第9話

 どしん、どしんっと地響きが鳴り、それらは直に名も無き坊主と地蔵菩薩のもとにも届いた。

「龍の気配がする」

 坊主は眉根を寄せ、懐から札を一枚取り出した。それを錫杖に貼り付けながら地蔵菩薩に告げる。

「私は先にゆきます! もし娘が居た場合はそちらを!」

 走りながら跳び上がると足元に錫杖を投げた。そしてその上に乗り、一気に進む。彼だからこそ出来る荒業であり、地蔵菩薩は微苦笑を浮かべて見送ったあと更に速度をあげた。

 ちゃりちゃりちゃりとやかましく錫杖の頭が鳴る。然しそんな音も掻き消える程に地鳴りは大きくなっていき、一山超えた瞬間眼に飛び込んできた。

「なっ」

 全身がぶよぶよとした巨大な赤子。そしてその先に黒い龍と、背中に乗せられた娘の姿が見えた。

「おり!」

 右足に体重をかけ斜めに降りる。合流した坊主に少女が「とっさま!」と手を伸ばした。刹那。

 今まで以上の速さで赤子の手が動き、飛んでいる小鳥を捕まえるように坊主を鷲掴みにした。彼でも反応出来ない程の速度、今まで気配が読み取れないだけでのっそりとしていた赤子が、動きなれている武士のようにキレのある挙動を見せた。

「とっさまあ!!」

 喉が潰れる程に叫ぶ。錫杖が彼から離れたせいか札の力を失い、くるくると回転しながら落ちて行った。

『まずい。逃げねば』

 おりの悲痛な叫びを背に、龍ノ王は極力気配を消してその場から離れた。

「なんの音だ」

 同時刻、例の村にいる巫女、りんが彼らのいる方角を見て眉根を寄せた。村人達は怯えており、坊主の残していった護符を片手にそれぞれ家に引きこもっているため、地鳴りは然程聞こえていなかった。

 どしんどしんと足を踏み鳴らすような間隔で僅かに聞こえてくる、りんはぎゅっと拳を握りしめた。嫌な予感がするし、巫女として音の正体を突き止めたい気持ちもあった。だがここを離れるわけにはいかない。

 その時、彼女の持っている鈴が震え音を出した。それは殆どの巫女が携帯している呪物であり、近くにいる者が死に瀕している時に震え出す性質を持つ。元々は悪徳な薬師が作った呪物だが、今の巫女達にとってはなくならない物だ。

 りんはばっと音のする方を見ると、数秒悩んだあと「あー!」と駄々をこねるように頭を振って走り出した。自身の家から弓と矢筒を背負いながら出てくると、今度は数頭いる馬の一頭に跨った。

 巨大な赤子は坊主を握りしめたまま、ゆっくりと腕を上にやった。同時に歯の並んだ不気味な口が動き出す。よく見ると拳の先からぽたぽたと赤い水滴が落ちており、影を潜めている龍ノ王はどうすべきか悩んだ。

 最大限の硬度でおりを結界で包み、この茂みのなかに置いて飛び出すか......だがそれ程の結界は反対にそのまま持ち去られる危険性がある、だからと言って結界の幅を広げれば見つかりやすく、硬度も落ちる。

『我にもっと力があれば』

 二体同時に、鮮明な幻を出せるのに......そもそも封印されていなければなにもかも関係ない。然し封印されなければ陰の妖怪のままでここにはいないし、人間の小娘に懐かれる事も青年に頼りにされる事もなかっただろう。

『どうすれば良い』

 唸るような低い声。茂みから上を向いて口を開ける赤子の姿を睨みつけた。

 錫杖は地面に逆さに突き刺さっており、坊主の姿は完全に拳のなかにいた。手も足も出ない、言葉通りの状況だ。龍ノ王は諦め、更に離れた。おりに坊主の惨劇をこれ以上見せないためだ。

 だが龍が向かおうとしたその先から、馬の足音がどんどんと聞こえてきた。わざわざこちらに走ってきている......そう身構えた時、矢をつがえた巫女の姿が見えた。

 りんは龍ノ王を見て一瞬驚き、矢の先を向けた。然し陰特有の邪気がない事と、背中に子供を乗せている事からすぐに逸らし、そのまま拓けた赤子の足元に出た。

「なっ......!」

 手綱を引く前に馬が急停止し、前足を上げて鳴き声をあげた。まるで驚き慌てているかのように大きく立った為、りんは尻の方からずり落ちてしまった。どんっと土の上に落馬する。

 その衝撃で矢筒から数本零れ、馬は完全に取り乱して来た道を引き返してしまった。あっと手を伸ばした時には遅く、馬の尻尾を掴む余裕さえなかった。

 りんは仕方なく立ち上がり、一歩退いた。然し同時に錫杖が逆さまになって突き刺さっているのを見つけ、はっと眼を丸くしながら見上げた。

 赤子の口の上にある拳、そこから赤いのが垂れているのを見て息を吸い込んだ。

 瞬きをする間もなく、矢を引いていた。背筋を伸ばし、完璧な立ち姿で引き絞る姿に空気が変わる。

 それを感じ取ったのか、赤子がぴくっと反応して顔をゆっくりとこちらに向けた。勿論口が拳の下から離れる。

 瞬間、放たれた矢は想像以上の速度で一直線に飛び、坊主を掴んでいる方の手首に着弾した。かと思えば爆発したかのように大きな円ができ、殆ど皮一枚となった。

 重力に従って手首から上の拳の部分が落ち始める。赤子は数秒遅れてから反応し、どしんっと後ずさった。

 りんはすかさず次の矢を構え、引き絞った。狙いは自分の千切られた手首を見る、赤子の頭。

 だがその前に甲高い泣き声が響き渡り、思わず手を離してしまった。狙いが外れ、耳の近くをかする形となった。しかもその泣き声は長く、りんは両耳を塞いで蹲った。

 もはや音なんていう言葉では言い表せられない程の高さと圧で、全身の骨が共鳴して酷く軋んだ。勿論これは人間だけではない、龍ノ王も乱立する牙を食いしばり、おりを護る結界を更に強めて耐えた。

 いつまで続くのか、りんは眼を見開き、全身が震え脳がかき乱されるような感覚に嗚咽した。その時だ。

 しゃりんっと清らかな音が鳴った。それは小さな音だったが確かに聞こえた。結界で遮断され、籠った音しか聞こえていないおりでさえ反応した。

「ぐずるな、鬱陶しい」

 たった一人、耳も塞がずに地面に立つ男がいた。その手には土を被った錫杖があり、手を伝って鮮血が流れて行った。

 舌打ちをかまし、口から涎と混ざった血を吐き出した。また一つ、しゃりんっと音が鳴る。土をはじき飛ばした錫杖が鋭く光った。

 名も無き坊主は槍投げの要領で構えると、舌を巻きながら叫び、投げた。豪速球のそれは泣き叫ぶ赤子の口に見事に吸い込まれ、ごがっと詰まったような音と共に泣き声は止んだ。

 錫杖自体が妖怪を祓う力を持つ、どんなに強い鬼でも刺さったり当たったりすれば火傷を負ったように皮膚か爛れ、顔を歪ませる。それは暴走した元神でも同じだ。どちらにしても異形にとって彼の使う錫杖は毒となる。

 だが。

「......」

 赤子はもう片方の手で錫杖を掴むと引き抜いた。そうしてぽいっとその場に投げ捨てる。全く、痛みを感じる素振りを見せない。

 力の影響を受けないのは神仏のみだ。陽の妖怪でさえ、火傷程ではないが痛みは走る。

「なんなんだ、おめえは」

 名も無き坊主はこちらを見下してくる巨大な赤子を睨みつけ、懐に手を入れた。数枚の札を引き抜く。

「りん!」

 不意に呼ばれた巫女は慌てて背筋を伸ばし、弓と矢を拾って立ち上がった。数歩下がりながら裏返った声で返事をする。

「援護頼む」

 僧侶としての仮面を脱ぎ去り、僧兵としての素を出した彼に戸惑いながらも、りんは「分かった」と返して赤子を見上げた。

「気味の悪い......」

 ぶよぶよとした皮膚は風に吹かれて揺れており、生気のない双眸は白く濁っていた。そして何より、妖怪でも神でもない......邪気の一つすら感じ取る事が出来ない相手に固唾を飲み込んだ。

 龍ノ王は名も無き坊主が復活したのを見ると更に離れた。その時、仏の暖かな気配を感じ取り、そちらに視線をやった。

『あれは』

 幾らか離れた道端にその方は居られた。

「お坊様!」

 不定期に寺にやってくる子供のような姿のお坊様で、とても人間とは思えない雰囲気を纏っている。おりはあくまでも人間の僧侶、高僧だと思っているが妖怪である龍ノ王は正体を知っていた。

 何かに足止めされている様子だ。閻魔大王の分身であり、生前から内にいた存在でもある。人間界に現れやすい仏とは言えかなりの力を持っているはずだ。

『娘よ、もう少し耐えられるか』

 体勢的にも疲れるし、精神的にも良くない状況だ。龍は人間の小娘を心配したが、気丈な彼女は「うん」と肯いた。

 地蔵菩薩は赤子にまとわりつかれ、身動きが取れないでいた。それらは幻であり実体はない、然し幼子を見守り賽の河原から彼らを転生に導く仏の性質に、がっちりと太い鎖を巻き付けていた。

「参りましたな、これは」

 幾ら菩薩と言えど少しは焦った気持ちが顔に出る。だが神仏は自身の存在意義や司っているものに対して反抗出来ない、幻とは言え赤子を蹴散らすのは無理な話だ。

 反対に言えば、地蔵菩薩以外の者が蹴散らしてしまえば問題はない。多少のバチは当たってしまうだろうが、相手は幻だから小さなものだろう。とは言えこれが自分にしか見えないもななのか、それとも周りにも見えるものなのかの判断はつかなかった。

 ただひたすらに耐えるしかない。音も遮断されてしまった以上、彼に考える余地はなかった。然し。

 ぱっと瞼に光が差し込んだ。雲が晴れたように明るくなる。

『なんなんだこの幻影は。質の悪い』

 映ったのは龍ノ王。おりには幻が見えなかったが同じ物質の彼には見えていた。容赦なく潰していくと地蔵菩薩は動けるようになった。

「助かり申した。なんとお礼を言えば」

 ぱっぱっと裾を払って立ち上がる。

『礼など要りませぬ。それより』

 龍ノ王はおりを包む結界を解いた。ふわっと牡丹が開くようにして、優しく消えていった。それに地蔵菩薩は肯き、おりに降りるように促した。

 子供である彼女を一番安全に護る事が出来るのは、彼女らに寄り添う事が出来る地蔵菩薩だけだ。龍ノ王が踵を返したあと、おりを抱えて走り出した。

「あなたのお家に向かいましょう。お父上様が無事に戻って来るまで傍におりますから」

 なぜ赤子が彼女を狙ったのかは定かではない。然しおりは何か惹きつけるような、見えない魅力を持っていた。それは義父である坊主も同じ、地蔵菩薩は急いで破魔山の寺へ向かった。

 だが寺の山門をくぐった時、地蔵菩薩は膝から崩れ落ちた。背中に背負ったおりの脚を抱えたまま項垂れる。

「お、お坊様……?!」

 人間であれば脂汗が滲み出て顔色も悪くなっていただろう、笑みは消えたが眼を瞑ったまま、ある意味涼しい顔つきで立ち上がろうとした。がそれも虚しくがくんっと脚から力が抜ける。

「……おりちゃん、絶対にわたくしから離れないように」

 震えた声が小さく聞こえ、少女は怯えた顔をしながらもぎゅっと背中に抱きついた。大きな背中ではないが仏の慈悲深い暖かさがじんわりと広がる。

 寺の境内にはとてつもない濃度の邪気が蔓延していた。龍ノ王の本体は五重塔の方に保管されているから大丈夫だろうが、幾つかの札や仏具は飲み込まれているはずだ。

 邪気に侵されたそれらは勝手に暴発する可能性がある。特殊で強力な力を無理矢理実体化させている以上、その危険性は避けられない。

「どうにかせねば、」

 他に、人間界に顕現できる仏を呼べればいいが、それすらままならない状態だ。とにかく意地でも立ち上がって、重たい物を背負い深い雪のなかを歩くようにして歩を出した。瞬間。

『憎い』

 頭上から怖気の走る声が聞こえ、身体が止まった。唐突に見えたのは大きな足。獣の皮を幾つも巻いており、乾いた血のついた甲冑が下から覗いていた。

『依代を欲している』

 ゆっくりと顔をあげる。腰にはかなり大きく太い白蛇の生皮が巻かれており、上は殆ど裸だった。だがその皮膚は黒い鱗で覆われ、双眸は蛇にも鬼にも見えた。

 剥き出された牙と見下してくる眼光に腰が退ける。まるで蛇に睨まれた蛙のように、鼓動が速くなった。

「どの札も効かねえってのは、どうゆうこった!」

 響き渡るのは坊主の苛立った声。もう懐には直接自身に貼り付けるものしか残っておらず、地面には文字のない白い紙が散らばっていた。赤子は無傷だ。

「破魔矢も全て避けられる……かなり速いのに」

 りんは残り少ない矢を番えながらも、絶望に近い声を絞り出した。坊主を掴んだ時と同じく、瞬間的に素早く身体を動かして矢をぎりぎりで避けてきた。少しでも触れればその箇所が爆発するというのに、それすらもない。

 何十本とあった破魔矢は片手で数えられるまでに減り、これ以上の打つ手はない状況だ。然しそこに龍ノ王が合流する。

『娘は地蔵菩薩様に預けた』

 ぬっと現れた龍の顔にりんは驚き、坊主は「よく守った」と突き出た口の辺りを軽く叩いた。

「状況は芳しくない。錫杖も効かねえし札も効かねえ、唯一効果があった破魔矢は避けられるばかりだ」

 自身に貼り付ける札は、妖怪なんかに直接触れて攻撃を与えるようにする為のものであり、既に背中に一枚貼り付けてある。

 それだけが効く妖怪は確かに数体だが存在する……然しこの赤子の場合は不明だ。錫杖すらも効かないとなれば、もしかしたら法力自体が無理なのかも知れない。

「破魔矢をどうにかして当てるしかねえな。幸い再生はしないようだから、残る手と足を吹き飛ばせば……」

 赤子自体の攻撃は然程脅威ではない。動きも遅く単調なので、身体能力が凡人程度のりんでも余裕を持って避けられる。だが唐突に、瞬間的にでも素早い動きが出来る、全く警戒しなくてもいい訳ではない。

『我を目隠しに使えば良い。貴殿は直接攻撃して注意を引けば尚更良い』

 龍ノ王の提案にそうだなと顎を触った。だが今の姿は比較的小さく、りんは信じられないような眼で二人を見た。そんな彼女の視線に触れる気もなく、坊主は懐から二枚取り出しながら言った。

「俺らが上手いことやる。お前はただそこで狙いを定めろ。先に足をやれ」

 掌にそれぞれ貼り付けると数珠を左腕に巻き付け、袈裟を脱ぎ捨てた。そうして着物の上を退ける。小さな刀傷が幾つもあり、右肩には矢で射抜かれたような痕もあった。

 りんはその姿を見て眼を見開いた。魅入られたように見つめ、ややあってぶるぶると首を振ると赤子を見上げた。

「ああ。絶対に外さない」

 彼女の強い声を聞いた瞬間、弾丸のように飛び出すとすねの辺りを勢いよく殴った。その時、赤子が痛がる素振りを見せた。効く、判った途端に坊主は本気を出し、錫杖を拾い上げた。

『我に当たっても良い。幻影だから少し乱れるだけだ』

 龍ノ王はそれだけ言うとばきばきと音を起て、赤子に匹敵する程の大きさになった。とぐろを巻いて地面に幾らか這わしている分、全長は赤子を超えている。

 りんは驚きつつも太く壁のような龍の身体の間に身を潜めた。息を整え、片膝をついて矢を構える。丁度、龍の身体と身体のあいだに通り抜けられるだけの隙間がある、そこを狙った。

「残り四本、失敗は一度きりだ」

 ふうっと短く吐き出し、赤子の注意が坊主の方に向いた瞬間、強く引き絞った矢から手を離した。

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