第3話

 天界、高天原にある屋敷で一人の青年が地団駄を踏んでいた。

「なんでだ!」

 赤い瞳と、若い頃のイザナキを彷彿とさせる剛毛。そして何より彼、スサノオはかなりの大男で生まれつき力もあった。どんっと床を打ち鳴らすとどこからか軋む音が聞こえてくる。

 イザナキは座ったまま溜息を吐いた。すっかり覇気がなくなり、綺麗に一つの団子に纏めた長髪には幾らか白髪があった。

「何度も言ってるがな、お前の母親はもうこの世の神ではない。会ったら何をされるかも分からん」

 かぶりを振って否定する。それになにより会いたいのは自分自身だ。幾ら息子でも先を越される訳にはいかない。

 スサノオはぎゅっと拳を握りしめた。

「アンタが悪い」

 それにぴくりと眉が動いた。

「なに?」

 イザナキが低く問い返すとスサノオは睨みつけた。その赤い瞳には怒りと共に幼い色も灯っていた。

「アンタが強い酒を飲むから、」

 その時、ばっと立ち上がったイザナキの左手が振りかぶった。甲高く破裂するような音が響く。スサノオの顔は左に傾き、軽くよろけた。

 沈黙が流れる。青年は平手打ちをされた側の頬に指をやって、困惑しているような眼で父を見た。

「分かったような口をききやがって」

 瞬間、ぞわっと怖気が走る。父の双眸にはカグツチを殺した時のような鋭い眼光があった。見開かれたそれにスサノオは後退り、ややあって逃げるように足音煩く去って行った。

 イザナキは鼻息荒く怒りを吐き出し、左手をおろした。じんじんと掌が脈打つのを感じる。

「雀の」

 低く呼びつけるとどこからともなく雀の化身が飛んできた。人に化けると頭を垂れる。

「あの大うつけ者を追放しろ」

 それに顔をあげる。

「宜しいのですか」

 イザナキは振り返らずに言い放った。

「構わん。あれを俺の息子だと思いたくない」

 たんの絡んだ声に雀の化身は一つおいて頭を下げ、すぐにスサノオを高天原から追放した。

 然し彼は全く動じず、寧ろ父の警告も聞かずに母、イザナミのいる黄泉の国がどこにあるかを訊いてまわった。無論三貴子の一人という事は高天原以外の者も知っている。そのうち噂が広まり、黄泉の国にまで届いた。

「あたしの子……?」

 イザナミは眉根を寄せた。いやとかぶりを振る。

「イザナキがここを去ってからの子だよ。あたしは関係ない」

 然し噂を流しに来た鬼が「三人共身体に模様がある」と言った。その時ふっと顔をあげる。つり上がった右眼は見開かれていた。

「それは……あたしも関わってなきゃ表れない……」

 確かに自身の血も彼らに混ざっているのだろう。だがすぐには信じられず、イザナミは鬼に向かって言いつけた。

「あたしはその子を知らない。黄泉の国の大門を封鎖しておくれ」

 そそくさと去っていく様子にちりっと雷が鳴った。

「もう母親じゃない」

 言い聞かせるように呟くと雷の音はそれ以降暫く鳴らなかった。

 スサノオは黄泉の国の場所を突き止めると一先ず姉であるアマテラスに会いに行った。内気で気弱な性格で、幼い頃から転ぶとすぐに泣くような姉だった。今頃何をしているのだろうかと歩を進めた。

 アマテラスの屋敷には丁度二人のあいだにいるツクヨミがいた。太陽神として産まれた彼女は将来天界を治める必要がある、それの支えとして既に弟である彼が姉の屋敷に住んでいる。

「姉上、またいじけておいでですか……」

 屋敷の隅の方で、長い黒髪を下の方で結んだ若い女性が蹲っていた。その丸い背中に溜息を吐く。

「だって、糞を投げられたのだよ……?」

 涙を浮かべながら振り向く。橙色の綺麗な瞳と弱気な表情に、弟は空色の水のような瞳で軽く睨みつけた。女のように綺麗な顔立ちで、イザナミにも見えるし髭を剃ったイザナキにも見えた。

「そんなもの、堂々とした態度で睨みつければ良いのです。貴方がいちいちわーわー怯えるからガキ共は調子に乗るのですよ」

 見た目の優雅さに反して厳しく口の悪い台詞に姉はきゅっと口をへの字にした。それに呆れた溜息を吐き出して腰から手を離した。

「ともかく、戻りましょう。まだ仕事が残っております」

 差し出された手を一瞥し小さく肯いた。然しアマテラスが仕事に疲れて座ったまま船を漕いでいるとどたどたと足音が聞こえてきた。

「アマテラス様」

 ぱちっと身体が反応し、軽く見渡してから咳払いをした。

「どうぞ」

 使用人の一人が襖を軽く開け、頭を下げた。

「スサノオ様が、」

 その名前を聞いた瞬間、彼女の身体が固まった。一番下の弟が屋敷に来たという報告に対し、なんとか「そう」と震えた声で返した。使用人はアマテラスの様子を見つめ、どうするかを問う。

「追い返しても構わないでしょう。イザナキ様によって追放されている身、本来であればアマテラス様の屋敷に来る事も不可能でございます」

 淡々とした声に視線を手元に戻し、少し考えた。あの乱暴で常に自分を馬鹿にしてきた弟が父に追放されたあと、姉であるこちらの屋敷にまで来た……アマテラスは嫌な予感がして顔をあげた。

「太刀を一振、用意してくれると助かる」

 覚悟を決めたような眼つきに使用人は軽く驚いたあと、小さく返してさっと身を退いた。

「私を人質にでも取れば父は言うことを聞く……」

 幼い頃から自分を睨みつけてきたような弟だ、姉であるアマテラスにスサノオを信じようという気持ちは一切なかった。そのうち先程の使用人が、イザナキがアマテラスの為に打たせた太刀を持ってやってきた。

 豪華絢爛な装飾と共にその切れ味は天界一を誇る。自身も剣を使っていたイザナキだからこその一作だ。捧げられた刀身を掴みあげた。

「ツクヨミには後ろで控えておくよう、伝えておいてくれると助かるよ」

 アマテラスの常に一歩退いた言い回しに頭をさげ、立ち上がりながら離れた。それに太刀を左手に持ったまま廊下に踏み出し、スサノオが通された客間へ向かった。

 こじんまりとした部屋のなかで一息吐き、そのまま大の字に寝転がった。然しここ数日歩き回っているせいで衣服は汚れており、床に乾いた泥の欠片がほろほろと落ちた。

 静かで空気のいい部屋に少しうとうととする。ぼんやりとした眼つきで天井を見つめていた。然しふっと見覚えのある姿と共に太刀の柄が見えた。

 驚いてがばっと起き上がって振り返る。アマテラスの気弱な顔を見上げた。

「姉貴……」

 なぜ太刀を片手に現れたのか、理解が追いつかない様子で呟いた。然しアマテラスは警戒の眼差しで右手を柄にかけた。かちゃりと僅かに鳴る。

「大人しく帰ってくれると助かるよ」

 一貫して遠慮した態度を取る。スサノオは怪訝な表情を浮かべた。

「姉貴、俺はただ、」

「言い訳は聞きたくない」

 その時、普段困っているような眉がくっと下がった。眼に敵意の色が浮かぶ。スサノオは慌てて正座に近い座り方になり、かぶりを振った。

「何も襲いに来たわけじゃねえ」

 姉が自身を警戒しているのは昔から知っている事、眼を見たまますっと後ろにさがった。アマテラスは片眉を上げて、柄を握っていた指を緩めた。

「ならなぜここに」

 訝しげに問う。スサノオは素直に答えた。

「黄泉の国に行く前に姉貴の顔を拝んでおきたくて」

 黄泉の国という言葉に柄から完全に手を離した。

「まさか、母上に会いに行こうと考えてるのかい……?」

 姉の問いに肯いた。何も分かっていない弟に対し、アマテラスは数歩近づいてから片膝をついた。重たい太刀の切っ先が床を鳴らす。

「もうあの人は私達とは違うのだよ。それに黄泉の国に新しく大門が出来て、今それは閉鎖中だ。お前が行っても開けてくれやしない」

 相変わらず困ったような表情にスサノオは眉根を寄せた。元々の眼つきが悪いせいで、アマテラスは睨まれてもいないのにびくっと反応した。

「息子なのにか」

 眼前の弟はこちらに危害を加える気がない、その事を復唱しながら肯いた。

「父上でも無理だったのだよ。それに母上は私達の事を自分の子だとは思っていない」

 スサノオはまだ納得出来ないようで、ばっと袖を捲り上げた。そこには生前のイザナミにもあった波のような模様があった。

「ならこいつはなんなんだ。親父一人ならこの模様は出てこねえ」

 アマテラスは弟の逞しい腕を走る模様を見てから、軽く説明をした。あくまでも憶測だが信ぴょう性は高い。

「母上が亡くなって黄泉の国の食物を口にしてから、母上の神力が辺りに漏れ出ていたらしい。それがやってきた父上に纏わりついて、汚れを洗う際に母上の神力が私達を形作った⋯⋯あくまでも当時治めていらっしゃった神による話だから、本当かどうかは誰にも分からないけれどね」

 それに自身の腕の模様を見下げてから、諦めたようにさげた。自然と袖が覆い隠す。

「……でも俺は母さんと会いたい」

 少し顔をあげた。アマテラスは頑固な弟に何か言おうとしたが口を閉じた。ややあって溜息を吐いて立ち上がる。

「言える事は言ったよ。後をどうするかはお前の勝手」

 どうせ姉の私が何を言ったところで聞きやしない……そう弟を見つめ、立ち去りながら言いおいた。

「黄泉の国は遠いから、ここで暫く休むのがいいよ。私が許可する。父上には言わないからね」

 太刀の飾りの揺れる音と控えめな足音と共に部屋を出る。スサノオは慌てて礼を言ったが、ぴしゃりと閉められた。だが姉にいいと言われたのは初めてだ、彼は嬉しさで浮き足立った。「あの馬鹿弟にそんな許可を出して、大丈夫なんですか」

 見た目に似合わず声の大きいツクヨミが姉を責める。うーんと渋い顔をして上体を反らせた。

「そうは言っても、一応私の弟だし……それに純粋に母に会いたいだけのようだし、流石にほっぽりだすわけにもいかないよ。着物も汚れきっていたし少し顔色も悪く見えた」

 アマテラスの発言にツクヨミは溜息を吐いた。

「奴は甘やかすと図に乗る。絶対に何かやらかしますよ。いいのですか」

 冷たい眼つきに視線を逸らし軽く頬を掻いた。

「いいよ。お前もいるし」

 然しアマテラスが思う以上に、彼は粗暴で遠慮を知らない性格をしていた。

 ツクヨミが二日間程屋敷を空けているあいだにそれは起こった。兄であり腕力も強い彼がいないと聞くや否や、スサノオは横暴な態度を取り始めた。

 まずは朝飯の量が少ないと文句を言い、次は着物の質が悪いと小言を言った。挙句の果てには猫の化身を襲いかけ、アマテラスの元に屋敷の者らから苦情が殺到した。これを受け慌ててスサノオが寝泊まりしている部屋に入った。

「お前さん、ちょっと、」

 襖を開けた先で彼は裸のまま太刀の手入れをしていた。スサノオは「おう」と普通に返事をしたが、アマテラスは理解が追いつかない表情で問いかけた。

「裸なのはともかく……どうしてその太刀を?」

 彼が持っているのは父、イザナキの屋敷にあったもの。すっと切っ先を上に向けて弟は笑った。

「いいだろ。出ていく前に持っていった」

 然しイザナキが子らに与えたのはアマテラスの持っている太刀のみだ。それ以外は父の所有物……。

「お、お前……なんてことを、」

 今のイザナキは歳を取ったのもあるが迫力のない見た目をしている。それに何を考えているのか分かりづらい性格で、ずっと仕えている雀の化身でさえ分かっていない。

 だが嘗ては国産みの神として活躍し、その腕っ節も大層なものだった。父イザナキは今でも一番怒らせてはならない神として名高い。

 その彼から太刀を持ち去った。しかも悪気はないようで、単に家の物を一つ持って行ったに過ぎない。

 スサノオは太刀の刃を見つめながら言った。

「ああ姉貴、あの猫の化身を俺にくれ。あれはいい女だ。俺のでも耐えられるだろ」

 がたんっと襖が鳴る。

「姉貴?」

 顔をあげるとアマテラスがどたどたと走り去っていくのが見えた。だが何も分かっていない彼は首を傾げるだけだった。

 廊下を走り、そのまま屋敷の裏にある大きな空洞の前まで行った。切れる息に眉根を寄せる。胸に手を当てた。

「こわい」

 弟が何を考えているのか、何を思っているのか、そして何も恐れないその態度にアマテラスは恐怖を抱いた。

 それにもし父が太刀の存在に気がついたら……自身がスサノオを屋敷に泊まらせているのを知られたら……きっと怒りの矛先は自分にも向く事だろう。アマテラスはずるずると引きずるように歩き、ぽっかりとあいた空間のなかに入った。

 するとがたがたと大きな岩が揺れ、鈍い音をたてながら入口を塞ぎ始めた。陽の光がゆっくりと消えていくなか、彼女は自身の腕を抱えた。

「自分の弟なのに……理解ができない……」

 このまま誰にも見つからずに隠れていたい、その気持ちに応えたのか岩はぴったりと入口を塞いでしまった。然し彼女は残念な事に自然の神、天界、現世、黄泉の国を繋ぐ太陽はみるみるうちに曇天に隠れた。

 強い風が吹き始め、凍えるような寒さが肌を刺激する。そのうちごろごろと雷の音が鳴り響き、一瞬にして雨が降り始めた。

 無論、その急激な変化に気がついたのはツクヨミだけでなく、イザナキとイザナミもだった。

「アマテラス?」

 和歌に頭を捻っていたイザナキが突然立ち上がり、外を見た。相手をしていた豊穣の神が続いて立ち上がる。

「これは……大神様に何かあったのやも知れませぬ」

 その言葉を聞くや否や、イザナキは踵を返した。

「どこへ行かれる」

「娘の屋敷だ」

 どすどすと廊下に出ていく様子にもう一度外を見た。風は荒れ、雨はこれでもかと降り注ぎ、雷の光が辺りを照らした。

「これは……一体何が起きているんだい」

 黄泉の国でも全く同じ事が起きていた。突然の雷雨と暴風に亡者達は怯え、やっと数を増やしはじめた陽の妖怪らも慌てふためいていた。

 イザナミはアマテラスという娘が太陽神である事を知っている。自分の子だとはまだ認識出来ない、然しざわざわと心の底がざわめいて息が詰まるような気持ちになった。

「アマテラス……」

 名前を呼ぶ姿は生前の母親の顔と全く同じだった。もうここから出られない以上、彼女を想う事しか出来ない。イザナミは天を仰いだ。

 ツクヨミは笠を被り屋敷に向かって走り続けた。着物は濡れ、足元は水分を含んだ土が跳ねて汚れた。

「姉上」

 切れる息の隙間から漏らす。アマテラスを心配すると同時にあの愚弟に苛立ちが募っていく。

「何をやりやがった……!」

 清流のように艶やかな長髪は雨に濡れ、あちこちにへばりついた。顔にかかっても気にもとめない。ただひたすらに走って屋敷まで帰ると土足のまま上がった。

「ツクヨミ様!」

 使用人が何名か駆け寄ってくる。土下座をする勢いで頭をさげた。

「アマテラス様がお隠れに!」

 それに問いかけた。ぽたぽたと笠や着物の先から水が滴り床を濡らしていく。

「どこだ」

 使用人の一人が屋敷の奥を指した。

「裏にあります空洞に。近くにあった岩がアマテラス様の神力に反応して、入口を封じてしまったのです」

 自然とは思えない程に綺麗にぽっかりと空いた空洞を思い出し、ツクヨミはそのまま踵を返した。また雷雨と暴風のなかに躍り出る。屋敷をぐるりと巡るようにして奥へと進んだ。

 そこには他の自然の神が何人か集まっており、必死に岩の先へと話しかけていた。ツクヨミが近づくと神々は振り向き、すっとさがった。

 岩の前まで来る。ぴったりとあの空洞を塞いでいた。

「姉上。聞こえますか。ツクヨミでございます。ただいま帰りました」

 そっと岩肌に触れた。アマテラスの神力が働いているのか否か、太陽光に照らされたように暖かく感じた。

「姉上。スサノオが何かやらかしたのでしょう。姉上が怯える必要はございません。毅然としていればいいのです」

 反応はない。だが耳を澄ますとすすり泣く声が僅かに聞こえてくる。

「お願いでございます。このままでは天界も現世も、何もかも水に流れてしまう」

 それにアマテラスと対を成すツクヨミの神力も釣られて弱まってしまう。笠を解き、額をつけた。

「姉上」

 ざーざーと吹き荒ぶなか、ツクヨミは懇願するように呼んだ。然し彼女は耳を塞いでいるのか全く岩が動く様子はなかった。

 語りかけても無駄だ。そう数歩退いたところでまた新たに神が到着した。どんなに神が増えてもアマテラスの神力の方が強い。無理矢理岩を動かす事は出来なかった。

 濡れ細り、各々の神力で体温を保つのがやっとの状態で、ふと一人の女神が何かを思いついた。

「笑わせるのはどうでしょう。大神様は楽しい事が大のお好き、私は芸能の神ですからきっと皆様を笑わせ大神様の気を引けるでしょう」

 アメノウズメと名乗った女神の提案にそれぞれ肯き、ツクヨミも賛成した。

 雷が鳴り響き、明滅し、風が吹き荒れ雨粒は矢のように叩きつけられる。そんな悲惨な状況のなか、アメノウズメは下駄を履いたまま桶の上に立ち、着物の上を脱いだ。

 乳房をさらけ出した状態で足を踏んで一定の音を奏でた。それに釣られて徐々に手拍子が広まっていく。

 長い髪を自在に使い、自身の笑いの神力で腹に顔のようなものを描いてはおちゃらけた動きを披露した。雷の轟音にも負けぬ発声と桶を打ち鳴らす音、そして豪快で少々下品な踊りにどんどんと笑い声が重なっていく。

 そのうち雷雨をものともしない大爆笑が沸き起こった。どんどんと盛り上がり、アメノウズメは更に神力を使って笑いの渦を巻き起こした。

 するとごごっと岩の動く音がした。ふっと踊りの動きのまま振り向き、アメノウズメが手を伸ばした。

 そこには泣き腫らした顔を覗かせるアマテラスの姿があった。神々は気が付き、ツクヨミが立ち上がるや否や駆け寄った。

「姉上」

 手を伸ばし頬に触れた。その濡れた姿と冷えた手にアマテラスは眼を丸くし、岩は更に転がった。

「ツクヨミ。お前……」

 背の高い弟の頭を撫で、ふっと視線を後ろにやった。誰も彼も濡れて、空は暗雲に彩られている。アマテラスははっと息を吸い込んだ。

「私は、」

 然しツクヨミが抱きしめてかぶりを振った。

「責任はスサノオにとらせましょう」

 月の化身である彼の身体は夜風のように冷たく、同時に落ち着く気配を纏っていた。それがアマテラスの纏う暖かい気配と混ざり、徐々に心が落ち着いて行った。

 太陽神が姿を現したお陰で雷雨はぴたりと止み、風は落ち着きを取り戻した。雲はゆっくりと押し流され、陽の光が差し込み始める。

 みな暖かい太陽光に笑顔を向け、ほっと安堵の溜息を吐いた。それにアマテラスは少し涙を零し、ツクヨミがそれを拭った。

 遅れてイザナキが屋敷に到着し、アマテラスの事を強い力で抱きしめた。痛いと呟く娘を無視して何が起こったのかを問いかけた。アマテラスは素直に全てを話したが、スサノオが母に会いに行こうとしている事だけは話さなかった。

「糞馬鹿野郎が! ちゃっかりと俺の太刀も盗み出しやがって!」

 屋敷に響き渡る怒号。すっかり濡れて凍えきったツクヨミを自身の手で暖めながら身震いをした。

「追放は避けられないか……」

 イザナキの怒りを二度も食らったのだ、ただで済む訳がない。アマテラスの言葉にツクヨミはどうでもいいと言いたげに欠伸を漏らした。

 スサノオは完全に追放処分を受けた。だがイザナキは一つ条件を課した。それはヤマタノオロチを討伐する事だ。

 高天原からは離れているが、山以上の巨体を持つそいつは年々力を増しているらしく被害も出始めている。放っておけば何れこちらにも向かってくるだろうし、幾らアマテラスの神力でもすぐには勝てないだろう。

 スサノオの神力は力そのものを身体能力に変化出来る、それに剣術は父をも超える程だ。たった一人でも討伐出来る可能性はあるし、仮にヤマタノオロチに負けて食われたとしてもそれ相応の刑罰として終わる。イザナキからすれば都合のいい存在でしかない。

「もし討伐を成し遂げた場合は、」

 アマテラスが問うと気だるげに答えた。

「高天原に帰ってきてもいい。だが俺のもとには置かん」

 ふあっと欠伸を漏らす。つい先程まであんなに激昂していたのに、今は最初から興味がないように頬杖をついた。

「俺は来年の春、桜がまた咲き出す頃に隠居になる。その後はお前に任せるから、スサノオはお前の駒として使えばいい」

 全く聞いていない話に驚き、身を乗り出した。とんっと床に手を置く。

「そ、そんな、私はまだ、」

 八の字の眉を更に顰める娘にイザナキは溜息を吐いた。ふっと視線をやる。向けられた双眸には若い頃の眼光があった。

「いい加減自覚しろ。お前はもう立派な太陽神だ。今日の騒動で実感しただろう」

 アマテラスはその眼に言葉を失い、俯いた。それからイザナキの眼は父のものに戻り、よっこらせと立ち上がりながら言った。

「まあ不安だろうから暫くは俺が後ろで支えてやる。それに雀の化身やその他古参の神々も多くいる。別にお前一人で天界を治めるわけじゃねえんだ。そんなに気負うな」

 腕を袖から外し懐で軽く組んだ。父が襖に向かう前に立ち上がり、そっと手を添えた。軽く引く。

「スサノオは馬鹿だが素直だ。戻ってきたら存分に駒として使ってやれ。なに、お前の傍にはツクヨミがいるから大丈夫だろ」

 ふっと娘に笑いかける。アマテラスはそれを見上げてから頭をさげた。

 スサノオが太刀を一振持ったままヤマタノオロチのいる地域へ到着した頃、天界と現世では桜の花が開花していた。イザナキは宣言通り天界の最高神から退き、新たに太陽神、アマテラスが腰をおろした。

 その日は雲一つない晴天となり、また夜も綺麗な満月が浮かび上がった。

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