第8話

 アマテラスが輪廻転生の輪の不具合を父、イザナキに報告して少ししたあと、スサノオが綺麗な勾玉を浜から持って上がってきた。彼は父の太刀を無断で持ち去ったので屋敷には入れず、勾玉は三毛猫の化身が受け取って彼らに見せた。

 アマテラスはまた弟が変な物を拾ってきたのかと思ったが、輪の話を聞いても調子を変えなかったイザナキの眼が軽く見開いた。腰をあげて三毛猫の化身に近づく。上に突き出された両手の丁度真ん中に転がるそれを摘み上げた。

「父上?」

 膝頭を移動した父の背中に向ける。表情は見えなかった。ただ丸まった大きな背がどんどんと震えていくのが見えた。

「……った」

 僅かな声に三毛猫の化身が顔を上げた。

「は?」

 するとイザナキと眼が合う。

「どこでこれを手に入れた」

 その時化身の猫の毛が逆立った。ぴんっと張り詰めた髭を動かし、光のない双眸を見上げたまま答えた。

「スサノオ様曰く、例の海の件で死体の一部から見つけたと……」

 イザナキは勾玉をぎゅっと握りしめ、振り向いた。娘は父の父らしくない顔を見上げて驚いた。

「アマテラス、俺は今から大王のところへ行く。お前はツクヨミとスサノオに今から話す事をそのまま伝えろ」

 父から昔話を聞かされた彼女はすぐに自身の菊屋敷へ戻った。そうして部屋に戻る際に見かけた適当な化身の使用人に二人を呼ぶように言い、付き人である小娘の出迎えに裾を翻した。

 ややあって弟達が集まり胡座をかいて座ったところで、アマテラスはまず勾玉を見た父の反応を告げた。

「何か、なくなってしまった大事な物を取り戻したように、父の顔は私らの知っている父親の顔ではなくなっていたよ。それこそ私らが産まれる前の、母が生きていた若い頃のイザナキノミコトに見えたし、一瞬眼に光が戻っていた」

 スサノオが勾玉を見つけたのはツクヨミも周知の事、アマテラスはそのまま続けた。

「結論から言うと、あの勾玉は父が若い頃、まだ国産みを始める前の頃に母に贈った代物……らしい。貰ってから母はずっと勾玉を左の手首につけていて、カグツチによって亡くなった時もあった。けれど黄泉の国に行ってから見た母の姿は全裸で、勾玉なんてものは持っていなかった」

 死んだ当時の服はそのまま残っており、ただ紐を通された勾玉だけが無くなっていた。空に翳すと輪郭が消える程に綺麗なそれには勿論力が宿っている、あまり無くなっていいものではなかった。

「だからなぜ今になって出てきたのか、しかもそれがあの海の連中のなかからなのか……」

 アマテラスは眼を伏せたあと息を吸いながら背筋を伸ばした。

「それにあの辺りは最初の子、ヒルコを流した場所。父上にしてみれば身に覚えのある事ばかりなのだよ」

 父からの伝言にスサノオが問いかけた。

「んで親父は?」

 相変わらず小汚い身なりの弟に「大王のところに」と答えた。

「確証はないけれど、元々黄泉の国だった地獄に何かあるかもしれないからね。まあ居たとしても既に」

 獣となり、荒神と化しているだろう。そうなればどの世界にもいない、幾らアマテラスや大王でも探す事は不可能だ。

「そういえばあの浜の先はどこに繋がっていたかな……」

 上を見上げて首を傾げる姉にツクヨミが答えた。

「確か、奈落に繋がっていたはずです。現世では北関東の山の辺り」

 その答えに「奈落か」と呟いたあと、「ん?」と何かを見つけたように眉をあげた。

「姉上?」

 ツクヨミが呼ぶとアマテラスは軽く険しい顔をしたまま視線をやった。黒髪がするすると打掛の上を滑る。

「その場所、例の人間の寺がある山の近くじゃないかい……?」

 例の人間、名も無き坊主の事だ。そして寺がある山の名前は破魔山、その名の通り魔を寄せ付けない特殊な山であり北に向けて大きく広がっている。特殊な力を持つ山は勿論最高神である彼女もツクヨミも位置を把握している。

「何も関係していなければいいけれど……、」

 太陽のように輝く橙色の眼を伏せて言った。奈落に繋がる海から這い上がってくる妙な異形達、そしてその奈落の場所は破魔山の付近であり、破魔山には名も無き坊主の寺がある。何がしかの異変が現世で起き、それが影響していると考える方が早い。

 アマテラスはスサノオにこれを大王に伝えるように命じた。三人のなかで唯一地獄に行っても耐えられるのは彼だけであり、アマテラスからの文を受け取ったスサノオはすぐに向かった。

 阿吽の鬼首はイザナキに続き、スサノオを見下した。

「天界でも事が起こっているようだな」

 鬼首の声に短く「ああ」とだけ答えた。相変わらず無愛想な顔に大門を開いてやった。

 スサノオから直接文を受け取った大王は大きく溜息を吐いた。既にヤミーから現世の事は聞いており、勿論イザナキからも話は聞いている。補佐官である馬頭が全て書き出していた。

「全部赤子か子供関係だ」

 閻魔庁のみ裁判をとめており、広い空間には大王と牛頭馬頭だけがいた。頭を抱える大王に二人は何も言えず、静寂だけが流れた。ややあって息を吸い込み重たく吐き出す音が鳴る。

「一先ずヒルコ、もしくはカグツチを探そう。地獄で出来る事はこのぐらいだ」

 凝り固まった腰をあげる。馬頭が見上げて問いかけた。

「裁判はどう致します」

 それに少し考えてから答えた。

「代役を頼む。地獄を全て把握しておるのは儂だけだ」

 乱れ気味の髪を撫で付け、大王は裁判所から出ていった。牛頭馬頭は世話好きの都市王に事情を話し、大王が戻るまでのあいだ、裁判官の代役は都市王が担う事になった。ただ大王の判決でなければ天国は受け付けない、あくまでも代理で仮の裁判だ。

 業火が天高く背伸びをし、針山が血を啜り、鬼の金棒が振り下ろされる。悲鳴と絶叫と怒鳴り声とが混ざり合う地獄を見下し、大王は歩を進めた。

 地獄は下に行くほど激しく、また年数も長くなる。平安時代、いやそれ以前の、下手をすれば黄泉の国から落ち続け呵責を受け続けている亡者もいる。それこそ大王が来る以前の、イザナミが判断し刑に処した者もいる。

 その為ヒルコ、カグツチがいても仕組み的には何もおかしくはない。ただ彼らは神であり、その後に死んでいる母がかなり崩れてきている以上、無間地獄にさえ居ないかも知れない。

「ここに来るのは久しいな」

 地獄の最下層、無間地獄の更に下。五感の全てを奪われ救われる事もない、ただただ無が広がるだけの最悪な空間……そこにまで堕ちる亡者は大王が来てから一人も居ない。だから完全なる無のはず、だった。

 ざっと響き渡る足音が止まり、鋭い全てを見通すような左眼が一点を見つめた。口はへの字だが眼は動揺しているのか揺れている。

「誰だ、お前らは」

 ぼそりと呟かれた声は響く事もなく、ただ空中に浮いた。

 地蔵菩薩から話を聞き、名も無き坊主から話を聞いた両者はまずりんのいる村と、おりの消えた宿屋に再度向かう事になった。坊主は幾ら力があっても人間であり、地蔵菩薩は仏だ。そもそもの基準値が違うので、もしかしたら何か手がかりが見つかるかも知れない。

 然し時間が進んだせいなのか、何も見えず、何も感じる事が出来なかった。眼は閉じている

が表情は苦渋にまみれている、地蔵菩薩は立ち上がると「どうしましょうか」と溜息混じりに呟いた。

 その時だ。地獄、天界、現世の三つに赤子のような大きな泣き声がこだました。三者三様、ばっと顔をあげて軽く見渡した。

「なんだこの声」

 特に現世の声は長く、大きく、まるですぐ近くで聞こえているかのように距離を感じた。反対に地獄と天界に響き渡ったものは、山を越えてやって来たように方向が分からない聞こえ方がした。

 異様な現象だ。少なくとも今回の件に無関係な音ではない。坊主と地蔵菩薩はすぐにその場を離れ、聞こえてきた方角に向かって走り出した。

 然しその声が鳴り響いた時、破魔山の寺に納められている金剛杵がかたかたと震え出した。なかには元々陰の妖怪だった、龍ノ王が封じられている。寺の結界の一部として機能しているそれは、よくおりに懐いていた。

 破魔山の上空に片方の角が折れた、隻眼の黒い龍が出現したのと、坊主と地蔵菩薩の真後ろに巨大な赤子の手が出現したのは、同時だった。

 影がおりた瞬間振り向き、地蔵菩薩が瞬時に結界を張った。火薬が爆発したかのような轟音と共に土埃が舞い上がる。

 晴れたあと、仏による結界術が見事に手を弾いていた。地蔵菩薩の後ろで坊主が懐を探る。

「本体が別におるようですね」

 宙に浮いた一本の巨大な赤子の手、不気味で奇っ怪な様子だ。それに気配もなく、邪気や妖気も感じられない。

「足止めのように感じます。菩薩様」

 手持ちの札は神にも効く代物が幾つかある。然しこれに効くとは到底思えないし、無駄打ちもしたくない。それに場合によっては逆効果になる事もある。迂闊に懐から手を出す事は出来なかった。

「ええ。我々の背後からというのも偶然ではないでしょうな。ならば」

 ざっと地蔵菩薩が右足を前に出した。瞬間強風が吹き、坊主は慌てて錫杖を持つ手を前にして顔を守った。赤子の手は何か驚くように反応した。

 一瞬間の出来事だった。地蔵菩薩が合わせた手の先から閃光が走り、たった数秒で事は終わった。

 突然の閃光に反射的に眼を閉じてしまった坊主は、風も全て治まってから腕と瞼を退けた。

「消えた……」

 先程まであった不気味で奇っ怪な腕はなくなっており、まるで端から存在しなかったかのように丁度蜻蛉が横切った。地蔵菩薩がふっと息を吐いて振り向いた。

「わたくしの力であれば通用するかも知れませぬ。このまま、声のした方に向かいましょう」

 ほぼ同時刻、どこか暗く湿ったところでおりは眼を覚ました。木製の冷たい床に横たわっている状態で、綺麗な着物は一つも汚れておらず、寧ろ薄闇のなかに光って見えた。

「ねえさま......」

 記憶が朧気なのか、くノ一の事を呼んだ。然し返事がない事がきっかけとなり、はっと眼を見開いた。きょろきょろと忙しなく辺りを見渡す。然し手を伸ばした先は闇で覆われており、冷たい空気しか感じ取る事が出来ない。

「とっさま、とっさま?」

 ぺたっと右手を床に這わせ、左腕を精一杯伸ばしながら四つん這いのように移動しはじめた。手を閉じたり開いたり、何かを掴み取ろうとしながら声を震わせる。

「いや......」

 目尻に涙が浮かび、そのうち我慢しきれなくなって零れ落ちる。ぽたりと右の人差し指の先に崩れた。

 その時、誰かの声が聞こえた。はっとして周囲を見渡し、耳に神経を集中させる。

「だれ?」

 左手をおろし、ふらりと立ち上がった。袖が揺れる。足裏に酷く冷たい、鳥肌の立つような感触が伝わってくる。

 おりは僅かに聞こえてくる声を辿って、恐る恐る足を進めた。床の上を滑るように、慎重に歩を進めた。

 瞬間、ふわっと空気が揺れた。髪と袖が舞い上がる。眼を丸くした彼女の足元は宙に浮いており、巨大な赤子の顔と開かれた口があった。

 あっと声を漏らした時には遅く、水を吸って膨れ上がった赤子の顔の中心に吸い込まれていく。

 いやだ、そう手を上に伸ばした。時。

 ぐんっとおりの身体が引っ張られ、その場から消えた。伸ばした腕は龍の四本の指が掴んでおり、彼女はぱあっと笑顔を灯した。

『世話の焼ける』

 般若のように開かれた口から老父のような声が漏れる。龍ノ王は一度地面に近づくと少女を離し、背中に乗るように促した。

 懐いているおりはなんの恐怖心もなく背中に跨り、立派なたてがみを握りしめた。瞬間、龍ノ王が間一髪で身体を逸らした。がちんっと先程まで長い身体があった場所を、大きな口が噛んでいた。

 龍ノ王自身は幻であり実害はないが、おりは別物だ。助けに来た彼はすぐに上昇し、人間の娘が呼吸出来る程度の速度で離れた。何度か背中に乗せて飛び回っていたお陰で、お互いに慣れていた。

 少女がいた場所は妖怪だけが展開出来ると言われている反転結界のなかであり、龍ノ王が突き破ってきた跡があった。そこをすり抜けると一気に青空の最中に出る。じんわりと肌が暖かく感じた。

『坊主も追ってきている。合流する』

 淡々と告げると大きく弧を描いた。然し横から巨大な赤子の手が掴もうとして、軽く指先が身体を掠った。慌てて距離を取り、もう少し上昇する。

『そもそも彼奴、妖怪ではないな』

 見下ろした先には反転結界を破り、這いずり出てくる巨大な赤子の姿があった。しかも水を吸い込んだようにふやけ、膨張している見た目で、何故か口には大人と同じ歯が並んでいた。

 山の上に立ち上がった赤子の手は十分届くところにある。龍ノ王はその場から離れ、逆に高度を落とすと地面のすれすれを飛んだ。

『娘、平気か』

 一応結界でおりの事は包んである。陰から陽に転じた、特に仏具や神具で変わった妖怪の力はそれなりのもので、薄くとも鉄程の強度はある。だが相手はどちらでもない得体の知れない巨大な赤子、龍ノ王は隻眼で注視しながらいざという時の防護方法を考えた。

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