第28話

 霧咲錬心舘は隣町の外れにある。昔はカズヤたちの住む市内だったが、区画整理が行われて市が変更になった道場だった。カズヤたちの出身である大軒おおのき中剣道部は、部活の時間になると道場まで行き、随分と霧咲師範にしごかれたものだった。

 あの鬼のような先生とももう一年近く会っていない。

 カズヤは通い慣れた道を自転車で駆け抜け、そこについた。純和風の門扉。『霧咲』の表札は木製で筆書き。厳かな雰囲気。背筋が伸びる。いつも部活の前には吐きそうになりながら、緊張して入った覚えがある。意外と染みついた感覚は抜けないらしい。

「ちわーっす」

 門をくぐり敷地内へ。武家屋敷じみた家屋の横を通り、道場へ。建付けの悪いドアの鍵をあけて、ガラガラと開く。

「ん?」

 なんとなく視線を感じて振り返るが、人の姿はない。家も電気はついておらず真っ暗だ。

 気にせいか。カズヤは手慣れた様子で電気をつけて、道場へ一年ぶりに戻ってきた。

 剣道特有の防具と汗――そして、古い木のにおい。床には少しだけ埃が溜まっている。誰か掃除しているのか、一年経ったにしては汚れは少ない。

「なんだよ、ノドカもじゃねーか」

 『一ノ瀬』と書かれたカズヤの防具の横に、『日和ヒヨリ』と垂れネームのついた防具が鎮座している。大軒中の一ノ瀬と日和と言えば、結構有名だった。防具袋を開けて、自分の面と籠手、そして胴と垂れを入れる。胴着と袴は家にあるから、あとは竹刀か。

 なんとなく寂しくなって、カズヤの名前が柄に書かれた竹刀をそっと握った。

 ジンときそうなほどしっくりくる。三年間振るった三七の竹刀。止まってしまった長さ。

「なんだよ。まだ心残りがあるか? せっかくだし一本勝負でもするか」

「ノドカ」

 道場の入り口にノドカが立っていた。

 ノドカも自分の竹刀を手に取って、カズヤと構え合う。

「――――」

 久しぶりなのに、対峙すると直に感じる――ノドカの鋭い攻め。少しでも隙を見せたら打たれることが感覚でわかる。技術も身体能力も、気持ち以外いつでもノドカはカズヤの上だった。

「隙あり。ヘッドショット! ばきゅーん!」

 ぴょん、と横に跳んで、竹刀を銃に見立てて、ノドカは適当に構えて言った。

「おいおい。すっかりスナイパーか? 霧咲先生に見つかったらぶち殺されるぞ」

 ぶっ叩かれる竹刀の痛みを思い出しながら言うと、ノドカは に笑った。

「全然まだまだだな。俺はカズヤと戦うの楽しみにしてたのによ。肩すかしだぜ」

「あン?」

 カズヤには意味がわからない。

「全然へたくそってことだよ!」

「ノドカは要領がよすぎるんだよ。剣道だって、お前は小学校高学年で始めたのに」

 中一にはもうカズヤを倒すほどの実力を身につけていた。本当に、恐ろしいほど成長が早い。

「反射神経抜群! その上正確なテクニック! 最強の初心者って高校で言われたぜ」

「その上身体能力もあるだろが。剣道で知ってるから、驚きもないっての。個人戦で何回オレは負かされたってくらいだぜ」

「……でも、大将も、代表戦も、いつも戦うのはカズヤだった」

 ポツリと漏らすように、ノドカは静かに言った。カズヤは首をかしげた。

「? ノドカだって相手によっては代表戦やってたじゃないか」

「相性がいいヤツだけな。霧咲先生は、ここぞという大事な試合はいつでもお前に託した」

「オレはそれで負けて何度怒鳴られたと思ってるんだ。戦いたくなんかなかったっての。戦わされてたんだよ。今さら何だ、気にくわなかったのか?」

「ちげーよ。わかってるだろ? カズヤ。お前は、代表戦の時の方が強いんだ」

 ピタリと、ノドカはそこで竹刀をカズヤに突きつけた。

「俺は、その一番強いカズヤを、倒したかった。一度で良いから戦ってみたかった……同じチームじゃあ、一生叶わない夢だな。だから、高校ではお前とは違うチーム、場所を選んだ」

 同じチームでは決して戦えない代表戦。ノドカが、カズヤを見据えていた。

「俺はお前に勝つぞ。負けたくなかったらもっと実力をあげろ。まだ、俺の方が強い」

「言われなくてもわかってるっつの。なんだよ。わざわざそれを言いに来たのか?」

 そこで、ノドカは「あ」と思い出したように言った。気まずそうに笑った。

「いや。フワリが、カズヤがいるからって」

「フワリが?」

 連絡したのか。何のためにだろう。

「……俺さ。優勝賞金、ここに寄付したいんだ。再来月取り壊しになるんだと。維持費かかるし。でも壊すのも金かかるから、しばらく残しておけるかもって。そのために頑張ってるんだ」

「そう――か」

「カズヤは? こんな古い道場はいらないか?」

「どうだろうな。あった方がいいのか、ない方がいいのか、まだわかんねーよ」

 本当にわからなかった。そこまで事態を飲み込めていない。自分がどうしたいのか。気持ちに区切りがついたのかも、どうなのかも。フワリに言われて、取りに来ただけだ。

「なんだよ? 霧咲さん家のお嬢さんと組んでるんだから、お前もそうなのかと。ま、いいさ。真剣勝負だからな。賞金はできれば、だ。お前とやれる真剣勝負、楽しみにしてるぜ」

 カズヤは応じかけて、そこで不穏な空気を感じ取った。

「おう。……ん? お嬢さん?」

「この前果たし状を渡し忘れたんだ。クレナイに烈火の如く怒られて……なら、自分で渡せよな。それでフワリに相談して、ここにカズヤが行ってるっていうからさ。じゃ、よろしく」

 ノドカは懐から白い紙の束を取り出してカズヤに渡した。『SAKI』宛だった。

「これ、霧咲さんに」

「…………」

 嫌な、予感がした。じっとりと手が汗ばむ。まさか。霧『SAKI』……?

 ノドカは表情を固めるカズヤに、もしかして、と訝しんだ。

「お前、まさか知らないで組んでたのか? 『白銀の戦姫』SAKIは霧咲先生の娘さんだぜ」


 ピンポーン、とチャイムを鳴らした。出なかったら帰ろうと思ってた。一分ほど経って諦めかけたところで、ようやく玄関が開いた。

「……なに」

「サキ」

 二日ぶりに見たサキは、目が赤く、少し顔色が悪い。髪を下ろして、ピンクの猫柄のパジャマを着ていた。出てくるとは思わなかったから、カズヤもどうしていいかわからなかった。

「あー……いや、その。これ、ノドカから。クレナイって奴から渡してって」

 とりあえず果たし状を手渡した。サキは乱暴に開けて読んで、カズヤに返した。

「いらない」

「なんで」

「大会は……出ない、から」

「は⁉」

 口をとがらせて言うサキに、カズヤは素っ頓狂な声をあげてしまった。

「何言ってるんだよ! お前が優勝するって言ったんじゃないか。金だっているんだろ。こっちに何も説明しないで、なんなんだよ?」

 ジロ、とサキはカズヤを睨んだ。いつもと比べて、力のない眼(まなこ)だった。

「フワリだって待ってる。心配してたぞ。チームなんだから相談してくれよ。おい、サキ!」

「うるさい! これ以上アタシの中に入ってくんな!」

「⁉」

 サキは大声でカズヤの言葉を遮った。

「なんなのよ、アンタは! 勝手にアタシの気持ちをわかったみたいに! バカ! アンタなんかにアタシの気持ちはわかんないわよ!」

「あ、おい!」

 家の中にサキが駆けていく。泣いていた。カズヤは靴を脱いで、初めてサキの住む家に、一度も入ったことのないそこへ足を踏み入れた。バタンと音を立ててドアが閉まる。

「どうしたんだよ⁉ わかんねえよ! サキ! 開けてくれ!」

 鍵を閉め、彼女は物理的にカズヤと壁を作った。

「うっさい! 不法侵入! 部屋に入ってきたら警察呼ぶわよ!」

「なら、入らないように説得してくれよ! もう家の中まで来ちゃったから!」

 ドンドン、とドアを叩く。やがて、ドアの向こうから声が聞こえる。

「……アンタが、悪いのよ」

 消え入りそうな、いつもの自信などまるでないサキの声。

「アタシ、もうとっくに諦めてた。アンタが悪いの。勝手に、なんか頑張っちゃって、マグレで、こんなところまで来ちゃうから……逆に、変に期待しちゃったじゃないの」

「違う! オレが頑張ったのは、サキが――!」

「アタシの名前はサキなんかじゃないわよ!」

 激昂するような、サキの拒絶の声。

「アンタ、アタシのことなんだと思ってるの? それはただのプレイヤー名で、ネットでの名称。サキ、サキって、アタシのこと実は何にも知らないでしょ! ムカつくのよ! ネットでの、宣伝での、輝かしい綺麗なとこだけ切り取って。それでアタシがどれだけ苦しんでると思うの。アンタはアタシの偶像を見てるだけ。アタシはあんなじゃない。アタシは、ただの……」

 

「ごめん。現実の名前は……確かに知らなかった。転入生紹介の時に……お前の動画、見てたから。でも、今はもう知った。サキじゃない。名前は――」

 一つ、息を吸った。

「――霧咲杏(アンズ)」

 なんで、とサキの戸惑う声。ドアを少しだけ開けて、片目を伺わせた。ジト目だった。

「アンタ、ドアのネームプレート、見たでしょ」

「……バレた?」

 ドアには名前のプレートが掛けられていた。カンニングだ。ドアが閉まる。

「ちょ、ちょっとタンマ! サキさん⁉ 怒らないで!」

「ちょっと! あ! 手挟むんじゃないわよ! へし折るわよ!」

「そんな力ないだろ――っていったぁああああ! 折れるから! いい子だから!」

 隙間に入れた右腕は思いっきりドアを挟まれて軋みをあげていた。本気で折られそうだ。

「なんなのよ! アンタはどうしてそこまでしてくるのよ! 迷惑なの!」

「うるせーな! こっちの勝手だろ! チームメイトだからだよ!」

「チームメイトだからって、余計なお世話なのよ!」

 サキの言葉に、カッとなった。思わず言ってしまった。

「ッ! しょうがねえだろ! お前のこと、好きなんだよ!」

「――」

 突然力のない、驚くようなサキの声。ドアも思い切り開いた。

「うわあ⁉」

「きゃっ⁉」

 急に抵抗がなくなって、そのままカズヤはサキも突き飛ばすようにして、

「「……」」

 ベッドに押し倒していた。……どうしてこうなってるんだ? ともかくケガがなくてよかったが、なぜか四つん這いになっているカズヤの下に、小さなサキが横になっていた。パジャマのボタンが一つ外れて、鎖骨が見えている。なぜかおへそも。

「ちょ、ちょっと。どいてよ」

「どかない。サキを説得できるまでは」

「なんでよ⁉ まさか襲う気じゃないでしょうね⁉」

「そんな勇気ねーよ」

「……ヘタレ」

「え、なに?」

「何も言ってない!」

 サキとカズヤは目を合わせないようにして、違う方向を眺め、しばらくそのまま。

「……カズヤが、悪いんだから」

 サキはそう言った。耳に吐息がかかって、カズヤのブレーキが途端に壊れそうになる。

「アタシ、アイツには勝てないよ。戦うの怖い。諦めてたって言ったでしょ。自暴自棄で。千丈に転校してきたのも、一度捨てたVRを……借りられるからで。ギリギリ大会に間に合うからだし。チーム組めると思ってなかった。ハメられたとき、本当はもうやめようって思ってた」

 ――別に、アンタを探しに行こうとなんか全然全くこれっぽっちも思ってなかったんだから。

 サキの言葉を思い出す。サキは本当に、あの時に全て諦めるつもりだったのだ。

「アンタがあそこで余計なことするから。チーム組めちゃうし。大会参加できちゃったし。アンタがアタシの前で楽しそうにするから。またやろうって。そういえば、こんなにも楽しくアタシもゲームしてたなって、思い出した。初めての試合は、全く倒せなくてもわくわくして、知らないマップは歩いてるだけで嬉しくなって。予選の最後は、アタシの判断ミス。スナイパーにやられるはずだった。それを、アンタが撃ち抜いたりするから、勝っちゃったじゃない」

「……ごめん」

「ユミが、助けてくれたような気がしたの。インタベはゲームをやめたユミの形見だから。鉄壁の陣形だって、ユミが、アンタが、倒してくれるし。……ちょっと。苦しいよ、カズヤ」

 カズヤは腕の力を抜いて、サキに覆いかぶさった。ぎゅっと優しく抱きしめられる。頬に、サキの頬。髪が顔に当たって、草原のような爽やかな匂いがした。温かい。柔らかい。

「ねぇ……カズヤ」

 サキの声は、震えていた。頬は濡れていた。

「中途半端にしないでよ。優勝させて。アタシ、一人じゃ勝てない……アタシ、本当はすごく弱いの。もう一人になりたくない……! 賞金もらえなきゃ、入学金も学費も払えない。退学になっちゃう。パパとの約束だから。そんなのヤダよ。カズヤ。アタシ、カズヤと一緒にいたい。同じチームで、また楽しく戦いたい……!」

「ああ。頑張る。全部全部、もう絶対失くさない。居場所は、自分で勝ち取る」

 ぎゅっと抱きしめる身体は見た目以上に細く、頼りない。

 そしてとても熱い。柔らかい。力をこめたら崩れてしまいそうなほど。

「強くなるから……サキに相応しいくらい」

「……うん」

 ぎゅっと。サキがカズヤのシャツを掴んだ。

「ねえ。一つだけ教えて。アタシ、怖い。前は、戦場こそが自分の居場所だった。そう言い聞かせていた。だけど、いつしかチームの仲間が大切になって……それを失うかもって思うと、居場所のはずの戦場が本当に恐ろしい。カズヤは……剣道の代表戦のとき、どうやって戦ってたの? ずっと、負けられない状況で戦ってきたんでしょ?」

「オレは……」

 サキを抱きしめながら、カズヤは思う。

 そんなこと、考えたこともなかった。剣道部は自分の居場所だった。勝つための部活だった。

 試合は、自分の目標だった。ただひたすらに、常に勝たなければいけないから、戦っていた。

 がむしゃらに、試合も、代表戦も、何も考えず。ある意味、極限の状況だ。

「勝たなければいけないから、戦わないといけなかった。それは自分の望みのためだし、チームの、ためだから。それ以外は考えたこと、なかったな。敢えて言えば、無心かも」

 自分の気持ちも全て捨て去って、ただ相手を倒すそれだけになる。

「勝負に出る時は、本当に何も考えない。身体が勝手に動くっていうか。恐怖とか、勝つとか、負けるとかもなくて。ただ剣に思いを乗せて、真っ直ぐに飛び込むんだ。そうすると、何でも出来る……気がする。本当に欲しいものは、勇気を持って、大切な物すら全て捨て去らないと、手に入らない」

「難しいわよ、それ。言葉が、よ? アンタ、説明、抽象的すぎだし。へたくそすぎ」

「大切な物を守るためには――危ない橋を渡るんじゃない。気持ちと実力で乗り切るんだ」

「……うん。わかんないけど。ちょっと、カズヤが何考えて戦ってるのかは、わかったかも」

 サキは口をとがらせて言って、そっとカズヤの胸に、顔を寄せた。

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