第13話狂気の兄
細波が神様を粉々にしようと床に叩きつけていれば、遠くから足音が聞こえた。本来ならば、その足音には細波は警戒するべきだろう。
誰がやってくるのか分からないし、なんなら教団の関係者すなわち敵である可能性も高い。得意の銃がなくとも重い石の塊である神様があるのだから、鈍器としては上等である。なのに、細波は無気力なままであった。
「良かった、細波。もう目覚めないと思ってしまったんですよ。ああ、取り引きをして本当に良かった」
血だまりに足を踏み入れたせいなのであろうか。
声の主の足跡は、真っ赤であった。もしかしたら、履いているスニーカーにまで血が染みこんでいるのかもしれない。しかし、そんな彼の顔には不愉快さなど微塵も浮かんでいない。
「細波……。もはや、私の唯一の家族。私は、あなたを愛している」
細波を抱きしめたのは、年若い男であった。彼の容姿は、驚くほどに魔族の男に似ている。前の時間軸で細波たちを全滅させそうになった魔族の男にである。
彼の名前は、工藤雪。
血の繋がっていない細波の義兄である。
雪の格好は、細波以上に酷いものであった。高校三年生の彼はブレザーを着ているが、藍色が台無しになるほど制服は血を吸っている。白い顔とシャツの襟にも血は跳ねていて、気の弱い人間であったら卒倒しかねない姿であった。
ごとり、と音がした。
その方向を細波が見れば、雪が斧を置いたところであった。無論、斧は血で汚れている。この斧で施設にいた教団関係者を殺して、目覚めた細波の視界に死体を入れないように片付けたのである。血だまりについては、まったく気にしていないようであったが。
「細波がさらわれてから、モンスターたちが街にも現れました。そのモンスターにおじいさんたちは……」
雪はうつむいた。
細波たちが住んでいた祖父の家は、モンスターによって破壊されていた。祖父と祖母は、そのときに殺されていたはずである。
「家には、あなたの死体がなかった。だから、あの女に断腸の思いで連絡を取ったんです。それで、ここまでたどり着けました」
雪は、細波に自分の額をくっつける。
いくら親しい仲であっても兄弟の距離ではない。だが、それは仕方がない事であった。
前の時間軸の細波は幼い故に気がついていなかったが、母が宗教にのめり込んだ時点で雪は精神的に壊れていたのだ。
雪にとって、一番大事にしなければならないのは家族である。モンスターの出現や細波の誘拐によって雪の家族への執着は、一層強くなってしまった。それこそ、魔族の男の甘言に乗ってしまうぐらいには。
「兄さん……。兄さんは、俺のために魔族と契約したんだよな。本当に手遅れなのか?」
細波は、わずかな可能性にかけた。
雪が、魔族の男と契約をしていない可能性を信じたかったのである。
弟の質問に、兄である雪は少しばかり驚いていた。細波が魔族という言葉を出すとは思わなかったのだろう。
あたりまえか、と細波はどこか冷静な頭で納得する。
この時期はモンスターはともかく魔族は、あまりポピュラーな存在ではなかった。いるらしいという噂こそあったが、映像記録などはなかったのである。
「魔族なんて……よくそんなものを知っていましたね。私だって、本人に魔族のことをしつこく聞いたぐらいだったのに」
そこまで用心深かったのに、どうして魔族となど契約してしまったのだろうか。身体を乗っ取るのが魔族の常套手段だというのに。
「……細波。泣いているのですか?」
細波は、血で汚れた指先で自分の頬に触れた。ぬるい水の感触で、細波は自分が泣いてことを知ったのだ。
「……悔しいんだよ。俺は、こんなに兄さんに思われているのに気がつかなかった。兄さんが、こんなに苦しんでいるのに何も出来なかった」
日に日に弱っていく義父と家庭を守ることを放棄した実母
二人の存在は、兄の精神を弱らせるには十分だった。宗教に傾倒して、子供の世話と家庭を放り投げた実母。その実母の存在は、雪にとっては自分の罪のようなものだったのかもしれない。
そんな罪を精算する方法こそが、細波を可愛がることだった。母が捨てたものを自分が大事にすることによって、雪は母の罪から逃れようとしていたのである。それは、本人も知らない内の依存だった。
「細波が悲しむことはないんですよ。私は、いつだって細波に笑っていて欲しい。あなたが笑っている居場所を作ってあげたい。だから、あの女が細波をさらったと聞いた時は、腸が煮えくり返った」
最後の言葉は、とても冷えていた。
実母のことを本当に怨んでいるという声色であった。
「よく聞いてください。私は、魔族の男と契約をしました。彼は、あなたを助けてくれた。そして、母を殺す手伝いをしてくれるというのです。そうなれば、私は……」
細波は、兄の胸ぐらを掴んだ。
細波のらしくない行動に、雪は目をぱちくりさせる。雪と共にいた時代の細波は、無垢な子供であった。兄のことを盲目に慕っていた子供であった。
だが、今の細波は違う。
幾多の荒波を乗り越えた記憶があり、雪の選択が正しくないことを知っている。
魔族たちは、本来ならば幽霊のように実態を持たない者たちだ。彼らは本来攻撃する手段も持たないが、人の心の弱いところをついて実体化するのだ。
ただし、魔族は人間の身体を手に入れるためには三つの取り引きをする必要がある。雪の場合は『死んだ細波を生き返らせるために時間を巻き戻す』『実母を殺す力を手に入れる』『細波を傷つけない』というのが、三つの取り引きの内容だ。
魔族は人に取り引きを持ち掛けて、その取り引きが成立した時点で身体を乗っ取ってしまうのである。ただし、その際に彼らは逃れられないウィークポイントを持つことになるのだ。
雪の身体を乗っ取った魔族の場合は、弱点は細波だ。雪は細波を救うために『時間を巻き戻してくれ』と魔族に願って、細波の蘇生に成功したのだ。さらに、雪は『細波を傷つけてはいけない』という取り引きもしている。
前の時間軸では、雪は実母を殺害した時点で魔物に体を乗っ取られている。
その代わりに、魔物の男は細波を殺せないという弱点を抱えることになった。前の時間軸で目の前で自殺されたせいで、やむなく時間を戻したほどである。
「細波にも分かってしまうんですね。そうですよ。私は、魔族の男性と取り引きしました。あなたを助けて、あの女を殺す為にね」
雪は、血で汚れた弟の額に唇を落とす。
兄弟の距離感がおかしいのだと今の細波には分かっているが、いなくなってしまう雪の愛情は拒むことが出来なかった。
「細波は、ここで待っていてください。大丈夫です。私が全てを終わらせますから」
細波は、雪の服の裾を離さなかった。
「一人で行かせるものか……」
前の時間軸では、雪を一人にさせたから魔族に体を乗っ取られた。だから、今度こそは絶対に一人では行かせない。細波だって、たった一人の兄弟を失くしたくはないのだ。
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