第5話未来を誰も信じない


 怖いと有名だった高校教師は、一方的にまくし立てるという駄目な上司のような対応をして俺に着席を許した。


 俺がちらりと周囲を伺えば、教室の生徒たちは男女共に青を基調としたブレザーの制服を着ていた。俺も同じ制服を着ているので、このクラスの一員であることには間違いない。そして、教室のなかには、未だに覚えている顔もちらほらとあった。


 特に、隣の席の鈴木。


 彼とは修学旅行で、一緒のグループになった仲だ。いらなくなった鹿せんべいを押し付けられたと記憶している。そんな鈴木は「ご愁傷様」という顔で俺を見ていた。俺として戸惑うことはあったが、教師を恐ろしく思うようなことはない。


 高校時代は理不尽と思いながらも萎縮した教師の怒りさえ、今となっては勝手に怒って一人で沈静化するという変人の行動に思えていたのだ。


 これは夢なのだろうか。


 高校生の肉体には、大人の俺の精神が入り込んでいた。自分は高校時代の教室にいるし、厳しい訓練を知らない掌は柔らかい子供に近いものだ。俺の掌は、もっとゴツゴツとしていたはずである。そもそもとして、俺は魔族の男と戦っていたのではなかったのか。


「いや、どっちが夢だ……」


 魔族の男と戦っていた記憶が偽物――夢だったのだろうか。だとしたら、ほっとしてしまう。モンスターが世界に跋扈し、それと戦う世界など夢の方が良いに決まっている。たとえ、そこに忘れがたい出会いあるとしても。


 そんなことを考えていれば、頼りないほど小さくなった消しゴムが小指に当たった。丸くなった消しゴムは、ゴミと言ってもいい。それを見て、俺はぞっとする。


 この消しゴムこそが、俺にとっては忘れられない記憶の一つだ。


 この後に小テストがあるのだが、消しゴムを買い替えるのを忘れた俺は休み時間に一階にある購買部に買いに行ったのだ。そのとき、モンスターの群れが学校に雪崩込んできたのである。


 一階にいた俺は校庭に出ることによって、モンスターたちから逃げることが出来た。しかし、ほとんどの生徒が追いつめられるように上の階に逃げてしまって……最終的には逃げ場を失った生徒の大多数が死んだのだ。


 願うような気持になって、俺は黒板に書いてある日付と時間を確認する。モンスターの襲来の日にちは合っており、襲撃まで時間も後十分しかなかった。


 このままでは、前の通りに全員が死んでしまう。何とかしなければならないと思った俺は、考えるよりも早く立ち上がった。


「逃げろ!今すぐに校舎を出て、バラバラに逃げるんだ!!そうすれば、追い詰められて死ぬようなことはないはずだ」


 立ち上がって叫んだ俺より、大きな声で教師は怒鳴る。その顔は鬼のようだったが、今の俺には作り物のようで恐ろしさなど全くなかった。それよりも恐ろしいものを知っていたからだ。


「授業を妨害するな!お前の勝手な行動がクラスの和を乱しているんだぞ!!」


 唾を飛ばしながら怒る教師に向かって、俺は舌打ちをする。俺は苛立って、自分でも表情が険しくなっていることを自覚する。


 そんな俺の表情が恐ろしかったらしい。教師は、俺の表情だけでたじろいでいた。


「仲良く心中するのが、クラスの和をかよ!」


 心中という暴力的な言葉に、クラスメイトたちはざわめいた。


 無理もないだろう。


 この時代は、ダンジョンの出現はあってもモンスターはまだ外に出てはいない。死が身近は時代ではないし、戦うことなど考えない時代である。心中など強くて怖い言葉は、日常では絶対に使われない。


「あと、十分もしない内にモンスターの群れがやってくる。三階の教室にいたって、追い詰められるだけだ。だから、出来るだけ速く逃げられる一階に行け。携帯以外の荷物は持とうとするなよ。邪魔になるだけだ!」


 クラスメイトは、半信半疑という顔で俺の話を聞いていた。モンスターはダンジョンから出られないというのが主流の考えのなかでは、俺の考えなど妄言に過ぎない。どうすればクラスメイトを説得できるかと考える中で、何とも呑気な声が聞こえてきた。


「先生。モンスターが学校を襲ってくるかはともかくとして、SNSではダンジョン外にモンスターが出てきているって騒がれますよ。寝ぼけた人間の戯言としては確りしているし、投稿は多くある」


 俺の意見に肯定的な反応をしてくれたのは、伊津羽衣という男子生徒だった。遅刻の常習犯である彼が賛成したのは、この後の数学の小テストが潰れるかもしれないと考えたからだろう。それぐらいにはズボラで有名な生徒なのだ。


 これは、悪手だった。


 羽衣が賛成したせいで「お前もサボりたいだだろ」と言って、俺の話が笑い話に変わってしまいつつあった。不真面目な羽衣の信頼度が低すぎるのが憎い。


「じゃあ、お先に。時間もないみたいだし」


 だが、羽衣が立ち上がると空気が変わった。いくらズボラな羽衣であったとしても、授業をボイコットするような人間ではない。


 羽衣が言ったことは本当ではないかと疑った生徒たちは、恐怖と不安にかられてSNSをチェックしはじめる。そして、モンスターの行動の変化を知る者は多くなった。


「わ……私も行こうかな。なにもなかったら、次の授業までに戻れば良いんだし」


 おかっぱ頭に赤い眼鏡をかけた学級委員長の野崎充が、震えた声で発言する。リーダーシップの欠片もない彼女は、学級委員長という職さえも周囲から押し付けられてしまっている。とても気弱な少女なのだ。それ故に、不安に耐えきれなかったのだろう。


「ちっ、時間か」


 このままでは、俺までモンスターの群れに巻き込まれる。本当は学校の生徒を全員避難させたいが、今の状況では無理な話だった。


「上には逃げるなよ。いいか、絶対だからな!」


 最後の忠告をして、俺は教室を出た。充が「待ってよ」と言って、俺が置いて行けと言ったはずの鞄を後生大事に抱えてついてくる。その顔は、とても不安そうだった。


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