END

 無間地獄の更に下に広がる無の世界。そこで大王は二人の子供を見つけた。

 兄妹のようで、身体には波のような独特な模様がありそれぞれの髪は火と水のように動いていた。

「名は」

 膝をついて静かに問いかける。ここは無だから反響すらしない。

「お、俺ら、産まれてすぐに死んだから」

 火の髪を持つ、兄の方が答えた。怯えている様子で妹の方は大王から顔を逸らした。彼らからすれば隻眼の大柄な男は威圧的に見えるだろう、ゆっくりとその場に胡座をかいて背を丸めた。

「両親の事も覚えておらぬのか」

 大王の静かな雰囲気に少し気を許したのか、兄の方がかぶりを振る。

「妹は知らないが俺はまだ覚えてる。母を殺し、父に殺されたから」

 それに軽く眉根を寄せた。嫌な考えが脳裏を過ぎる。

「流石に名までは分からぬか」

 わざわざ名乗る訳もないし、親の名前なんて物心がついた後でないと聞く機会がない。産まれてすぐの彼らには勿論そんな余裕なんてなかった。然し、

「知ってる」

 妹の方が答えた。顔は背けているが、その声は確かに聞こえる。大王は視線をやり、なるべく感情を押し殺して問いかけた。

「良ければ教えてくれぬか。親の名を」

 ややあって頭が動き、水色の瞳が向いた。

「イザナキノミコトとイザナミノミコト。舟に乗せられた後にどこかの誰かがそう言っていたのを覚えてる。その後私は意識を失って、」

 俯く。兄が小さな身体を優しくさすった。

「俺らが死んだ後、何処でどうなったのか一切分からないんだ。いつの間にかここにいて、何も起こらないまま二人でここにいる」

 大王はやはりかと息を吐いた後、国産み前でも黄泉の国自体はあったはずだと呟いた。そこをすり抜けてこの場所にいる、しかも人の形を保ったまま……。

「少し触っても良いか」

 兄の方に問いかける。少年は彼の大きく岩のような手を一瞥したあと肯いた。

「失礼」

 軽く前に出て右手を伸ばした。細く、大王の手では小枝のように感じる腕に触れた。瞬間、鳥肌が全身を支配する。ばっと手を引いた。兄妹の訝しげな表情に、信じられないと言いたげに答えた。

「肉体だけだ。魂がない」

 それに、えっと小さな声が漏れた。

「何が目的なのですか」

 膝をつき俯いたまま絞り出す。僅かに震えた声に眼前の男は答えになっていない答えを返した。

『憎しみ、怒りがある』

 地蔵菩薩は小さく息を吐いた。

「三毒か」

 それに男、シンは反射のように答えた。会話をしているようでしていない、ただ相手の言葉と声をきっかけに自分の言葉を発しているだけだ。

『その人間は依代に最適だ』

 菩薩はざっと重たい身体を足を引きずって少し退いた。おりを庇うようになるべく遠ざける。それでも牛頭馬頭のように大きな男の手が届く範囲だ。

「三毒が具現化する事は有り得ない。何者でしょう。あなたは」

 下から見上げる。角はないが耳は尖っているし牙もある、顎を触る指にも鋭い爪がある。鬼の特徴は十分に備えていた。然し妖気を一切感じない。感じるのは身体を押さえつける邪気のみだ。

『あの人間ではまだ意味がない。なにもいみがない』

 首を捻ると長い髪が揺れた。やはりまともな答えは返ってこない……そう項垂れた時。

 先程まで何も影響がなかった境内及び周囲の山々から、鳥や獣の断末魔が響いてきた。はっと顔をあげると丁度、奥から逃げようと飛んできた烏ががっしりと掴まれた。

 その一瞬でばきばきっと軽い骨が折れ、赤い果実を潰したように黒い身体とシンの手のあいだから、鮮血と内蔵が飛び出してきた。

 同時に山や境内の木々から飛び立った鳥達が雨のように落ち、寺の屋根に叩きつけられるものや、五重塔を転げ落ちるもの、そのまま何もいない池に吸い込まれるものなど様々な箇所にぶつかり、転がった。獣達も走っている最中に力を失って崩れたり、足が引っかかって幾らか転がるものもいた。

『娘をよこせ』

 暗雲が空を覆い、寺に充満する邪気が可視化される程に濃くなった時、シンは明らかに地蔵菩薩を見てそう言った。ぼとりと手からぐちゃぐちゃになった屍体が落ちる。

『娘を、よこせ』

 独特な眼の色と模様。影になった顔のなかでその二つだけが浮かび上がり、地蔵菩薩を睨みつけた。

 龍ノ王の身体と身体のあいだ、そこから放たれた矢は隙間を見事にすり抜けた。赤子の左足首を目掛けて一直線に飛んでゆく。

「こっちだ、こっち見ろ」

 りんが矢を放ったのを察すると、名も無き坊主は煽るように動き、振り下ろされた掌に思い切り拳をぶつけた。そうして舌を出して両手を打ち鳴らす。赤子は完全に坊主だけを見た。

 瞬間、破魔矢は見事に足首に命中。一つ遅れて爆発し、左足を軸にしていた赤子の身体は大きく歪んだ。龍ノ王がそのまま取り押さえようと動き出す。然し。

 だんっともう片方の手を地面についた瞬間、頭突きを龍の身体に喰らわせた。また素早い動きだ、近くにいた坊主は危うく潰されるところで、頭突きを受けた龍の身体はちらちらと明滅した。そのせいでりんの姿が数秒見える、赤子の眼は確実にそれを見ていた。

 歯の並んだ口が一つ瞬きをしたあいだに迫っていた。坊主はすぐに足を大股に開き、跳ぶように走り出す。りんは迫ってくる不気味な口内に矢を引こうとする。

 だが間に合わない。刹那、鼓膜が破れる程の咆哮が轟いた。それは龍ノ王から発せられるもので、坊主とりんは反射的に耳を塞いだ。

 音圧が身体を押す。坊主はなんとか踏ん張り、りんは龍の身体にぶつかる形で後ずさってしゃがみ込んだ。

 咆哮は赤子を押し、少しのあいだ奮闘していたがそのうち負けて体勢を崩した。どしんっと大きく土埃と揺れを引き起こしながら、地面にうつ伏せに倒れる。

 龍ノ王は軽く顎を上げて咆哮をやめた。全身がびりびりと波打つ。ゆっくりと耳から手を離した。

「りん!」

 動く気配がない、坊主が名前を叫ぶと龍のなかから「分かってる!」と返ってきた。

「このまま消し飛ばしてやる」

 龍ノ王が身体を持ち上げた時、りんは自身の指を噛んで矢を番えた。巫女の純血には力がこもっている、それが触れるだけでも妖怪は拒絶反応を起こす。

 ぎりっと音が鳴り、限界まで引き絞られた矢に血が滲んでゆく。その時、残った赤子の手がぴくりと動いた。が、一足先に放たれた。

 ばっと一瞬で顔をあげた時には遅く、破魔矢は顔の中心を抉りとるように貫通し、身体のなかに留まった。と同時に触れた箇所から順番に爆発した。巫女の血が混ざったお陰でその威力は増しており、近くにいる坊主は腕で顔を守った。

 ややあって静まり返る。ゆっくりと視線をやると、殆ど跡形もなく、肉片が辺りに散らばっていた。

「やった……か」

 はあっと大きく肩を落とした。りんは膝から崩れ落ち、地面に両手を突っ張った。

「こわかった」

 彼女の泣き出しそうな声と坊主の溜息を皮切りに、肉片達はゆっくりと消え始めた。

『チッ』

 おりの頭に大きな手が伸びていた。然しその手前でぴたりと止まる。一つおいてシンは背筋を伸ばし、とある方角を見て唸った。

『憎い』

 ぎゅっと拳を握りしめた。するとその場の邪気が歪み、突風が吹いたように半分程が吹き飛んだ。驚いて後退る。ゆっくりと地蔵菩薩が立ち上がった。

「耐え忍ぶのには慣れておりますから」

 ふっといつもの優しい微笑みを浮かべると、シンはわなわなと震えた。怒りか、恐怖か、どちらかは分からないが、一歩近づくと一歩退いた。どんどんと仏の力で邪気が消え、押されてゆく。

「して、あなたは何者でしょう」

 しゃんっとどこからともなく、錫杖を鳴らした時のような音が鳴り響いた。もう一歩多く近づく、然しその前に突風が吹き荒れ、残った邪気を纏って消えてしまった。

 ややあっておりが顔を上げようとしたので、すぐに「そのままでおりなさい」と制した。境内には鳥獣達の屍体が転がっている。これ以上少女に凄惨な様子は見せたくなかった。

 赤子がこの世から消えた時、大王の前で妹の方がびくりと身体を震わせた。本人も驚いて辺りを見渡し、怯えたように兄を抱きしめた。

「どうした」

 大王が問いかける。だが小刻みに震えるばかりで答えようとしない。仕方なく片膝をついた状態で手を伸ばし、そっと肩に触れた。

 そのまま固まる。兄の方が訝しげに顔を覗き込むと、大王は絞り出すように答えた。

「魂がほんの少し、ある。先程は空っぽだったというのに」

 滑るように指を離した。

「も、戻ってきたってことか?」

 兄が身を乗り出して訊くが、初めての現象に大王も若干戸惑っていた。「分からん」とかぶりを振った。静寂が一旦流れる、然し妹が少し落ち着いたのか、顔をあげた。

「こ、こわい」

 震えた声で絞り出した。兄に向けられたそれに背中を擦り、「大丈夫だ」と囁いた。妹は続ける。

「大きな黒い龍と男の人と弓を持った女の人が襲ってきて、すっごい負けたくないって気持ちになって、」

 丸い両眼が涙で潤む。まだ続けた。

「でも女の人の矢に射抜かれた時、なんでか分かんないけど気持ちが良かった。楽になる感じがしたの……」

「私、なにをしてたんだろう」

 俯いて虚空を見つめる。その横顔を見て大王はぼさぼさとした髪を後ろに撫で付けた。大きな黒い龍は名も無き坊主の寺にいる、奴以外に龍は存在しないからだ。だとすれば男は坊主、女は弓と矢からして巫女になる。

「分からん……」

 彼女の、神の魂の一部が現世に現れ、彼らが戦う程の事をしでかしたのだとしても、何故そうなったのかが大王には分からないでいた。神の魂は全て黄泉の国、今の地獄に来る。そうしてゆっくりと変わってゆき、最後は獣となってどこかに消える。イザナミが正しい姿だった。

 地獄で起きた事、天界で起きた事、現世で起きた事、一通りの事を把握してもなお不可思議な部分が多い。ただ一つ言える事は、イザナミイザナキの子の魂が何者かの手の内にあり、それらが悪さをしている……だとすれば幾つかの事は辻褄が合う。

 爆発した亡者擬きの何かの血にイザナミの雷神が反応したのも、海から上がってくる赤子の異形達から嘗ての勾玉が出てきたのも、この二人の魂を手中に収めている者が関わっていたとしたら……そう大王は彼らを見た。ふとイザナミの昔話を思い出す。

 かなり前、地獄が完璧に出来上がる前に一度だけ、彼女は二人の子供の話をした。恐らくその時の子供が彼らなのだろうと考えたが、滝のように思い出すうちに違和感が浮かんできた。

「お前達、どちらが上の兄弟だ」

 唐突に問いかけると二人は眉をあげ、当たり前に答えた。

「俺、だけど」

 手を軽くあげたのは赤い髪の方だ。然しイザナミの話した内容の通りであれば、赤い髪の方だと思われるカグツチは国産み後の子供であり、国産み前の子供である青い髪の方、ヒルコの弟になるはずだ。

 歪んでいる、何もかもが歪んでいる……大王は暫く黙りこくったあと、改めて妹、ヒルコに魂から得た情報を話させた。地獄にイザナミがおり、既に事が起こっている以上他人事ではなかった。

 天界ではヒルコの魂の一部が戻ってから以降、赤子の異形達が現れる事はなかった。ただ輪廻転生の輪は止まったままであり、イザナキは昔に戻ったように厳しく、顔つきも変わっていた。

「大王から知らせがあった通り、人間界でヒルコの魂の一部が浄化され、無間地獄の底にいる本人の身体に戻ったらしい。それと、寺の方に三毒のうちの一つらしき鬼が現れて、人間の娘を欲しがっていた、と……」

 アマテラスがそう言ったあと大きく溜息を吐いた。現世の状況は地蔵菩薩が全て大王に伝えており、大王からスサノオに文を渡された。イザナキの耳に入らないようにする為だ。

「一先ずその三毒らしき鬼が何かを企んでいる、というのは分かりましたね」

 ツクヨミの言葉に小さく肯く。

「ただ消えた先の行方は分からないらしいし、本当に三毒にまつわる妖怪なら、他に二体いる事になる。それに魂も一部だけと言っていたし、引き続き警戒しておいて損はないかな……」

 人間の娘、おりが依代として狙われていた以上、二度三度同じ事がないとも言いきれない。その為地蔵菩薩は現世に行く回数を増やし、また現世に長く滞在出来る牛頭馬頭やアマテラスも、定期的に様子を見に行く事になった。

 また輪廻転生の輪が廻転せず拒否を続けている為、天国の管理もアマテラス一人では困難な状態だ。地蔵菩薩も賽の河原と並行して管理を行う事になった。

 ただ輪廻転生が行われないという事は魂が永久的にそこにいるという事、地獄にも影響は出てくる。何れ魂が溢れ出し、天国行きの亡者が地獄に留まる事になる、そうすれば全ての機能は停止してしまう。早い段階で原因を突き止められるよう、ツクヨミも姉の手助けをする事になった。

 天界にも引き続き異形が現れる可能性がある為、スサノオとイザナキを筆頭に兵力を強化、問題が解決するまでは警戒態勢を続けるつもりだ。そして地獄は変わらず裁判を続け、イザナミには暫くのあいだ表に出てこないように伝えた。

 もし敵意を持った何かが来たとしても、悪霊や妖怪が時々暴れる地獄では日常茶飯事の一つになる、そこは問題がなかった。ただ一番の心配は人間界。神仏がそう簡単に手を出せない分、厄介なものが現れると被害も大きくなる。

「くノ一はどこに行ったんだ」

 かなり傷が癒えてきたようで、りんがせっせと手製の薬を塗っては布を巻き付けた。ちゃっかりと寺にまでついてきた巫女に、精神的にも落ち着いたおりが一瞥をやった。

 くノ一は坊主に一方的な恋心を抱いている、それを知っている彼女は複雑な思いを感じながらも、「食料を買いに」と答えた。おりに一言言って去っていった背中は、少し寂しく見えた。

「りん。ありがとう。お前はもう村に帰れ」

 ぶっきらぼうに言うと袖を通した。忙しなく立ち上がる様子にいやと顔をあげる。

「村は平気だ。それよりあの赤子が気になる。まだ出てくるかも知れないんだろう?」

 振り向き、少し間を置いたあと顔を逸らした。

「力はあるが経験は少ねえだろ」

 そうしておりに一つ指示を出し、襟元を正した。とととっと小さな足音が遠くなってゆく。

「でも気になる。それに破魔矢は効いた。村には妹がいるし、他の土地巫女なんか協力してくれないぞ」

 りんの言葉にややあって溜息を吐き、軽く振り返った。

「男、苦手なんだろ。平気なのか」

 どこか冷たく、信用しきっていない双眸、りんは軽く身動ぎながらも肯いた。

「慣れればいい。修行だ」

 そう意気込む彼女に「適当な部屋を使え」とだけ言い置いて本堂の方へ消えていった。

 現世も地獄も天界も闇に包まれ、大きな満月だけが辺りを照らした。人も神も仏も妖も、みな寝静まっている頃、無間地獄の底にある無の空間で二人は身を寄せあって眼を瞑っていた。

 唸る炎の髪と水の髪、二つが混ざり合う事はないが寄り添いあっていた。然し一つ瞬きをするあいだに三人の大きな影が現れた。

 一人は豚の頭を肩に乗せ、一人は蛇の皮を巻き、一人は鶏の羽根を頭に挿していた。どれも鬼の特徴があり、眼だけが光って見えた。

 じっと二人を見下す。すると兄の方が声を漏らして起きようとした。瞬間、切り替わったように一瞬にして姿が消えた。

「ん……?」

 虚ろな眼で周囲を軽く見る。勿論何もいないし誰も居ない。ここには無しかなく、居るのは二人だけだ。

 気のせいかと息を吐き、彼はまた眼を瞑った。その魂が京の都で火を放った事など知らずに、安心して平和に眼を瞑った。

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戦場の曼珠沙華 上 白銀隼斗 @nekomaru16

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