第7話

 現天界を治めるアマテラスは困ったような眉を顰めてうーんと唸っていた。その柿のような太陽のような瞳の先には開かれた文があり、お付きの少女がそれを持ったままアマテラスを見つめていた。

「んー、どうしたらいいのかね……」

 頭を抱える様子に少女がもごもごと口を動かす。何か進言したいが躊躇っているような動かし方だ。だが悩んでいるアマテラスには勿論見つけて貰えない。とうとう身を軽く乗り出して口を開いた。

「姉上」

 然し襖の開ける音と共に弟のツクヨミが現れた。相変わらず女のような見た目に似合わず声は大きい。少女は驚いて振り向いた。

「ツクヨミ、どうしたんだい」

 姉が問うと弟は数歩近づいて手短に答えた。

「また海の方から奴らが上がってきたのです」

 眼を丸くして立ち上がった。菊が散りばめられた打掛の裾が床を滑る。

「スサノオは」

「既に」

 すっかり姉に従うようになったスサノオは、有事の際にいの一番に突撃する兵のかしらとして活躍している。神力で身体能力を向上させ、しかも三種の神器の一つである草薙剣を持つ彼の力は天界一と言っても良い。一先ず安心だと息を吐きつつも、アマテラスは少女を引き連れて部屋を出た。

「スサノオ様!」

「あんだ!」

 南にある大きな浜、そこにはスサノオと彼が率いる兵が得体の知れない何かと戦っていた。突き刺した草薙剣を引き抜くとそいつは断末魔をあげて息絶えた。まるで赤子のような奇っ怪な姿に太い眉毛を吊り上げた。

「これ……」

 兵の足元に転がるそれを見下し、草薙剣を砂浜についてしゃがみ込んだ。篭手を嵌めた右手を伸ばしそれを拾い上げる。

「勾玉?」

 きらきらと太陽光を反射するのは青い色の勾玉だった。丸い頭と曲がった尾を睨みつけるように見ると立ち上がりながら指示を出した。

「他に妙なもんを見つけたら拾え!」

 全体に響き渡る声に兵らの「はっ!」という威勢のいい返事が続いた。まだ海から這い上がってくる存在に剣や刀、槍を振りかざすなか、スサノオは拾い上げた勾玉を再度見つめた。

 黒い布のうえに転がるそれはよく見ると透き通っており、試しに空に向けて見ると実体がない程に透けた。ただの勾玉ではない事は明確だ、然しこれらの存在が物を落としたのは今回が初めて……スサノオは悪人のような顔で眩しそうに海を睨みつけた。

「なに? 今度は輪廻転生の輪がおかしくなった?」

 アマテラスのもとに使用人の一人が告げてくる。はあと大きく溜息を吐いて立ち上がった。

「海の件は任せるよ」

 ツクヨミにそう言い置いて天界から天国に繋がる道を歩いて行った。天国にはアマテラスと地蔵菩薩だけが立ち入る事ができ、あとは天界にも存在する真っ白な獣達と亡者の魂だけだ。

 静かで穏やかで、全てが澄み渡る程に綺麗な世界。だが同時に無機質で淡々とした空気が流れていた。臆病なアマテラスはそれが苦手で、あまり来ようとはしない。然し転生輪廻の輪の管理は彼女の役割だから、嫌でも足を引きずってでも来る必要がある。

「……廻っていない」

 天国の中心部には透明な水があり、そこに輪廻転生の輪を支える桜の大木が宿っている。アマテラスは水の上を歩いて木の近くまで行き、輪を見上げた。とても大きく、車輪のような形をしていて、六道それぞれを表す模様が綺麗に描かれている。

 然し本来ゆっくりと廻転しているそれはぴたりと止まっており、周囲には溢れたのだろう魂がふよふよと浮いていた。幾つかの魂がアマテラスの周りを蝶のように舞い、そのうち真っ白な鹿や狼、鷹や蝶の類が現れて水の外側からじっと見つめてきた。

 アマテラスは袖を軽く押さえ、白い右手を木の幹に這わせた。瞬間、ばちんっと音が鳴り響き、彼女の右腕が大きく払われた。ふわりと重たい打掛と長い黒髪が浮く。眼をかっぴらいて一歩退いた。

「拒絶された……?」

 輪廻転生の輪を見上げる。側面の一部から押し出されたように魂の頭が見え、次は外側から引っ張られるようにしてぽんっと輪から離れた。魂は振り向いて車輪に刻まれた絵を見つめており、輪廻転生の輪自体が魂もアマテラスも何もかもを拒絶している事が判った。

「なんで」

 なにものでもない存在である彼らは時に不具合を起こす。何かが詰まったり、何かに反応したり、異物を感じ取って防御反応を取った結果元に戻らなくなったりする。完全で不完全、そして存在し存在しない代物である彼らの不具合はある意味安定しており、例外というものがない。

 理は理の通りにしか動かず、だからこそ神にも妖怪にも人間にも忖度をしない。然し彼らが全てを拒絶する事は決してない。自分自身の理であるのなら尚更だ。輪廻転生の輪にとっての理は死者の魂を受け入れ廻り続ける事、眼前の彼はそれすらも拒絶してしまっている。

「なにが、なにが起きているの」

 後退る。それでも輪廻転生の輪は一切動かず、永遠とそこに固まっていた。

 村の半分以上を背にするように名も無き坊主は胡座をかいていた。その手前には例の小川が相も変わらず流れており、きらきらと月光を反射していた。

 その時、ざっと土を蹴る音が近づく。坊主は小川の流れを見つめたまま「何か」と低く問いた。

「ぁあ、あの、私も」

 然しきっぱりと断った。

「あなたは村人達の傍にいてください」

 村の巫女の力では足でまといなだけだ、そう言いたいのを飲み込んでそれ以上粘るなと言いたげに息を吐いた。りんは彼の鋭い雰囲気を感じ取ったのか、言葉の塊をごくりと飲み込んだ。

「もし何かあれば、知らせてくれ」

 静かにそれだけを言いおくとまた土を蹴って去っていった。静寂が流れ、どこからか梟の鳴き声が聞こえてくる。

 さらさらと流れていく小川。なんの変哲もない、普通の小さな川だ。刹那。

 津波のように大量の水が襲いかかってきた。村全体を飲み込む程の広さだ。然し身構えていた坊主が錫杖を地面に突き立てた。どんっと見えない透明な壁にぶつかったかのように、勢いのある水が村を避けるようにして二手に別れた。

 ごうごうと地鳴りのような音に背後からざわめきが聞こえてくる。なかには外に出てくる者もおり、音だけでそれを感じ取った彼は錫杖を握りしめたまま舌打ちをかました。その時だ。

 鈍い音が眼前で鳴り、彼の双眸ははち切れんばかりに見開かれた。

「な、」

 一音が息と共に抜けていく。その僅かな間を置いて、鈍い音と柔らかい果実を石に叩きつけたような音が連続で、怒涛の勢いで鳴り響いた。そうして緩く曲がった透明な壁が肉眼で見えるようになった。

「ひ、ひい……!」

 後ろから悲鳴が聞こえる。ざわめきが恐怖に変わる。

 水と共に流れ、壁に押し当てられ、そして果実のように潰れたのは全て産まれて間もない赤子だった。その光景をじっくり見せて満足したのか水は退き、ぼとぼとと赤子だったそれらが落ち始めた。

「な、なにが」

 名も無き坊主は手が強ばって動かす事が出来なかった。剥がれ落ちたところには赤黒い血と黄色がかった白い脂肪がべったりとついており、地獄のような景色が広がっていた。

 やっとこさ錫杖を手に立ち上がった時には、もう殆どの肉が自重で滑り落ちており、簡易結界が解除されてから落ちたのは大量の血液だった。まるで小雨のようにざああっと降り注ぎ、小川の水が濁る。

「幻影じゃねえ。ほんものだ」

 小さく、震えた声で呟く。見開かれた眼に映るそれらには人間の魂があり、赤子故か元の身体にまとわりついていた。坊主はぎゅっと強く拳を握りしめ、水が押し寄せてきた小川のその先を睨みつけた。

「外道が」

 名も無き坊主はりんと共に赤子らを弔ったあと、村全体を強力な結界術で覆う事にした。彼一人では一日が限界だが、ここには力のある巫女がいる。彼女に結界の事を任せ、一旦破魔山の寺に戻った。

 然し。

「おり」

 本堂とは別に住んでいる箇所があり、そこの玄関口を入ってすぐのところに一つ落ちていた。小豆色の不格好なお守りで、彼が少女に持たせているはずのものだ。

 絶対に離すな、絶対に落とすな、そう忠告しているし、お守り自体落ちてもすぐにおりの懐か袖に戻るように仕掛けてある。だが確かにそこにある。不格好で薄汚れている小さなお守りがそこにある。

 名も無き坊主はすぐにシノビの熊吉を呼びつけた。小汚い農夫の格好で風と共に現れると、既に事情を把握しているのか膝をついた状態で答えた。

「城下町にて失踪。くノ一が行方を追ってはいますが目撃情報もありません、恐らくあやかしの仕業でしょう」

 それにぐっと眉根を寄せた。

「恐らくじゃねえ。確実にだ。しかも俺のお守りをわざわざ……」

 ただの妖怪の仕業ではない。鬼か、下手をすれば、信仰心を失って陰に転じた神によるものかも知れない。元々陰だった龍ノ王が長いこと封印され陽に転じたように、土地神や陰に近い神は人々の信仰心を失うと簡単に転げ落ちる。

 だとすれば幾ら彼でも限度がある。然しこれぐらいの事でわざわざ地蔵菩薩、ひいては閻魔大王に救いを求めるものではない……坊主は熊吉に対し「くノ一と合流しろ」と言い、お守りを振り返った。

 最初に渡した時、おりは嬉しそうな顔をした。それが坊主から少女に対する初めての贈り物だったからだろう。彼の忠告を聞かずとも、少女は「大事にします」と独特な訛りで言った。

 腕を伸ばし、小豆色のそれを拾い上げた。

「もう一回、渡してやる」

 今度はおりの好きな色で作り直してみよう、そう思いつつ懐にお守りをしまい込んだ。

「……痕跡がない」

 おりが最後にいた場所、宿屋の奥の部屋で名も無き坊主は腰をあげた。彼の言葉にくノ一と熊吉は驚いたような反応を見せた。幾ら神でもあとというのは必ずある、それこそ人間を狙うようになった神ならば邪気の香りが残るはずだ。鬼や妖狐よりもそういう神の方が邪気は強い。

 然し彼程の僧侶でも邪気の一欠片、気配の一粒さえ捉える事ができない……これは前例のない事であり、彼自身もどうすれはいいのか分からないでいた。眉根を寄せて一点を凝視する背中に熊吉が提案する。

「な、なあ、地蔵菩薩様を頼るってのは、」

 熊吉は老けて見えるが坊主と同い年であり、旧知の仲でもある。仕事の内容以外は砕けた口調だ。そのお調子者らしい声の感じに坊主はすぐには答えなかった。

 だがこれは自分一人でどうにかなる規模ではない。それにこの世はあの世と繋がっており、六道と橋で繋がっている天界、仏界も同じように影響を受ける。坊主は踵を返すと二人を追い越しながら怒鳴るように言いつけた。

「都に文を飛ばせ。俺は地蔵菩薩様を探しに地獄に行ってくる」

 忍びである二人は「はっ」と声を揃えたあと、霧のようにその場から消えて居なくなった。彼らが各自の方法で文を仕上げているあいだ、坊主は人気のない林のなかに行くと懐から数珠を取り出した。

 左手に錫杖を持ったまま、軽く眼を伏せる。そうして小さく唱えはじめる。ざわざわと周囲が騒がしくなり、冷たい風が肌を撫でていく。

 徐々に顔が険しくなっていき、冷や汗が流れ落ちた。瞬間坊主は勢いよく右手を振り上げた、と同時に足元の地面が開眼したように割れ、地獄の業火が顔を見せた。

 そのあいだに堕ちるように、炎に引きずり込まれるようにして坊主の身体は吸い込まれていった。そうして丸くした頭のてっぺんまで飲み込まれた時、ぱんっと手を鳴らしたように一瞬で閉じた。風は止み、ざわめきは治まっていた。

 洞窟のなかのような薄暗い道に着地する。しゃりんっと鳴った錫杖の音が反響して大きく聞こえる程に広く、同時に不気味に思えた。

 所々には消える事のない篝火があり、ほんのりとごつごつとした岩肌を照らしている。暫く歩いたところですっと足を止めた。

「人間、何用で来た」

 そこには首を痛める程に大きな鬼の首が二つ、更に巨大な、道を塞ぐように構えられた観音開きの扉の両端に鎮座していた。片方は口と眼を見開いた姿で、もう片方はどちらも閉じきっていた。

 然し坊主は一切怯む事なく要件を素直に伝えた。

「地蔵菩薩様を探しに来た」

 すぐには答えなかったが、阿吽の鬼首の阿は金の眼玉を寄越して言った。

「地蔵菩薩様は大王から事を預かり現世へ向かった。ここにはおらん」

 全身が響くようなおどろおどろしい低音に坊主は顔をあげた。上から睨みつける金の眼に「大王から?」と聞き返した。大王から事を預かる、預かったというのは地獄の妖怪達が使う言い回しであり、何か解決すべき自体が起こった証拠である。

「……わざわざ地蔵菩薩様を探しに来たという事は、人間、貴様の方でも何かあったようだな」

 阿の言葉に坊主は肯いた。

「俺の娘が得体の知れん奴に攫われた。邪気も妖気も気配も、何もかも残さず綺麗さっぱり娘だけを攫って行った」

 そう言って思い出したように訂正した。懐を探る。

「いや、わざわざ持たせておいたお守りを俺の寺まで届けに来た」

 阿吽の鬼首の表情がどちらも変わる。特に吽の方はうっすらと眼を開けた。名も無き坊主の法力がどれ程のものなのか理解しているし、取り出したお守りにどれだけの力が込められているかも見ただけで判断出来た。

「大王に事の次第を話せ」

 そう言うと二体は地獄の大門の守りを解いた。すると勝手に地響きを経てて開く。人一人が十分通れるだけの隙間が出来ると止まった。

 坊主は懐に戻しながら歩を進め、地獄の地に生きたまま踏み出した。彼が通り過ぎたあと大門は元の通りに戻り、また阿吽の鬼首の守りによってかたく施錠された。

 地獄の大門は黄泉の国の際にあった大門であり、裁判所から見て東側にある。また道が嘗てのままであり、辿り着くのは閻魔庁、先にヤミーのいる部屋に伺いに行くのが一種の礼儀となっている。

 名も無き坊主の訪問に飽き性であるヤミーは喜んで迎え入れた。人間からすれば大柄な彼でもヤミーや大王を前にすると小さく見える。にこにこと機嫌の良さそうな彼女に多少申し訳なく思いながらも要件を伝えた。

「ふうん。そりゃあおかしな事だね。君の力なら邪神だろうが悪神だろうが、大抵の者は感知出来るはず」

 常に微笑んでいるような妖艶な表情のヤミーはそう言ったあと、「実は」と地獄で起こった事件も伝えた。それが阿吽の鬼首の言っていた事の内容で、地蔵菩薩は「親玉」を探しに現世へ行ったのだと締めくくった。

 どちらの事件にも幼い子か赤子が関わっている。ただ逆に言えばそれぐらいしか関連性はないし、地獄の方は前例のあるものだ。たまたまだろうかと坊主は思い、ヤミーから大王に伝えて貰うように頭を下げた。

 目的は地蔵菩薩様、地獄に居ないのならば現世に戻って合図を送った方がいい。そう立ち上がって背中を向けた時、「待って」と声がかかった。振り向くとヤミーの赤黒い双眸と合う。

「事が起きる前、ここに産まれて間もない赤子がいた。けれどとある老婆の亡者が唄った子守唄に反応した。赤子を連れてきたのは西の地方の老人で、亡者の子守唄は中部地方だけに伝わるもの。西で産まれて中部に渡ったとしても赤子は一ヶ月前後。この違和感、君なら解る」

 すっと細められた眼に軽く眉根を寄せ、踵を返した。

「何かあればまた」

 強ばった声で障子を開け、急いだ様子でその場を後にした。

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