第二部 05


 普段あんまり使わないうちの車。なので埃をかぶって汚れているのがいつもの姿。だけどきれいに洗車してありました。ガソリンもいっぱい入ってる。主人がしてくれたのでしょう、感謝感謝。

 昨日も坂本さんは目覚めず。なのでちょっと沈んでいたんだけど、家に帰ってきれいな車を見たら少し気分が晴れました。

 瀬戸では家に入らず叔母さんを乗せてすぐに出発。叔母さんは車に乗るなり、わけが分かんないくらいおしゃべりしてくる。出掛けるのを自粛して、家に籠ってる鬱憤が溜まってるみたいです。

 お寺に着いて墓地の方に歩きかけると、

「あんた、お花持って来てないの?」

と、叔母さんが言います。忘れてました。なにせ自主的にお墓参りするのは二回目だから。それに、前の時も忘れてた、いえ、忘れてた以前の問題。持ってくるなんてこと考えてもいなかったから。

「忘れてた」

「もう、お線香は?」

……あはは、そうだよね。

「戻ってどこかで買おうか」

そう言って車に戻り掛けると、そうね、と車に戻りかけた叔母さんが立ち止まりました。

「あっ、なくてもいいわ、多分。お参りだけしましょ」

そしてまた墓地に向かって歩き始めます。面倒くさくなった?

「いいの?」

叔母さんに並んでそう聞きました。

「うん、お線香はしょうがないけど、お花は多分あるから」

意味が分かんない。

「あるって?」

「もうだいぶ前だけど、しーちゃんの命日、五月七日に何度か来たことあるのよ。うちの人の命日も近いでしょ? だから毎年じゃないけどこの時期に来てたから」

叔父さんの命日、四月の二十日くらいだったっけ? 会ったこともない人だからあんまり意識してなかった。と言っても母の手紙を読んで、今ではしっかり頭に刻まれているけど。母に酷いことをした人って。

「でね、五月七日に来るときれいに掃除してあって、お花も供えてあるのよ」

「そうなの?」

「うん、それで一度寺務所に寄って聞いたことがあるの、誰かお参りして下さってるんですか? って」

「うん」

「そしたらね、毎年朝早くに来てる人がいるって」

「えっ、誰なの?」

「分かんない。男の人らしいけど」

「そうなんだ」

誰だろ、まさか坂本さん?

「作業着みたいなの着てることが多いって。乗ってくる車もそんな感じだって言ってた」

坂本さんではないかも。

 そんなことを話しながら通り過ぎる他所のお墓にも、お花が供えてあるところがあります。連休中のお参りでしょう、少し元気のないお花でした。そして辿り着いた大西家のお墓。辿り着いたなんて言うのは大げさだけど、小さなお寺の小さな墓地だから。

 墓石はまだ濡れていて、きれいに掃除してあります。明らかに雑草を抜いたばかりって跡もある。そして、元気いっぱいのお花が供えてありました。ほんとに誰かがお参りしてくれた直後みたい。

「ほらね、誰か知らないけど、今年もお参りして下さってる」

叔母さんが隣でそう言います。

「そうね」

これで坂本さんでないのは確定。だって、坂本さんは今日絶対に来られたはずがないから。

 お墓を見るとお線香は半分も燃えずに消えていました。そしてそのお線香の傍に、小袋に入ったおせんべいが二つ供えてあります。この地域名産のエビせんべい、母が好きだったもの。ほんとに誰だろう。

「これこれ、前もこれが供えてあった」

叔母さんもエビせんべいに気付いてそう言います。

「そうなんだ」


 二人並んでお墓に手を合わせました。叔母さんはどうか分からないけれど、私は手を合わせて目を瞑っただけ。思い立ってお参りに来たけれど、特に何も込み上げて来なかったから。

 顔を上げるとおばさんは一歩下がってしゃがみました。そして地面に膝までつきます。気分でも悪くなったの? と心配したけれど、

「しーちゃん、今日は恵子も来たわよ、ちゃんと見えてる?」

と、地面をさすりながらそう言います。そうだ、母はここに倒れていたんだ。ここで死んだんだ。

 はっきり覚えています、警察の人が見せてくれた写真を。だから私は納骨の時にここに立てなかった。覚えていたのに何で思い出せなかったんだろう。

 私も跪いて地面の石に触れました。石の感触に込み上げてくるものがありました。いろいろ込み上げて来たけれど、心の中で母に告げたのは一言だけ。

(お母さん、坂本さんに会ったよ)


 帰り道、高速に乗る前にお昼を食べました。途中の道で見つけたうどん屋さん。私が親子丼を頼んだら、

「そっか、しーちゃんのお墓参りに来たんだからそれね」

と、叔母さんも親子丼。その後の帰り道、叔母さんはすぐに寝てしまいました。

 叔母さんを送って瀬戸まで帰ってきました。同じ瀬戸だけど、以前母と暮らしていた大きな家ではありません。叔母さんのご両親が住んでいたという小さな家。大きな家は私が刈谷に行って数年後、叔母さんの息子、俊介さんが会社を倒産させたときに取り上げられたのです。

「お茶ぐらい飲んでいきなさい」

と、叔母さんに言われて家に上がりました。

 そう言われたけれど叔母さんにさせるわけにはいかないので、お茶の用意をしながら叔母さんに尋ねました。

「俊介さんは?」

どう見ても叔母さん一人で暮らしているように見えたから。居間の座敷イスに座りながら、少し言い辛そうに叔母さんがこう返してきます。

「また塀の中、今度は長そうよ、三度目だからね」

「ええっ?」

今度は何やったんだろう。俊介さんは、会社を潰した原因でもあるんだけど、悪い人たちと付き合っています。会社を潰した後、すぐに詐欺で捕まりました。そしてその次は詐欺と強盗未遂。

「もういいのよ、あの子のことは、どうしようもないんだから。……もう誰にも迷惑掛けないように、ずっと入ってればいいのよ」

そう言われたらもう何も聞けません。言いたくないだろうし。

 お茶を持って座敷テーブルに着くと、

「ところで、どうしてお墓参りしようと思ったの?」

湯飲みを受け取りながら叔母さんがそう聞いてきます。

「うん、ちょっと」

「ちょっと何?」

「……」

「何なのよ」

う~ん、まあ、話してもいっか。

「あのね、お母さんが文通してた相手の人が今、私の所に入院してるの」

「えっ?」

「偶然なんだけどね、知ったのは。それでなんだか最近お母さんのこと思い出しちゃって」

「そう」

「うん」

なんか変、叔母さんのリアクションが薄いような気がする。もっと驚いてもいいんじゃないの? 偶然じゃ有り得ないくらいのことなんだから、そう、偶然じゃ。

「そう、坂本さん、入院してるの」

叔母さんのこのセリフに私の方が驚きました。

「なんで知ってんの?」

ちょっと声が大きくなっちゃいました。

「えっ?」

私の声にだろうけど、叔母さんも少し驚いた顔をします。

「坂本さんのこと、名前」

叔母さんは母が持っていた坂本さんからの手紙を見たのかも知れないけれど。

「えっと、それは……」

なぜだかまた言い辛そうな顔をする叔母さん。やがて観念したように私を見ると口を開きました。

「もう話してもいいと思うから話すわね」

「……」

「あのね、あなたの学費、坂本さんが出してくださったの」

「えっ?」

なに、その話。

「その、恥ずかしい話なんだけど、あなたが刈谷の学校に入った頃、うちね、お金なかったのよ。その、俊介が持ち出してたから。しーちゃんには心配ないって言ったけど、初年度のお金もだいぶ無理して作ったの」

「……」

全然知らなかった話。言葉が出ませんでした。

「だからね、二年目以降のお金は算段できなかった。しーちゃんが入れてくれるパート代を当てにしてなんとかって考えてたけど、しーちゃんがあんなことになっちゃったから」

「それで、なんで坂本さん? 叔母さんはその前から坂本さんのこと知ってたの?」

「ううん、あの人が、坂本さんがうちに来たの、しーちゃんを訪ねて」

「いつ?」

「しーちゃんが死んで二か月くらい経った頃かな」

「それで?」

「しーちゃんから変な手紙をもらって、すぐに返事を出したんだけどその返事が来なかったから、とかって言ってたと思う」

最後の手紙だ、あの手紙を読んで心配して来てくれたんだ。

「しーちゃんが死んだことを告げてお線香をあげてもらった。そしたらね、あんたのことで力になれることはないかって言ってくれたの。でも、お金がないなんてみっともないこと言えないから言わなかったわよ。

 それでもね、真剣な顔でほんとに何もないかって、出来ることは何でもするって、何度もそう言うの。それでもお断りしてたのよ、初めて会った人にそんなこと頼めないでしょ。私はどこの誰とも知らない人なんだから、正直、少し警戒もしてたしね。

 そしたらね、一応納得してくれたの。それからしばらくしーちゃんのこと話してた。手紙をやり取りし始めたいきさつとか聞かせてもらった。しばらくじゃないわね、結構長い時間お話ししてた。

 で、話すこともそろそろなくなって、お帰りになるかなって頃にこう言われたの。静さんは恵子ちゃんの幸せだけを願っていたって。見守ってくれって頼まれたんだって。だから恵子ちゃんが困るようなことがあったら静さんに顔向けできない、静さんの願いを裏切るようなことは出来ないから、ほんとに何かあったら何でも遠慮なく言って来てくれって。

 その裏切るって言葉、私には痛かった。しーちゃんに大丈夫だと言ったのに大丈夫じゃなかったから。それでなんだか苦しくなっちゃって、話しちゃったの」

俯き加減で話していた叔母さんが顔を上げました。目が合ったけど私は何も言えませんでした。

「まあ、そう言うこと。それで二年目以降のあんたの学費や寮のお金、坂本さんが払って下さることになったの」

そう叔母さんは締めくくったけれど、私の口は開きませんでした。私はそんなにも坂本さんのお世話になっていたんだ。私が看護師になれたのは坂本さんのおかげだったんだ。そんなことが頭の中で回るだけでした。そして、

(お母さん、逝っちゃうの早かったよ、私、最後まで歩けてなかったかもしれないよ。坂本さんに大変な迷惑かけてたよ)

と、心の中で母に言ってました。

 叔母さんがお茶を一口飲んでからこう聞いてきました。

「あんたの所にいるってことは、坂本さん、もう長くないの?」

「うん」

俯いていた私は顔を上げて答えました。

「そう、じゃあ、最後にあんたからもちゃんとお礼言っといて」

「うん」

もちろん言わなきゃいけない。ただ、坂本さんが目覚めてくれないと言うことも出来ない、それが心配。

「あんたには言わないって約束だけど、構わないから、私から聞いたって言っていいから」

「分かった」


 しばらくどちらも口を開きませんでした。二人して黙ってお茶を飲んでいました。気付くとお茶がなくなってる。

「もう一杯入れようか」

そう言って立ちました。

「うん、お願い」

叔母さんのその声を聞きながら台所へ行きました。そしてそこから話し掛けます。

「ねえ、お母さんの遺書、叔母さん持ってるよね」

叔母さんが私を見ました。

「見せてって言ったら見せてくれる?」

私は母の遺書を読ませてもらったことがありませんでした。叔母がまた顔を伏せてこう答えます。

「ごめんなさい、どこにあるか分からないの」

「えっ、なんで?」

お湯を注いだ急須を持って戻りながらそう聞きました。

「ここに引っ越してくるときにどこかに紛れちゃったのよ。どこかにはあると思うんだけど」

「そう」

「どうして?」

新しく注いだお茶に口をつけながら叔母さんがそう言います。

「うん? お母さんが死んだ理由、なんて書いてあったのかなって思って」

叔母さんがまた顔を伏せました。そしてこう言います、ほんのちょっとしてから。

「書いてなかったわ」

「えっ、そうなの?」

「うん、今までありがとうとか、あんたのことをよろしくとか、そんなことだけだった」

「そうなんだ」

私もまたお茶を飲みました。

「あんたの方には書いてなかったの?」

叔母さんがそう言いました。

「えっ?」

叔母さんは私を見ているだけ。

「私のって、なにそれ?」

もう一通あったの? 私宛のが。

「あれ? 渡してなかった?」

「なに、私宛のがあったの?」

叔母さんが申し訳なさ気な顔になります。

「あ~、ごめんなさい、忘れてたかも」

「……」

「恵子宛の封筒もあったんだけど、私の方に、あんたがちゃんと卒業して看護師になってから渡してって書いてあったのよ。ごめんなさい、忘れてたわ」

「それで、それはどこにあるの? それもどこに行ったか分かんないの?」

「ううん、それはしーちゃんの手紙の缶の中に入れたから、そのままあるはず」

「その缶は? どこにあるの?」

「……二階の押入、確か」

「持ってくる」

私は立ちあがって二階に向かいました。一部屋だけある二階の部屋、そこは俊介さんが使っていたはず。ちょっと躊躇い、嫌な予感も抱きながら襖を開けて入りました。俊介さんが使っていたベッドや箪笥がそのままありました。押し入れを開けます。そんなに物は入っていませんでした。その少ないものをかき分けて探したけど見つからない。布団も引っ張り出したけどありません。キャスター付きの机のイス。ちょっと怖かったけど、それに乗って天袋も覗きました。やっぱりありません。気が咎めたけど、箪笥も開けました。やっぱりない。俊介さんがどこかにやった? まさか捨てた? 

 脱力感に覆われていました。お願い、叔母さんの勘違い、一階のどこかにほんとは仕舞ってある、そうであって。と、願うような気持で部屋を出ました。そして襖を閉めて階段を降りようとして、振り返り気付きました。階段を上り切ったこのうす暗く狭い場所。左手には俊介さんの部屋への襖があるけれど、正面に目立たない扉がありました。壁と同じような木材で作られた扉。開けてみました、物入れでした。埃がつかないようにゴミ袋をかぶせた扇風機や衣装ケース、段ボール箱なんかが入っています。その積まれた段ボール箱に並んで三つ重ねて置かれた缶の箱がある。一番上の缶はなんだか歪んでいる。潰れた後、直したって感じ。間違いない、これだ。

 押入じゃなくて物入じゃない。なんて文句も頭には出て来ず、三つの缶を手に取っていました。何十年振りかで目にするその缶の箱。母は恐らく私や父の目に出来るだけ触れないようにしていたので、こうやって間近で見るのは初めて。よく見るとこの缶の箱、あのエビせんべいが入っているものだ。

 三つとも持って下りました。

「そんなに奥の方にあった?」

居間に入って行くと叔母さんがそう言います。

「あっ、俊介さんの部屋の押入かと思って、そっちを先に探しちゃった」

座敷テーブルの上に缶を置きながら答えました。

「ああ、階段上ったとこよって先に言えば良かったわね」

その声を聞きながら一番上の缶のふたを取りました。そして一番上の封筒を手に取ります。宛名は母、裏返すと封が切られておらず、差出人は坂本さんだけど、住所は知立市になっています。どういうこと? 知立に来たのはお母さんが死んでからじゃなかったの? 

「ああそれ、だいぶ経ってから届いたの」

叔母さんが私の手の封筒を見てそう言います。

「なんで?」

「知らないわよ、開けようかと思ったけど、しーちゃん宛だからそのまま入れておいたの」

「そうなんだ。だいぶ経ってってどのくらい?」

「秋くらいだったかな?」

半年ぐらい経ってからなんだ。でもほんとになんで? どういうことなの、死んだ人に手紙を出すなんて。そう思っていたら叔母さんが続けてこう言います。

「その下もそうよ。そっちはしーちゃんが死んじゃって少ししてからだけど」

そう言われて次の封筒を手に取りました。それも封は閉じられたまま。でも坂本さんの住所は大阪の豊中市でした。こっちは母の最後の手紙を受け取ってから出したものでしょう。そして次の封筒。筆書きで、恵子へ、と書かれただけの封筒。

 手に取りました。なんだか厚みと重みを感じます。便箋数枚以上はありそう。どれだけのことを書いたんだろう。そう思いながら封筒を見つめていました。

「読まないの?」

叔母さんがそう聞いてきます。

「うん、持って帰って読んでもいい?」

「そうね、ゆっくり落ち着いて読んだ方がいいわね。母親からの最後の手紙なんだから」

「ごめん、そうさせて」

そう言って取り出した三通の封筒を戻そうとして気付きました、他のとは違う封筒があることに。それは他の長封筒とは違い洋封筒でした。宛名も何も書かれていません。手に取ると重いです。中を見ると写真でした。十数枚の写真が入っていました。

 一番上は幼稚園の卒園式の時。園門の前で母と私が笑顔で写っている。母が若い。小学校に入る年だから私が七歳になる年だ。と言うことは母はまだ二十代。こんな若い母の姿、思い出そうとしてももう出来ない。

 うちにはなぜかアルバムがありません。なのでほとんど写真を見たことがありません。この写真は見たことあったけれど、見たことある写真はそんなにありません。そして、それらは私の手元にはありません。私の手元にあるのは私が撮った物ばかり。それでも数は知れています。今のようにいつでもスマホ、携帯電話を持ち歩いていて、いつでも写真が撮れるなんて時代じゃなかったから。何かあった時に写ルンですを買って私が撮るだけ。

 そういう私が撮った写真はその封筒の中には入っていませんでした。なので古い写真ばかり、私が子供の頃の物ばかり。だから貴重なものばかり、私にとって。

 見ていくと、私が必ず写っていて、時々母も写っています。でも父は写っていない。そう言えばカメラマンはいつも父だった。写真を撮ったこと自体があんまりなかった記憶。そのカメラマンが写っているわけないか。父の姿が見られないことに少しがっかり。ほんとに、もう父がどんな顔だったか思い出せないくらいでした。すると最後から二枚目に父の顔が現れました。思わず笑顔になっていました。私と母も写っている三人の写真。なんでだったかは忘れちゃったけれど、小学校の四年生か五年生の時に家の前で撮った物。カメラマンは確かサキさんだった。

 そして最後の写真。笑顔が引っ込んじゃいました。さっきの写真と並べて見比べてしまう。やっぱり私はコウちゃんに似てるな。そう思いました。最後の写真は私の小学校入学式の時の物。校門の前で親子三人が並んで写っていました。

 私が見たあとの写真を、叔母さんが老眼鏡を掛けて見ていました。そして私の手にある最後の二枚を覗き込んできました。

「あれ? あんたのお父さんってこっちの人よね」

そしてそう言ってきます。

「そうよ」

「そっちは?」

入学式の写真を指してそう聞いてきます。

「お母さん達の友達。お父さんが来られなかったから代わりに来てくれたの」

「なにそれ、父親の代わりって」

「だよね」

「でも何だかこっちの人の方が親子っぽいわね」

入学式の写真を、紘一さんの顔を見てそう言います。

「……」

「目なんてそっくりじゃない」

「……よく言われた」


 叔母さんの夕飯の段取りを済ませて瀬戸の家を出ました。母の三つの缶は持って帰ることにしました。叔母さんが持って帰れって言うから。

 自宅に着いたのは七時前、主人はまだ戻って来ていませんでした。缶から写真の封筒と最後の封筒三つを抜いて、寝室の押入に仕舞ってから自宅を出ました。そして病院の職員住宅に戻り、その日は封筒を開けずに寝ました。




 お墓参りに行った翌日、坂本さんは目覚めず。昨日も目覚めなかった様子です。仕事を終えて部屋に戻ってから、持ち帰った封筒を、恵子へ、と書かれた封筒を目の前に置いて眺めていました。この部屋まで持って帰って来た未開封の坂本さんの手紙。読むつもりだったけれど開封しないことにしました、今のところは。いずれは母に届いた坂本さんの手紙も順番に読んでみようと思います。その時に開封します。でもそれは先のこと、ずっと先のことでいい、おばあさんになってからでも。

 でも私宛の母の手紙、これは別。叔母さんが母からの最期の手紙と言っていたけれど、ただの最後の手紙じゃない、最初で最後の手紙。やっぱり構えてしまいます。特に持った感じでは文量があるように思いました。なのでなおさら構えてしまいました。

 何が書いてあるんだろう、と言う思いはあるけれど、それはなんとなく想像できていました。おそらく坂本さんへの最後の手紙と、大半が似たような内容でしょう。そう、母の告白文、それがほとんどでしょう。はっきり言ってそれならもう読みたくない、そう思います。でも、なぜ死のうと思ったのか、それが書かれているならそれは知りたい。知りたいとずっと思っていたこと。ずっと謎だったこと。私の中で理解出来なかった母の思考。でもそれも坂本さんの手紙に書いてあった。おそらくそれも同じようなことが書いてあるのでしょう。叔母さんの話では、この手紙は看護学校を卒業した私に渡すことになっていた。だからその年齢の私に話す言葉になっているだけでしょう。

 と言うわけで結論、今更読む必要はないよね、ってこと。だってまた辛くなるだけかもしれないから。そう思って昨夜は開きませんでした。そして今、昨夜の結論にもう一つ追加。この数日で感じた様々な思い。坂本さんに読ませて頂いた沢山の母の言葉。それを読んで私の中に沸き起こった沢山の感情。それらが一度治まって、忘れた頃に読もう。

 母が読ませたかった時からもう三十年も経っている。だったら今更慌てて読むことはないよね。

 いずれは読みますよ、だって、読みたいもの。でも、今じゃなくてもいい。そう、もっと心が落ち着いてからでいい。


 翌日、朝から慌ただしかったです、坂本さんの病室が。引継ぎなんてなしに病室に入りました。早朝から脈も呼吸も弱くなっている様子。もう秒読みに入った状態です。

 医師に従い懸命に看護しました。だって、ほんの一瞬だけでもいいからもう一度目覚めて欲しかったから。でもそれは叶わぬことでした。坂本さんは十時前にお亡くなりになりました。

 その日は他にも容体が悪くなった患者さんが数人出ました。私はそちらにまわったので、坂本さんのその後の処置は若い看護師任せ。

 お昼に行けたのは二時を過ぎていました。食堂へ行かず霊安室へ。ドタバタで坂本さんとお別れできていなかったから。それに、起きている坂本さんにはついに言えなかったけれど、ちゃんと顔を見て、落ち着いて言いたかったから、ありがとうございました、って。

 万感の思いを込めて、なんて言うと大げさだけど、そんな気持ちで坂本さんの顔を見て、お礼を言いました。ほんとに、この人がいなかったら、この人が助けてくれなかったら、私は今ここにいなかったかもしれない。看護師になれていなかったかも。それどころか、食うに困って母のような道を歩いていたかも。なんてことはないだろうけれど、そんな可能性がなかったとも言えません。本当にありがとうございました。


 霊安室を出ると長瀬さんがいました。目の前にいました。そしてこう言います。

「森脇さんが入って行くのが見えたから外で待ってました」

「そんな、その、お悔やみ申し上げます」

頭を下げました。

「いいえ、ありがとうございます」

「ほんとに、力が及ばず申し訳ありませんでした」

「何を言ってるの、兄は寿命よ、誰の所為でもないわ」

「……」

しばらく無言でしたが、長瀬さんが廊下のベンチに腰を下ろしながらこう言います。

「兄の葬儀、こっちでやることにしました」

「そうですか」

「私、今、兄の所にいるでしょ? そこに兄が勤めていた会社の方が何人もお見えになったの。それでね、兄はもうダメだって言ったら、葬儀はこの近くでやって欲しいって頼まれたの」

「……」

「だから、兄を見送りたいって言って下さる人がいるところで送ってあげようって」

「……」

「孤独な老人で、寂しい生活をしてるかと思ったけど、そうでもなかったみたい。私の方がよっぽど寂しい生活をしているかも」

「……」

「森脇さん、あなたは兄の最期に立ち会ってらした?」

「えっ、ああ、はい、いました」

「そう、あなたに看取ってもらえたのね」

「……」

「長年恋焦がれた文通相手の娘さんに看取ってもらえた。幸せだったと思うわよ」

「そんな」

「そんなよ、多分ね。兄はあなたのお母さんに恋をしてたのよ。一度も会ったことはないってことだったけど、多分恋してた。手紙が届くのをいつも待ってて、届くとほんとに嬉しそうだった、ラブレターが届いたみたいに」

「……」

「そう言う人だったのよ、兄は」

「……」

何も言えずにいたら長瀬さんが立ち上がりました。そして、

「森脇さん、ありがとうございました」

と、頭を下げます。

「そんな、違います」

急に口が開きました。

「私は、私は、坂本さんを苦しめただけです。沢山助けて頂いて、支えて頂いて、でもそんなこと、ついこの前まで全然知りませんでした。だから……」

長瀬さんが私の手に触れました。

「だからいいのよ、看取ってくれたことでもう全部いいの。兄はそれで十分。兄はそれで幸せだったから」

涙がこぼれました。

「でも、ありがとうも言えませんでした……」

「いいの、今言ったんでしょ?」

私は頷きました。

「だったらそれで十分よ」


 涙を拭いた私に、長瀬さんがベンチに置いていた大きな紙袋を差し出します。

「これ、もう一度あなたにお渡しします」

「えっ?」

「私が持っててもしょうがないから」

「でも」

「受け取って、邪魔なら処分してくれてもいいから」

そして母が坂本さんに送った手紙は、私の手元に来ることになりました。


 勤務を終えて外に出ました。大きな箱の入った紙袋を抱えていました。なんだか遺骨を抱えているみたい、なんてことは病院の出入り口で思うことではないですね。

 日が長くなって、六時過ぎだと言うのにまだまだ明るい。思えばこの数日のことは母の計らいかも。なんでかそんなことを、空を見て思いました。

 急にお墓参りに行きたくなった。おかげで叔母さんと母のことを話す時間が出来た。話せたので坂本さんがして下さったことを知ることが出来た。知ることが出来たから感謝の気持ちを持って看取ることが出来た。そして、看取ることが出来たのもお墓参りに急に行きたくなったから。急に行きたくなって、七日の日に休んだから私は今日出勤していた。そうでなければ私は今日休んでいて、感謝の気持ちを持つこともなかった。感謝の気持ちを持つことも、看取らせてもらうことも出来なかった。

 ほんとに、世の中ほんの少しのことで何がどうなるか分からないな。そう思いながら職員住宅の方を向きました。そっちの空は茜色。その空の色を見ながら、少しだけ後ろめたい思いが湧いてきました。

 私は母にも坂本さんにも、結局、ありがとう、と伝えられなかった。なんとか伝える方法はないのかな。天国に手紙を書いてみようかな。そんなことを思い、夕焼け空に向かって歩き始めました。




 第二部 終わり





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