第2話
清い水の上に二人の影があった。一人は男神イザナキ。もう一人は女神イザナミ。着物の上をはだけたその身体には波のような不思議な模様があった。
イザナミは黒く長い髪をふわりと浮かせ、水の上を舞った。くるりと回ってイザナキのもとにゆく。
そうして女神の舞いに応えるようにして、ひとつ束にした剛毛が揺れる程にイザナキも身体を捻った。二人分の波紋が広がりぶつかりあった。
「という夢を見たんだよ。だから最初は、あたしから誘わせてくれ」
二人の屋敷でイザナミは笑った。その麗しい口元から発せられた言葉にイザナキは納得がいかない顔を見せた。
「だが普通は男から、」
「そんなの関係がない。夢で見たんだよ」
ぐいぐいと圧してくる彼女にややあって溜息を吐いた。
「貴女がそう言うんなら」
完全に納得した訳ではないが、夢というのは大事な要素だ。皮膚の上を走る幾つもの模様をなぞるように、イザナミは積極的に唇を這わせた。
子を成したのはそれから幾らか経った頃で、寒い冬の頃だった。腹はだんだんと大きくなっていき、体力のある彼女でもふっと一息吐く事が多くあった。
屋敷から外を見る。まだ海の方が広く、どこまでも水の地面が続いていた。腹を擦りながら独り言ちる。
「お前はどこの国になるんだろうね」
国産みを任された二人にとって、今の腹の子は初めての子だった。第一子となる腹の子はどこを形作るのだろうかとイザナミは愛おしく撫でた。
然し、産まれた子はどこの国にもなりはしなかった。形がいびつで、力のない子だった。
「申し訳ないけれど、お前はここにおいておけないね」
「……やはりこういうのは男から誘うべきだ」
簡易的な小さな舟が赤子、ヒルコを連れて流れてゆく。どこに辿り着くかは不明だが、力のない子を育てるよりかは幾分かマシだ。
イザナキの言葉に立ち上がり、肩を落とした。
「すまないね。あたしが変な夢を見たばっかりに」
だが夢は何かの予兆であったり思し召しだったりする。無下にできない代物だ。イザナキは彼女を慰め、次は上手くいく事を願った。
そうして彼から誘い誘導して産まれた子らは丈夫に育ち、日出ずる国を形作るまでになった。愛おしい子らは立派に国を治め、新たな神々も各地に産まれた。
二人は役目を果たしたものの、もう一度床を同じにした。互いの模様が蠢き形を変える。イザナミの灰色の瞳とイザナキの黒色の瞳が交差した。
一人、赤子を身ごもった。緩く重ねた衣服と何度産んでも毎度愛おしく撫でる手が美しく見えた。イザナキは彼女が振り向いた時の黒髪の艶やかさと、強気な目元が緩むのが好きでよく後ろから声をかけた。
「っ……イザナキ、まだ戻ってこないのかい」
痛みに顔を歪めて屋敷の柱を掴んだ。立ち上がって足を踏みしめる。
「こんなに、痛いもんだったかね」
何度も経験した躍動するような痛み。だが今回はやけに酷く、熱いと感じる程だった。
「イザナミ様! ご無理をなさらず……」
ぱたぱたと雀の化身が駆けてきた。屋敷の一切合切を仕切り、二人を見守り続けている使用人のかしらとも言える神だ。イザナミは彼女が出した腕に手をやった。
その時、ずきんっと一際大きく痛みが走って、声を出しながらその場に崩れ落ちた。慌てて手を出すがどんっと木の床が揺れる。
「たいへん……!」
脂汗が滲み、みるみるうちに顔色が悪くなってゆく。すぐにほかの者を呼んでくると言って、足音煩く走り出すと雀の姿になって素早く飛んでいった。
イザナミは冷たい床のうえに横になったまま蹲った。まるで胎内の赤子のような姿で腹を抱える。
「あつい、熱い……!」
腹の中が熱い。焼けるように熱い。
「イザナキ……」
片目を開けて手を伸ばす。彼女の持つ神力、時を戻す力が強い意思で発動された。その結果あの雀がほかを呼びに行く時間が増え、イザナミとその胎内だけは時を重ねた。
彼女の絶叫が屋敷中に、いや屋敷の外にまで轟いた。瞬間、イザナミの寝床付近から火柱があがり、屋根を突き抜けて天まで届いた。
「なんだ、あれ」
ばさりと手から落ちる。イザナキの双眸には自分達の屋敷から昇る強烈な火柱が映った。
どきりと嫌な予感がして走り出す。商売をしようと話しかけてきた商人を突き飛ばし、一目散に坂を駆け下りて行った。そうして彼がいた場所には、イザナミに渡すつもりだった質のいい白い布が暫く放置された。
冷たい床は黒く焦げ、そこを中心に空まで穴が開いていた。イザナキは膝から崩れ落ち、恐る恐る震える手を近づけた。
「イザナミ、おまえ、」
見開いた双眸から涙が零れ、焦げた床に染みた。後ろでは屋敷の使用人達がわんわんと泣きじゃくっており、雀の化身はただひたすらに頭を下げて叫んでいた。
「そんな、」
イザナミの身体から、模様は消えていた。そして開かれた股のあいだからは大量の血と羊水とが流れ出ており、陰部を中心に酷く焼け爛れていた。
伸ばしていた手がぎゅっと拳に変わる。イザナキは歯を食いしばり、どんっと床を打ち鳴らした。
「火の神か」
その声は低く、ぞわっとする程に怒りが篭っていた。ゆらりと立ち上がる。イザナキは彼女の前で問いかけた。
「赤子はどこだ」
我々に問われているとは最初は思えなかったのだろう、そのぐらい彼の声には覇気があった。
「赤子はどこだ」
一際大きく響いて、びくりと使用人達の身体が震えた。雀の化身が頭をさげたまま固まり、ややあって顔をあげた。
「それが、わたくし達にも……」
イザナキは振り向かず顔をあげた。天まで突き抜けた穴を見上げる。
「力を奪ったのか。しかもイザナミに少しだけ与えた俺の力を」
握りしめた拳は震えていた。空気が怒気を孕み周囲に漏れていく。そのうち嵐が来る事だろう。
「剣を用意しろ」
イザナキは冷たく言いつけると彼女の身体を抱えあげた。少し見つめる素振りをしてから床を打ち鳴らしながら去っていった。
イザナミの身体は天へ行き、そこから黄泉の国へと消えていった。亡き妻に一粒涙を流した。
全身に波のような模様がある男児が息を切らして走り続けていた。それはどんどんと成長していき、黒髪だったのが根元から火のような明るい赤色に変わっていった。
身体の一部からは火が漏れ、口からは煙のようなものが出た。男児はいい頃合いの青年の姿になって一度立ち止まった。
膝に手をついて呼吸を整える。一面に広がる草花の中心で髪は燃え盛るように揺らめいた。
「おい」
低く蹴り出すような声にびくりと振り向いた。そこには髭をたくわえた男が剣を片手にこちらを見ていた。青年はじりっと後退りをする。
「逃げるな」
瞬間、周囲の花が一瞬にして枯れた。同時に青年の身体が一気に年老い枯れ木のようになる。ひっと悲鳴をあげて逃げようとするが脚が縺れ、その場に倒れた。枯れた花の頭がふわっと浮く。
ざくざくと足音が近づき、青年、カグツチは怯えた眼で見上げた。
「ち、父上……」
嗄れた声は幼く聞こえた。イザナキはぎりっと歯を食いしばり、剣の切っ先を下に向けると容赦なく振り下ろした。ややあって真っ赤な血が辺りに広がっていく。
「……どのみちお前は死ぬしかない」
自分の力を制御出来ず母親を殺した神など、忌み嫌われて殺されるのが運命だ。剣を引き抜くと冷たく見下しその場を立ち去った。
イザナミは黄泉の国にある果実を口にしていた。既に妖怪でも神でもない存在である醜女と八雷神にまとわりつかれ、身体は腐り始めていた。
模様のなくなった皮膚は変色し、左の眼球はとうに腐り落ち、あんなに綺麗だった黒髪も根元から白くなりつつあった。然しその時、足音と共に聞き覚えのある声が名を呼んだ。
「イザナミ! おるか!」
それは愛しき夫の声だった。はっと振り向いた。立ち上がろうとしたがまとわりついた八雷神がびりっと僅かに鳴った。黄泉の国の食物を口にした貴方は醜いとでも言いたげに。
「駄目だ」
雷の影響か髪は広がりぼさぼさと乱れて見えた。イザナミはそれだけでも恥と感じた。
「カグツチを殺した。今ならばまだ間に合うはずだ。戻ってきてくれ」
もう戻れはしない。イザナミは悲しいと思ったが涙は流れてこなかった。流れる機能がなくなってしまったからだ。
「まだ神をつくる必要がある。イザナミ。いるんだろう」
彼女はふらりと立ち上がり、障子越しに姿を見せた。その影にイザナキは眼を丸くする。
「イザナキ……すぐには戻れないんだよ」
小さくかぶりを振る様子に眉根を寄せた。
「まさか、何か食ったのか」
今度は肯いた。イザナキの溜息が聞こえる。それに彼女は声を張った。
「黄泉神に相談してくるよ。だからそのあいだ、そこで待っていてくれないかい」
懇願するような声音に少し考え、イザナキは「分かった」と返した。だが障子から彼女の影が消えてから幾ら経ったか、一向に姿を現さない。
焦りと苛立ちが彼の背中を押す。とうとう痺れを切らし、手をかけた。
「!」
振り向いたイザナミの姿は更に腐敗が進んでいた。ぼとりと床にウジが落ちる。
「……たな」
小さな掠れた声にイザナキが手を伸ばした。だが次の瞬間、雷神の雷と共に彼女の姿は一気に変わってしまった。
「見たな! あたしの姿を! 妻に恥をかかせたな!」
髪は透明に近い白に変わり、はだけた着物から見えた裸体の皮膚は硬くあちこちが変色し、指の先は鬼のように鋭く変形していた。そして何より残っている右眼は吊り上がり、獣のような眼球で夫を睨みつけた。
「イザナミ……」
眼を丸くして後退る。どんっとそれを追うように床を鳴らした。
「恥だ、なにもかも、恥」
何かに取り憑かれたように血気迫る顔で近づく。イザナキは恐怖が勝って後ろにさがり、そのうちばっと背中を向けて走り出した。
イザナミは鋭く尖った牙を剥き出して唸り、黄泉の国全体に響き渡る程の怒号を発した。それに八雷神と醜女が反応し、彼女の身体から一斉に姿を見せた。
どろどろに溶けた老婆のような形と、頭のない獣のような形がイザナキを追う。腐臭と空気を伝う雷の力が彼を追う。
だが黄泉の国の入口まで逃げ延びると八雷神と醜女は立ち止まった。なにものでもない存在は一定の場所から動けない。吸い込まれるようにしてイザナミの身体に戻った。
イザナキはややあって息を吐き出し、一度立ち止まった。ゆっくりとイザナミが姿を現す。ばりばりと彼女の周りの空気が震えていた。
「イザナミ。すまなかった。お前の気持ちを、」
響き渡る声。然し彼女は聞こえていないのかこちらを睨みつけた。言葉が引っ込み、足が竦む。
「イザナミ……」
頭には雷の輪のようなものが浮き、手足首にもぱちぱちと弾けながらまとわりついていた。それがまるで彼女の怒りにも見え、生唾を飲み込んだ。
すぐ目の前までやって来た。イザナキは恐怖と威圧感に押されながらも逃げないように踏んじばった。
「……お前の国の人間を毎日千人殺す」
唸る声に眉根を寄せた。強気な表情に変える。
「なら、毎日千五百人産ませる」
ぐっと互いに睨んだ。きっとこれは彼女なりの脅し、いつものように張り合えば身を退いてくれるはずだと彼は脂汗をそのままにした。
ややあってイザナミは眼を伏せ、ざっと素足で土を蹴った。背中を向ける。その際に見えた横顔には生前の面影がしっかりとあった。
然し神による強い意志で放たれた言葉は言霊となり現実となる。
イザナキが身体を清め、髪を団子にして髭を剃り、その際に産まれ落ちたアマテラス、ツクヨミ、スサノオを抱えて元の屋敷に帰るあいだ。イザナミが黄泉の国に戻り、死した神が獣となる初期症状に頭を抱え、悶え苦しむあいだ。地では毎日人が千人必ず死に、千五百人必ず産まれた。
それに気がついたのは幾らか経っての頃。イザナミは身体の変形が進んでおり、足の踵が盛り上がりつつあった。
「あたしが、あたしが感情に任せて言ったばっかりに」
黄泉の国へ流れてくる亡者達は日に日に数を増し、混沌を極めていた。なかには幼子もいて、イザナミの白髪を引っ張っていた。
「……このままでは、この黄泉の国はおかしくなってしまう」
自身が言霊を発したせいだ。イザナミは立ち上がると黄泉神を説得し、ヨモツオオカミという名を授かった。これは黄泉の国の女王という意味を持つ、イザナミは自身の罪を感じながら、混沌となりつつある国を見渡した。
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