第12話二度目の死のあと
背中が、不愉快に固くて冷たい。
細波が目覚めたのは、そのせいだった。不愉快な居心地の寝床なら慣れているはずなのに、今日に限って言えば嫌でたまらなかったのだ。自分は死んでしまったのだろうか、と一瞬だけ不安になった。
ふわふわのベッドで寝た記憶など学生時代が最後で、兵になってからは固いせんべい布団が愛しい寝床だ。野営ともなれば、銃を抱えたままの姿勢で休むことだってあった。
それもこれも安眠を求めるような寝具や場所ではないが、それでも人間とは慣れてしまうもので今では自然に寝ることが出来ていた。なのに、身体は今までの経験を忘れてしまったかのように上質な寝床を求めている。
いいや、違う。
この寝心地が、記憶に根底にある不愉快さに繋がっているのだ。
そのことに気がついた細波は、勢いよく起き上がった。ただでさえ涼しい石作りの部屋のなかで、細波は着替えた覚えのない麻のチュニックを着せられていた。ズボンまでも麻で出来ているので、荒い折り目から風が入ってきて寒くてたまらない。
両手で自分を抱きしめながら暖を取ろうとするが、そんなの焼け石に水だ。吐いた息が白くなるような場所では、そんな些細な抵抗は無に等しい。
「ここって……」
見覚えのある場所だ。
細波は、石の台座の上で寝せられていた。これが冷たくて固い不愉快な寝床の正体であったのである。滑らかに整えられた寝台の両脇には、野趣あふれる趣向が凝らされた獅子の置物が置かれていた。感覚的ではあるが、アステカの宗教施設に似ている。
細波の頭には、生贄の肉を裂いて太陽神に捧げる太古の人々の姿が浮かんでいた。その場合は心臓を抉られる生贄は自分自身なのだが、恐ろしさはあまり感じない。
これを見たのが、人生で二度目だからなのだろうか。残念ながら、一度目に見たときの感情を細波は忘れてしまっていた。
「時間が巻き戻っている……。思った通りだな。やっぱり、あの魔族は取り引きを成立させるために時間を巻き戻す……」
石の寝台から裸足のままで降りれば、ぬるりとした液体で細波は足を滑らせた。油断していたせいもあって、派手に尻もちをつく。
「くそっ……。こんなときに何をしているんだよ」
受け身も取れなかった自分の運動神経に、細波は苛立ちを覚えた。人並程度の運動能力しか持たない細波は、仲間である縁や落葉が羨ましくてたまらなくなるときがある。
彼らの身体能力は、他の追随を許さないほどに飛び抜けている。だが、細波の体力は並み程度だ。そんな自分だからこそ銃の腕を磨いたのだが、武器がなければ簡単に無力化する自分がこのような時は情けなく感じられた。
「あれって……」
細波は、二十センチ程度の石像を見つけた。良く出来ているとは言い難い石像は、男の裸身を形作っている。材質は大理石なのだろうか。拾い上げれば、つるつるとした感触が気持ち良い。
「神様か……。いっそのこと俺の命で世界を救ってくれたらよかったのに」
細波は、神様の像に付着した血に気がついた。
尻もちをついたせいで無意識に床についていた手には、べったりと血が付いていたのだ。細波自信の血ではない。その証拠に、細波には尻もちをついた時の打撲の痛みしかなかった。
神様の像をなでながら、細波は自分が置かれていた状況を思い出す。いいや、正確に言えば半生だ。細波の人生と出会いと家族が、この場に彼を導いたのである。
細波は早くに母親を亡くし、父親は離婚経験のある女性と再婚した。細波と義母との関係は、良好なものだったはずだ。義母は優しい人だったし、幼い細波に気を使ってくれた。
義母の連れ子で、細波の兄となった義兄と父との関係は良好だった。細波と義兄は歳が少し離れていたので打ち解けるのに時間がかかったが、しだいに本当の兄弟のように慕い合うようになっていったのだ。
理想的な再婚。
数年間は、絵に描いたような幸せの中に細波はいた。
しかし、父の病気が発見されてから幸せは徐々に崩れていった。入退院を繰り返す父は、幼い細波だけには「心配ない」と言っていた。しかし、妻と兄には自分の本当の体調を正しく伝えていたのである。
父の病気は、悪かったのだろう。
母は宗教に救いを求めて、それからは家族の崩壊が待っていた。
父の治療費に手を出すという事はなかったが、母は生活費を教団に捧げるようになってしまった。このままでは生活が出来なくなると判断した兄は、細波を連れて祖父の家に避難したのである。
細波の祖父の元では自分は厄介になれない、と兄は考えていたようだ。兄の祖父たちは亡くなっていたので、自分だけ実母と暮らそうとしていた。
だが、狂った家庭で学生の兄が暮らすのは不憫だと細波の祖父は判断した。子供の再婚で孫になった兄も引き取って、自分の家に住まわせることにしたのである。
祖父の家で血の繋がっていない兄弟は、ひっそりと暮らした。祖父祖母は良くしてくれていたが、何故だか子供らしく騒ぎ立てることに罪悪感を細波は覚えていた。
義母が狂ったのは実父のせいで、実父の病は自分が苦労をかけたせいだ。
そのように幼い細波は考えて、常に罪の意識に苛まれていたのである。義兄は、そんな細波のことを気にかけてくれた。学業の傍らバイトに精をだしながら、暇な時間は出来るだけ細波と共に遊んだ。
近所でも宗教の深みにはまってしまった母の噂は有名になっていたので、友人たちは細波に対して距離を取っていたのである。一人で遊ぶことが多かった細波にとっては、兄と遊べる時間は嬉しいものだった。
——私が社会人になったら、一緒に住みましょうね。私たちは兄弟なのですから。
ことあるごとに兄は、そう細波に言った。高齢の祖父祖母と何時亡くなってもおかしくはない父。油断すれば全ての血縁を失ってしまいそうな細波に、兄は安心感を与えたいのだろう。
細波は、そう考えていた。
中学生に進学してからは、しばらくは平穏な日々が続いていたと思う。けれども、街で偶然出会った母から父の様子が危ないのだと聞かされた。
細波が父の見舞いに行くときには家族の誰かが付き添って、母とのバッティングを必要に避けていた。当時からスマホは細波も持っていたが、番号を変えさせられたほどに周囲は細波と母が会うことを恐れていたのである。
だからこそ、最初こそ母のことを警戒した。
だが、いくら宗教に目が眩んだ母でも父の状態に嘘はつかないだろう。そのように彼女を信じて、細波は宗教施設の固いベッドに寝ることになったのだ。つまり、父の所に行くと偽られて、母に誘拐されたのである。
「細波、あの人が助かるには心臓が必要なの。血縁者の血で、神様は患者の悪いところを治してくださるのよ」
そんなふうに母が言っていた、後のことは覚えていない。
腕をまくると注射痕があったので、母の仲間が薬を打って細波を眠らせたようだ。眠った細波は、無抵抗のままで祭壇に寝かされて危うく生贄にされかけたというところだろう。
ああ、違った。
生贄にはされたのだった。
兄が魔族と取引をして、時間を巻き戻したから細波は生きているのである。そして、兄は細波を殺すはずだった宗教施設の人間を殺して周ったのであった。
「全部、お前のせいなんだからな」
細波は、床に神様を叩きつけた。意外と丈夫な神様にはヒビの一つも入らず、細波は虚しくなって少し笑う。全てが上手くいかなくて、心が疲れていた。
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