終章


 坂本さんが亡くなった日、坂本さんの妹の長瀬さんから坂本さんの手紙を頂きました。託されたと言うのかな、いえ、戻された、かも。だってそれは、私の母が坂本さんに送った手紙だから。本人ではないけれど、娘の私の元に返ってきたって感じです。

 一番古いものはざっと六十年前に送られたもの。六十年も前から続いていた二人の会話の記録。まあ、六十年ずっと続いていたわけではありませんけどね。実際やり取りしていたのは二十年ほど。それでも十分長い期間だし、母が送った手紙だけでも197通もある。おそらく坂本さんも同数の手紙を母に返していたはず。そしてそれも今は私の手元にある。二人のやり取りの記録、いえ、記憶がすべて私の所にある。

 いつか両方を並べて、交互に読んでいってみようかな。なんだか人の生活を覗き見るみたいで楽しみ。悪趣味かな? まあ、老後の楽しみにでもしよう。それだけ時間が過ぎれば、二人も二人のやり取りを覗かれて怒りはしないでしょう。って、そんなことはもう少し後になってから思ったこと。


 長瀬さんから手紙の入った箱を受け取った私は、それを更衣室に置きに行きました。その時にロッカーに入れてあった個人のスマホを確認。ショートメールが届いていました、サキさんから。先日すみれさんに会った時、電話番号を交換しました。すみれさんから私の番号を教えてもらったのでしょう。

『お昼までにケイちゃんの病院まで行く。ランチしない?』

受信時間は九時半ごろ。今はもう三時に近い時間、ランチって時間じゃありません。サキさん、まさかお昼に来てたのかな? 待ってたかな? と思ったけれど、来ていたのならそう言うメールも送ってくるでしょう、今どこにいる、とかって。

『すみません、今日はドタバタしてて今やっと休憩です。また連絡します』

そう返信して病棟に戻りました。


 そしてここからは前回の続き。なんだか、終わり、ってなってたみたいだけど、終わり、の続きがあってごめんなさいです。

 仕事を終えて、夕焼け空を見ながら職員住宅に向かって歩き始めたら、

「ケイちゃん?」

と、後ろから声を掛けられました。振り返るとサキさんがこちらに歩いて来ていました。この前すみれさんの所で電話で話したけれど、三十年ぶりくらいで会うサキさん。母と同い年だから今年七十一歳、すっかり見た目はおばあさん、かと思ったけれど、意外と若く見えました。意外、なんて言ったら怒りそうだけど。だからと言うわけではないけれど、一目見てサキさんだと分かりました。

「ええっ、サキさん、来てたんですか?」

「よかった、やっぱりケイちゃんだった。うん、待ってたの」

待ってたって、お昼から? もう六時過ぎですよ。

「そんな、今まで? すみません」

「ううん、忙しかったんでしょ? こっちは暇だからいいのよ」

「でも、すみません、ほんとに」


 すっかりおばさんになっちゃったわね。だって、娘がもう大学卒業しちゃいましたもん。なんてことを言いながら、サキさんを職員住宅の一階に連れて入りました。この前長瀬さんとお話ししたところ。時間が時間なので夕食をと思ったけれど、お昼を食べずに私を待っていて、私のメールを見てから食べたのでお腹が減っていないと言われました。なのでここで話すことに。ちなみに、私はお昼食べていないのでペコペコだったんですけど。

 イスに座りながらこう言いました。

「でもどうしたんですか、今日は?」

「どうしたって、あんたの顔見に来たんでしょ」

「ええっ?」

「ほんとに、三十年も隠れててどういうつもりよ」

「そんな」

「私、ケイちゃんに嫌われること何かしたかなって悩んだのよ」

「そんなこと、別に隠れたつもりないですし」

「でも、学校出た後の引っ越し先、連絡してこなかったでしょ」

「……」

それはそうだけど。

「私も出産とかで一年くらい空いちゃったんだけど、生まれて半年くらいの優香抱えて行ったのよ」

「えっ?」

「あんたに見せようと思って。そしたら、もうここにはいませんとかって言われちゃって」

「あっ、学校の方の寮ですか?」

「そこしか知らないんだから、そこにしか会いに行けないでしょ」

「ですね、隣にいたんですけどね」

「隣?」

「はい、学校卒業して隣の看護師寮に移ったんです。私、そのままあそこの病院勤務でしたから」

「そうだったの。でもそんなこと教えてくれなかったから」

看護学校の寮の受付にいた方は愛想が悪い人だったかも。いつも不機嫌そうな顔してたし。

「すみません」

「まあいいわ、生きてるうちにまたあんたに会えたから」

生きてるうちって、大げさだよ。って、そうでもないか。あの日すみれさんのお店に行かなかったら。そして美鈴さんが気を利かせてすみれさんを呼んでくれなかったら、ほんとにもう会うことはなかったかも。ほんとに、ほんの少しのことで、この時間はなかったかも。


 サキさんが自販機で買ってくれたコーヒーを飲みながら、お互いのこの三十年を簡単に話しました。そして話は母のことに。

「しーちゃんが死んでもう三十年になるんだね」

「ですね」

「死ぬことなかったのに、ほんとにバカ」

「……」

少し寂しい口調になったサキさんでした。

「自殺するような子じゃなかったんだけどね」

「サキさんから見てもそうですか?」

「そうよ。ケイちゃんはどう思う?」

「私も、自殺するような人には見えませんでした」

こんな話、思えば今までしたことなかったかも。三十年も経ったから出来る話かな。

「そうでしょ? しーちゃんは意外と図太いとこあったんだから」

「そうなんですか?」

「図太いって言うかね、鈍いのよ。何かあってもそんなに気にしないっていうの? ひどい目にあってるのに、こうなっちゃったんだからしょうがない、って感じでやり過ごしちゃうの」

「……」

そういうところあったかも。

「そのくせ人のことにはいろいろ細かいことに気が回って、うるさいとこがあったけどね。なんて言うの? あれ、ああ、お節介ってやつ」

うんうんと、私は頷いてました。

「そのお節介、もっと自分に焼いとけば違ったかもしれないんだけどね」

サキさんのその言葉にはなんだか頷けませんでした。母は自分のことにもお節介を焼いていた。自分の中で、人に焼くより何倍も。それも余計な、無駄なお節介を。それが積もり積もってあの結末に至った。この数日で、私はそんな風に母のことを理解していました。

「ケイちゃんも気をつけなさいよ」

サキさんがそう言います。

「えっ?」

「境遇的にはしーちゃんと似たようなもんなんだから。ケイちゃんも似たようなところがあるかもよ」

「そんなことないですよ」

「分かんないわよ、そういうことも遺伝するかも」

「私は母とは全然違いますから。高校も中退じゃなくて卒業させてもらったし、その後の学校まで行かせてもらえましたから」

そう言うとサキさんが少し変な顔をしました。そしてこう聞いてきました。

「それ、しーちゃんから聞いたの?」

「えっ?」

「高校中退したって」

そっか、私は知らないことになっていたんだ。実際つい先日まで知らなかったし。


 ちょうど目の前のテーブルに置いていた紙袋を見ました。坂本さんの手紙が入った箱が入っています。なので、実は、と、手紙の話をしました。

「そうだったの。じゃあ全部知ってるのね、高校を辞めた後、どんな生活してたかも」

サキさんがそう言います。

「はい」

「そう、ショックだった?」

「……ええ、まあ」

「そうよね。でも、さっき言った通りだから」

「えっ?」

「しーちゃんはそれでも笑顔だったから」

「……」

「そんな生活でもちゃんと前向きに楽しんでたから」

「そうですか」

「前向きじゃなくて、しーちゃんらしくかな。ずっとホステスやってても、全然お水っぽくならなかったからね」

「はあ」

それはそう言われても分かりません。

「まあ、そんなしーちゃんだったからマサさん、ケイちゃんのお父さんの目に留まったのよ」

「そうなんですか?」

「そうよ。マサさんって面食いで、美人のいい女タイプにばっかり手を出してたの。しーちゃんは背も低いし子供顔のかわいい系でしょ? それまでのマサさんだったらつまみ食いもしなかったタイプ。それがね、しーちゃんに会った途端、しーちゃん一人になっちゃったのよ」

「……」

「マサさん、しーちゃんに会って一緒に住んでた女、追い出したのよ。それでその後しーちゃんと暮らすようになった。みんなね、陰で言ってたの、しーちゃんはいつ捨てられるかなって。そしたら何年か続いた後、マサさんがしーちゃんをお店やめさせたって聞いたから、とうとう捨てられたんだって心配したのよ。そしたら何、すぐに入籍? で、子供が出来たとかって、ほんとにみんな驚いたんだから」

当時を思い出すような目をして話すサキさんを、なんでこんな話になったんだろう、と思いながら聞いていました。そして何も考えず、こんなことを言ってました。

「でも私、お父さん、マサさんの子じゃないですよね」

「……」

サキさんが目を上げて無表情に私を見ました。

「私、紘一さんの子ですよね?」

サキさんはほんのしばらく同じ目で私を見続けた後こう言います。

「目が似てるから?」

「……」

私は何も言いませんでした。何も言わずにサキさんを見返していました。するとサキさんはテーブルの上の紙袋に目線を移して、

「しーちゃんがそう言ってた?」

そう聞いてきました。




 昭和五十九年 秋 浪江の回想


 コウちゃんが死んでもう一年以上。もうとっくに涙も出なくなって、悲しい、と深く心が痛むこともなくなってきた。それにお水も辞めた。夜の世界とはおさらば。来月からは工場の倉庫勤め。ちゃんとした昼間の仕事。お給料は何分の一になるの? って計算するのも怖いくらいだけど、これで普通の女に戻れる。

 明日は新しい勤め先の近くのアパートへ引っ越し。荷造りは少し前に終わった。終わっちゃって何もかも箱の中だから部屋では何もできない。なので出掛けました、馴染みのお店にお別れの挨拶がてら。北区の方に行っちゃうからこれからはそうそう通って来れなくなる。

 風が涼しいから、少し寒いくらいに変わった季節。歩きながら考えていました、しーちゃんのことを。去年の夏、コウちゃんが死んだ事件の後、しーちゃんは瀬戸に引っ越した。そのあと会っていない。会いたくないわけではないんだけど、なんだか避けています。コウちゃんが死んだことで、しーちゃんの顔を見るのが辛くなりました。嫌いになったわけじゃないんだけど、辛い。でも、そろそろ会わないといけないな。でないとこのまま一生会えなくなっちゃいそう。

 そんなことを思いながら喫茶すみれの扉を開けました。

「いらっしゃ……なみちゃん!」

その大きな声にその主の方を見ました。見なくても声で誰だかすぐに分かったけれど。そう、カウンターの中にしーちゃんがいました。

「ええっ、なんで?」

まさか帰って来たの? またここで働き始めたの? そう思いながらカウンターへ行きました。

「ちょっとお手伝い。久しぶりだね」

しーちゃんが笑顔でそう言います。

「お手伝い? また働き始めたの?」

私は、久しぶり、の言葉も無しにそう言いながら、しーちゃんの目の前のイスに座りました。

「ちがうちがう、久しぶりに顔出したら、買い物行ってくるからってママさんに店番頼まれちゃったの」

「そうだったんだ」

「ほんとに久しぶり、会いたかった」

「うん、そだね。もう落ち着いたの? 瀬戸は」

「うん」

「うまくいってる? 叔母さんと」

「うん、大丈夫」

「ケイちゃんは? 元気にしてる?」

「うん、元気元気。今、真っ黒だよ」

「真っ黒?」

「日焼け、テニス部に入ったから、夏の間に真っ黒になっちゃった」

「そうなんだ、そっか、もう中学生だもんね」

「うん」

「部活頑張ってるんだ」

「そうね、朝から晩までずっとだからね」

「朝から?」

「そっ、毎朝朝練があるの、七時よ、学校行くの。六時半には出て行くから、こっちはお弁当作るの大変なんだから」

「あ~、私には無理だ」

「中学校も給食にしてくれたらいいのに」

「そだね」

「何にする? コーヒー?」

「う~ん、なんか食べたい。焼きそばいい?」

「うん、ちょっと待ってね」


 焼きそばを食べながらこの一年のことをお互いに話していました。そしてお店を辞めて昼間の仕事に就くことも。その為に明日引っ越すことも。しーちゃんが家の近くのスーパーでパートをしていることも聞きました。

 食後、コーヒーを頼むと、しーちゃんも自分のカップを持って隣に来ました。来た時には二組いたお客さんはもう帰ってしまい、その時は私達二人だけでした。

「ママさん遅いね」

そう言いながらしーちゃんが隣に座ります。

「なんかあるの?」

「ううん、恵子が帰ってくるまでには帰りたいかなって思うけど」

「ケイちゃん何時くらいに帰ってくるの?」

「今は七時過ぎくらいかな?」

「そんなに遅いの?」

「うん、日が暮れるまで練習して、その後コート整備やったりランニングとかするみたいだから」

「そうなんだ。あは、私には絶対無理だ」

「私にも」

そう言ってコーヒーを口にするしーちゃん。

 なんだかしーちゃんとしゃべってるとすぐ昔に戻れてしまう。いろいろと心の中にあったことが消えていくみたい。でも違いました。ちょっと話が途切れたこのタイミングで、和んで油断したタイミングで、それが口から出ちゃいました。

「ねえ、聞いてもいい?」

「うん?」

「教えて欲しいことがあるんだけど」

「何?」

「あのね、……ケイちゃんの父親って誰?」

しーちゃんの顔色がなくなりました。

「なみちゃん……」

「コウちゃんだよね」

「その、……目が似てるから?」

「それもある。だからずっと前からまさかって思ってた」

「そ、それは……」

「でもね、ちょっと前に知ったことがあるの」

「何?」

「血液型」

「えっ?」

しーちゃんが怯えたような顔になった。こんな追い詰めるような言い方するつもりなかったのに。ううん、そもそもこんな話するつもりなかった、一生するつもりなかった。でももう止まらなかった。

「マサさん、AB型だったよね?」

「う、うん」

「しーちゃんO型だよね、ケイちゃんも」

「うん」

「分からない?」

「う、うん、ごめん」

「AB型とO型の夫婦からO型の子は産まれないの。A型かB型なの」

「……」

「コウちゃんはA型だった。A型とO型だったらあり得るの、O型の子供」

しばらくの沈黙の後、しーちゃんが口を開きました。

「やっぱりそうなんだ」

「……」

「そうだったんだ」

「……」

「恵子の目がだんだん紘一さんに似てきたから、そうじゃないかって思うことがあった。ずっと前にそう思った。でも思いたくなかった。マサさんの子だって思いたかった」

「やっぱりそういうこと、コウちゃんとあったんだ」

「……ごめんなさい」

しーちゃんが私に頭を下げる。

「一度だけなの。一度だけ、ほんとに一度だけ。ごめんなさい、ほんとにごめんなさい」

「いいよもう、聞いただけだから」

「でも、……ごめんなさい」

「だからもういいってば、責めるつもりなんてないから」

これは本心、多分。だからこう続けました。

「だいたい、責任は私にあるから」

「……?」

しーちゃんが情けない顔をしたまま私を見ました。

「ケイちゃんが一歳か二歳になった頃、コウちゃんの子じゃないかなって最初に思ったの。コウちゃんの目だったから」

「……」

「もしそうだったらって思ったら、正直に言うね、腹が立ったよ。しーちゃんとコウちゃんの両方に、すごく腹が立った。マサさんに言ってやろうかとも思った。でもね、少し考えて気付いたの」

「何に?」

「コウちゃんとしーちゃんがそういうことしたのいつだろうって。そしたらね、悪いのは私だって思った」

「……」

「その頃に私浮気したの。パープルに新しく来た人と。パープルのあの部屋にわざわざ行ってしてたの」

「……」

「バカよね、あそこでそんなことしたらバレるに決まってるのに。で、当然バレたの。でもね、コウちゃんそんなに怒らなかった。怒らなかったけどあんまり話さなくなって、顔を会せないようになって、そしてしばらく帰って来なくなった。その頃だったの」

「……」

「どうせコウちゃん、あんたに泣きつくとか甘えるとかしたんじゃないの? で、あんたはそんなコウちゃんを拒否できなかったんでしょ?」

「……」

黙って私を見ていたしーちゃんが俯いた。

「だから責めるつもりないって言ったでしょ。私が悪いんだから」

「そんなこと……」

「いいの、聞いてみたかっただけだから、ほんとに」

「……」

しーちゃんは顔を上げたけど何も言わない。

「でもすごいね、一度で子供出来たなんて」

「……」

「私には出来なかったのに、それだけは羨ましい。って言うか腹立つ」

「なみちゃん」

「うそうそ。でもなんか良かった」

「……」

「ケイちゃんがコウちゃんの子で」

「えっ?」

「だって、コウちゃんの血が残ってるんだもん。コウちゃん死んじゃったけど、ケイちゃんが生きてるんだもん」

「なみちゃん」

「ありがとね、コウちゃんをこの世に残してくれて」

「そんな」

私はぬるくなったコーヒーを飲みました。するとしーちゃんがこう言いました。

「なみちゃん、今の話、恵子にもする?」

真剣な顔でしーちゃんが私を見ていました。

「ううん、しないよ。聞いただけだって言ったでしょ」

「ほんとに?」

「約束する、絶対に言わない」

そう返したけど、しーちゃんの真剣な顔が変わらなかった。

「なみちゃんはそれでいいと思う?」

「えっ?」

「恵子にほんとのこと言わなくていいと思う?」

そういうことか。

「言った方がいいと思う?」

質問で返しました。

「……分かんない。私だって今の今まで分かんなかったんだもん。ううん、マサさんの子だって思い込んできたんだもん」

「だったらそれでいいんじゃないの?」

「えっ?」

「今の話はなかったことにして忘れちゃって、これまで通りマサさんの子だって思って生きていけばいいでしょ」

「……」

「それに実際マサさんがケイちゃんのお父さんなんだから。父親としてケイちゃんのこと大切にしてたでしょ。マサさん、ほんとにケイちゃんのこと愛してた。それは見てて分かったから。で、コウちゃんは何にもしてないんだから。って言うか、あいつは何にも気付いてなかったかも、ケイちゃん見ても」

「えっ?」

「ちょっとでも自分の子かなとか思ったら、そういうこと言ったり素振りに出るでしょ? そんなの全然なかったもん、コウちゃん」

私はコーヒーを飲み干しました。もう冷たくて苦かった。

「分かった、恵子はマサさんの子、これからもずっと。それでいいのよね?」

「当たり前でしょ? マサさんの子なんだから」

私は席を立ちながら笑顔でそう言いました。

「えっ、もう行くの?」

「うん、ママには落ち着いたらまた顔出すって言っといて」

そしてしーちゃんにお勘定をしてもらって、

「じゃあまたね」

と、戸口へ向かいました。扉を開けて出る前に、

「なみちゃん」

と呼ばれて振り返りました。

「ありがと」

しーちゃんが笑顔でそう言ってました。




「しーちゃんがそう言ってた?」

そう聞かれて私もテーブルの紙袋を見ました。でも口を開く前にサキさんがこう言います。

「なんて書いてあったのか知らないけど、そう書いてあったんならしーちゃんの勘違いじゃない?」

「えっ?」

「ケイちゃん、お父さん、マサさんの血液型知ってる?」

「えっ? いえ、知りません」

そう言えば聞いたことない。そう返すとサキさんは笑顔になってこう言います。

「そう、私も知らないけど、コウちゃんはAB型だった。それで分かるでしょ?」

母はO型で私も一緒。紘一さんがAB型なら、私は紘一さんの子じゃない。

「……あっ、そっか、そうなんだ」

「そういうこと。しーちゃんの勘違い。あんたはマサさんの子よ」

「そうなんですね」

なんだかとっても嬉しい気分でした。

「まあ、確かに目はコウちゃんにそっくりだけどね、怖いくらいに」

「ですよね」

「でもこう言ったらなんだけど、マサさんの吊り上がった目に似なくて良かったわよ」

「確かに、嫌いではなかったですけどね」

「そうなの?」

「はい。父があの細い目で笑うと、ほんとに優しい顔に見えたんです」

「それは言えてるかも。でも、女の子にあの目はなしでしょ」

「あっ、それはそうですね、私も嫌です」

美里に隔世遺伝しなくて良かった。

「でしょ?」

そして二人で少し笑いました。


 サキさんがハンドバッグを持って立ち上がります。

「じゃあまた連絡する。たまには会いましょ」

そしてそう言いました。

「はい」

私も立ち上がりました。

「美里ちゃんにも会わせてよ」

「もちろん」

そして戸口に向かうサキさん。出て行くところで声を掛けました。

「サキさん」

サキさんが振り返ります。

「ありがとうございました」

笑顔でそう見送ると、サキさんが私の顔をじっと見つめました。そして、

「じゃあ、またね」

と、なんだか嬉しそうな顔で帰って行きました。


 お風呂に入って夕食を済ませました。そしてコーヒーを入れて、テレビマンガのキャラクターが描かれた小さな座敷テーブルの前に座りました。あっ、このテーブル、私の趣味ではないですよ。この部屋に入る時、何かないかなと探して、娘の部屋から持ってきた、娘が子供の頃の物。そしてそのテーブルの上には、恵子へ、と書かれた封筒が置いてあります。

 昨夜、当面は読まないと決心しましたが、サキさんとの話で気分が軽くなったので、母の勘違いに付き合ってやろうと言う気になりました。まあ、ほんとは読みたかったんですけどね。いろいろ心に積もって読む決心が出来なかっただけです。


 ハサミで封を切りました。なんだか紙の束が入っています。何枚あるんだろうと思いながら抜き出すと、便箋ではありませんでした。

「半紙?」

折り畳まれた半紙でした。そう、習字に使う半紙です。

 広げてみて、がっかり、脱力、そして、……微笑んでいました。


 自分は疫病神、だから消えなければいけない。そんな母の言葉が坂本さんへの手紙にありました。それが母の理由、そう理解していました。でもそれだけじゃなかったんだろうと思う。本当の理由は違う、そう感じました。

 本当は弱くて繊細過ぎた母、生きていることが辛かった、両親を亡くしてからずっと。だからその辛さから抜け出すきっかけをずっと探していたんでしょう。そう、両親の元へ行くきっかけを。

 両親を失って歩く道が変わってしまった。変わる前の幸せな道に戻ることが母の究極の希望。そして見つけたそのタイミングは、私が私の道を歩き始めること。私の幸せへの道を。母はそう思ったのでしょう。

 そんなことで勝手に一人残された娘としてはたまったもんじゃなかったけれど、まあ、もう30年以上も前のこと、理解してあげよう。だって母はこれを書いた時、もう思い残すことはなかったんだろうと思うから。

 きっと母は笑顔でこれを書いていた、私が大好きだった優しい笑顔で。そして胸を張って両親の元へ行ったのでしょう。両親を亡くした高校生の時に戻って。

 でもまあ、私が母の元へ行ったらこう言うけどね、バカ、って。だから待っててね、まだまだ先のことだけど。私はまだ30年や40年はこっちにいるつもりだから。


 つい先日まで知らなかったことだけど、元書道部の母、うん、きれいな字。その字を笑顔で見つめたままこう言ってました。

「ありがと、お母さん、頑張ってるよ、多分ね」

看護学校の卒業と同時に受け取るはずだった母の最後の手紙は……。


「恵子へ

 おめでとう

  これからも頑張って 母より」




 完




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最後の手紙 ゆたかひろ @nmi1713

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