第二部 02
坂本さんの病室で固まってしまってから、また数日経ちました。私は起きている坂本さんに会えていません、聞きたいことがあるのに。そして休日、もともとの予定通り自宅に戻りました。平日なので主人は家にいません。ま、その方が家事はしやすいし、感染予防にもなるから都合がいい。
家の中は眩暈がしそうなほど散らかっていました。ごみ捨てだけはやってくれていたようなので、それは救いでした。まずは溜まっているであろう洗濯から。脱衣場に行くと膨らんだゴミ袋が二つ、洗濯物が入っていました。ごみ袋に入れなくても、と思いながら開けてみて理由が分かりました。とんでもない匂いでした。美里じゃないけれど、触りたくないかも。
洗濯機に一回目の仕事の指示をしてから掃除。食事はコンビニのお弁当か外食、と言っていたので台所はきれいだろうと思ったら、流しにコップやカップが沢山。我が家にあるものがすべて積んであるようです。すべて洗っていくしかない。でも、乾くまでの置き場もない。しょうがない、順番に拭いていくか。
主人はリビングで寝起きしていたようで、枕や毛布がソファーにありました。おかげで二階は片付いたままでした。掃除機だけかけて二階は終了。そして一回目の洗濯物を乾燥機に放り込んで二回目の洗濯。普段はほとんど使わない乾燥機だけど、あって良かった。まあ、主人の勤め先がガス機器の会社なので買わされたんだけどね。
リビングの掃除。廊下の物入れに仕舞ってあったはずのゲーム機がテレビにつないである。独身時代の主人の物。私がいないのをいいことにこれで遊んでたんだ。って、ほんとは今でも遊びたかったのかな、ゲームソフトも沢山引っ張り出してきて散らばっている。
散らかっている物は他にも沢山。新聞、脱いだポロシャツやTシャツ、等々。ほんとに独身時代の主人の部屋みたい。美里に来させなくてよかった。
それらを拾って歩きます。ゴミはないと思ったんだけど物をのけていくと、ビールの空き缶やお惣菜の容器が顔を出します。なんでここにってところにまだコップも転がっている。ゲームソフトもまた出てきます。踏んづけて割っちゃったらどうするのよ。ほんとにどんな生活してんの、いい年して。
やっと床が全部見えてきたけど、覚悟していた通り午前中では終わりません。お昼を作ろうと思って冷蔵庫を開けたら、ビールしかない、っとにもう、って当然か。コンビニへ行きました。
まあこのくらいでいっか、と思える程度にまで終わったのは三時過ぎでした。急いで家を出ます。このあと夜勤ってわけではありません。そうだ、この予定は(自宅の掃除)夜勤の前はやめておこう、日勤してるより疲れる、このあと夜勤は無理だ。そう気付きはしたけれど。
急いだ理由はこのあと人に会うつもりだったから。新型ウイルスで人との接触を控えるように言われているご時世に、病院勤めの看護師なんて立場の私が人に会いに行くのは問題かもしれません。でもどうしても話がしたい人がいたのです。それは坂本さんの妹さん、長瀬良枝さんでした。坂本さん本人に聞けないので、妹さんに聞きたいことがあったからです。
スマホに案内されるまま坂本さんの住所に向かいました。目的地のコーポ松と言う名前のアパートは、私の自宅と石仏駅のちょうど中間あたり。ほとんど迷わず辿り着きました。坂本さんの部屋は一階の奥から二部屋目でした。室名札の坂本の文字を確認してからインターフォンに指を伸ばします。連絡はしていません、いきなりの訪問。小さく深呼吸してからボタンを押しました。しばらく待っても返答はなし。もう一度押しました、返答なし。扉をノックしてから、すみません、と声を掛けても反応なし。お出掛け中みたい。それとも、お兄さんの宝物をお兄さんに渡せたので、安心してもう神戸に帰ってしまったのかも。しょうがない、帰ろう、そう思って扉に背を向けたら、男性二人がこちらに歩いて来ていました。
お二人とも同じようなスラックスにワイシャツ姿。そしてどちらも六十過ぎくらいの見た目。
「あの、坂本さんのご家族の方ですか?」
一人からそう聞かれました。
「いえ……」
とは言ったものの、私は誰だとも言えずにお二人を見ました。すると、二人のことを私が怪しんだと思ったのか、
「ああ、わしらは坂本さんの仕事仲間だで、怪しいもんやないで」
と、もう一人の方が言います。
「そうですか」
「あんたは?」
「私は……、坂本さんの知人です」
そう答えていました。
「そっか、そやな、妹さんにしては若過ぎるわな」
「えっ?」
「いや、坂本さんの妹さんがいらしゃるって聞いたで、会えんかなって来たんだわ」
そして最初の方がこう続けます。
「坂本さん、癌で入院されてもう長くない、と言うことだけは聞いたけど、それ以上は分からんから、妹さんが来てるなら何か聞けるか思って。病院行っても会わせてくれんし」
「そうですか」
「あんたもか?」
そう聞かれました。
「えっ、ええ、私もその、入院されたと聞いて……」
「そうか。で、妹さんおらんかった?」
「はい、お見えにならないみたいです」
「そうか。じゃああんたも詳しいことは知らんのやな」
「ええ」
「そうかしょうがないな」
そしてお二人は、また出直すか、なんて言いながら背を向けようとしました。その二人に声を掛けました。
「あの、お仕事仲間っておっしゃってましたけど、坂本さんは何をされていたんですか?」
二人がまた私を見ました。
「あんた、知り合いや言うて知らんのか?」
しまった、どうしよう。
「あっ、その、正確には母が坂本さんの知り合いなんです」
「ほ~、そう言うことか」
一人がそう言うと、もう一人がこう答えてくれます。
「タクシーの運転手や。と言っても坂本さんは年やから、十年くらい前、七十過ぎてからは洗車のアルバイトやけどな」
「そうだったんですか」
「去年くらいからバイトも週三日くらいに減っとったから、その頃から体調悪かったんかもな」
「今もされてたんですか?」
また質問しました。
「今も? ああ、バイト続けてたよ、倒れた日も仕事行く途中みたいやし」
「そうやで、辞めさせてくれって会社に電話してきたんは入院してからや」
二人が続けてそう答えてくれます。その電話で癌の末期だと自分で言ったのかな?
「まあ、我慢強い人やったから、体調悪くても仕事入ってたから行こうと思ったんやろな」
「そやな、あの人の愚痴なんてほとんど聞いたことないもんな」
そうやって話す二人にまた質問しました。
「長いことされてたんですか?」
「そやな、運転手も十年くらいやっとったから、二十年はおったんとちゃうかな」
「いやいや、それはうちの営業所でやろ? その前は確か安城の営業所に見えたはずや。そやからタクシー自体はもっと前から乗ってるよ」
「ああそっか、そんなこと言ってたな」
「そやろ」
「じゃあ、もともとは安城の人か」
「それは知らん」
「大阪の人じゃないですか?」
二人の会話に割り込みました。
「大阪?」
と反応する一人に対して、もう一人の方はこう言いました。
「ああ、なんか聞いたことある。大阪で会社勤めしてたとかって」
「会社勤めしとったて言うんは聞いたことある、でも、大阪やったんか?」
「うん、確かそう聞いた」
「へ~、知らんかった。でもなんで安城に来たんや」
「さあ、そこまで聞いたかも知れんけど覚えてないな」
「安城にはどのくらい見えたんですか?」
また質問しました、気になったので。すると一人は全く分からないと言った反応を示してもう一人の方を見ます。そのもう一人の方はこう言います。
「さあ、はっきりとは知らないけど、安城にも十年くらいいたんじゃないかな」
「そうなんか?」
「うん、こっち来た時にもうあの人確か六十過ぎてたから、どっかの会社定年退職して、初めて乗るんやないかと思って聞いたんだよ。他の営業所から来たって知らんかったから。そしたらもう十年くらいタクシー乗ってるって言ったと思う。その十年がずっと安城だったのかどうかは分からんけどな」
お二人との話はそんなところで終わりました。坂本さんのことが少しは分かったけれど、聞きたかったことではありません。でも興味深い話、気になる話でした。坂本さんが目を覚ましたら直接お聞きしよう、そう思いながら部屋へ戻りました。
翌日の土曜日、朝の引継ぎで昨日から二人の患者さんの容体が悪くなったと告げられました。男女一人ずつ、どちらも八十代の方です。この病棟では珍しくもない内容だけど、やっぱり気が重くなります。
引継ぎが終わってから受け持ちの病室を回ります。水谷さんと手分けして回るのですが、水谷さんが坂本さんの病室側に行ったので私は反対側から。と言うわけで、朝一では坂本さんの病室に行けませんでした。
これまでより頻繁に暇を見つけては坂本さんの病室を覗きましたが、私が行った時はいつもお休み中、話が出来ぬままその日は終わりました。
翌日、容体の悪くなっていた男性の方が朝から危篤状態に。引継ぎもそこそこにそちらの看護に駆り出されました。駆り出されたけれど医師と小林主任のお手伝いだけ。率先してやることは何もないまま、九時前にその患者さんはお亡くなりになりました。
落ち着いてから坂本さんの病室を覗きましたが、やっぱり話は出来ず。お昼頃、もう一人容態の悪くなっていた女性の方が持ち直したと言うので、医師と共にその方の病室へ、小林主任が休憩中だったため。その方の処置を終えてナースステーションに戻ると、
「今日は全員お昼を食べましたよ」
と、若い看護師が伝えてくれます。それは私の受け持ち病室の患者さんが、と言う意味。ちなみに、今日は水谷さんがお休みでした。
それを聞いて坂本さんの病室へ行きました。もうお休みになっていました。食べ終えてまだそんなに時間は経っていないのに。なんだか少しイライラ。
アクリル板で仕切られた食堂で黙々と昼食を食べました。今まではおしゃべりで賑やかだった食堂も今は静かです。静かに黙々と食べるので食事の時間もあっという間。あっという間に食べてしまっても、そのあとくつろいで休憩する場所もないので病棟に戻るしかありません。なんだか感染対策のおかげで休憩時間を損している気分です。
午後からは看護記録などの入力をしているうちに四時過ぎになっていました。手が空いてから病室を回ります。そして覗いた坂本さんの病室、坂本さんがベッドの背を起こして窓の外を見ていました。そう、起きていました。
「ご気分いかがですか?」
そう声を掛けて近付きました。坂本さんが私を見ます。
「大丈夫です」
やつれた顔にうっすら笑みを浮かべてそう返してくれます。でも私はその表情よりも、床頭台の上の箱に目がいってしまいます。
坂本さんに聞きたいことがある。なのでこのタイミングを待っていました。でもどう切り出して聞いたらいいか、今になって悩みます。いえ、そもそも聞いていいことなのかどうかも疑問。私が聞こうとしていることは患者さんのプライベートなこと。そんなことをお聞きしていいものなのかどうか。
でも、これは私にとってもプライベートなこと。だから聞いてもいいよね、聞くしかないよね。聞いてどうなるってことでもないかも知れないけれど、聞くなら今しかない。今を逃せば、坂本さんが話せるうちじゃなければ、二度と知ることは出来ない。
「どうかしましたか?」
思いを巡らせながら箱を見つめていた私に、坂本さんがそう声を掛けてきました。
「いえ、すみません」
そう言って坂本さんを見ました。目が合うと坂本さんは私が見ていた箱に目を移します。
「私、旧姓は大西と言います」
いきなりそう言ってました。坂本さんの顔がゆっくりとまた私に向きます。表情に変化はありませんでした。
「その、先日、坂本さんのお手紙の封筒の裏を見ました。勝手に申し訳ありません。でも、そこに書かれていた差出人の名前、大西静は私の母の名前です」
そう言ったけれど、坂本さんに変化はありません。私は続けました。
「書かれていた住所は、母と暮らしていた瀬戸の住所でした」
相変わらず坂本さんに変化はありません。なんで驚いたりとかしないの? と言う思いで、どういうことですか? と言う言葉が出てきませんでした。すると坂本さんが口を開きます。
「大西の前は香取ですね」
そう言われて驚いたけれど、やっぱりか、って思いの方が強かったです。
「はい、中学校に入る頃までは香取でした」
坂本さんは何も言わず私を見ているだけ。
「では、やっぱりこれは……」
「はい、全部あなたのお母さんから頂いた手紙です」
そう言って坂本さんはまた箱を見ました。
全部? 私は言葉が出ませんでした。母がこんなにも沢山の手紙を男の人に送っていた。どういうことなんだろう。何をこんなに送っていたんだろう。まさかラブレター? 坂本さんは八十一歳、と言うことは……母の十こ上。付き合ってたの? 結婚前? いえ、香取って姓を知っているなら結婚後も送っていたんだ。ほんとにどういうことなんだろう。
そこまで考えたところで思い出しました。私が子供の頃、母は時々手紙を書いていました。それを見て母とお手紙ごっこ、文通ごっこをしたことを。母が文通と言っていたことを。
「……文通?」
独り言のように呟いていました。その独り言に坂本さんが応えてくれます。
「はい、森脇さんのお母さんと、昔手紙のやり取りをしていました」
「そうだったんですか」
坂本さんは変わらぬ表情で私を見ています。
「あの、どんなことをやり取りしていたんですか?」
尋ねました。
「いえ、特には何も。世間話のようなものです。日々の中であったことを、思い立った時にお互いに知らせ合っていただけですよ」
「そうですか」
まあ、文通なんてそんなものなのかな。
私の世代にはまだまだ文通と言うものがあったと思います。Eメールや携帯電話は、社会人になって何年もしてから触れた世代です。でも、私は文通なんてしたことがありません。文通どころか封書で、手紙、を送ったこともないかも。なので今一つ理解出来ない世界の話でした。
「どのくらい前のことですか?」
また尋ねました。坂本さんは天井の方を見上げます。
「う~ん、最初は五十年くらい前、もっとかな?」
そう言って坂本さんが私に顔を戻します。そしてこう続きました。
「手紙のやり取りを始めた時、森脇さんのお母さんは中学一年生でしたよ」
「そんなに昔から……」
母の中学生の頃なんて、当然だけど想像すらできません。中学生の時に十歳も上の男の人と文通していたなんて。自分に置き換えてみて、私が中学生の時にそんな大人の男性とやり取りしようなんて思ったかな。自分の娘、美里が中学校の時に十歳も上の男性と、メールやSNSでやり取りしているなんて知ったら、やめさせただろうな。母はどんな中学生だったんだろう。その頃はそんなに特殊なことでもなかったのかな。
「母とお会いになったことは?」
そう聞いていました。
「いえ、文だけの間柄でした」
そっか、オフ会はなかったんだ。母がどんな少女だったのか知りたかったな。母の少女時代の写真なんて一枚もありません。なのでその頃の母を想像することも出来ません。一般の家庭にカメラが全くなかった時代でもないと思うんだけど。そう言えば、何でないの? と聞いたこともないけれど。
私の中の母はとてもおとなしい人。おとなしいと言っても暗い人ではありません、明るい人です。でも人の前に出て何かするとか、目立つようなことをほとんどしない人です。かと言って何もしない人でもありません。どちらかと言うと人一倍動く人。ただ、陰に隠れてお手伝い的に。私の学校行事でも、町内の行事でも、お手伝いをする人の中には必ずと言っていいほどいました。そしてその中でいつも一番後ろ、雑用担当のようなポジションで忙しく動き回っていました。
子供だった私の目からは、そんな母はコソコソしている風にしか見えませんでした。いつも一番下っ端って感じの仕事をしている母を見て、恥ずかしいと思ったこともありました。お手伝いをしている人の中でも、仕切り役みたいなかっこいい人もいるのに。お手伝いにも来ずに毎回堂々と、行事に参加だけしている人だって沢山いたのに。
そんな母が中学一年生なんてまだまだ子供って頃に、十歳も年上の、しかも男性と文通していたなんて。なんだか本当に、想像の斜め上って感じです。
坂本さんとの話はそのあとすぐに終えました、夕方の引継ぎ時間が近かったから。仕事を終えて部屋で夕食。今夜は親子丼にしました。母がよく作ってくれた母の好物。母の話をしたからかな。まあ、作るの簡単だから私もよく作るんだけど。
そしてその夜、なかなか寝付けませんでした。母のこと、母の手紙のことを考えて、いえ、気になって。
私にとって母は未だに理解不能な人物です。そして、嫌いな人。ううん、苦手な人ってことにしておこうかな。だって、母は本当に優しい人だから。いつも私のことを一番に考えてくれる人。何があっても私のことが最優先。まるで私に怯えている様に。
いえ、母は周り全てに怯えているような人。私の父、夫に怯え、近所の人に怯え、私の学校の先生や他の保護者の方に怯えている。私にはそんな風に見えました。
いつも笑顔で明るく振舞っている。でもそれは怯えているから怒られないようにそうしている。そんな風にいつの頃からか感じるようになりました。その延長線上でいつも、雑用、みたいなことを引き受けている。そんな母の姿が、振る舞いが、だんだんイヤになりました。
それでも私は母のことが好きですよ。本心から嫌いとは言わないし言えない。だから苦手な人、理解不能な人です。
その理解不能な人を理解する何かが、坂本さんの持つ母の手紙の中にあるかもしれない。だから気になってなかなか眠れないのでした。
翌日の月曜日、朝の引継ぎミーティングが長引きました。中央病院から今週は三人も転院してくると言う話だったから。五十代と六十代の男性が一人ずつ。七十代の女性が一人。いずれも癌の末期患者。そして三人ともすでに危篤状態とのこと。危篤状態なので転院させないつもりだったのを、転院させて来ると言う話です。容体を見て安定していると思われるタイミングで転送。なので日時は未定、いつでも受け入れできる状態を作っておくようにとのことでした。そんな状態の患者さん、転送中に何かあったらどうするの? と思ったら、新型ウィルス患者の急増で専用病床を増やす必要から、病室を空けなければいけないと言う事情のようです。
重篤化しても適切な処置が受けられれば回復の可能性が高い新型ウィルス患者。それに対して回復の見込み無し、数か月以内の寿命と判断されている末期癌患者。その判断は理解できないことはないけれど、天秤にかけられ、危険負担を負わされる患者さんやそのご家族には理解して頂けるのかな。転送される側の危篤患者が自分の夫だったら、私はどう思う? そんなことを考えてしまいました。
同じようなことを考えた人はその場に他にもいたでしょう。その中の一人が織田先生でした。織田先生は内科の病棟と兼務しています。内科では今、二人しか入っていない四床の病室が三つもあるとのこと。なので、介護的な看護中の内科患者を転送してくるように中央病院に申し入れる、と、朝の回診後、鼻息荒く電話を掛け続けていました。でもまあその申し入れはお昼までに正式に却下されたようで、黙食厳守の食堂で、ぶつぶつ言いながらお昼を食べていました。
そんなことがあったからなのかどうかは分かりませんが、お昼から問題になりそうなことを織田先生が言い出しました。それは、人情的には私も賛成だけど、この病棟のスタッフとしては問題があると言わなければならないこと。
その日の午後、数日前からほとんど意識がなく、起きても朦朧としていて会話も出来なかった患者さんが、会話ができる状態で目覚めました。その方は私と同じ五十歳の女性。乳癌がリンパに飛び、そこから多臓器にと言う形の、非常に進行の早い癌患者さんです。そして進行度合いもですが、心臓近くの肺に大きな患部があったりなど様々な処置不可とされる要因が重なっている患者さんです。ハッキリ言って、もう秒読みって段階の方です。
織田先生はその方の旦那さんに電話すると言い出しました。子供を連れてすぐに来れないかと。傍でそれを聞いていた私も驚きました。その方には中学校に入ったばかりの息子さんがいます。意識が戻ったのであれば会わせてあげたいけれど。
当然のことですが師長が反対しました。もう一人いた医師も。
「十二歳だぞ、母親と話すチャンスがあるなら会わせてやりたいだろ」
織田先生が反論します。
「それはそうですけど……」
まだ若い医師は大ベテランの織田先生に言葉が返せません。
「はっきり言うぞ、これが母親と話せる最後かも知れないんだ、その機会を奪っていいのか?」
「……」
若い医師は口を開きませんでした。いえ、その場にいた全員が。織田先生が言うことはごもっとも。全員そう思っているはず。でも、と思っていたら犬沢師長が織田先生にこう言いました。
「下の窓口に問い合わせましょう」
みんなが師長を見ます。
「下?」
織田先生が師長にそう返します。
「はい、今、ご家族が下にお見えになっていたら何とか面会して頂けるように考えましょう」
師長はそう言うと織田先生の反応を見ずに受話器を取ります。そして一階の窓口職員にご家族が来ていないか確認するように頼みました。受話器を置いて師長は織田先生にこう言います。
「今から電話して駆けつけてもらっても、その時にまた意識がなかったら無駄ですから。期待だけさせて顔を見せて差し上げることも出来ませんから」
師長が正解、そう思いました。織田先生は何も言いません。そして下から連絡が来ました、お見えになっていないと。それでこの騒ぎは終了。織田先生も犬沢師長が正しいと思ったのでしょう。
去年から何度こういう会話がここで繰り返されたでしょう。そして今後も繰り返されるのでしょう。ほんとに、じわじわと辛さが積み重なっていくだけのように感じます。水谷さんや奥田さんのような若い看護師達、ほんとによく耐えている、そう思わずにはいられません。
今朝受け入れの話があった三人の患者さん。私の受け持ち病室には七十代の女性が来ることになりました。他の二人の男性患者は高度の看護が必要なようで、二人の主任がついている病室になりました。
私の受け持ち病室では、先日まで夫馬さんが見えた病室が空床のままです。清掃も消毒も終わっています。なので今すぐにでも受け入れ可能です。と言うわけで、残り二床の準備の手伝いをしました。
それらが一段落してから病室を回りました。坂本さんの所は敢えて一番最後に。起きていたら今日もお話がしたかったから。いえ、今日はお願いがしたかったから。
坂本さんの病室に入ると昨日と同じ状態でした。ベッドの背を起こして窓の外を見ています。そう、起きていました。
「ご気分いかがですか?」
こう声を掛けたのも昨日と同じかも。
「大丈夫です」
同じ答えが返って来た。
「テレビ見れますよ」
退屈そうに見えたのでそう言ってました。
「ええ、ありがとうございます」
やつれてはいるけれど穏やかな顔で、坂本さんは窓の外を見続けています。
今日は午後から曇り、夜は雨が降るとか。東に向いているここの窓の外は、午後からは建物自体の影の中になるので暗いです。まして雨の前の雲の下となると、まだ夕方と言うには早い時間だけれどもう薄暗いって感じです。その暗い景色の中を名鉄の電車が走っていきました。
「似ているんですよ」
坂本さんが窓の外を見たままそう言います。
「えっ?」
何のことか分かりませんでした。
「昔住んでいた家からも電車が見えたんです。阪急電車ですけど」
阪急電車?
「……」
「名鉄は赤とかワインレッドって感じの色だけど、阪急は茶色ってイメージでした。だから似ているなんて思わなかったんだけど、ここから眺めるようになって、阪急はあずき色だったかな、似ているなって思うようになりました」
「そうですか」
「あなたのお母さんからの手紙を、その電車が見える部屋で読んでいました」
どうやって切り出そうかと、昨日と同じように悩んでいました。でも、その坂本さんのセリフに続くように、すんなり口が動きました。
「あの、お願いがあるんですが」
坂本さんがゆっくり私の方を向きます。
「その、母の手紙なんですが、読ませて頂けないでしょうか」
坂本さんが私を見つめたまま何も言わない。
「人の手紙を読みたいなんて、いけないことだとは分かっているんですが、その、気になってしまって」
そう言って俯いた私に坂本さんがこう聞いてきました。
「お母さんと私のことがですか?」
「えっ? いえ、その、そうではなくて母のことが」
「……」
穏やかな顔のまま坂本さんが私を見ていました。
「こんなことを言うと変なんですが、私は母のことが知りたいんです」
坂本さんが変わらぬ表情で私を見ていました。その表情に誘われるようにまた口が動きます。
「母には分からないところがあるんです。その、……うまく言えないんですけど、理解出来ないところがあると言うか……。なので、少しでも母のことを知りたいんです。……本当はどういう人なのか」
自分の母親のことが理解出来ない、分からない、そんなこと誰にでもあることだとは思います。親のことがすべて理解できている子供なんていないはず。でも私には、私の母には、絶対に理解出来ないことが一つあるのです。それはずっとずっと以前から知りたいと思っていること。理解したいと思っていること。なので、手紙の中に私の知らない母の姿があれば、少しは理解できるかもしれない、そんな思いでした。
話しながらまた俯いてしまった私。顔を上げると坂本さんと目が合いました。
「いいですよ」
坂本さんがそう言ってくれます。
「ほ、本当ですか?」
「ええ、好きに読んでください」
「ありがとうございます」
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