし続けており、その音が耳に届いている。

 

(私は荷物……ただの荷物……)

 

 何度も頭の中で念じ、雑念を取り払うよう努めた。

 物思う荷物ことフレイヤは身を固くしたまま運ばれるのだった。


 幸にも獅子鷲グリフォンが早く移動してくれたおかげで、あっという間に森に着いた。

 明け方の銀色の空が森を照らしてくれている。おかげで思っていたよりも森の中が明るい。

 

 森に足を踏み入れたフレイヤは、くんくんと鼻を動かす。

 

 木や地面に鼻を近づけ、深く香りを吸い込んだ。


 忙しなく動きまわるフレイヤはまるで、初めて訪れた森の匂いに興味津々な犬のようだ。

 キラキラと目を輝かせて香りを嗅いでいる様子を観察していたシルヴェリオは、口元に手を当て笑い声が零れないよう蓋をした。


 そんな人間たちの様子を、一緒についてきた獅子鷲グリフォンが首を傾げて見守っている。

 

「湿った土の匂い……それに、苔と樹脂に、草――」


 目の前の景色を構成するものの香りを探り当てては、手に持っている手帳に書きつける。

 

 フレイヤは新しい場所を訪れる度に、その土地の香りを書き記している。

 嗅いだことのある香りの構成を記録し、表現できる香りの幅を増やしているのだ。


「深みのある香りですね。ここの香りは第二王子殿下らしいですか?」

「そうだな。王族がつけるには華やかさはないが……」


 シルヴェリオはグリフォンの手綱を片手に、もう片方の手で木の幹に触れる。

 ゆっくりと顔を上げ、物思いに耽るような眼差しで空に広がる枝葉を見つめた。


 まるで記憶の枝葉が生い茂るように、彼の脳裏にネストレとの記憶が呼び起こされる。

 

「ネストレ殿下は騎士団長として国を守るという目標を掲げて鍛錬に励んでいる方だ。だからこの場所のように深みのある香りの方が殿下らしい」

「シルヴェリオ様から見た第二王子殿下は、この森のように安定感のあるお方なんですね」

「ああ、よく華やかな容姿や振舞いを褒め称えられているが――俺にとってはあの頼もしさこそがネストレ殿下の一番の魅力だと思っている」

 

 印象は独り歩きする。

 時に強い印象は、本人の別の良さを隠してしまうこともある。

 

「以前、ネストレ殿下が愚痴を零していたんだ」

「どんな愚痴ですか?」

「威厳のある騎士団長になりたいのに、いつまでたっても花に例えられて困ると。民を守るなら花ではなく大樹でありたいと言っていた」

「なる……ほど……。人によってはそれを聞くと羨みそうです」

 

 ネストレの場合は華やかさが人々の心を掴んでしまっており、人々は口を揃えて美丈夫だの華があるだの褒めそやす。

 

 一方でシルヴェリオはネストレが既に頼もしい存在だと感じているため、華やかな印象が彼の安定感を隠してしまっていることを惜しいと思っていた。


「王子殿下にもそのような悩みがあるのですね」

「なんやかんやで王族も人間だからな」

「それでは、第二王子殿下の望むお人柄が多くの人に伝わるような、そんな香水を調香しますね」

「よろしく頼む」


 解決の糸口が見えてホッとした矢先、不意に獅子鷲グリフォンが鋭い鳴き声を上げた。

 毛を逆立て、森の奥に視線を固定している。


「……何かが近づいて来ているな」

「魔獣……でしょうか?」

 

 野生動物か、魔獣か、魔物か――。

 姿が見えない相手に恐ろしさと警戒心が募る。


「フレイさんは獅子鷲グリフォンと一緒にいてくれ。そいつは戦闘にも長けている」


 シルヴェリオはフレイヤを足音の主から守るように前に立ち、身構える。


 ガサリと草を掻き分ける音がすると、目の前に一頭の半人半馬族ケンタウロスが現れた。

 

 上半身は艶やかな黒い長髪を頭の後ろで結わえた妙齢の女性、下半身は髪と同じ色の毛並みの馬の体――。

 雌の半人半馬族ケンタウロスだ。


「おや、人の子か。私はエフティーア。この森に住む半人半馬族ケンタウロスの群れの長だ」


 エフティーアはミスリルで作られた鎧を身につけており、戦士らしい服装をしている。

 彼女の研ぎ澄まされた眼差しに、フレイヤは思わず後ずさってしまった。

 

「魔導士のシルヴェリオ・コルティノーヴィスだ。この森の香りを調べに来ただけで、そのほかの目的はない」

「わ、私は調香師のフレイヤ・ルアルディです。シルヴェリオ様と同じ理由でこの森に来ました」

 

 エフティーアの黒い目がフレイヤの首元に視線を留めた。

 

「その首飾り――フレイヤ殿は我が同族の伴侶か?」

「……は、はい?」

半人半馬族ケンタウロスは成人した際に作った首飾りを求愛する時に相手に贈る。貴殿にそれを渡した半人半馬族ケンタウロスは愛の言葉を囁いていなかったのか?」


 そう言い、エフティーアは自分の首にかかっている首飾りを掲げて見せてくれた。

 石に彫られている印は違うが作りは似ている。


「印が違うので、贈る意味が異なるのでは……?」

「いいや、半人半馬族ケンタウロスが己の印を他者に贈る理由は求婚だけだ。それをよく見せなさい――おや、西の森の長からの贈り物か。あの堅物も恋をするのだな」

「ハルモニアは私の親友です。これは私の仕事が上手く行くようにとお守りにくれたんです」

「なるほど、告白する勇気がなかったから誤魔化したのか。意気地なしめ」

「~~っ!」

「そのくせ自分の印を身につけさせるとは独占欲が強い奴だな」


 エフティーアがニヤリと口元を歪ませて笑う。


「ハルモニアはそんな人じゃありません!」

 

 否定するフレイヤの声が、早朝の森にこだましたのだった。

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