戦場の曼珠沙華 上

白銀隼斗

第1話

 千五百六十八年のある日の夜、織田信長からの命を受けた豊臣秀吉は一つの城を攻めた。その際に僧兵として出陣した男が一人いた。

 一本下駄に使い古した薙刀。夜もあって顔はあまり見えず、秀吉の軍勢に紛れて現れた彼は“鬼”と呼ばれた。

 満遍なく放たれた火の海は彼を異様に照らし、豊臣軍の足軽達は「妖怪に襲われたみたいな、酷い断末魔ばかりが聞こえた」と後々語らっていた。

「くるな。くるな化け物!」

 ずるずると畳の上を後退し、手に当たった物をひたすら投げた。だが彼はふらりと避けるだけで一本下駄の独特な足跡は増えてゆく。

 ちゃきっと薙刀の刃が光った時、白い袖が舞い上がった時、巻いている数珠の絡まりが解けた時、深く被った裹頭のあいだから若い男の顔が見えた。その双眸はらんらんと輝き、人間の輝きではなかった。

 その城は豊臣秀吉の采配によって一夜で陥落。織田信長は見事に勝利を手にした。

 然し数年後、織田信長が本能寺の変で討ち取られる二年前に彼は一切の装備を秀吉に渡した。理由は、信長が行った焼き討ちの火の粉が近くの村、彼の故郷の村にまで飛んで全焼したからというものだった。

「そりゃあ、幾らなんでも」

 とびの高らかな声に彼は拳を握った。秀吉の困ったような表情を見もせず、かぶりを振った。

「そうでなければ、おかしな話でございます。火の出処がなく近くで焼き討ちがあった。私は織田信長のせいだと信じております」

 元々彼は信長を毛嫌いしていた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、その類だろうと秀吉は肩を落とした。

「お前がそう思うのならば否定はせぬが……儂としてはまだもう少し、儂の為に戦って欲しいのだ」

 身を乗り出す。彼は主を一瞥すると眼を伏せて、拳を畳についた。

「それは、出来ませぬ」

 怒りを我慢した若人の声に秀吉は口ごもった。それから溜息を吐く。

「お前は、頑固者じゃからな。一度決めた事は頑として曲げぬ……お陰で何度言い争った事か」

 はははっと腹から笑う。秀吉の快活な笑い声に彼もふっと口角を引き、顔をあげた。真っ直ぐに見据える。

「殿」

 雀の鳴き声が近くで響く。秀吉はどこか寂しげに見てから肯いた。

 豊臣秀吉の元を立ち去った最強の僧兵の行方は誰も知らない。名前も素性も、秀吉と彼について行った忍びの二人以外は誰も知らない。

「……」

 城を一瞥したあと、彼はあの地へ立ち寄った。それは嘗ての故郷だ。

 炭になった家の欠片がまだ残っている。ざっと土を蹴るとあの時の光景を思い出した。

 虫の知らせを聞いた気がして、彼は戦終わりに突然走り出した。周りの声も無視し、一本下駄にも関わらず故郷の村までひた走った。

 見えたのは立ち上る炎。鼻の奥を刺激する強烈な臭いに山の獣道を滑り降りた。そうして今立っている場所から地獄を見た。

 ごうごうと燃え盛る炎。逃げ惑う母子。泣き叫ぶ赤子の声。柔く貧相な家はすぐに崩れ落ち、下敷きになったまま焼かれていく者もいた事だろう。

「た、たすけ」

 背に火を受けた若い男が手を伸ばしてきた。然し視線を落とした時には力尽き、魂が抜けていくのが見えた。

 彼は眼を丸くしたまま、ざっと前に出た。

「おかあ、おとう、」

「かよ、へいろく」

 数珠を巻いた左腕を伸ばした。然し煙と炎のなかからどんっと押し出す手があった。数歩下がる。見えたのは半身が火に包まれた母親だった。

「逃げな」

 流れてくる涙さえもすぐに蒸発する。母親はばたりとその場に倒れて動かなくなった。

「お、おか、」

 詰まる息に膝から崩れ落ちる。恐る恐る手を近づけた。そっと自分を押した手に触れる。

「……」

 煤けたその手はまだ温く、散々自分を愛おしく育ててくれた手をしていた。その瞬間、夜空に獣のような怒号が鳴り響いた。

 何度も硬い土に打ち付けた拳は皮膚が捲れ、涙と鼻水で頭に巻いた袈裟は汚れた。炎のぱきぱきと唸る声と若い僧兵の咆哮は辺り一面に暫く響き渡った。

 然し彼は気づいていなかった。彼の後ろに大蛇の皮を巻いた大きな男がいた事、彼の前に二体の赤子が肉塊に取り込まれたような異形がいた事に、気がついていなかった。

「あいつのせいだ。信長のせいだ」

 頭を抱えて喚く。その汚れた手の甲に小さな赤子の手が伸ばされた。だが大きな男が制した。鋭い瞳孔で異形を見ると怒ったように唸った。

 赤子の異形は男の唸りに怯えたのか手を引いた。そうしてもう炎と炭と焼死体だけになった村から煙のように消え去った。

「……極楽浄土へ」

 煙を吸った状態で大声を出したからか、今の彼は痰のからんだような掠れた声をしていた。数珠を巻き付けた手で合掌をしてからふっと息を吐いた。

「行くぞ。妖怪退治で名をあげる」

 しゃりんっと錫杖を鳴らし、ついてきたくノ一とシノビの熊吉に言いながら足を踏み出した。

 名も無き坊主は根無し草の僧侶として地を転々とした。その高い法力と生きたまま地獄に行けるという特殊体質は名のある陰陽師に気に入られ、妖怪退治による情報と引き換えに高額な札や物品を貰っている。

「はあ、このあいだの鬼で使っちまったからなあ」

 懐にある残りの札を軽く触り溜息を吐いた。いい情報を売らなければいい札は手に入らない。坊主は笠を被りなおし歩を進めた。

 春とは言え汗が滲む。一つ木陰で腰をおろした。瓢箪とは別の竹筒を取り出して水分補給をする。

 ふっと息を吐いたあと、少し声を張り上げた。

「くノ一、いるんだろ」

 その声にがさがさと頭上がざわめき、ややあって彼の傍にすっと降りてきた。格好は質素な村の娘だが、首や腕にはしっかりとした筋肉の筋があった。

「妖怪の情報か?」

「はい」

 傍目には若い僧侶と村の娘が談笑しているようにしか見えない。くノ一は声を潜めて情報を伝えた。

「ここから東にある村の近くにかなり大きな土蜘蛛が出たと噂が。力も強く、放浪している薬師のような出で立ちの男に化けるという話まであるそうです」

 淡々とした声音に「土蜘蛛か」と軽く顎を触った。魔除けである金色の耳飾りが笠の影から少し顔を出し、陽の光を鈍く反射した。

「東だな。歩いて間に合うか?」

 振り向くとくノ一は肯いた。

「分かった。お前は変わらず情報を集めてくれ」

 よいしょと立ち上がる。するとくノ一は一つ頭をさげたあと一瞬にして姿を消した。坊主は東の方角を見て少しばかり速い足取りで向かった。

「いやああ!」

 悲鳴をあげて逃げようとする。然しがしっと脚を掴まれ、そのまま逆さ吊りにされた。

 女の顔には絶望と恐怖が浮かび、相手はそれを八つの眼で見てけたけたと笑った。けたけたと笑ったまま、大きく裂けた虎のような口を開いて女をゆっくりと迎え入れた。

 ばきばきぼりぼりと咀嚼音が鳴り響く。両の眼は愉悦を感じるようにぐるりと上を見て、けふりと空気を吐き出した。

 蜘蛛の足の先は人の手のようになっており、ぴょんっと跳ぶと村の小屋を潰しながら器用になかの人間を掴んだ。一気に現れた巨大な妖怪に村人は驚き、逃げようとする。だが土蜘蛛は意外にも俊敏な動きをした。

『うま、うま』

 土蜘蛛は陰の妖怪のなかでも強い部類ではある。だが言葉は発せない、そう名も無き坊主は知識として知っていた。

「あんたはここに隠れとり」

 悲鳴と断末魔、そして本来話せないはずの妖怪の不気味な声。村の隅にある質素な橋で旅の格好をした夫婦が我が子から離れた。橋の下には小さな窪みがあり、丁度七、八歳ぐらいの子供なら膝を抱えて隠れる事が出来た。

「おいこら、こっちだ!」

 独特な訛りで二人は大声をあげ、手を打ち鳴らして橋とは反対の方向に走り出した。土蜘蛛は反応し、ぎょろりとした大きな眼玉を動かすと追いかけはじめた。

 どこかで上手いこと逃げ切ろうとしたのだろう、だが土蜘蛛の速度は想像以上だった。ぱんっと男の方の首が空を舞う。頭を無くした身体は数歩進んでから支えのない塔のように崩れ落ちた。

 はっと女の方が振り向いた。瞬間土蜘蛛の手刀が細い胴体を貫いた。真っ赤な血が散る。そのままあんぐりと口を開けた。血で滑り、ずるずると手から身体が抜けた。

 真っ逆さまに大きな口内へと吸い込まれ、ぺっとどろどろの衣服が吐き出された。そうして少し戻ると男の頭と身体を無作為に放り投げ、まるで菓子のように喰らった。

 名も無き坊主が到着した頃には、もう殆どの村人が食われていた。辺りに散らばった血と肉片、そして地面には人一人潰せるだけの大きさの赤い掌が幾つもあった。

「なんだ、この大きさ……」

 軽くしゃがんで眉根を寄せる。辺りに漂う邪気は普通の土蜘蛛と一切変わらない、だと言うのに鬼が通ったように酷い有様だった。その時。

『坊主、ダア』

 頭上から生暖かい、鉄臭い息がした。ぴくっと坊主の指が動く。土蜘蛛はらんらんと輝く眼で彼を見下した。

『坊主、食エバ、強ク、ナレル』

 ずっと影がさす。それは手の形をしていた。名も無き坊主は一つ息を吐き出した。

 ばんっと張り手のように土蜘蛛の手が振り下ろされた。土埃が舞い上がる。感触がないのか口角をあげて顔をあげた。

「遅い」

 太陽光を背に跳び上がっていたのは、菅笠を脱いだ彼の姿だった。懐に伸ばした左手の隙間からちらりと札が見える。土蜘蛛は危機感を覚え、飛び退く体勢を取った。

 びょんっと小さな蜘蛛と変わらない姿勢と速度で跳んだ。だが一定の距離でぐんっと引っ張られる。じゃらりと鎖の音が響いた。

 しゃがんでいたあの時、既に名も無き坊主は札を二枚貼って仕込んでいた。その札は無機物に貼り付けると透明化する、土蜘蛛は気づかないうちに彼の手中にいた。

 しゃりんっと錫杖の音が頭上で鳴った。視線をあげると錫杖の柄の先と眼が合い、脳天目掛けて振り下ろしている最中だった。あっと思った時には遅く、脳天に突き刺さると鎖が解け勢いよく地面に叩き落とされた。

 鈍い音が響き渡り、土埃が舞い上がる。瞬間、ぱあんっと弾ける音が反響して土蜘蛛の身体が散り散りになった。肉片が辺りに飛び散り、ややあって隅から消えていく。

 名も無き坊主は錫杖を持ち直し、ふっと息を吐いた。

「土蜘蛛が話すなんてな」

 人間と同じ言葉を話せる陰の妖怪はかなり限られており、その強さは地獄の獄卒でもある陽の妖怪と同等かそれ以上だ。少なくとも土蜘蛛がそのぐらい強い妖怪でない事は確か……坊主はすっきりしない気持ちのまま、消えゆく身体から降りた。

 菅笠を拾い上げ、被り直した。周囲の家屋は大体潰れており、僅かにいた馬も軒並みやられていた。

「祓うか」

 もう生存者はいないだろう。そう勢いよく錫杖を地面に突き刺すと懐から長い数珠を取り出した。両手に巻き付けて合わせる。瞼を閉じた。刹那。

 ぱきっと小枝の折れる音がした。脊髄反射で振り向きながら錫杖に手をかけた。然しそこにいたのは薄汚れた小さな少女、両眼に涙を蓄えて彼を見上げていた。

 数秒固まってから、止まった息を吐き出した。姿勢を正し、錫杖を掴んだまま引き抜いた。数歩近づいて膝をつく。

「ここの村の子かな」

 僧侶としての仮面を被って優しく微笑んだ。少女は太い眉を顰めてかぶりを振った。ぎゅっと小さな手を握りしめてから、ぼそりと言った。

「坊様が遅いから、おらの、」

 独特な訛りでそこまで言うとぐぎっと顔に皺を寄せた。するとぼろぼろと耐えていた涙が零れ落ちてくる。名も無き坊主は眼を丸くし、錫杖から手を離した。

「ご、ごめんよ」

 数珠を巻き付けたままの右手を伸ばした。然しばしんっと跳ね除けられる。行き場を失った手は少し迷い、素直にさげた。

「……」

 少女は声を僅かに漏らしながら鼻を啜った。名も無き坊主は何も言えずに口を噤む。幾ら予想外とは言え急がずに来たのは確かだ。

 だがその時、少女の背後から陰が現れた。坊主は瞬時に錫杖の頭の近くを握り、少女に当たらないように向きを変えながら陰を狙った。ぱしんっと柄が当たる。

 それに少女が振り向いた時には左腕で抱えあげ、飛び退いた。その際に一瞬で数珠を左手から外しており、ぶわりと舞った。

 膝を折って着地する。ぎっと笠の下から睨みつける。

「ちっ、はええな」

 だらりと地面に垂れる数珠が一切太陽光を反射しておらず、それを一瞥すると片手だけで重たい錫杖を持ち替えた。頭の方を上に向ける。

 少女は突然の事に驚き、ぎゅっと彼の襟元を握った。

「一気に祓う。おま……君は私の後ろにいなさい」

 立ち上がりながら言うと左手で少女を下がらせた。それに素直に従う。

 空に雲がかかり、陽の光を遮った。ぞろぞろと這い出してくる陰達は炎のようにも見え、恨めしく坊主を凝視した。

 先程と同じように錫杖を地面に突き刺し、数珠を両手に絡めた。よく見ると一つ一つの玉のなかで黒い煙のようなものが渦巻いており、それが光を吸収しているように見えた。

 陰の妖怪に喰われた者はどんなに得の高い僧侶であっても魂が汚される。そして未練がましく黒い人型の何かになって彷徨い、生者に対して危害を加えてくる。魂の意思ではなく妖怪による邪気でそうなってしまう。

 だから必ず、生きている僧侶や陰陽師が祓わねばならない。魂を汚され勝手に悪者とされる彼らの為にもだ。

 瞼を閉じると彼は小さく念仏を唱えだした。そのあいだにも陰達はじわじわと近づいてくる。のっぺりとした影が荒らされた地面に伸びる。

 大きな陰の手が伸びて、坊主の肩に触れようとした。それに少女が眼を丸くして息を吸い込む。刹那、彼の足元を中心に蓮の花の蕾が現れた。

 陰の動きがぴたりと止まる。大きな蕾達はゆっくりと開き、そのうち満開になった。すると伸ばしていた手がだらりと項垂れる。

「極楽浄土へ」

 唱え終えた名も無き坊主が小さくそう言った。瞬間暗雲の隙間から太陽光が差し込み、陰達は蓮の花の上で顔をあげた。ややあってすうっと煙のように消えてゆく。

 雲が流れ、晴天に戻る。蓮の花は瞬きをすると消えていた。

 錫杖に手をかけ引き抜く。数珠を懐に戻しながら振り向いた。

「君の大切な人も極楽浄土へ向かわれた」

 そう言うと少女は立ち上がり、彼の近くまで来た。そして手を握ってきた。名も無き坊主は少し驚いたが振り払う事はせず黒い頭を見下げた。

「……君、名前は」

 少女は答えなかった。

「……まあいいでしょう。私も名乗りたくはないから」

 坊主は少女の小さな手を握り返し、その村を去った。

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