第二部 03


 坂本さんから手紙をお借りして、紙袋に100通入れて部屋へ持ち帰りました。読んでもいいと言ってもらえたけれど、病室で読ませてもらうわけにはいきません。なのでお借りすることにしました。

 勤務を終えてからナースステーションにあった紙袋を手に坂本さんの病室へ。するとその袋の大きさを見て、

「半分くらい持って行きますか?」

と言う坂本さん。そんなにいっぺんにお借りするつもりはなかったけれど、そうおっしゃってくれたのでそうすることに。

 全部で197通だと教えてくれました。そしてありがたいことに、封筒表の下の方に1から順に番号がつけてあるとのこと。なので1から100までをお借りしました。

 シャワーを浴びた後、夕食を作りながら早速読み始めました。濡らしたり汚したりしないように気をつけながら。気をつけながらでも早く読み始めたかったのです。


 1通目、文通の始まりとなる手紙。どんな風に文通が始まったのかと読んでみたら、お詫びとお礼の手紙でした。文通しようとしていたけれど、その相手には手紙は届かず、それを坂本さんが返送してくださったのが始まりの様でした。

 2通目は手紙の作法も知らずに送った1通目の手紙のお詫びの手紙。そして3通目からは母の日常が内容でした。5通目くらいになるとなんだか子供っぽい文章になってきて笑ってしまうところも。そして気付きました、これを書いている母は中学一年生なんだと。それまでは大人っぽい文章を書いていたけれど、この辺りで慣れちゃったのかな。

 思わず笑顔になってしまうのは文章だけではなく内容にもありました。中学生の母、ほんとに楽しい毎日を送っていたみたいです。そして、娘の私が想像もしなかったくらいお転婆だった様です。

 例えば21通目、中学二年生の二学期。夏休み中に国語の先生が産休に入り、代わりに年配の女性教師が国語の担当になった様子。その教師はとても厳しくてクラス中が嫌っていたようです。


『……五時間目がその先生の授業、なので昼休みに男子二人と私、それと女の子もう一人の四人でカエルを捕まえに行きました。旧校舎の北側の草むらにはカエルがいっぱいいます。すぐに三十匹くらいバケツに捕まえました。逃げないように木の板でフタをして黒板の下に置きました。先生が気付かずに授業中にバケツを蹴飛ばして、足元でカエルが飛び跳ねるように。その先生はカエルとかが大嫌いだって聞いていたから。でも先生は教室に入ってくるなりバケツに気付いちゃいました。そして木の板を取っちゃいました。失敗したと思ったけど大成功。先生は驚いて尻もちを付きました。そして転んだ時にバケツを蹴飛ばしました。カエルが一斉に逃げ出します。先生はお尻を床につけたまますごい勢いで後ずさりました。みんな大爆笑でした。

 先生はすぐに教室から出て行ってしまったのでみんなでもう一度カエルを捕まえました。捕まえたカエルを見て、またやろうね、などと言っていたら教頭先生が来ちゃいました。とってもまずいです。計算外。教頭先生はいつも竹刀を持って歩いている怖い人。教室に入って来て、「誰がやった?」と聞きます。みんな答えませんでしたが、一番前に座る男子が教頭先生に竹刀を向けられて、バケツを置いたのは私達だと四人の名前を言っちゃいました。おかげで私たち四人は放課後呼び出し。職員室の隣の空き教室で机の上に正座させられました。そして姿勢が崩れると竹刀で肩を叩かれました。しばらくすると別の先生が教頭先生を呼びに来て出て行っちゃいました。当然私達は足を崩します。しばらくは廊下をうかがいながらヒソヒソ話をしていましたが、そのうち男子二人はほうきを持って教頭先生の真似をし始めました。片方が正座してもう一人がその肩を叩く。それを交代でやっていました。そのうち私ともう一人の女子も混ざり、いつの間にかほうきでチャンバラをしちゃってました。そこに教頭先生が戻って来ちゃいました。その時の教頭先生の顔はしばらく夢に出てきそうなくらい怖い顔でした。そして私たちはその後、ほうきを足の間に挟んで正座させられました。一生で一番の痛さを味わったかもです。

 家に帰ってから教頭先生にされたことをお母さんに言ったら、裁縫に使っている竹の定規で叩かれました。先生を驚かせて教頭先生にまで怒られるなんて、と言って怒られました。おかげでもうお風呂に入ったのにまだ足にはほうきの型が残ってるし、左腕のお母さんに叩かれたところにはミミズばれが残っています。ほんとに大凶の一日でした。……』


 男の子と一緒にこんないたずらをして、怒られている最中に遊んでしまう。こんな母の姿、今までは絶対に想像できませんでした。母はよく本を読んでいたし、私にも読むように言ってました。あんまり読め読めと言ってくるので反発して読まなくなったくらい。なのでおとなしい文学少女だったイメージ。1通目で文芸雑誌から文通相手を探したって書いてあったのは母らしいと頷けたけど、男子と一緒に率先してこんないたずらをする姿は思い描けません。大体、目立つことをするイメージが思い浮かびません。


 聞いたことありませんでしたが、母は中学時代、書道部だったようです。私は中学、高校時代ともにテニス部でした。日暮れまで練習していたので夏場は帰宅するのが八時過ぎになることがありました。ある時、こんな時間まで部活やってるの? と母に聞かれて、お母さんの頃は違ったの? と聞き返したことがありました。その時母は部活動をしていなかったと言ったはず。あれは高校時代ってことだったのかな。

 47通目、中学卒業間近の三月。母のいた書道部では卒業生が卒業年の干支の文字を書いて残すのが慣わしだったようです。なのでその日、卒業生が集まって最後の作品を書いていたようです。母の中学卒業は午年でした。でもその、午、の字が気に入らなかった様子です。


『……午なんて簡単な字、逆に書くのが難しいです。みんな納得できる物が書けずに悩んでいました。すると家がお寺の池尻君が変な記号のような漢字のようなものを書き始めました。何それ? ってみんなで聞いたら、ボン字だって言われました。ボン字と言うのも分からなかったのでそれも聞いたら、昔のインドの文字みたいです。その字はサクと読んで午年のことだって言いました。なんだかかっこいいです。もう一人の男子はそれを真似すると言い出し、真由美も真似すると言い出し、教えてもらっていました。でも私はなんだか真似するのは嫌でした。なので考えました。そして最高のことを思いつきました。それは午の字が白抜きで残るように字以外の部分を真っ黒に塗ること。乾いた半紙はしわくちゃになっちゃったけどいい出来でした。でも署名が出来ませんでした。なので半紙で短冊を作ってそれに名前を書いて貼りました。

 出来上がったものを先生が見てほめてくれました。でも、署名まで白抜きだったら作品として認めてやるけどこれではだめ、と言ってやり直し。名前まで白抜きで書くなんて無理です。結局普通に書いたものが私の最後の作品になりました。あんなものが学校に残るなんて大失敗って感じです。そして気付いたら、いつの間にか私以外の四人はみんなボン字、後輩たちからも人気がありました。私もボン字にしたら良かったです。……』


 本当に、目立つことを嫌っているかのような姿を私に見せていた母が、こんなに目立つような、人とは違う個性を発揮するようなことを考えていたなんて、新鮮と言うより不思議な感じがしました。それにしても、手紙の中の母はいつも楽しそうです。


 高校に入ると手紙のペースが間延びしました。月に一度くらいのペース。書かれているのは相変わらず楽しい生活の様子だけど。

 高校二年の五月から二か月と少し手紙が飛びます。その間が空いた後の手紙、母の両親が交通事故で亡くなった時のことが書いてありました。さすがに暗い内容。書きながら泣いちゃったのかな、ところどころインクも滲んでいます。私も祖父母が亡くなった時のことなんて詳しく聞いたことがなかったので、興味を持って読みました。

 その後はまた明るい内容の手紙になりますが、なんだかそれまでとは違う明るさを感じました。まあ、両親が亡くなったってことで精神的に何か変わったのかも。

 高校三年生の夏の終わりの手紙。ちょっと不思議な思いで読みました。受験勉強に励むからしばらく文通をやめると書いてあります。就職するつもりで受験はしなかったって聞いた気がするけど。それに、志望校が名古屋大学、母ってそんなに頭良かったんだ。

 そして再開した翌年春の手紙。受験に失敗したから就職した、会社の寮に住んでいます、と言う内容。やっぱり受験してたんだ。

 そしてまたまた不可解な内容が。就職先が普通の会社で事務職になっている。どういうこと? 就職先が見つからずにスナック勤めしたんじゃなかったっけ。それで私の父親と知り合ったって。私にとっては優しい良い父親。でも、最悪の男。

 その後はなんだか不思議な、と言うか、ちんぷんかんぷんな手紙が続きます。私が知っている話とは違う母のOL生活。どういうことなのかわけが分かりませんでした。


 夜勤の日を挟んで、100通を四日間で読みました。100通目は昭和四十五年、母が二十歳の時の物。ゼネコンにいたの? 名古屋高速建設の仕事に関わっているような内容でした。ほんとに最後の20通ほどはよく分からない手紙でした。手紙の内容が事実なら、私が聞いていたことは嘘だったことになる。ほんとにどういうことなんだろう。


 四月最終日の金曜日、世の中は多くの会社がお休みの様です。なぜなら昨日から世間は七連休のようだから。羨ましい、病棟勤めの看護師が七連休取るなんてかなりの覚悟が必要。なんでって? それは……ご想像にお任せします。

 当然私は仕事、読み終えた手紙を持って出勤しました。そして手が空いたタイミングで坂本さんの病室へ。お休み中でした。でも自由に手紙を持って行っていいと言って下さっていたので、残りの手紙と入れ替えました。早速今夜から続きを、と思ったけど、今夜はお休みにして寝ようかな、手紙の所為で最近寝不足だから。本音は、なんだか作り話を読んでいるような最近の内容に、少し興味がなくなっていたかも。

 仕事の方は忙しくありませんでした。いつどうなるか分からない患者さんばかりだとは言っても、今は皆さん安定していたので。それに、中央病院から三人転送されて来ると言う話はなくなりました。三人のうちのお二人が、転送前にお亡くなりになったから。別に通常看護のお年寄りが何人か転送されてくることになっているけれど、それも連休明けって話。うちの病棟に入られるかどうかも分からないし。


 結局その夜から続きを読みました。だって、やっぱり気になることだし、興味もあるから。それに、明日は休みだし。

 何通か読んだ後、妊娠の話でした。私のことだ。ここで、実はお付き合いしていた人がいます、と言うことで父が登場。そしてすぐに入籍、退職、などと話が続きます。そのあたりの文章、なんだか中学生の頃の手紙の様に活き活きしています。入籍が嬉しかったのか、妊娠が嬉しかったのか、とにかくそんな母の思いがあふれる文章でした。

 そして出産間近にまた嬉しさの溢れた文章が。それは新居への引っ越しの内容。私の記憶にもある2DKの狭い家が豪邸のように描かれている。魚焼き機の付いたガスレンジに感動し、シャワー付きのお風呂にも感動。洋式の便座にまで感動している。とにかく部屋も家具も家電も何もかもピカピカに見えている嬉しさがそこにありました。入居した時は新築だったのかな? そう言えば、入籍云々ってところで父の所に引っ越したとかって話はなかったような、その前から同棲してた? でもそんな内容も読んだ覚えがない。

 そしてその一か月後くらいに最大級の喜びに溢れた手紙が続きました。もちろん出産報告の手紙。私が生まれた時、母がこんなに嬉しい気持ちでいてくれてたなんて。ううん、父の喜びようまでたくさん書いてありました。こぼれる前に拭っちゃったけど、涙で文字が滲みました。

 その後の手紙には、私の記憶にはないけれど、十分想像できる生活の様子が書かれていました。有名なあさま事件の最後の日。テレビに釘付けで会社に行かない父に、ハラハライライラしたことなんかが書かれていて笑っちゃいました。


 手紙の内容は基本的に私のことばかりになりました。赤ん坊だった私が何をしたとかそんなことばかり。自分の記憶にはないことなので面白く読めました。私に何か起こったり、何かやらかしたりするたびに、両親が慌てたり、困ったり、喜んだり、そんな姿も想像出来て楽しめました。

 そして134通目、私が三歳になる年の初夏の日の出来事。


『……主人がトイレに行ったと思ったら、一緒に日向ぼっこしていた恵子が大声で泣き始めました。それも今まで聞いたこともないような悲鳴のような泣き声。慌てて台所から恵子の所へ駆けつけました。恵子は私にすがりついて少し泣き声が治まるけれど、何で泣いたのかは分かりませんでした。

 窓枠にでも頭をぶつけたかな? と思って頭を確認するけどコブもないし、恵子も痛がっている様子はありませんでした。何だろうと思って他の部分を確認すると、左足の甲に丸く赤くなっているところがありました。直径5ミリほどの赤い丸。どうやらそれが原因のようです。恵子もそこを痛がっている様に見えます。でも何の痕だろう、何か足の上に落とした? そう思いながら足に触れても痛がる様子はありませんでした。指先も動いているから問題なさそう。でも、赤くなっている部分に触れると、泣き止んでいた恵子が痛がると同時にまた泣き始めました。

 恵子がいた周りを見ると、畳の上にタバコの吸い殻が一つ落ちていました。トイレに立つ前、主人はタバコを吸っていました。ひょっとして消したつもりのタバコが完全に消えていなくて、煙が上がる吸い殻に興味を持った恵子が灰皿から手に取った? そして、主人の真似をして消そうとして自分の足に押し付けた? だとしたらこれは火傷だ。私はそう理解して恵子を抱えて台所へ。流しに恵子を立たせて水道の水を足に掛けました。

 トイレから出て来た主人が医者に連れて行くと言うけれど、今日は日曜日。お医者さんは休みです。それにこの程度の火傷なら冷やしてやれば大丈夫。私はそう言ったけれど主人は病院に行くと言って聞きません。おかげで恵子の前で喧嘩しちゃいました。

 結局、吸い殻を恵子の前に置きっ放しにした主人が悪い、と言う私の言葉に主人が負けてくれました。なのでついでに、今後我が家では恵子の手の届くところに、タバコや灰皿を置かないと約束させました。……』


 謎が解けました。私の左足の甲には1センチ弱くらいの丸い火傷の痕があります。今では探さないと分からないくらいだけど。いつついたものなのかずっと謎でした。まあ、特に気にしていなかったので母に聞いたこともなかったけれど。でもこれで分かりました、こんな小さな頃についたものだったんだと。

 その後も私とのことが手紙の中で続きます。幼稚園の頃のことは覚えがあるようなないようなって感じだったけれど、読んでいて懐かしい気分に浸れました。


 私がそんな気分になることをどこかの誰かが知っていて、あらかじめ用意してくれていたかのような翌日の休み。感染予防のため不要不急の外出は控えましょう、と叫ばれている今の時期に、看護師なんて職業の私がしてはいけないこと、と分かっているけれど外出しちゃいました。誰ともしゃべらず一人で出歩くだけなら、と割り切って。だって、どうしても昔住んでいたところを見たくなったんだもん。見てどうするの? って気持ちもあったのだけど、見たい気持ちが勝ちました。

 名鉄犬山線で名古屋駅に出て地下鉄桜通線へ乗り換え。連休中だけれど、まだ午前の早い時間だったのでそんなに混雑していませんでした。

 桜通線の高岳駅で下車しました。私がここ(東区)に住んでいたのは小学校六年生の途中まで。なので初めて利用する駅です。小学生だったから地下鉄に乗ることがなかった、と言うわけではなく、この駅がまだなかったのです。駅以前に桜通線自体がまだありませんでした。桜通線が開通したのは、私が高校を卒業してからだったかな。

 住んでいたところに近付いても、景色にそれほど馴染みがありませんでした。記憶が不鮮明ってわけではありません。それほど景色が変わっていたってことです。覚えているままの部分も沢山あるけれど、それ以上に変わった部分がすごすぎました。一言で言うならキレイになっている。いえ、なり過ぎている。もっと家なんかが密集したごちゃごちゃしたところだったのにな。

 両親と住んでいた三階建てのマンションはまだありました。途中の景色の変わり様からなくなっているかもと思ったけれど。目の前の道から建物を見上げました。こうやってここからこの建物を見るのは三十八年ぶりのこと。引っ越しの日、タクシーに乗る前に見たのが最後。いろいろあって結構複雑な思いをいっぱい抱えながら乗り込んだタクシーだったけれど、今となってはどんな思いを抱えていたのか忘れちゃってる。

 建物の左側の道にまわりました。二階の左端が住んでいた部屋だから。台所の窓が開いていてクリーム色のカーテンが見える。住んでいる人がいるんだ、と言っては住んでいる人に失礼ですね。見た目は十分に古くなっているけれど、まだまだ住めそうな建物には見えました。

 両親や友達と遊んだ裏の公園はなくなっていました。公園の向こうに立ち並んでいた家が大きなマンションに変わっていました。そして公園はそのマンションの駐車場になっていました。裏にこんなマンションが建っちゃったらもうお日様は当たらないだろうな、なんて思ってしまいました。


 目的はあっけなく達成されちゃいました。まあ、まだあるかどうかって確認して、あっても外から眺めるだけ。それだけのことなんだからあっという間に終わって当然ですね。公園でもまだあれば、そこで思い出にでも浸れたかもしれないけれど。

 ついでにと、小学校へ向かいました。毎日通った通学路の風景も一変していました。国道19号線は広くなっている。それとは逆に小学校は小さくなった? いえ、小さくなったように見えました。通っていたころはほんとに広いと思っていた運動場も、この年になって見ると狭い気がします。庭園があったところに新しい体育館が建っていて、体育館があったところにプールがありました。私の頃はプールなんてありませんでした。

 変わってしまっている小学校でも思い出に浸ることは出来ませんでした。なのでもうこうなったら幼稚園も見ておこう。と言うことで幼稚園に向かいました。幼稚園の時のことなんて、そもそもほとんど記憶にありません。そここそ見ても何も感じないだろうけれど。


 何年生からだったか忘れちゃったけれど、私は小学校から幼稚園近くの母が働くお店へ帰っていました。なのでここも馴染みのある道なんだけど、なんだか変わったところばかりが目に付いて、今一つ懐かしさが湧いてきません。むしろ、寂しさのようなものを感じました。

 私としてはそんなに大昔のことではなく、ちょっと前、よりはもう少し前ってくらいの感覚。この前この道を歩いた時の私はランドセルをしょっていて、今は成人しちゃった娘がいるんだから、そんなことはないんだけど。それでも個人的にはそんなに大昔とは感じていませんでした。38年経っているんだけど、感覚的にはそんな感じ、去年のこと、なんてことは言わないけれど、38年なんて10年前と変わらないくらいに思います。でもこうやって歩いてみると、変わった景色に突き付けられます、38年の時間の長さを。もう大昔のことなんだよ、と。ああ、なんだかほんとに寂しくなっちゃう。


 そのお店に近付いて寂しさが増しました。四軒並んでいた一番手前、母の友達がやっていたお店、スナックがなくなっていました。その隣が何屋さんだったか忘れちゃったけれど、そこと二軒分の間口で新しいお店になっていました。ハンバーグ専門店って看板が出ています。ランチの準備かな? まだ九時過ぎだと言うのに二人の店員さんが動き回っています。お店の雰囲気も、店員さんの服装も何だかおしゃれ。今風のお店です。こんな繁華街でもないところで連休中に開けるって言うのは流行っているんだろうな。

 その隣はシャッターが閉まっていて、貸店舗って紙が貼ってあります。そしてその隣、母が勤めていた喫茶店。面影がありません。きれいなお店に変わっていました。何のお店だろうと思いながら前まで来ると、Crepe &  Cafe、って入った看板がありました。喫茶店ではなくカフェなんだ。それにクレープって、ここももう昔のお店じゃないんだ。

 そう思って通り過ぎようとした時に気付きました、お店の名前に。SUMIRE、となっています。えっ、まさか? そう思って見た扉にはOpenの札。

 明るいお店の中を覗きました。お客さんは誰もいないみたい。すべて新しくなっている店内はカウンターもおしゃれなものになっていました。でも位置は以前と同じ。そしてそこに女性が一人いました。その女性も新しく、いえいえ、若い方になっていました。やっぱり違うよね、と思いながらも、入って見ようかなという気持ちが湧いてきました。今いるのは本当に若い子。うちの娘と変わらないくらい。この子はアルバイトの子で、ひょっとしたらママさんがまだやっているのかも。

 お店の扉を開けていました。チリンチリンという軽やかに澄んだドアベルの音に女性が戸口を向きます。

「いらっしゃいませ」

明るく元気な声が迎えてくれました。

「いいですか?」

と言いながら店内へ入りました。

「どうぞ、お好きなところへ」

そう返しながら彼女はコップにお水を注いでいます。今のお店にはカウンター席はありませんでした。カウンター前の一番奥の二人席に着きながら、

「コーヒーだけでもいいですか?」

と聞きました。

「ええ、もちろん」

彼女はそう言いながらお水とおしぼりをテーブルに置くと、カウンターからパウチされたA4サイズのメニューを取って見せてくれます。

「ドリンクメニューはこちらです」

そう言われて渡されたメニューを見るけれど、コーヒー、の文字が見当たりません。一体何なのか分からない物の名前の羅列でした。裏返すとそちらはクレープのメニュー。こっちの方が見てなんなのか分かるくらい。そしてそのメニューを見てもう一つ分かりました。やっぱりここはあのママさんのお店じゃない。

「あの、コーヒーってどれですか?」

ドリンク側にメニューを戻して聞きました。

「え~っと、色々ありますけど、コーヒーはお好きですか?」

彼女が笑顔でそう言います。まあ、マスクしてるので目元が笑顔ってことだけど。

「ええ、まあ」

「濃いいのも平気ですか?」

「えっ、ああ、はい」

「じゃあ、コンパンナとかどうでしょう。エスプレッソです」

エスプレッソならそう書いとけばいいのに、と思いながらこう言いました。

「じゃあそれ下さい」

「はい、ありがとうございます」

嫌味のない明るく若い声でそう返した彼女がカウンターの中に戻りました。

 その姿を目で追っていた延長で、そのまま店内を見回しました。基本的なレイアウトは以前と同じようだけど、やっぱり全く違うお店。お店の名前が同じだったのは偶然だったみたい。ううん、同じじゃないか、前は平仮名だったもんね。

 一番奥の席に来ちゃったのはそこが私の定位置だったから。学校帰りにここへ来て、この一番奥の席でいつも宿題をやっていました。そこから見える店内の景色は変わっていないようにも思うけど違う。全然違う。なんだかまた寂しさが湧いてきました。こんな今風のおしゃれなお店に私みたいなおばさんがいるなんて。そんな落ち着かない気分も沸いてきました。

「お待たせしました」

明るいその声と共に目の前に置かれたのは、コンパンナって言ったっけ? でもこれって、ウィンナーコーヒーじゃないの? ってものでした。

 カップの中は見えないけれど、カップの上にクリームが盛ってあります。どうやって飲むんだろう、おばさんにはそれも教えてくれないと手が出せないよ。だけど彼女はもうカウンターの中に戻るところ。

 カップを手にすると温かいです。ホットなんだ、放っとけばクリームは溶けちゃうかな。そう思いながらスプーンですくって食べました。甘い、ほんとに甘い。なんだか海外のお菓子の甘さ。そっか、エスプレッソってことはイタリアのメニューなのかな? と言うことはイタリアの甘さなのかも。やっと顔を出した黒い液体を飲みました。こっちはとても苦い、そして濃厚、でもおいしい。結構本格的なお店なのかも。主人もコーヒー好きだから今度連れて来ようかな。

 おいしいコーヒーに気持ちがほぐれてきました。そしてさっきより余裕をもってお店の中を見回していました。背にしていた壁を見上げると、写真が何枚か掛かっていました。一番大きな写真を見て、思わず立ち上がっていました。

 壁に掛かっていたのは古い写真。そしてそこに写っているお店、記憶の中にあるお店でした。色褪せた薄紫色のテントに、喫茶すみれ、と白い文字が見える。テントの下の真ん中にある扉、何回も、何百回も出入りした扉。やっぱりこのお店は以前のお店と関係があるの? どうしよう、あの若い店員さんに聞いてみようかな。そう思いながら何枚か掛かっている小さな写真を見ました。

「ママ……、すみれさんだ」

と、そこに写る人の名を呟いていました。

「えっ、おばあちゃん、ご存知なんですか?」

私の声が聞こえたのでしょう、カウンターから彼女がそう聞いてきました。でも、

「おばあちゃん?」

と、聞き返していました。すみれさん、ママさんには子供がいなかったはずだから。

「おばあちゃんと言っても本当のおばあちゃんじゃないんですけどね」

彼女はそう言いながらこちらへ来ます。

「私の父の父、おじいちゃんの妹なんです、すみれおばあちゃんは」

「そうですか」

「はい。お客さんはおばあちゃんのお知り合いなんですか?」

そう聞かれて私は写真を指さしました。カウンターの中のママさん一人が写るさっきの写真の下に掛かる別の写真を。店内で撮られたその写真には五人写っています。そしてこう言いました。

「これ、私です」

そこには小学校四、五年生くらいの私がいました。

「ええっ、ほんとですか?」

驚いた声を出して彼女が写真に顔を近づけます。その彼女に続けてこう言いました、私の横に立つ女性を指さして。となるところですが、先にそれをされちゃいました。

「じゃあこっちがお母さんですよね、静さん。で、お客さんは恵子さん」

元気な子。でもなんで知ってるの? その疑問はすぐに彼女から明かされました。まあ、それしかないので明かされるまでもないんだけど。

「おばあちゃんから何度も聞きました、しーちゃんとけいちゃんのこと。あっ、恵子さんのこと」

しーちゃん、けいちゃん、耳に懐かしい。

「なんか今日はすごい日です。恵子さんがうちに来てくれるなんて」

彼女は続けます。

「おばあちゃん、寂しがってましたよ。引っ越してから一度もケイちゃんを、あっ、恵子さんを連れて来てくれなかったから、恵子さんにはずっと会えてないって」

「えっ?」

今のセリフだと、瀬戸に引っ越してからも母はここに来てたんだ。

 彼女は傍を離れてカウンターの中へ戻ります。そしてスマホを手に取ります。やがて、

「あっ、おばあちゃん? 起きてた?」

と、話し始めます。すみれさんのこと?

「じゃあ今から来てよ」

『……』

「どこって、お店に決まってるじゃん」

えっ、すみれさんを呼んでるの? ひょっとして、まだこの上? 天井を見上げちゃいました。

「恵子さんが来てるのよ」

『……』

「けいちゃんよ、しーちゃんの娘の」

『……』

「そう」

『……』

「ほんとほんと」

『……』

「すぐ来てね。待ってるからね」

彼女は電話を切るとこう言いながら戻ってきます。

「うち、五分も掛からないところなんで、すぐにおばあちゃん来ますから」

うちってことは今はこの子と一緒に暮らしてるのかな? それにしてもほんとに元気な子。勝手にこんなに事を進めるなんて。でも会えるなら会いたい。人と会うのはいけない時期だし、誰とも話したりしないつもりで出掛けて来たんだけど。

「そんな、いいんですか?」

儀礼的にそう聞いてました。

「もちろんですよ、おばあちゃんが会いたがってたんですから」

「そうですか」

「あっ、ひょっとして、けい…こさんは会いたくなかったですか?」

「ううん、お会いできるなら。もう、ざっと40年ぶりですから嬉しいです」

「え~~、そんなにですか」

「はい。あっ、すみれさんはおいくつになるんですか?」

「え~~っと、84かな? 多分」

そんなになるんだ。

「まだお元気なんですか?」

「ええ、私がこのお店やると言ってなかったら、多分まだ喫茶店やってましたよ」

「このお店はいつから?」

「先月でやっと2年です」

「そう」

と言うことは、それまでずっとすみれさんはお店やってたんだ。そんなに長いこと続けてたんだ。

「3年ほど前におばあちゃん入院したんです。癌で」

「癌?」

「はい、直腸癌って言ってたかな? あっ、悪いところは全部取っちゃって、今のところ転移とかってのもないみたいですから元気なんですけどね」

「そうですか」

「で、その時にうちのお父さんがお店やめろって言い出したから私がやるって言ったんです。私ケーキ屋にいたんですけどカフェやりたくて。ここ、無茶苦茶家賃安いし」

そうだったんだ。

「まあ、直腸癌の手術されたのなら、お店に立つのは厳しいかもしれないですものね」

「そんなこともなさそうですけどね、元気にしてますから」

「そうですか」

直腸癌と聞いて人工肛門にでもなったかなと思ったけれど、そこまでのことじゃなかったのかな。

「お店の名前、引き継いだんですね」

そう言ってました。

「はい、すみれって名前、私も気に入ってたんで」

「そう」

「それに、ここの改装代、おばあちゃんが出してくれたから」

 そんな話をしていたらドアベルが鳴りました。そして、

「テイクアウトいいですか?」

と、若い女性二人組のお客さんが入って来ました。彼女はその応対をしてクレープを作り始めます。そして、甘い匂いの漂い出した店内で待っていると、再びドアベルが鳴りました。


 すっかりおばあさんの姿になっているけれど、一目見て分かりました。マスクをしているけれど、ううん、来ると知らなくても、道でばったり出会ったとしても分かるほどに、しっかり覚えていました。でもおばあさんは、カウンターの端でクレープを待つ二人の若い女性の顔を確認しています。私には気付いていないみたい。

 立ち上がって一歩、二歩、進みました。おばあさんと目が合いました。すると、駆け寄ってくるようにおばあさんがスタスタと目の前にやってきます。84歳とは思えない歩き方。

「そうよね、ケイちゃんがまだあんなに若いわけないわよね」

近付きながらおばあさんがそう言います。この人が最後に見た私は、小学校六年生の私。間違えたみたい。目の前に来たおばあさんが差し出している手を取って私はこう言いました。

「ママさん、お久しぶりです」

「ほんとよ、もう、会えないまま棺桶に入るかと思ってたわよ」

少し裏返った声でそう言いながら目に涙をためるママさん。

「すみません」

そう返しながら、抱きついて来て私の肩に顔をつけるママさんの背中を私も抱きました。顔の横からこう聞こえます。

「おかえり」

「ただいま」

そう返しました。


 体を離すと、

「ほんとにケイちゃん? もっと顔よく見せて」

と、今更そんなことを言うママさん。まあ、子供の姿から四十年近く経ってるんだから、そう言われてもしょうがないかな。私も逆なら分からないかも。

「恵子ですよ」

そう笑顔で返しました。

「うん、その落っこちそうな目は間違いなくケイちゃんだわ」

「はい、この目は変わりません」

子供の頃、ママさんだけじゃなくいろんな人からそう言われた。そう言われてからかわれることもよくあった。そのくらい私の目は目尻の下がった垂れ目です。

 お前が赤ん坊の時に泣かせ過ぎたから泣き顔になった、と父は母に言い、母は、愛らしいかわいい目じゃないですか、と言い返していた私の目。そう言えば両親は二人共、どちらかと言えば吊り上がった目でした。母の目は大きくパッチリしていたけれど、目尻は下がっていなかった。今は私の娘に受け継がれているこの目。私も泣かせ過ぎたのかな。

 そんなことを思いながら、母の目を確認するようにさっきの写真に目をやっていました。するとその目線を追ってママさんがこう言います。

「ケイちゃんが来てるって聞いたからサキちゃんに電話したんだけど、あの子、今日、東京に行くみたいで新幹線に乗ったとこだって」

サキちゃんと言うのは母の親友。写真に写る五人の中の一人です。本当の名は浪江さん。サキと言うのは勤めていたスナックでの名前です。母はいつからか、なみちゃんと呼んでいたけれど、ママさんはずっとサキちゃんって呼んでいるみたい。そういう私も、最初に覚えたのがサキなので、サキさんと呼んじゃってるけど。そのサキさんとも高校を出てからはほとんど会っていません。まだ看護師になる前に何度か会いに来てくれたのが最後。三十年は会っていないでしょう。

「東京ですか」

「そっ、優香ちゃんの結婚式だって」

「優香ちゃん?」

「あっ、知らなかった? サキちゃんの娘。こんな時期だから結婚式は中止って言ってたけど、親族で食事会だけするんですって」

サキさんが結婚してたのも知らなかった。それを聞こうと思ったけど、先にママさんが続けます。

「ずっと男の子が欲しいって言ってたけど、娘になっちゃったわね」

「そうなんですか?」

「自分が女で苦労したから男の子がいいって」

「もう一人産めばよかったのに」

「無理よ、優香ちゃん産んだのも四十過ぎてからだから、そのあともう一人なんて」

母と同い年のサキさんが四十過ぎってことは、私に最後に会いに来てくれた頃に出産したってことだ。子供が出来たから会いに来れなくなったのかな。

「ケイちゃんはいくつになった?」

私が座っていた向かいの席に座りながらママさんがそう聞いてきます。

「今年五十です」

私もイスに座りながら答えました。

「ええ~、もうそんなになるの? 子供は? 結婚した?」

「娘が一人。今年二十三で、会社に入ったばかりです」

「そうなの、ええっ? もうそんなに大きな子なの? 今度連れてきなさいよ」

「ええ」

「ほんとよ」

「はい」

「もうほんとに、もっと早く来なさいよ。なんて名前?」

「えっ? ああ、美里です」

「美里ちゃん。ああ、美里ちゃんの小さい頃に会いたかったな。あんたのことは幼稚園から知ってるんだから、あんたの子は赤ん坊の時に会いたかった」

「ええっ?」

「当たり前でしょ。あんたは私の娘みたいなもんなんだから、あんたの子は孫でしょ。孫の顔くらい見せに来なさいよ」

ママさんのこの会話のペース、なんだか懐かしい。

「すみません」

そう言ったところにお店の彼女がコーヒーを持って来て、ママさんの前に置きました。普通のコーヒー、あったんだ。二人のお客さんはもういませんでした。

「美鈴、なんで一つなの」

立ち去り掛けた彼女にママさんがそう言います。

「えっ?」

「ケイちゃんの飲み物もうないじゃない。ケイちゃんにも出しなさいよ」

「は~い」

そう返事する美鈴さんに、すみませんと言いました。彼女は笑顔で、いいえと返してくれます。

 私は写真を見上げて聞きました。

「あの、そこに写っているもう一人、秋子さんは?」

ハンバーグのお店になっていたところでスナックをしていた人です。

「ああ、あの子は福岡に帰ったのよ」

「えっ?」

「もう十年、十五年くらいになるかな? 彼女自身もちょっと病気をしちゃったんだけど、その頃にお母さんが寝たきりになったみたいなの、それでその時にお店閉めて帰っちゃった」

「そうですか」

「うん。でも元気にはしてるみたいよ」

「連絡はまだ取り合っているんですか?」

「年賀状だけだけどね。あっ、でも電話番号は知ってるわよ。声聞きたい?」

「いえいえ、そんなわざわざ」

と言う私のセリフに関係なく、ママさんはスマホを取り出すと操作し始めます。電話しなくていいって言うのに。

「ほんとにわざわざいいですよ」

「いいのよ、こんな機会でもなかったら、私もあの子の声なかなか聞けないから」

そしてママさんはスマホを耳に。

「アキちゃん? 久しぶり。私、分かる?」

やがてスマホに向かってそう話し始めました。ママさんも秋子さんとの久しぶりの会話。しばらく話した後で私にスマホが回ってきました。

 と言うわけで、秋子さんとも話が出来ました。名古屋を離れる前にもう一度会おうとしてくれたようだけど、瀬戸の家と連絡がつかず会えなかったと怒られました。十五年前だと瀬戸の家ももう引っ越していました。長い懐かし話のあと、近いうちに福岡まで会いに来るように言われてしまいます。新型ウィルスが治まったら家族旅行でもしよう、福岡に。

 秋子さんとの電話が終わると、ママさんは当然の様にサキさんにも電話を掛けました。なので私はサキさんの声も久しぶりに聞くことが出来ました。新幹線の中からなので途切れがちの声ではあったけれど。

 出来るだけ人との密な接触はしない、と思って出掛けて来たのに、結局は長話をしてしまいました。そこのお店おいしいのよ、それに結構かっこいい子がやってるの、と言うママさんに引っ張って行かれて、お昼はハンバーグランチ。そして美鈴さんのとってもおいしいクレープまでご馳走になってしまいました。

 40年近く縁が切れていたとは思えない時間でした。ほんとに、一気にその長い時間を飛び越えてしまったみたい。すっと離れていた実家に戻ったような感じでした。そんな経験は私にはないので、ほんとにそんな感じなのかどうかは分からないけれど。でも、とっても満たされた気分だったのは事実。出掛けて来て良かった、そう思いながら帰りました。




 職員住宅の部屋に戻って来てからいそいそとコーヒーを入れて、夕食前にもう少し懐かしい時代に浸ろうと手紙の続きを手にしました。残りはもう50通もないほど。ちょっと気になるのは、残りがそれだけなのにまだ私の幼稚園時代の内容ってこと。この手紙、母はいつまで書いていたんだろう。

 5通ほど読んでからお風呂と夕食。そしてまた手紙の続きを読み始めました。だんだん手紙の内容に記憶が追いついて来て、懐かしさが増してきました。そして残りが10通ほどになった185通目。


『……主人が「奈良 夢の国」に連れて行ってくれました。ご存知ですか? 遊園地ですよ。アメリカにある有名な遊園地と一緒だそうです。私はそこを知らなかったのですが、主人がこのお城もあの山もアメリカのと一緒だ、と自慢げに教えてくれます。なんでそんなに詳しいんだろう。アメリカなんかに行ったことないはずなのに。……』


 この日のことはよく覚えています。家族で遠くに出掛けた記憶の中では一番はっきり覚えていることです。まあ、遠くに出掛けた記憶なんて数えるほどしかないんだけど。今では東京にあるその有名なテーマパーク。そっちには行ったことないですけどね。

 東京に現在あるものはアメリカにある本家の正式な日本版。なのでアメリカのテーマパークと同じ名前がついています。でも手紙に出てくる私達が行ったところは非公認の遊園地。本家と同じような施設やアトラクションがあったけれど、非公認だったので同じ名前は使えなかったみたい。当然、あの有名なキャラクターもいませんでした。まあ、そんなこと当時の私達は知らなかったし、本家の遊園地のことも知らないくらいだったんだからどうでもいいんだけど。とにかく楽しい日でした。


『……恵子は怖そうな乗物にばかり乗りたがるけれど、身長が足らなくて乗れない物ばかり。なのでちょっとご機嫌斜めになっちゃいました。まあ、恵子が乗れなかった遊具は高い物ばかりだったから乗れなくて助かりましたけど。高いと言えば食事。なんでこんなにするの? っていちいち言いたくなるくらいの値段でした。お弁当作ってくればよかった。でも主人は恵子がせがむ度に気前よく買ってやってる。ジュースにソフトクリーム、何でもかんでも。乗物券も何度も買い足してる。恵子が嬉しそうだからいいんだけど、ちょっとは家計のことも考えて欲しい。……』


 ジェットコースター、そう言えば乗れなかったなぁ、と思い出しました。手紙の日付を見ると昭和五十四年、私、小学校二年生だ。その頃そんなに小さかったんだ。そして乗物券って言葉、当時は一日パスとかなかったのかな。とにかく片っ端からアトラクションに乗った覚えがあります。気に入ったものは何回も。お金使わせちゃったんだ。

 この頃のことかどうかは分からないけれど、母がよくお金のことで悩んでいたのは覚えています。それで父と何度となく喧嘩していたことも。私がその原因だったのかと、少し心が痛みました。でも、母もこの日は楽しんでいたようです。だって、そこでのことがほんとにいろいろ書いてあるから。


『……丸い部屋の乗物がありました。乗物と言っても十畳くらいの広さのほんとにただ丸い部屋です。その部屋の壁に背中をつけるように言われてみんなそうすると、部屋が回り始めました。凄い勢いで回り始めて怖くなった頃、床が抜けました。みんな回転で壁に張り付いていて宙に浮いています。面白かったけれどただそれだけの乗物でした。

 私は一度でもう十分。少し目が回って気分が悪くなったし。でも恵子はとても気に入ってしまい、もう一度と言い出します。主人も気に入ったようで二人でもう一度行きました。そして三回目、出て来た主人の顔が青い。足もふらついています。笑っちゃいました。あんまり私が笑っちゃったものだから主人の機嫌が少し悪くなりました。そんな主人の様子に関係なく、恵子がもう一度と言います。さすがに主人も疲れた笑顔で断っていました。すると、じゃああれ、と言って恵子が私達を引っ張って行ったのはコーヒーカップの乗物。私は見ていることにしました。でも主人は恵子に付き合います。これも回る乗物だけど、主人は分かってなかったかも。案の定、降りて来た主人は死人のような顔で恵子に微笑んでいるだけ。こんなに弱った主人は初めて見ます。私はまた笑っちゃいました。……』


 全部覚えていました。父の死にそうな顔も、コーヒーカップは調子にのって回し過ぎて、私も気分が悪くなっていたことも。そして、母が声を出して笑っていて、本当に楽しそうだったことも。




 その後はまた普通の日常のことが書かれた手紙が続きました。そして最後の手紙。近況を記した後、最後にこうありました。


『……ところで、これまで本当に長い間続けて下さったこの手紙ですが、ごめんなさい、これで最後にさせて下さい。こんなことを書くのは少し恥ずかしいのですが、主人はこの手紙のことが気に入らないようなのです。このところ仕事がうまくいっていないのが原因だと思うのですが、私が男の人と文を重ねているのが面白くないようなのです。今更そんなこととは思いますが、主人が気に入らないことを私はしたくありません。私にはこの家庭が何より一番ですから。

 思い返せば坂本さんとのやり取りは中学一年生、十三歳の時から。もう十七年も前のことなんですね。当初は子供じみた内容にお困りになったことでしょう。いえ、それは今もかな? 

 坂本さんの言葉に助けられ、救われたことは数えきれません。いいえ、言葉を下さらなくても、こうやってお話し出来ていたことだけで十分救われていました。間違って坂本さんに届いてしまった手紙に、これまでお付き合い頂いて本当にありがとうございました。本当に感謝しております。

 では、これからもお元気で。さようなら。


 ありがとうございました。』


 自然消滅、ではなくて、ちゃんと終わりにする言葉を伝えていたんだ、と思っただけ。あとは、なんだかあっけなくあっさりしたものだなと感じただけ。文通なんてしたことないから分からないけれど、物事の終わりなんてこんなものなのかな。

 最後の手紙の日付は昭和五十五年の秋。私は小学校三年生。その頃に父が母の文通を咎めるような何かがあったのかな。記憶を探りました。


 ある夜、両親が隣の部屋で喧嘩していました。喧嘩と言うより、父が母を叱っているっていうイメージ。何かを叩いたりして壊しているような音も聞こえていました。

 翌日、母がトンカチやペンチで潰れた缶の箱を直しているのを見ました。昨夜聞こえた音は、父がこの箱を潰す音だったんだと理解しました。母が大事にしている箱。なんで父はそれを壊したんだろう。


 当時はそのくらいにしか思わなかったことを思い出しました。缶の箱は母が手紙を入れていたもの。やっと思い出した、と言うか、気付きました。そう、母は同じ缶の箱を確か三つ持っていた、大事にしていた。母も坂本さんから届いた手紙を全部持っていたんだ。

 そこまで思い出し理解したら、さっき思い出した出来事がこの最後の手紙につながる理由なんだと思います。はっきりいつの記憶か分からないものだけど、父が壊したのは母が手紙を入れていた箱。母の文通が気に入らなくなって怒ったんだ。そしてその箱に八つ当たりしたんだ、暴力を振るったんだ。そして想像だけど、それから父は箱にではなく母に暴力を振るうようになったんだ。この時が父の暴力の始まりだったんだ。

 私が見たのは最後の一度だけだけど、父がそれまでに何年もの間、母に暴力を振るっていたのを知っていました。気付いたのはそんなに頻繁ではないけれど、両親が喧嘩していた翌日、母は必ずどこか痛そうにしていました。たまにしかなかったけれど顔が腫れていたこともありました。それが父の暴力だと分かったので、私は両親が喧嘩しているのに気付いても布団から出ることが出来ませんでした、怖くて。


 ここまでなんだか懐かしさに浸りながらお借りした手紙を読んでいましたが、この暗い出来事を思い出して、改めて思い出します。私が知りたかったのはこの先のこと。父の暴力が始まってからの母のこと。でも手紙はこれで終わり。知りたいことには届きませんでした。もう私がそれを知ることはないのかも。ううん、知る必要がないから母は私に何も言わなかったってこと。そう思うしかないのかな。

 そんな気持ちで最後の手紙を封筒に戻しました。知りたいことは知れなかったけれど、知らなかったことをいっぱい知ることが出来ました。手紙を読ませてくださった坂本さんに感謝しなければ。そう思いながら最後の手紙を入れた封筒を表に返しました。そしてそこに書かれた数字を見ました、196でした。えっ、全部で197通って言ってなかったっけ? 数字の書き間違い? そう思って手元の封筒の数字を確認していきました。飛んでいたりダブっている番号はありません。坂本さんの記憶違い? それともまだもう1通あるの? 

 最初に坂本さんの病室で母の名前を見たあの封筒、見た覚えがない、そう気付きました。なんだか汚れた白い封筒。そして瀬戸の住所が書いてあった。瀬戸の住所だとすると母が高校の時の物。もう返してしまったので手元にはないけれど、あんなにくたびれた封筒はなかったはず。と言うか、白い封筒なんてあの一通だけかも、今の手元にも、返した中にもなかったはず。

 まだもう1通、197通目の手紙があると確信しました。それが本当の最後の手紙だと。




 196通の手紙を読み終えた翌日。職員住宅から出ようとした七時過ぎ、夜ではなく朝ですよ、なのに真っ暗でした。重たそうな雲が空を覆い、ほんの数十メートル先の病院の建物がぼやけて見えるほどに雨が降っていました。五月二日、連休の真っ最中なのに今日明日はずっと雨みたいです。どこかに行く予定だった皆さんにはお気の毒。小雨なら傘がいらない距離なのに、傘をさしても濡れてしまいそうなほどの雨でした。

 朝の仕事を終えてから坂本さんの病室に行きました。さっきの回診の時は起きて見えたのにお休み中。手紙だけそっと箱にお返ししました。


 坂本さんとお話が出来たのは夕方になってからでした。

「お手紙、読ませて下さってありがとうございました」

「いいえ」

私がお礼を言うとそう返してくれます。その表情はこの数日でさらにやつれていました。数日前から経口摂取はほとんど出来ておらず点滴に頼っている状態。当然と言えば当然だけど。でも、目は変わらず穏やかなままです。

「昔のことを、いえ、私の知らないことをいろいろ知れて良かったです」

「そうですか」

197通目のことを聞きたいのに、なぜか聞けませんでした。

「母も坂本さんからのお手紙を全部持っていたと思いますから、機会があれば読んでみたいなと思いました」

坂本さんは小さく頷いただけでした。そして窓の方を向きます。私もそちらへ目をやりました。小降りにはなっているけれど外は雨が降り続いています。すると坂本さんが外を見たままこう言いました。

「お母さんのことは好きですか?」

「えっ?」

私は坂本さんに目を戻したけれど、坂本さんはそのまま外を見ていました。でも遅れて私の方を見ます。

「お母さんのこと、どう思っていますか?」

そしてそう聞かれました。思いがけない質問を、まっすぐ見つめる目でされて戸惑いました。戸惑ってこう言ってました。

「分かりません」

「……」

坂本さんは黙って私を見ているだけでした。私の口が動きます。

「嫌いじゃないとは言えます。でも、好きなのかどうかは。……いえ、好きですよ。でも、本当に好きなのかどうか分からないんです」

「……」

「父のことは嫌いでした。好きだったけど、最後は嫌いでした。ずっと嫌いでした。でも、手紙を読ませて頂いて大好きだったことを思い出しました。本当は父のことも好きなんだと気付きました」

勝手に口からそう言葉が出ていました。

 しばらくすると坂本さんがまた口を開いてくれました。

「最後の手紙、それを読んだら恵子さんは、お母さんのことが嫌いになるかもしれませんよ」

やっぱりもう1通あるんだ。

「……」

今度は私が黙って坂本さんを見返しました。

「読む勇気はありますか?」

勇気があるか、なんて聞かれたらそんなの分かんない。でも、

「はい」

と答えていました。すると坂本さんは枕の下に手を入れて1通の封筒を取り出しました。それはくたびれて汚れた白い封筒。

「この手紙だけはこれまで何度も読み返してしまったので、こんなになってしまいました」

手の中の封筒を見つめて坂本さんがそう言います。そして私にその封筒を差し出してきました、こう言いながら。

「読ませたことで僕を恨んでくれてもいいです。でも、出来たらお母さんのことは嫌いにならないでください」

受け取ろうと伸ばした手が一瞬止まりました。でも一瞬だけ。

「お借りします」

そう言って受け取りました。





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