第一部 02


 昭和四十三年 二


 駅に向かう畑と田んぼの間の道を歩いていました。高校へ行くときは自転車で走る道です。駅に向かっても行き先なんてない。でも行くしかない、もう帰れないんだから。そんな絶望的な気持ちで歩いていました。

 少し前から歩きやすくなったことに気付きました。歩き始めた時、東の空は明るくなり始めていたけれど、足元はまだまだ暗くて、一歩ごとに確認しないと歩けないくらいでした。でも今はもう周りの物が分かるくらいうっすらとした明かるさの中にいました。陽が昇るのってこんなに早いんだ、と、足を止めて空を見上げました。頭上はまだ濃い藍色。そこから東に目を向けていくと、夕焼けのようなきれいなオレンジ、そして黄色。東の山影は、もう白い光の中にありました。

 再び歩き始めてから、今は何時だろう、と、時間が気になりましたが知る術がありませんでした。そして、腕時計を持って出ていないことに気付いて戻り掛けました。でもすぐに立ち止まります。もう戻れない、戻っちゃいけない、そう思って。でも腕時計は欲しい。高校に入ってからは腕につけて一緒に通っていた私の物。そしてその前は母の物。そう、あの腕時計は母からもらったもの。母に、あげる、と言われてもらったものではないけれど。だって、母は亡くなる時もあの時計をつけていたんだもん。車にはねられて母の命は壊れてしまったけれど、母の左腕にあった時計は壊れなかった。それを私はもらった。母からもらった。

 少しだけ悩んでからまた歩き始めました、駅に向かって。諦めたんではありません、悟ったんです、母に見捨てられたんだと。こんな状況になった私の腕にあの時計がないというのは、母がもう私の傍にいたくないと思っているんだと。こんなに淫らで狂ってしまった女なんて、もう自分の娘ではないと言ってるんだって。

 俊介君、彼にひどいことをしてしまいました。まだ中学生の彼に、醜く汚い記憶を残してしまいました。去年の夏に、彼の父親から私の記憶に刻まれたのと同じような。最後には至らなかったとはいえ、そんなのは関係ない。初めての経験、清くて、恥ずかしくて、ドキドキした思い出になるべきだったのに。ただただ後ろめたく、嫌な思い出になってしまったでしょう。ごめんなさい。

 夏休みの直前、クラスメイトの女子からとある男の子と、してやってくれ、なんてとんでもないことを言われました。当然拒否しました。でもその時どこか本音の部分で、してみたいと思ってもいました。認めたくはないけれど、毎回拒絶から始まるとはいえ、始まってしまえば、今では私も刺激を求めてしまっている叔父さんとのこと。それを同年代の男の子と、叔父さん、ではなく若い男の子と、正直、してみたいという欲求が、あの時から湧いていました。

 叔父さんに汚された私が、汚れた私の身体で俊介君を汚す。俊介君を辱め、貶めることで、叔父さんへの仕返しをする。そんなのは言い訳。自分にあんな欲求があるなんて自分で認めたくない私が、私に対して用意した言い訳。私は同種の欲求と興味で私の身体にいたずらしてきた俊介君の後ろめたさに付け込んで、自分の欲求を満たそうとしただけだ。俊介君の欲求を満たしてあげようとしていると装って。ひどい女、最悪の女。お母さんがこんな女の傍にいてくれるわけがない。


 駅の近くの小さな公園まで来ると、周りはかなり明るくなっていました。太陽は東の山の稜線の下にまだ隠れているけれど、もう日の出は過ぎているでしょう。日の出って五時くらいだったっけ? 家から駅までは歩くと三十分くらい。と言うことは四時半くらいに家を出たんだ。そんなことを考えながらベンチに腰掛け、バッグの中をあさっていました。裸足のまま履いていた運動靴。どこかこすれているようで足が痛い。なので靴下を探していました。底の方に下着とまみれてありました。

 靴下を履きながら考え始めたのは、これからどうするかってこと。だってどこかに行くって言っても、どこに行ったらいいのか分からないんだもん。これから一人で暮らさないといけない。その為には働かないといけない。でもどこで? 

 中学を出て高校に行かなかった子がいる。あの子はどこで働いているんだろう。今日は土曜日、働いてても半ドンだよね。お昼くらいから中学の方に行ってうろうろしてたら会えないかな? そんな適当な考えで行き先が決まりました。


 取り敢えず栄に出ました。久屋大通は大きな工事現場になっていました。テレビ塔も工事現場の中に建っているみたいに見える。そして名古屋で一番の繁華街なのにほとんど人がいない。当たり前か、土曜日の早朝だもんね。そう思いながら立ち止まったのは、大津通りの角にある百貨店の前でした。

 両親と最後に来たところ。ここのレストランでお昼を食べて、買い物をした。その時に父が、こういうので手紙を書いたらどうだ? と、勧めてくれて買ってくれた、真珠のように白く輝く綺麗な万年筆。母が一緒に買ってくれた、うっすら花柄の入った便箋。その帰りに両親とともになくなってしまいました。私が持っていたんだけど、救急車に乗る時、事故の場所に置いたままでした。捨てられたのか、誰かが持って行ったのか、一度も使ってあげれなかった。

 そんなことを思い出すためにここに来たわけではありません。お昼まで時間を潰すなら人の多いところの方がいいかな、と思って栄に来ただけです。でも、数えるほどしか来たことがないうえに、両親と行ったところしか知りません。なのでここに足が向いただけ。

 百貨店の前を離れて適当に歩いていたら、色とりどりの看板が並ぶ通りにいました。歓楽街ってところだ。言葉は知っているけれど、実際どんな街なのかは知りません。ただ父が、大人の街だから近付いたらダメ、と言っていたのは覚えているけど。

 実際歩いてみてもどんなところなのか分かりません。沢山お店があるけれど、全部閉まっているから。と思っていたら、開いているお店もありました。何屋さんか知らないけれどお酒を飲むところだ。数人の男女が大声で話しながら飲み食いしています。二人いる女性はドレスみたいな鮮やかなワンピースを着ている。あんな服で出歩く人がいるんだと驚きました。と同時に、お腹が減ってきました。人が食べているのを見て、私も何か食べたくなりました。でも、あのお店には入りたくない。他のお店を探すことにしました。

 お店を探すと言っても一人で食事したことなんてない私。なので菓子パンでも買おうと思って、パン屋さんとかを探していました。でも見つからない。と言うか、開いているお店がない。お店が並んでいた通りからだいぶ離れたあたりで、ビルの一階で開いているお店を見つけました。喫茶店でした。店の入り口横のガラスにメニューが貼ってあったので見ました。高い、一番安いコーヒーが七十円。それにサンドイッチなんか足したら……。トーストでも勿体ない。と思っていたら一番下に、モーニングサービス、トースト付き七十円、とありました。七十円でトーストも付いているなら、と、入りました。叔母さんからもらった大金もあるし。

 お店の中にはネクタイを締めた男のお客さんが三人でした。みんな新聞を読んでいます。カウンターの中にいた、もうおばあさんって呼んだ方がいいかなって感じのおばさんが、

「一人?」

と、私を見て声を掛けてきました。

「は、はい」

「そ、いらっしゃい、こっちどうぞ」

そしてそう言うと、自分の前のカウンターのイスを指します。私は言われた通りそこに行きました。

「何にする?」

お水の入ったコップを私の前に置きながらそう聞いてきます。

「あ、あの、モーニングサービスを」

「ホットでいい?」

「えっ?」

「コーヒー、アイスだと七十三円だけど、どうする?」

「あ、え~っと、ホットでいいです」

「ちょっと待ってね」

おばさんはそう言うと食パンをトースターに入れました。初めての経験、ドキドキしてました。

 トーストが焼きあがるとおばさんは、手早くバターを塗ってトーストを半分に切ります。そしてそれをお皿に載せながら、

「ジャム付ける?」

と聞いてきます。

「えっ、あの、いくらですか?」

そう聞くとおばさんが小さく噴き出しました。そして、

「サービスよ」

と言いました。

「あ、じゃあください」

 おばさんは冷蔵庫から大きないちごジャムの瓶を出すと、小さなスプーンで一すくいずつトーストの上に載せてくれます。そしてそれが私の前に置かれました。いちごジャム付きトースト、なんだか嬉しい。そう思っているうちに、コーヒーカップに注がれたコーヒーも目の前に来ました。コーヒーはほとんど飲んだことがありません。正直言って嫌いです、苦いから。ミルクをたっぷり入れました。お砂糖も二杯、いえ、三杯入れました。そして一口、甘いけどやっぱり苦いです。コーヒーに付いていたスプーンで、ジャムをトーストの上にのばして食べました。こっちはとってもおいしいです。

 食べている間に、一人、また一人と、スーツ姿の男の人が入ってきます。近くの会社の人かな? そんなことを思いながら眺めていたら、私もちらほらと視線を集めていました。私ぐらいの年の女の子が、一人でこういうところにいるのは変なのかも。もう周りを見ないようにしました。

 男の人たちは見るからに食べ終わっていても、のんびり新聞を読んで、タバコを吸っています。でも私はすることがない。お店にはテレビが置いてあるけどついていませんでした。ラジオかな? 音楽は流れているけど。テレビがついてればそれを見て時間潰し出来るんだけど。しょうがない、とりあえずお店を出て、どこか落ち着くところを探そう。

 席を立ち、バッグを抱えてカウンターの端に行きました。先にお店を出たお客さんが、そこでお金を払っていたから。私のそんな様子を見ていたおばさんがこっちに来ました。

「七十円ね」

そしてそう言います。私は財布のがま口を開きます。でも叔母さんからもらったお札が折り畳んで入れてあり、中の小銭が見えません。なのでお札を取り出して小銭を出しました。すると、私からお金を受け取ったおばさんが、お札を財布に戻している私を引っ張って、カウンターの端から少し中に私を入れます。そして顔を寄せて小声でこう言いました。

「あんた、どこのどういう子か知らないけど、あんたみたいな若い子がそんな大金持ってるの人に見られたらダメ。隠しときなさい」

「あっ、はい」

「鞄の中はダメよ」

「えっ」

「どこか人目がないところで靴下の中に入れて踏んで歩きなさい」

そんなところに? と思いましたが、

「分かりました」

と答えました。するとおばさんは体を離して、

「トイレはそこよ」

と、普通の声で言って、店の奥の扉を指します。トイレ使っていいって言ってくれてるんだ。

「あ、はい、ありがとうございます」

私はそう言ってトイレに行きました。トイレの中で財布には五百円札と百円札で二千円分だけお札を残して、あとは言われたように靴下の中に入れました。踏んで歩くのは気が引けたので、足の甲の方に入れました。靴を履くとすごい違和感。でもこれはいいかも。鞄だと鞄ごと取られたら終わりだけど、これだとお財布を取られてもこのお金は残る。おばさん、ありがと。とっても親切でいい方でした。ついでに、トイレもトイレとして使わせてもらいました。


 喫茶店を出ると行き交う人がさっきより増えていました。みんな普通の会社員って感じの人たちです。それでも、出るときに見た喫茶店の時計ではまだ七時すぎでした。北側の繁華街の方に戻って、市電の所まで行こうかと思って歩き始めましたが、時間はたっぷりあるので考え直しました。私の通った中学校は昭和区です。当然だけど、両親と住んでいた家から通った学校です。家は曙ってところにありました。栄からだと南東の方角です、多分。なのでとりあえず東に向かって歩きました。

 大通りを二つ超えると、また繁華街がありました。さっきと同じで閉まっているお店ばかり。全部夜のお店なのでしょう、この時間はほとんど人の歩いていない寂しい通りでした。どんどん進んでいきました。初めて歩くところなのでいろんなものが珍しかったです。でもやがて、住宅や畑や空き地が目立つようになりました。もう街を抜けて町に入ったって感じかな。そして、日が高くなるにつれて暑くなってきました。

 ちょっと挫折して、北に向かって方向を変えました。とりあえず市電の走っている道に出て、疲れたらいつでも市電に乗れるように。そして市電の走っている広小路に出ました。ショックでした。いえ、さっき栄でもおかしいと思ったんです、気付くべきでした。市電の線路部分が立ち入り禁止の工事中でした。そしてここでは、どう見ても線路を撤去している最中です。そう言えば、地下鉄に全面移行で廃止するとかって聞いたことがあります。でももう始まっていたなんて。お母さんは当分大丈夫って言ってたのに。どうしよう、代わりの地下鉄ってどこ走ってるんだったっけ。

 しょうがないので市電の線路跡に沿って、また東を向いて歩きました。このまま歩いて千種駅を超えて、今池まで行けばいい。そして今池からは南を向いて線路沿いを歩けばいい。そう思って歩いていたらポストがありました。今までもあったと思うけれど、そのポストを見て気付きました。手紙を入れた缶を瀬戸の家に置いてきちゃったことに。どうしよう、取りに行こうか、いや、そんなこと出来ないよね。そんなことを悩んでいると、もう一つ気掛かりなことに思い当たりました。あそこにまた手紙が届いたらどうしようって。

 向こうが次の手紙を出すまでにこっちから手紙を出さなきゃ。そして何とかしてしばらく手紙を出さないようにお願いしなきゃ。もうこれで文通は終わりにさせてください、だから返事も必要ありません、今までありがとう。なんて書けばいいような気もするけれど、それは嫌でした。だって、住むところが決まればそこの住所でまた手紙を出せる。そしてその時は一人で暮らしているはず。そしたら好きな様にやり取りできる。そして、そして、そのうち、きっと以前のように嘘を書かなくてもいいようになれる。そう、そうなりたい。

 国鉄の中央線を越えた今池目前ってところで、歩いていた通りの一つ南の筋で開いている駄菓子屋さんを見つけました。ミリンダを購入、二十五円。駄菓子屋さん前の日陰の腰掛で頂きました。冷たくて、甘くて、炭酸が爽快。

 飲みながら考えました、手紙の内容を。そして思い付きました、いい噓を。ううん、いい嘘なんてない、ああ、私ってほんとにどんどん悪い子になっていく。瓶を返しにもう一度お店に入ると、文房具も売っているお店でした。暑さに冷たいものを飲むことしか考えていなかったから気付かなかったけれど、どうやら文房具屋さんが駄菓子屋さんもやっているって感じのお店でした。ついでに便箋やボールペンも買いました。そして再び今池を目指して出発。あっ、瓶を返したのにお金もらうの忘れてた。

 今池の交差点が近付くと、歩道や路地に屋台が並んでいます。朝なので当然閉まっていて寂しい景色。でも、夜になると明りの灯った屋台がずらっと並んで、とても賑やかになります。なんでだったのか忘れちゃったけど、中学に入る前くらいに父と二人で屋台の一つで食事したことがあります。おでんの屋台だと言われて座ると、おでんと言っても土手煮でした。食べ慣れない味に、あまりおいしいとは思わなかったっけ。

 そんなことを思い出しながら歩いていると嬉しい光景が目に入りました。市電が走っている、南北の路線はまだあったんだ。ここからは市電で移動できる、嬉しくなりました。でも、まだ乗りませんでした。時間はあるし、市電に乗る前にさっさと手紙を書いてしまいたかったから。今池の交差点や電停には、出勤していくのであろうネクタイ姿の人が沢山いました。

 市電の通りを南に向かって歩きながら、手紙を書けそうなところを探しました。でも見つかりません。もういろんなお店が開いているのでどこかのお店に入ればいいんだけど、あんまりお金を使いたくないので入れませんでした。そして歩き続けているうちに見知った風景になりました。以前の家の近くまで来ちゃいました。信じられない、栄から歩いてきちゃった。

 ここまで来たらいいところが思い浮かびました。通っていた小学校近くの公園。藤棚があり、その下には石のベンチ。あのベンチは平らなので、あそこなら字が書けそう。そう思って行きましたが、ベンチに座った状態では書き辛い。結局ベンチを机代わりに、地面に正座して書きました。


『 ー略ー

 ところで、これから受験勉強の本番です。叔父は、女の子が大学まで行かなくていい、と否定的です。でも国立大学に合格したら行かせてくれると言ってくれました。なので目指すのは国立名古屋大学です。でも正直に言って、今の成績では合格出来ません。これから一生懸命勉強しないといけません。だからしばらくお手紙はお休みさせてください。受験が終わって落ち着いたら、またご連絡させて頂きます。

  ー略ー

 追伸

 この手紙にもお返事は不要です。お手紙を頂いて、文通を続けていると思われて受験に失敗したら、叔父に何と言われるか分からないから。

 ごめんなさい。よろしくお願いします。 』


 で、来年の春にでも、受験に失敗して働きに出ました、家も出て今はここに住んでいます、なんて手紙を出せばいい。うん、完璧。完璧と思えるような嘘を書けちゃうのは最低だけど。そのまま郵便局に行って手紙を出しました。宛先の住所はうろ覚えだったけど、まあ大丈夫でしょう、何年も書いてきた住所だから。

 郵便局で時計を見たらもう十一時前でした。そろそろ中学校の方に行かなければ。でもお腹も空いてる、トースト一枚じゃ足りませんでした。と言うわけで、御器所の交差点近くの食堂へ行きました。母とたまに行ったお店。そこなら一人でも入れそうです。

 お昼には時間が早いのでお店の中はガラガラでした。

「あら、しーちゃん? 久しぶり。あっ、そうだ、大変だったわね、大丈夫? もう落ち着いた? 今はどこにいるの? 親戚の所だった? 今日はどうしたの? こっちに何か用事があった?」

私のことを覚えていたお店のおばさんの質問に答えながら、一番安いおうどんを頼みました。本当は親子丼を食べたかったけど。母と来た時は大抵親子丼を食べていました。

 待っていると目の前にうどんのどんぶりではなくお盆が置かれました。そしてお盆には、おうどんと親子丼が載っています。驚いて目を上げると、

「久しぶりだからこっちは私から、あとでおうどん代だけ頂戴。このくらい食べれるでしょ?」

と、親子丼を指しながらおばさんが笑顔で言います。

「あ、ありがとうございます」

もちろん喜んで頂きました。

 食べ終えてお金を払うと、何か少し重いものが入った紙袋を手渡されました。

「これ、家用で作ったんだけど沢山あるからお裾分け。持ってって」

そしておばさんがそう言います。お礼を言って頂きました。お店を出ると、

「元気でね、また来てね」

と、おばさんが外まで見送りに出て来てくれました。

 お店から離れて紙袋の中を確かめると、紙で包装された大きなおはぎが二つ入っていました。お彼岸用かな? ほんとに嬉しいです、ありがとう。


 家からは少し遠かった中学校に着いたのは多分お昼過ぎくらい。私は南門から通っていましたが、目当ての子は北側の正門から通っていたはず。そちらに行きました。そしてハッキリとは知りませんが、その子の家はこの辺りだろうと見当をつけた方を目指しました。そしてあとはひたすらそのあたりを歩きまわる、その子と出くわすと信じて。そんな適当なことでいいのか、と思いましたが、そんなことしか思いつきませんでした。

 さすが生まれ育った地元です。歩き回っているうちに見知った友達二人と出くわしました。男女一人ずつ。男の子は私が見つけて声を掛けました。女の子は化粧もしている見違えた姿に私が気付かず、向こうから声を掛けられました。どちらともしばらく立ち話をして、目的の子のことを聞きました。二人とも、近況も住んでいるところも知りませんでした。そう言えばおとなしい子で友達も少なかったかも。私も三年生の時のクラスメイトってだけで親しくなかったし。ただ、二人との話で、その子の家があるであろう範囲はだいぶ絞られました。

 八月後半とはいえまだまだ真夏です。今日はほとんど雲もありません。そんな中を歩き回って、体力も気力も尽きかけた時に見つけた駄菓子屋さん、正確にはたばこ屋さんかな。駆け込むように入って本日二本目のミリンダ。だって、これが安いんだもん。お店の中のイスに座らせてもらって飲みました。そこの時計を見ると三時半の少し前。ほんの少しだけ、その子を見つけられない、と、予感がしてきました。

 休憩を終えて再び歩き回りました。家の表札は見て歩いていましたが、家の中も見える限り見て歩くようになりました、その子の影が見えないかと。でも、影も形も見当たりません。もう、どこにいんのよ、いい加減出て来てよ。と、だんだん焦ってきていました。

 もう歩けない。思えば今日は朝からずっと歩き続けている。足も痛いしほんとに限界。そう思いながら涼んでいた日陰で気付きました。影がずいぶん長い。西の空を見ると黄色とオレンジの間くらいの色でした。もう日が暮れるんだ、六時くらい? なんて思いながら、この時間なら彼女の仕事が半ドンでなくても、もう帰ってくるよね、と、もう一回り歩きました。結果的には徒労でしたが。

 今夜寝るところのことを考えていなかった、と、薄暗くなった中をふらふら歩いていました。もう彼女を探しているわけではありません。なんとなく御器所の方に向かっていました、あのあたりなら泊まれるところがあったはず、なければ市電に乗って今池まで行けばいい。今池は繁華街、あそこなら泊まれるところがある。来る途中でもビジネス旅館とかって言うのを見掛けた。朝食付き千円って書いてあったのも覚えてる。でも、私みたいな高校生の女の子、一人で泊めてくれるのかな。


 人にも帰巣本能があるのかも、気付けば家の前でした。かつての家だけど。体力がなくなっただけでなく、足の裏やふくらはぎ、足の付け根の関節まで痛み出し、ただ本能的に歩き続けていた足が止まった時に辿り着いたのは、そう、両親と暮らしていた借家の前でした。

 懐かしい、本当に懐かしい。ここを出てまだ一年と少ししか経っていないのに、十年ぶりに来たみたい。

 玄関に駆け寄って、ただいま、っと、入って行く。すると、おかえり、と、お母さんが台所から声を返してくれる。そして、こんな暗くなるまで帰って来ないで、心配するでしょ、すぐ夕飯にするから早く手を洗ってきなさい、と、ついでのように小言を言われる。

 何度となくあったそんなシーンが頭に浮かびました。でもそんなシーンはもう頭の中でしか再現されない。網戸だけが閉まった縁側の掃き出し窓から見える家の中では、小学校に入る前くらいの男の子が裸で走り回り、その子の両親がその子を追いかけ回している。そして捕まり、バスタオルでくるまれた男の子が無邪気に笑っている。かつて私の居場所だった四畳半の部屋で笑っている。

 ほんとに丸見えだ、以前母から言われた言葉を思い出し、そう思いながら、もうここは私の家ではないことを実感しました。いつまでもここにいたらいけない、そうは思うものの離れたくないのか、疲れ果てて体が動いてくれないのか、一歩目がなかなか出ませんでした。とにかくどこか座れるところに行こう、そう強く思ってやっとその場を立ち去りました。

 向かったのは午前中に寄った小学校近くの公園。道に近いベンチには街灯の光が届いていました。そこに落ち着きました。お腹がペコペコ、どこかで何か食べなきゃ。でも動けない、動きたくない。のどもカラカラ、でも、水飲み場まで歩けない。おしっこもしたい、でもトイレなんかない。もうどうでもいいや。そんな気分でベンチにへたり込んでいました。

 でも、だんだん緊急事態になってきました、おしっこが。なんとかどこかで、と、目に付いたのは昼間手紙を書いた藤棚。暗がりの中でした。あの奥なら人から見えないはず。そこに行って一番暗い辺りでしちゃいました。

 用を足すと、気分的には少し回復していました。でも体力的にはもう絶対的に限界。ベンチに戻って再びへたり込みます。でも、泊まるところを探さなきゃ、と、頭は回ってくれる。そして再び空腹感も襲ってくる。その時、食堂でおはぎをもらったのを思い出しました。驚くほどさっと体が動いてバッグのファスナーを開ける。くしゃくしゃに押しつぶされた紙袋がありました。取り出して水飲み場へ。勝手に体が動いてる。水を飲みながら、あっという間におはぎ二つを食べちゃいました。とっても甘くておいしかったはずだけど、味も覚えていないくらい一気に食べてました。食べ終えてベンチに戻り、開けたままだったバックを閉じようとして思いました。着替えたい、いえ、お風呂に入りたい。でも身体はもう歩き回ることを拒否していました。そしてまた藤棚辺りの暗がりに目が行きます。あそこの陰の中で着替えちゃおうか。でもどうせ着替えるなら身体ぐらい拭きたい。バッグをあさりました。水飲み場でタオルを濡らそうと。でもタオルが入っていませんでした。しょうがない、Tシャツとブラだけでも替えよう。ほんとはしばらくブラは外したままでいたかったけど。

 明かりの中で着替えをバッグの上の方に置いてから、バッグを持って藤棚の暗がりに行きました。そしてバッグを石のベンチに残して着替えを持ってさらに影の中に。さっと着替えました。着替えただけでもなんだか気分がよくなりました。すると、さすがに下は、と思っていたのが、下も履き替えたくなりました。またバッグを持って明かりのあるベンチへ。どうせ履き替えるなら涼しいスカートがいい。そう思ったけれど、バッグにあるのはTシャツ、ポロシャツと、下着、靴下ばかり。履くものってこのジーパンしかないの? ほんの少し悩んでからまた藤棚へ。そして下着だけ履き替えました。外で着替えなんて絶対に出来ない、とか思ってたけど、以外とあっさりしちゃってました。

 体は本当にもう限界でした。不快感から着替えだけはいそいそしちゃったけど、もう動く気にはなれませんでした。明かりのあるベンチまで行くのも面倒。なので藤棚の石のベンチで靴を脱いで足を延ばしていました。靴を脱ぐと気持ちいい。そしてしばらく靴下も脱いでくつろいでから履き替えよう、と思ってまた気付きます、靴下の中のお金に。一日歩き回った所為か、もう足と同化してしまったように忘れていました。でも気付くとやっぱり異物感がしてきます。そして、これは隠しておかないといけないという気持ちも。靴下を履き替えて、再びお金を忍ばせたあと、また靴を履きました。

 気付いたら、バッグを枕に寝転んでいました。そして、もうこのままここで寝ちゃおう、と、思考が、なくなった体力に負けて楽な方に引っ張られていました。向こうのベンチからは、藤棚に人がいても分からなかったもんね、と、自分を納得させて。こうして一人暮らしの初夜は野宿になりました。




 日付が変わった明け方、警察署にいました。

 体をゆすられて目を覚ますとお巡りさんが二人いました。いろいろ質問されたけど、ろくに答えられずに黙っていたら補導されました。

 机が並ぶ部屋の隅のテーブルのイスに座らされて、またいろいろ質問されました。でも、名前も言いませんでした。一人のお巡りさんが、中を見るよ、と、バッグを開けます。履き替えた下着なんかが見えて恥ずかしい。

「家出かな?」

バッグを見ていたお巡りさんが、私になのか、もう一人のお巡りさんになのか、そう言いました。

「そうなの? 家出してきたの?」

目の前に座るもう一人のお巡りさんがそう聞いてきます。でも答えられません。お巡りさんは私の反応を無視して続けます。

「もう一度聞くよ、名前は?」

「……」

「家はどこ?」

「……」

「あそこで何やっとたの」

「……」

「どこ行くつもりやったの」

「……」

何も答えられません。そもそも、何を、とか、どこに、って、私も分からないんだから。

 そこにやかんとコップを持った少し年配のお巡りさんが来ました。コップを私の前に置いて、やかんから茶色い液体を注いでくれます。

「のど渇いとるやろ? 麦茶や、どうぞ」

それも無視しようかと思いましたが、麦茶に負けて手が出ちゃいました。冷えてなかったけどおいしかった。一気に飲んじゃいました。テーブルに戻したコップに、年配のお巡りさんがまた注いでくれます。でも、もうそれには手を出しませんでした。するとそのお巡りさんが、

「学校に電話して、誰か先生に来てもらうか」

と、私の鞄を見てそう言います。私が持っていたボストンバッグは学校指定の物。学校の名前が入っていました。

「こんな時間にいますかねぇ、日曜だし」

「八時くらいになれば誰か出とるだろ。その頃掛けてみぃ」

お巡りさんたちがそんな会話をしています。それを聞いて私は、

「お、大西です」

と、名乗りました。年配のお巡りさんがしゃがんで私の顔を見て聞いてきます。

「大西さん、やっと名前が聞けた。下の名前は?」

「……静、です」

そう言うと目の前のお巡りさんが、

「しずかは、静岡の静でいい?」

と、聞いてきます。手元の紙を見ると既に、大西、と書いていました。私は頷きました。

「年は?」

年配のお巡りさんがまた聞いてきます。

「……十八です」

「じゃあ今度は家の住所、親御さんの名前も教えてちょ」

「……」

答えませんでした。

「またかね」

「……」

「なんでぇ、親御さん怖いんか?」

「……」

また口を閉ざしている私に、年配のお巡りさんが優しい口調で続けます。

「まあ、怒られるやろなぁ、あんたみたいな若い子が野宿しとったなんて。でもな、それはあんたのことが心配やからやで、分かるやろ?」

うちはそんなんじゃない、心配なんてしない。大体、そもそも親じゃないし。私はテーブルを睨むように俯いて、まだ黙っていました。私の顔を覗きながら、黙って私が口を開くのを待ってくれている年配のお巡りさん。でもしばらくすると、立ち上がりながらこう言いました。

「うん、はっきり言うとくわ。大西静さん、誰かに迎えに来てもらわんと、あんた帰れんからね。ここから出れんからね」

その言葉に、私は本当にもう観念するしかないようでした。

 その後は尋ねられるままに、叔父の名前や住所を答えていきました。一通り答え終わると、最初のお巡りさん二人は席を立ち、年配のお巡りさんが目の前に座りました。そしてお説教されました。若い娘があんなとこで寝とったら襲われちまうぞ、などと、そんな当たり前のことを、当たり前のことが分かっていなかった私にお説教してくれました。

 しばらくするとお巡りさんが一人戻って来て、叔父さんと連絡が取れ、迎えに来る、と、年配のお巡りさんに告げます。こんな時間に連絡が取れたんだ、と思っていたら、いつの間にか窓の外は明るかったです。そして部屋の時計を見ると六時を過ぎている。自分が感じていた以上に、補導されてから時間が経っていたようです。その後はそのまま待つように言われました。そして、私はそこで寝ちゃいました。あんな叔父さんでもまた会えると聞いて、何だかホッとしてしまったから。


 起きたのは、私の目の前で叔父さんがお説教されている最中でした。私がテーブルから体を起こすとお説教も終わり、帰らせてもらえることになりました。叔父さんは車で来ていて、その車に乗ります。私にはほとんど話し掛けなかった叔父さんが、車で走り出すとこう聞いてきます。

「朝飯、喫茶店でいいか? 喫茶店くらいしか開いてないからな」

「うん」

返事をするとどこかあてがあるのか、叔父さんが道を変えます。そして開いている喫茶店に到着。叔父さんがモーニングサービスを頼んだので同じものを頼みました。すると、私には好きなものを頼めと言います。断りました。すると勝手に、私にはオレンジジュースとサンドイッチを頼んでくれました。

 注文したものが目の前にくると、私はもう空腹感を抑えきれません。瓶のまま置かれたバヤリースをコップに注いで一口。冷たい甘さが口の中に広がると、叔父さんがトーストを半分食べ終わる前にサンドイッチを全部食べちゃってました。それを見て、

「食べてなかったのか」

と、叔父さんが言います。私は首を振りました。でも、

「ホットドックも出来る?」

と、店の人に尋ねて注文してくれました。

 そのホットドックが出てくると、叔父さんは自分のコーヒーのお代わりと、私のオレンジジュースをもう一つ注文します。そして、ちょっと車に行ってくる、と、店を出て行きました。戻ってきた叔父さんは少し大きめの風呂敷包みを持っています。そして私が食べ終わると包みを解きました。それを見て、私は驚きました。

 風呂敷包みの中は、二段に重なった缶の箱、私が手紙を入れているものです。上の缶に手を伸ばすと、

「昨日、うちのが用意してたんだ、お前の落ち着き先がもしわかったら、これを届けてやってくれって」

叔父さんがそう言います。私は何も返さず、上にあった缶を手元に置いてフタを開けました。そして少し驚き。一番上にハンカチが置いてありました。私のお気に入りだった花柄のハンカチ。でも、缶に入れた覚えはありません。手に取ると中に何か入っています。ハンカチを開きました。今度は本当に驚き。母の腕時計が出てきました。母も手紙も、まだ私を見捨ててなかった。私の傍に戻って来てくれた。そう思いました。

 缶のフタをして、時計を叔父さんに見せて聞きました。

「これも叔母さんが?」

「いや、そうだと思うけど、お前のじゃないのか?」

「ううん、私の」

この腕時計は座敷机の引き出しに入れてありました。叔母さんはこれが私の母の物だって知ってたから、探して入れてくれたんだ。ありがとう、本当に。

 私が時計を腕に着けるのを見ていた叔父さんが、

「それで、どうする? 戻ってくるか?」

そう言います。何を今さら。

「戻るわけないでしょ」

ちょっとムキになって言いました。ムキになったので言い間違えました。本当は、戻れるわけない、と言うつもりでした。そして叔父さんは私の言葉通りに受け取ったようで、

「そうだな、俺がいるところに戻るわけないな、俺の所為だな、悪かった」

そう言って頭を少しだけだけど下げてくれます。

 そう、叔父さんの所為で私は戻りたくない。そして、叔母さんと俊介君は、私の所為で私をあの家に戻すわけにはいかない。そう思いました。でも私は叔父さんだけを責めました。

「うん、叔父さんの近くにはもういたくない。イヤなの」

しばらくの沈黙の後、叔父さんが口を開きます。

「そうか。……もう二度としない、そう言ってもか?」

「そんなの信じられない。ほんとにそう言うなら、私にしたこと全部叔母さんに言って、叔母さんの前で約束して」

私はすぐに返しました。すると、

「いやそれは、……勘弁してくれ、すまん」

と、叔父さんがさっきよりは頭を下げます。

「ならイヤ、せっかく叔父さんから離れられたんだからもうこのままでいい」

叔父さんを責めることにムキになっていました。なので私は本当に素直じゃありませんでした。戻れるなら戻りたい、謝ってでも戻りたい、ほんとはそう思っていたのに。

 また少ししてからおじさんがこう言います。

「わかった。でも学校はどうする? 辞めるのか?」

学校のことまで考えていませんでした。無意識に、横に置いたバッグの学校名を見ていました。でもすぐに叔父さんに顔を戻してこう言います。

「辞めるしかないでしょ、働くしかないんだから」

なぜだかどうしようもなく意地になっていた私は、本当に素直じゃありませんでした。

「働くと言ってもどこで。それこそ学校辞めたらお前、中卒になるんだぞ、働くとこなんてそうそうないぞ」

「そんなの知らない、どうにかなるわよ」

もうヤケになっていました。気遣われるようなことを言われると余計に。

「どうにかって……」

叔父さんが困ったような、心配そうな顔でそう言います。なんだか少し胸が痛い。

「昨日、いろいろ歩き回ったけど、従業員募集、とかって貼り紙いっぱい見たし」

でも、またそんなことを言ってました。

「そうか、でも、そんな簡単に雇ってもらえないぞ」

叔父さんは完全に心配している顔になりました。なんだか悪いことをしている気分になりました。

「でも、何とかする」

それでも私はまだ強がりました。叔父さんが同じ表情のまま私を見つめました。そしてこう言います。

「どうしても戻る気はないんだな」

少し心が揺れました。でも私の強がりは止まらない。強がりを言うのは止めたけど、首が縦に動いていました。

「……そうか」

叔父さんはそう言うと、いつも持ち歩いているバッグを開いて封筒を取り出しました。そしてそれを私に差し出しこう言います。

「これ、受け取ってくれ」

「なに?」

私は封筒を受け取り、中を見ました。五千円札が三枚と、千円札と五百円札が沢山入っていました。そんな私を見ながら叔父さんが続けます。

「三万入ってる。新入社員の初任給がそのくらいだったはずだから、それだけあればしばらく何とかなるだろ」

「えっ?」

「お前の年だと千円札くらいの方が使いやすいだろうと思って、全部そうしてやりたかったけど、急だったからな」

確かに、私ぐらいの年の子が一万円札を持っていることなんてまずありません。昨日叔母さんに渡されたお金には一万円札がありました。私なんてあの時初めて触ったかも。喫茶店のおばさんが、私が一万円札を持っているのを見て驚いたのは普通の反応です。

「いい、昨日叔母さんからもらったから」

封筒を叔父さんの前に置きながらそう言いました。

「そう言うな」

「いい。そんなに大金持ち歩きたくないし」

封筒を私の方にまた差し出そうとする叔父さんの手を止めて、もう一度断りました。

「大金って、昨日うちのからいくら渡された?」

「一万九千円」

叔父さんが動きを止めました。でも、またこう言います。

「そうか、まあ、でも持っとけ、あとこのくらい持っててもいいだろ、あって困るものじゃないんだから」

「だからいいって」

「持ち歩いてるのが嫌なら、明日銀行か郵便局が開いてから口座作って、そこに入れとけばいいだろ」

「銀行?」

「そこらで印鑑だけ買って行けば作れるから。住所はとりあえずうちにしとけばいい」

そっか、銀行口座作ればお金持って歩かなくてもいいんだ。銀行なんて縁がなかったので思いつきませんでした。でも私はこう言います。

「それでもいい。いらないから」

私はまた意地になっていました。でもこの、意地、は、私なりのけじめの気持ちもあったかも。私は私なりに、俊介君にしてしまったこと、叔母さんの思いを裏切ったこと、それらを後悔していました。申し訳ないと思っていました。なのであの家を追い出されて、もうあの家の人間でなくなった以上、叔母さんたちにこれ以上迷惑を掛けたくないと思っていました。

 叔父さんがしばらく黙ってから封筒を手に取ってこう言います。

「俺からは何も受け取りたくないか」

叔母さんからのお金は受け取ったのに、って感じに聞こえました。なんだか寂し気な表情、また胸が痛みます。そこでちょっと思いついてこう言いました。

「そうだ、やっぱり七千円だけ下さい」

私は叔父さんの家に引き取られてから、毎月千円のお小遣いをもらっていました。両親と暮らしていた時は三百円、一気に三倍以上になりました。でもそんなに使い道がありません。俊介君が私にねだってくるお菓子やおもちゃを買っても、使い切ることはありませんでした。だから毎月お小遣いをもらう度に財布に千円残して、残ったお金を小さな缶に入れて貯めてありました。今は八千円以上、九千円くらいあるはず。でもはっきり数えて覚えている金額は七千円ちょっと。なのでそう言いました。

「七千円?」

叔父さんがそう聞いてきます。

「うん、私の部屋の箪笥の一番下の引き出しに小さな缶が入ってるんだけど、その中に貯めてるお金があるの。多分、七千円くらいあるからその分だけ頂戴」

「そうか、わかった、それだけでいいのか?」

「うん」

叔父さんが封筒から、五百円札と千円札で七千円分数えています。そして数え終わったかと思うと、そこに千円札四枚を足した分を残して、残りを抜くと鞄へ。残した一万千円入った封筒を私に差し出します。

「一万千円、これだけ受け取ってくれ。うちのが渡した一万九千円と足して、これで三万だ。頼む、これは受け取ってくれ」

「うん、ありがと」

素直に受け取りました。すると少しだけ安心した顔になる叔父さん。そしてこう言います。

「ほんとにそれでいいのか? 他には? お金以外に他に何かないか?」

そう聞かれて少し考えました。考えながらテーブルの上の重ねた缶の箱と、横のイスに置いたボストンバッグに目が行きました。

「鞄、鞄が欲しい」

そしてそう言いました。

「鞄?」

「うん、この鞄、学校の名前が入ってるから、これ持って歩いてたらまた補導されちゃう。あと一週間で夏休み終わりだし」

「わかった、このあと買いに行こう。他には?」

「う~ん、いい、あとはいい」

いるものはいっぱいあるのだろうけど、この先が何も分かっていない状態では何も思いつきませんでした。

「そうか? 遠慮しなくていいぞ」

「うん、大丈夫」

「そうか」

叔父さんはそう言うと、また鞄を探ります。そして名刺を取り出しました。

「何かあったら会社の方に電話してこい」

会社なら叔母さんに知られずに済むってことかな。そう思いながら名刺を受け取りました。叔父さんは続けてこう言います。

「どこか部屋を借りるんだろうけど、その時は電話してこいよ。保証金やらなにやら、最初のお金は出してやるから」

「えっ?」

保証金って何? と思っていたらまだ続きます。

「保証金どころか、お前の年だと保証人も必ず要るはずだ。それも俺に言って来い、俺が保証人になるから」

知らないことがいっぱい。

「……分かった」

もうお世話になる気なんかない、と思っていたけど、まだまだ何もかも一人でってわけにはいかないようです。

「保証人と言えば、多分雇ってもらうのにも必要だぞ。それも俺にしとけばいいから連絡だけして来い」

「分かった」

 そんな話が終わると、叔父さんは残ったコーヒーを飲み干しました。私もジュースを飲み干します。そんな私を見て、また叔父さんがこう言う。

「ほんとに戻る気はないんだな」

「うん」

戻ればとりあえず何も心配はない。気まずく、肩身の狭い日々は続くだろうけど。それでも、これからのことが何も決まっていない、今夜寝るところさえ決まっていない、そんな不安な状態よりはるかにまし、比べるまでもない。そんなことは分かっているけれど、また頷いていました。俊介君と叔母さんへの罪悪感の方が強かったから。意地にもなっていたし。

 喫茶店を出て叔父さんの車に乗りました。買ってくれると言う鞄を買いに行くために。もう日差しは強く、車の中は蒸し風呂の様でした。窓を全部開けて走ります。風は涼しいのですが、車の中のすべてが熱くなっているので蒸し暑さはとれません。

 通りすがりに見つけた洋品店のような雑貨屋さんのようなお店で、紺色の大きなボストンバッグを買ってもらいました。手紙の入った缶を底に並べて、その上から持っていた衣類を入れてもまだ余裕があるサイズ。まあ、学校のボストンバッグはそんなに大きなものではなかったけど。きれいな色のもあったけれどそれを選んだ理由は、肩から斜め掛け出来るベルトが付いていたから。これで歩きやすくなりました。ついでに小物用のポーチ数個と、ポシェットも買ってくれました。

 買い物を終えて車で荷物を入れ替えてから、私が新しいバッグを肩に掛けて車を離れようとすると、

「どこか行きたいところまで送ってやるぞ」

と、叔父さんが言います。私はそれを断りました。今いるのがどこなのかは分からなかったですが、お店の近くに栄行のバス停を見つけていたから。

「ううん、ここでいい。そこからバスに乗るから」

「遠慮しなくていいぞ」

「大丈夫、叔父さんありがとう。叔母さんやシュンちゃんにもそう言っといて」

「そうか、わかった」

叔父さんはそう言うと車に乗りエンジンを掛けます。私は開いている助手席の窓に近付いてもう一度こう言いました。

「叔父さん、本当にありがとうございました」

さっき聞いた保証人のこととかでまだお世話になることがあるかも知れないけれど、これで私なりの決別のつもりでした。

「いや、そんなこと言わんでいい、俺の所為でお前は出て行くんだから」

もう、そんな責めるつもりはないんだから、じゃあな、って言ってくれたらいいのに。

「ううん、それじゃあ元気で」

笑顔でそう言いました。すると叔父さんは私の顔をしばらく見てから溜息一つ。そしてこう言います。

「帰ったらうちのに怒られるな」

「えっ?」

私が聞き返すと、叔父さんはギアを入れてこう言います。

「あいつからはお前を連れて帰って来いって言われてたんだ。まあ、俺が迎えに来る時点でそれは無理な話だったんだよな。じゃあ、お前も元気でな」

そして叔父さんは車を出すと走り去っていきました。

 私は呆然と叔父さんの車を見送っていました。叔母さんが私を連れ戻すように言った? うそ、そんなこと有り得ない。叔母さんはほんとに怒ってた。俊介君にあんなことをした私を本気で追い出した。なのに……、本当なの? だったら私……、叔父さん、最初にそれを言ってよ、遅いよ、そしたら私、戻れたのに、戻りたかったのに。




 栄の繁華街から少し離れた何もない公園のベンチであんパンを食べていました。それとジャムパンが今日のお昼ご飯。これからもう大人になるんだからコーヒーにも慣れなくちゃと、飲み物はコーヒー牛乳。でも場所は悪かったかな。公園の隅から私が食べているのをじっと見ている汚い格好の人が何人かいます。なんだか嫌な感じ。でもあんまり気にしてなかったけど。

 叔父さんが車で走り去った後、しばらく動けませんでした。戻れたかもしれないのにって喪失感のようなものに襲われていました。そしてそれは怒りに。叔父さんの所為でまた私は人生が狂ってしまった、なんて大きなところまで考えは及びませんが、叔父さんの所為で、とは思いました。本当に叔父さんは私にひどいことばかりする。自分が無意味に意地になっていたことは忘れて。

 バスで栄に着いてから、昨日歩いた歓楽街に向かいました。叔父さんに、従業員募集の貼り紙を見た、と言ったのは嘘ではありません。ただし、従業員、の文字より、ホステス、の方が多かったけれど。ホステスが何かくらいはもう知っています。お酒を出すお店で接客する女性のこと。そして接客する女性もお酒を飲むイメージがあることも。そう、お酒を飲める年齢ではない私では雇ってはもらえないかもしれないということも。なので、従業員募集の貼り紙の出ていたところで、そういうお店ではないところを探そうと思いました。

 甘かったです、考えが。従業員募集となっていても、キャバレーやクラブばかりでした。何のお店か分からないところもありましたが、雰囲気的にはお酒を出すお店でした。そしてそもそも、開いているお店がない。なので話も出来ません。夜のお店だから夜にならないと誰も来ないのか、それとも日曜日だからなのか分からないけれど。そしてまた汗をかいただけでお昼になりました。

 ジャムパンを食べながら頭を搔いていました。かゆい、頭だけでなく身体のいろんなところがかゆいです。昨夜、公園で虫に刺されたかゆみもあるけれど、根本的にお風呂に入っていない所為だ。気持ち悪い、お風呂に入りたい。


 お昼からも昨日歩いたもう一つの歓楽街に向かいました。その途中で横切った、百貨店やいろんなお店が集まった一角。日曜日なので買い物に来ている人がいっぱいでした。みんな楽しそう。

 そしてたどり着いた昼間の歓楽街、やっぱりほとんど人がいませんでした。募集、の貼り紙を探して歩きました。お酒を出すお店ばかり。そんな中でガラスの入った引き戸に貼り紙の出ている居酒屋さんを見つけました。居酒屋さんは入ったことがあります。御器所の交差点近くのお店に両親と何度か。そのお店には注文を聞いたり、食べ物などを運ぶ若い女性がいました。ああいう仕事ならお酒を飲めなくても出来る。ここなら、と思いました。

 引き戸のガラスからお店の中を覗きました。電気が消えていて誰もいません。引き戸横の窓から覗いても同じです。引き戸を何度か叩いてみました。ごめんください、すみません、などと声も掛けてみました。やっぱり反応はありませんでした。

 諦めて通りの方を向くと、通りを挟んだ左斜め先にあるビルの一階に女性がいました。ビルには何軒のお店が入っているんだって思うほどに沢山の看板があります。スナックの文字が目立ちます。

 その女性は二階に上がる階段に座っていました。そして、私の方を見ています。少し距離があるのではっきり分かりませんが、なんとなく見覚えがある人のような気がしました。トレパンの様なズボンにポロシャツ姿。どちらも着古したようなくたびれた感じがあり、足元はサンダル。この街の人っぽくない。そしてやっぱり知っている人ではないかも。そんな格好なのにパーマをかけたふわっとした髪をしている。そんな髪の知り合いはいません。そう思っていたら、その女性は階段を上がって行き、二階に消えました。

 私は再び貼り紙探し。ここにはさっきの居酒屋のようなお店が結構ありました。お酒を飲まなくても働けそうなお店が。でもそういうお店には募集の貼り紙が出ていません。貼り紙が出ているのはお酒を飲めなくてはいけないようなお店ばかり。そんなお店でも話が出来ればほんとにそうなのか聞けるんだけど、開いていないのでそれも出来ません。何軒か扉を叩いてみたけど無駄でした。

 さっきの居酒屋に誰かお店の人が来ていないかな、と思ってそこに戻りました。さっきと同じでした。夕方、お店が開く前くらいの時間に来ないとダメかな、それも平日で。そんな風に思ってお店に背を向けると、向かいのお店の扉が開きました。バーとなっているお店。そして、貼り紙があります。

 扉から出て来たのはおじさんでした。バケツと雑巾を持っていて、扉などを雑巾で拭き始めます。私は近付いて話し掛けました。

「あの、すみません」

「はい、……」

おじさんは返事をした後無言で私を見ます。

「あの、そこの従業員募集って貼り紙なんですけど」

「はあ」

なんだかすごく緊張してました。でも頑張って口を開きます。

「わ、私、働きたいんです」

おじさんがまじまじと私を見ます。でも何も言いません。

「あ、あの、ダメでしょうか?」

そう言うと、おじさんが口を開きました。

「こういう店で働いたことある?」

「いえ」

「今までどういうとこで働いてた?」

「いえ、その、すみません、働いたことないです」

「だろな、どこの学校? 何年生?」

「……」

「その荷物、家出か?」

「……」

「どこから来たか知らんけど、まだ陽が高いから今のうちに帰りなさい」

「いえ、その……」

「帰って、何があったか知らんけど、親御さんに謝るなり、話をするなりしなさい」

「その、私、帰れないんです」

「……、電車賃もないんか」

「いえ」

「表の通りに出てちょっと行ったら交番あるから、お巡りさんに相談してみやぁ、電車賃くらい貸してくれるかもしれんから」

「違います。私もう働くしかないんです。帰るところがないんです」

「……」

おじさんがまた黙って私を見ます。

「お願いします、働かせてください」

頭を下げました。でもおじさんはこう言います。

「ダメだ」

「そんな、なんでも……」

私の言葉を遮っておじさんが続けます。

「それに、ここはあんたみたいな子が働くところやない」

「……」

「もっと普通の働き口を探しぃ」

「普通の……」

「そうや。まあ、中卒じゃ普通の会社は雇ってくれんやろうから工場とかになるやろうけどな。それでもこんなところで働くよりよっぽどましや」

こんなところと言ったおじさんは、この街と言ってるようでした。


 そのあとおじさんはお店に入って行きました。掃除はまだ途中の様でしたが、私との話を終わらせたかったのかな。そしておじさんとの話で思いました、こういう街で仕事を探すべきではないのかな、と。お店の前で一人そんなことを思っていたら、左の方から近付いてくる人がいました。

 近付いてきたのは、さっきビルの階段に座っていた女性でした。いえ、近付いてくる姿を見たら、女性と言うよりは女の子でした。私と同じくらいの女の子でした。そして、知っている子でした。なんとなく顔つきも変わっているし、髪にはパーマ。それで気付きませんでしたが、近付いてくると誰だか分かりました。

「なみちゃん?」

一、二歩近付きながら声を掛けました。でも返事がない、人違い? と思っていたら目の前まで来てこう聞かれました。

「何やってんの? こんなところで」

久しぶりに会ったなみちゃんに、こんなところで、こんな状況の時に会えた知っている子に、私は笑顔でした。なのになみちゃんは仏頂面で、声も低く機嫌が悪い感じでした。なんだか少しショックでした。

「えっ、なみちゃんこそ」

「私が先に聞いてるの」

ほんとになみちゃん機嫌悪い?

「……働くところ探してるの」

「はあ?」

なみちゃんの顔が少しだけ知っている顔に戻りました。

「ちょっといろいろあって……」

「学校は? 学校行きながら働くの?」

「ううん、学校は辞めたの」

「……なんで?」

「だから、いろいろあって……」


 なみちゃんに先導されて移動しました。ビルとビルの間の路地を歩きました。そして路地の途中にあったお店に入ります。駄菓子屋さんの様でそうではない、飲食店のようにも見える変なお店。何屋さんなのか分かりません。なみちゃんはお店に入ると中の冷蔵ケースを覗きます。そしてサイダーの瓶を一本取り出しました。

「こんにちは~」

店の奥に行って、なみちゃんが大きな声を出します。すると奥からおばさんが出てきました。

「はいはい、あらサキちゃん、こんにちは」

サキちゃん? 誰それ?

「これ、ここで飲んでっていいですか?」

でもなみちゃんは気にする風でもなくそう言いながら、おばさんに二十円払っています。

「ええ、好きにして、ありがと」

おばさんはそう言いながらお金を受け取ると、また奥に行ってしまいます。

「しーちゃん、コップ二つ持って来て」

やっと、しーちゃん、と呼んでくれた、嬉しい。私はなみちゃんがそう言いながら指した冷蔵ケースの上からコップを二つ取りました。なみちゃんは二か所あるテーブルの一つについています。なので私もそちらに。テーブルにはイスが四つずつありますが、大きさは二人分程度。四人で座ると狭そう。

 テーブルにコップを置いてなみちゃんの向かいに座りました。なみちゃんがサイダーを注ぎながら口を開きます。

「で、いろいろって何があったの?」

でも答える前に聞きました。

「ちょっとその前に、サキちゃんって何? なみちゃんのこと?」

「ああ、お店での名前。ここではみんなそう呼ぶから。はい、おごり」

なみちゃんがそう答えながら、注いだサイダーを勧めてくれる。

「ありがと」

お礼を言って一口飲みました。パチパチと、冷たく甘い炭酸が気持ちいい。なみちゃんもサイダーを口にしていました。私はまた聞きます。

「お店って、やっぱりなみちゃん、トル……、そういうお店にいるの?」

ストレートに、トルコ(風呂)、と言いかけて、自分で恥ずかしくなってやめました。でもなみちゃんは平気でこう言います。

「ええ? 私、トルコ(風呂)にいると思われてるの?」

「うん、なみちゃんが学校辞めた時、みんなそう言ってた」

「はあ、信じらんない。まあ、実際行かされかけたけどね」

「ええ? どう言うこと?」

さらに質問すると、なみちゃんはコップの中を泳ぐ小さな空気の球を見つめて黙りました。そしてしばらくすると、

「しーちゃんもいろいろって言うの、あとで全部話す?」

と聞いてきます。私は頷きました。すると話始めてくれます。

「最初から言うとね、うちのお父さん、博打好きでそこら中に借金があったの。で、二年になる少し前、やばいところから借りて、取り立てがすごかったの。それで私、働きに出された、そのお金貸してる会社の人が指定するお店に。スナックだったんだけどね、ひどいお店だった。あっ、二年になってからしーちゃんにも近付かなくなったでしょ? ごめんね、でも理由があったの、何かわかる?」

「ううん、ごめん、分かんない」

「匂い、先生には気付かれて怒られたこともある」

そう言われても分かりませんでした。

「匂い?」

「そ、お酒の。遅くまで飲まされたから、朝になっても匂う時があったのよ」

「お、お酒飲んだんだ」

「それが仕事だったもん」

「そうだったんだ」

「それに、それ以外にもなんか、しーちゃんだけじゃなくてみんなと一緒にいるのが後ろめたいって言うか、なんかよく分かんない劣等感みたいなの感じて、それで誰にも近付けなくなったの」

そう言うお店で働いて、お酒まで飲んでたからかな? と思いました。黙っていたらなみちゃんが続けてくれます。

「ひどいお店って言ったでしょ? そのお店ね、お客が女の子酔い潰して何しても知らんぷりのお店だったの。お金払えば何してもいいお店だったの」

「……」

「だから私の初体験の相手は、どこの誰だか分かんないおじさんだった」

「ええ? ひどい……」

「あ、ほとんどのお客さんは身体触ってチューしてくるくらいで終わりなんだけど、たまにそう言う人もいるの」

「そ、それってお店の中でそういうことするの?」

「そう言うことするための部屋があったのよ、そのお店。まあ、その部屋まで使うとかなり取られたみたいだから、そんなにしょっちゅうそういうお客は来ないけどね」

完全に私では想像すらできない話でした。私はまたサイダーに口をつけてました。ショックな話を聞いたせいで、甘さが半分になったように感じました。

「警察に補導されたとかって聞いたけど、それで?」

コップをテーブルに置いてからまた聞きました。

「えっ? ああ、それでって言うか、そのお店、帰りは若い男の子が車で送ってくれてたの、未成年の若い女を酔っぱらったまま帰せないから。で、その日もお店の前で車が来るの待ってたんだけど、来なかったのよ、エンジンが掛からなかったらしいけど。で、私は待ってるうちにお店の前に座り込んで寝ちゃってたの。あ、その時他に二人いたんだけどね、女の子。だから三人並んで寝ちゃってた。そこにお巡りさんが通りかかって補導されたの、三人とも未成年で飲酒してるってことで」

「そうだったんだ」

「その後そのお店なくなっちゃって、警察が入ったみたい。それでお父さんがお金借りてる会社の人がまた新しいお店に行けって言って来たんだけど、それがトルコ(風呂)だったの」

「ええ? それで?」

「だから、さすがに行かないってトルコ(風呂)には。言ったでしょ、行かされかけたって。だから家出したのよ、行きたくなくて」

そっか、そうだよね、って、家出したんだ。

「お、お母さんは? 何も言わなかったの? その、トルコ(風呂)行けって言われた時」

「お母さんなんてとっくに出て行ってたよ、借金取りに怯えて」

「えっ?」

「ついでに言うと、お兄ちゃんも出て行った。もう働いてたんだけど、そこ辞めて、その借金してる会社の仕事しろとかってお父さんに言われて」

なんかほんとにひどい。

「お母さんとかお兄さんの所に行けなかったの? その、家出してから」

「お母さんとはねぇ、ちょっと仲が悪かったんだ、ずっと。だから考えなかった。お兄ちゃんはどこにいるのか分かれば行きたかったけど、分かんなかったから」

「なんで?」

「お父さんに探し出されないように仕事も変えてどっか行っちゃったから。東京行きたいってずっと言ってたから、東京行ったんじゃないかな」

「そうなんだ。あ、なみちゃんは今どこにいるの?」

「えっ? ここにいるけど」

「えっ、違うよ、住んでるとこ」

「分かってるよ」

そう言いながら笑うなみちゃん。

「もう」

私も笑いました。なんだか久しぶりに楽しい気分。

「すぐ近くよ、この路地出て南の大通りの方に行くと左に三階建てのアパートがあるの。東洋ビルってとこ、そこに住んでる」

笑ってからなみちゃんはちゃんと教えてくれました。

「家賃っていくらくらい?」

また聞いちゃいました。

「知らない」

でも予想外の返事でした。

「なんで?」

「そこね、今働いてる店の寮みたいなとこだから」

「そうなんだ。働いてるお店って?」

「うん? ……スナック」

「そう……なんだ」

やっぱりそう言うお店なんだ。お酒飲めない年なのにいいのかな。

「あっ、さっき言った最初に働いたお店みたいにひどいところじゃないよ。もっとまとも、まともって言うか、ましなところ」

「そう」

「まあ、酔っ払い相手だから身体触られたりはするけどね。でも、そう言うお店じゃないから、しつこいお客さんは店の男の人に追い出されるから」

「そうなんだ」

「さっき、しーちゃんに話し掛けるもう少し前、私、お店の前からしーちゃんのこと見てたんだよ」

「知ってる。階段に座ってたでしょ」

「ああ、気付いてたんなら声掛けてよ」

「違うよ、女の人がいるって分かっただけ。髪型とか違い過ぎてなみちゃんだと思わなかったもん」

「ああ、そっか」

そう言ってなみちゃんは自分の髪の毛を見るかのように上を見ます。

「そっちこそ私だってわかってたんなら声掛けてくれたらよかったのに」

「ああ、なんかねぇ、こういうとこで働いてるの知られたくないなって思って」

「そっか、でも結局近寄って来てくれたね。なんで?」

「うん? なんか揉めてるのかなって」

「心配してくれたんだ」

「心配って、まあ、あそこのマスターとだったら、揉めてるとしたら悪いのはしーちゃんの方だろうけどね」

「え~、なんで?」

「だってあそこのマスター、この辺じゃ貴重なくらい珍しくまともな人だから」

「そうなんだ」

この辺にはまともな人がいないような言い方に、なんでかおかしくなって少し笑っちゃいました。つられるように笑顔になってなみちゃんが言います。

「えっ? なんで笑うの?」

「ううん、何でもない」

そう返すと、何でもないことに笑っているのがおかしくなって、また笑いが込み上げてきました。なんだかなみちゃんと学校の教室で笑っていたころを思い出します。

「しーちゃん変だよ」

そう言いながらなみちゃんも笑っているし。


 笑いが納まるとなみちゃんがこう言いました。

「さあ、今度はしーちゃんのいろいろって言うのを聞かせてもらおうかな」

少しだけ、どこまで話そうか考えました。なみちゃんは多分全部話してくれた。なので私も隠さず全部話そう、そう思いました。でも、自分から話し始める勇気はありませんでした。だって、恥ずかしいことだから。それはなみちゃんも同じだったと思うけれど、私にはなみちゃんほど勇気がありませんでした。なので、

「私のお父さんとお母さん、死んじゃったのは知ってるよね」

と、切り出しました。話しながらなみちゃんがいろいろ聞き出して来たら全て話すつもりで。

「うん、もちろん。その時私まだ学校にいたし」

「で、その後、叔父さんの家にお世話になったのね」

「うん、知ってるよ」

「そこにね、三つ下の従兄弟がいたの」

「うん、それも聞いたよね、弟が出来たみたいって」

知ってるとか、聞いたとか、そんなに言われると話し辛いです。

「その弟みたいな従兄弟にね、ひどいことしちゃったの」

「うん」

「でね、叔母さんとかにしたらその子は自分の子で、私は違うわけでしょ? だからね、ものすごく怒らせちゃったの。それで家を追い出されたの」

言い難さに話し辛さも手伝って、いきなり結論から話してしまいました。でも本音は全て話してしまいたいと思っていました。だから、なみちゃんうまく聞き出して、と、願っていました。

「え~、追い出すなんてひどいね、何やったのしーちゃん」

よし、聞いてくれた。でも次は何話そう。いきなり俊介君を誘惑したなんてこと話しても、その理由が分からないよね。ならやっぱり最初から、叔父さんにされたことから話すしかないのかな。そう思うとのどがカラカラでした。サイダーの残りを飲み干します。そして、

「実はね、去年の夏に私……」

「サキ、やっぱりここにいたか」

意を決して話始めた私の言葉を、お店の外からの声が遮りました。なみちゃんはその声を聞いてハッと立ち上がり、返事をしながらお店の戸口に行きます。

「はい、マサさんお疲れ様です」

「お前今日、掃除の当番たよな、もう終わったのか?」

「はい、終わってますよ」

「じゃあ紘一ももういないか」

体をずらして覗いてみると、なみちゃんと話している声の主は二十代の男の人でした。筋肉質で顔も何だか少し怖い感じの人でした。

「いえ、コウちゃんは昨日お客さんが壊したところ直すとかってまだやってましたよ」

「あいつが? そんなこと出来るのか? まあでもこれで紘一も捕まえられるな。お前、それ、まだ時間掛かるか?」

それ、と言いながら、マサさんと呼ばれた男の人が私を指しました。

「あ、いえ、何かあります?」

なみちゃんは一瞬私を振り返ってから向き直るとそう言いました。

「愛、と、パープル、分のチャーム類が全部、扉、に届いてるらしいんだ。それを今から取りに行くんだけど、結構あるらしいから人手集めてんだ。今、部屋を覗いたらユキがいたから、あいつにも出て来いって言ってきた」

「またですか、分かりました、いいですよ、行きます」

「じゃあ俺は紘一捕まえとくから店まで来てくれ」

「分かりました」

男の人はそれで立ち去りました。なみちゃんは私の所へ戻ってきます。

「ごめんしーちゃん、用事出来たから行くね」

「う、うん」

「じゃあ、またね」

なみちゃんはそう言うと、空になったサイダーの瓶を冷蔵ケースの横の瓶ケースに入れて出て行こうとします。そのなみちゃんに声を掛けました。

「なみちゃん、どうやったらまた会える?」

「えっ、ああ、え~っと、他の子もいるからさっき言った部屋には来て欲しくないかな。う~ん、店の掃除になってる時はこのくらいの時間にこの辺うろうろしてるから、その時に見つけてとしか言えないかな」

「そっか、分かった、また話に来るね」

「うん、じゃあね」

そしてなみちゃんも行ってしまいました。


 なみちゃんと別れてから今池に向かって歩きました。今日はもう仕事探しはしません、泊まるところを探しにです。泊るところと言うより、とにかくお風呂に入りたかったのです。昨日見つけた千円の宿を目指しました。今日、栄まで来てバスを降りた時に地下鉄を見つけましたが、乗り方が分からなかったらどうしよう、と思ってやめました。

 昨日、市電が走っていた通りは車やトラックの巻き上げる埃がすごかったので、何筋か南の道を歩きました。そして中央線の電車の音が聞こえる辺りまで来るとそこにもありました、朝食付き九百円と出ている旅館が。昨日見たところより百円も安い。と思いましたが、そこはなんだか古い普通の家でした。ちょっとやめておきます。そしてそのまま歩き続けると、千種駅の直前でホテルを見つけました。二階建ての大きな家って感じですが、見るからに宿泊施設っぽいです。いくらかな? と思いながら入り口付近を見ていたら、二食付き千四百円と出ていました。二食ってことは晩御飯も付いてる、でもさっきより五百円も高い、却下。

 そして周辺をもう少し歩き回るとまた見つけました。今度はビジネス旅館となっていますが、見た目はかなりましです。二食付き千四百円。さっきと同じだ、と思ったら、朝食のみの場合、千百円と書いてありました。二百円高い。でも、さっきの所はほんとに古くて酷そうだったからここの方が高くても絶対いい、そう思って入り口を入りました。

 受付と出ていた窓口に行くとおばさんが出てきました。

「あの、泊まれますか?」

その方より先に私が口を開きました。

「いらっしゃい。ええ、大丈夫ですよ。えっと、あなたお一人?」

「はい。朝食だけでお願いしたいんですけど」

そう答えると、おばさんが私の全身をじろじろ見てきました。そしてこう言います。

「あっそう、分かりました。じゃあこれにお名前とか書いてもらえる?」

「はい」

おばさんが開いた帳面のようなものの記入欄に私が名前を書き始めると、

「今日は名古屋に何か用事があったの?」

と、おばさんが尋ねてきます。

「え、いえ……」

そう返しながら住所を書き始めました。瀬戸の叔父さんの家の住所しか書きようがなかったので、その住所を書いていきました。するとそれを見ておばさんがまた口を開きます。

「瀬戸の方なの? どうして? ご両親は?」

「え、あの、いません」

そう言っておばさんを見ると、訝しむ目と合いました。

「あの、あなたいくつ?」

「十八です」

「ごめんなさい、何か身元が分かるものある? ああ、十八歳なら高校生でしょ、学生証は持ってない?」

学生証も生徒手帳も持っていませんでした。

「え、えっと……」

どうしよう、と思っていたら、おばさんがこう言います。

「その荷物、あなた家出して来たんじゃないでしょうね」

「いえ、違います」

「ならどうして帰らないの? 瀬戸でしょ? まだ十分帰れる時間じゃない。高いお金払って泊まらなくてもいいでしょ」

「……」

何も言えませんでした。


 結局追い返されるようにそこを出ました。十八歳では簡単に泊めてもくれないんだ。そう思ってショックでした。もう一軒の高いホテルでも多分同じこと言われる。なので最初の普通の家みたいな旅館に足が向きました。ここならひょっとして、と思って。

 そこの入り口は、ほんとに普通の家の玄関の様でした。中も狭い土間からすぐに上がるようになっています。ほんとに普通の家みたい。土間に立ったまま声を掛けました。

「ごめんください」

するとすぐ近くの襖が開いて、おじさんが首だけ出します。

「はい」

「あの、泊めていただきたいんですけど」

そう言うとおじさんは部屋から出てきました。

「ああ、はいはい、いらっしゃい、九百円ね」

そしてそう言いながら右手を出してきます。すぐにお金を払えってことか。さっきの所みたいに何か書かなくてもいいのかな、と思いながら財布を出して千円札を一枚渡しました。おじさんは受け取ると部屋に一旦戻ってまた来ました。そしてお釣りの百円を差し出しながらこう言います。

「靴は下駄箱。部屋は二階の3って書いてあるところ。出掛けるとき、声掛けてくれなくていいから。ああ、あと、朝食は何時にする?」

「え、え~っと、じゃあ七時でいいですか?」

「七時、部屋に持って行くから」

それだけ言っておじさんは戻ろうとします。その背にまた声を掛けました。

「あの、お風呂ってもう入れますか?」

すると振り返って面倒くさそうにこう言います、壁の貼り紙を指しながら。

「そこに書いてあるんだけど、お風呂は五時から十一時まで。夏場だからいいと思うけど、お湯がぬるかったら沸かし直してね、中にスイッチあるから。あ、あと、うちの風呂は男女一緒だから、お嬢さんが入る時は女性入浴中って札、入り口の外に掛けといて。それでも気付かず入ってくる人いるけど、嫌ならちょっと行ったところに銭湯あるからそっち行って」

そしておじさんは逃げるように部屋に入って襖を閉めちゃいました。私は土間から上がって靴を下駄箱に入れてから、廊下の壁に何枚か貼られた紙を見ました。ここでの決まり事やお風呂の場所なんかを示した見取り図なんかがありました。火の元注意、寝たばこ禁止、なんて貼り紙が目立ちます。盗難注意、の貼り紙に、貴重品はフロントに預けてください、なんて書いてある。フロントってあのおじさんのこと? なんて思ってちょっとおかしかったです。貴重品なんていう高価なものは持ってませんよ。私はあっけなく泊まれることになって安心していました。

 部屋の入り口は襖でした。ほんとに普通の家だ。中は何もない四畳半の部屋。隅に畳んで積まれた布団が二組あるだけでテレビもない。でも、今夜はここでくつろげる、そう思うだけで嬉しかったです。

 お風呂は五時からとなっていたけれど、まだ四時になっていませんでした。なので先に夕食のことを考えました。さっき千種の駅の方を歩いていた時、開いているお店が何件かありました。お風呂の後にそこに出掛けていって何か食べよう。でも、一人でお店で食べるのはなんだか気も引ける。なので何か買って来ようと思いました。

 声は掛けなくてもいいと言われたので黙って出掛けました。駅前の方に来ると、もっと開いているお店があった気がしたのに閉まっているところばかりです。まあ、日曜日だもんね。菓子パンも置いてそうなお店があったけど閉まっています。食堂とうどん屋さんが一軒ずつ開いているのは確認しました。やっぱり食べに出るしかないのかな、と思いながら店の中を覗いた雑貨屋さんの中に、お菓子が並んでいるのを見つけました。開いているお店でした。

 お菓子でもいいかと中に入ると、菓子パンも売ってました。お昼も菓子パンだったけどしょうがないか。でも、残っているのはあんパン三つだけ。これもしょうがないかとそれを買おうと思ったら、お店に作業着姿の男の人が入ってきました。そして、

「まだ弁当ある?」

と、お店の人に声を掛けています。

「今日は日曜やからね、残ってるよ、全部買ってって」

店の人はそう応じます。

「全部って、えーっと、四つでいいよ」

「あと二つ買ってくれよ」

「いやいや、四人しかおらんのに。はい、三百四十円な」

「しょうがないな、はいよ、ありがと」

そしてあわただしくまた出て行く男の人。私は幸運でした、八十五円でお弁当が手に入ると分かったから。続けて誰か入って来て、残りの二つも買われてしまったら大変。すぐにこう言いました。

「あの、私もお弁当一ついいですか?」

「ああ、はいはい、ありがと」

お店の方がそう返して来る。私はいそいそとそちらに行こうとして戻りました。男の人が手に取ったお弁当、そんなに大きくなかった。少なくてお腹が減ったらどうしよう、と思って、あんパンを一個取りました。

「これもお願いします」

そしてそう言いました。でも受け取ったお弁当、見た目に反してズッシリ重い。アンパンいらなかったかも。

 宿の部屋に戻って一息つくとすぐに五時でした。いざお風呂場へ。脱衣場には何にもありませんでした。洋服を入れるカゴが置かれた棚にカゴが二つあるだけ。その棚の横に、宿のおじさんが言っていた札が掛かっていました。女性使用中、殿方は遠慮してください、と書かれています。浴室を覗くと少し広目のお風呂でした。そこには石鹸があるだけ。それはまあいいんだけど、脱衣場にタオルがないのが問題。私自身もタオルを持っていないから。どこかで買っとけばよかった。

 部屋に戻ってTシャツを、着替えとは別に二枚持って出ました。身体を拭くのに使うため。洗うときは手でいいや。そしてお風呂に入りました。髪を洗い、身体を洗う。とっても気持ちいい。湯船のお湯は暑かったので、身体を洗いながら水を入れていました。どうせ洗うのに使う分足さなきゃいけないし。

 洗い終わって湯船に入ると適温でした。極楽極楽、生き返る気分でした。でもその時脱衣場に誰か人が入ってきました。えっ、どうしよう、ちゃんと札を扉の外に掛けたのに、と、焦りながら声を出しました。

「す、すみません、使ってます」

すると浴室の引き戸が半分くらい開きます。そこから覗く男の人の顔。

「おっと、ごめん、ここに女の人がいるとは思わなかった、失礼」

そしてすぐに戸が閉まります。

「すみません、もう少しで出ますから」

もう一度声を掛けました。

「いいよ、ゆっくり入って、ごめんごめん」

そして脱衣場からも出て行くのが分かりました。なんか、まだいい人で良かった。でもこんなんじゃ落ち着いて入れない。脱衣場を出るときに札を見るとちゃんと掛かっていました。でも、脱衣場の前の廊下は暗いです。これだとこんな札、私でも気付かないかも。明日もここなら銭湯に行こうかな。そう思いました。

 部屋に戻って涼んでから、夕食を食べる前にお茶の用意を、と思って廊下の端の流しに行きました。一階の廊下の貼り紙に、そこにお茶の道具があり、自分でお茶を入れるように書いてあったから。やかんにお水を入れてコンロへ。そして急須にお茶っ葉を入れてお湯が沸くのを待つ。その時流しに石鹸があるのを見つけて部屋に戻りました。脱いだ下着と、さっきタオル代わりに使ったTシャツを取って戻ります。そしてタイル貼りの流しで洗いました。洗える時に洗っておかないと着るものがなくなってしまう。部屋に、多分タオルを干すためのスタンドみたいな物がありました。この量なら干せるはず、そう思ってそれだけにしました。本当はジーパンも洗いたいけど、履くものがこれしかありません。明日はタオルと一緒に何か履くものも買おう。

 洗った洗濯物と急須を持って部屋に戻りました。洗濯物を干して、さあ食事。そう思って窓枠の上に置いていたお弁当の入った紙袋を取りました。紙袋の底が抜けました。おかずからお汁が出ていたのかな? 濡れていました。お弁当が入っているのも紙の容器なので、そっと手に載せて小さな座卓の上に。

 お弁当はほとんどご飯でした。おかずは何か分からない焼き魚の小さな切り身が二切れと、筑前煮、何かの佃煮とお漬物が少し。でもこれで十分、いただきます。と思ったら、お箸が刺さらないくらいご飯がぎゅうぎゅうに詰めてありました。重かった理由はこれだ。

 たっぷりあるご飯、こんな少ないおかずで食べきれるかな、と思ったけれど、おかずは辛いくらい味が濃かったので、勝手にご飯ばかり食べてしまいます。それにご飯の下の方は煮物のお汁が染みて味付けご飯になっている。なので多すぎるほどあったご飯も全部食べちゃいました。お腹いっぱい、本当にアンパンはいらなかったかも。

 食後は流しにあったごみ入れに、空いたお弁当箱を捨てさせてもらいました。そしてそこにあった雑巾を絞って部屋へ。お弁当の汁で汚した座卓と窓枠を掃除しました。

 それからあとは退屈な夜です。本の一冊でも持っていればよかった。窓からは周りの家しか見えません。しょうがないので夜空を見上げながらこれからのことを考えました。考えても何も分からないので、何も良いことは思い浮かばなかったけれど。結局退屈さから、アンパンは寝るまでに食べちゃいました。




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