第一部 03


 昭和四十三年 三


 初めて一人で宿に泊まった翌朝の七時、襖を叩く音に返事して開けると、朝食を載せたお盆を持ったおばあさんがいました。お盆ごと受け取ると、食べ終わったらそのまま置いておいていいと言われました。

 なんだか分からない焼き魚の切り身が二切れと筑前煮。この辺りのおかずはこれが決まりなのかな。そしてご飯はたっぷり。あ茶碗の上に山になっています。でもお味噌汁があるのは嬉しい。そう思ってすすったら、これは味が薄い。私が作った方がおいしいかも。それにほとんど溶けたようなわかめしか入っていないし。でも全部食べました。昨夜からご飯ばかり食べ過ぎかも。

 八時過ぎに宿を出ました。すんなり泊めてもらえたので多分今夜もお世話になると思うけど、そうは言わずに出ました。さあ、今日は本腰を入れて仕事を探すぞ。

 目星は付けてありました。昨日泊るところを探して歩いていた時に、この周辺の工場みたいなところで、従業員募集、と出ているところを何軒か見ていました。そこに行ってみようと思ってます。

 やっぱり九時からだよね、と思って、一軒目の会社に九時過ぎに行きました。会社の前で貼り紙確認、十六歳以上って書いてある、問題なし。そこは運送会社で、倉庫内作業とも書いてあります。どんな作業なのか分からないけれど、問題なし。

「ごめんください」

事務所の入り口を開けて声を掛けました。ちょうど目の前のカウンターを拭いていた女性が顔を上げてくれます。

「はい、おはようございます」

「おはようございます。あの、表の貼り紙を見たんですけど」

「はい? 貼り紙?」

「はい、従業員募集の」

「ああ、えっ、あなたが?」

「はい、よろしくお願いします」

頭を下げましたが女性は困惑顔。そしてこう言います。

「ちょ、ちょっと待ってね」

女性は私を残して中の机が並んだところへ向かいます。そして一人の男の人に話し掛けています。そして戻ってきました。

「ちょっとそこに掛けて待っててもらえる」

戻ってきた女性は入り口横のテーブルのイスを指してそう言います。

「はい、ありがとうございます」

お礼を言ってからイスに座りました。座って事務所の中を見ていると、なんだか皆さん忙しそうです。もう少し後の方が良かったかな。

 しばらく待っていると、さっき女性が話し掛けた男の人が来ました。そしてその人は座りもせずにこう言います。

「ごめんね、お嬢さん。女の子は募集してないんだよ、力仕事だからね」

「あ、そうなんですか」

そう言いながら私は腰を浮かしていました。

「ちゃんと書いとかないといけないよね、ほんとにごめん」

「いえ、こちらこそお忙しそうなところすみませんでした」

私は頭を下げて事務所を出ました。振り返ると男性はもう戸口にいません。


 ちょっと落ち込んでいたのと、忙しそうな朝の時間は避けよう、そう思って、少しぶらぶらしてから次の会社に向かいました。ここは何かの工場の様です。そこの貼り紙には、詳細は面談で、としか書いてありません。何歳以上とか仕事内容も書かれていない。当然、男の人だけとも。

 もうとにかく行くしかないので事務所の扉を開けました。

「ごめんください」

同じように声を掛けると、入り口近くの男性が気付いて席を立って来てくれます。

「はい、なにか」

「あの、従業員募集の貼り紙を見たんですけど」

「ええ、それで?」

「あの、私を働かせてもらえないですか」

「ええ?」

男性がそう言うと、別の男性が席に座ったままこう言ってきました。

「ああ、悪いけど募集してるのは男、ごめんね」

またか。

「そうですか、すみませんでした」

だったらそう書いといてよ、と思いながら頭を下げて出ました。


 歩き回ってやっと見つけた次の募集の貼り紙。でももうお昼前でした。途中にあったうどん屋さんに引き返してうどんを食べました。全く知らないお店で初めて一人で食事しました。意外に平気でした。そして一時を十分過ぎるまで時間を潰してから見つけた会社へ。そこはまた運送会社でした。

 午前中と同じように事務所に入って貼り紙を見たと告げると、また募集しているのは男の人だと言われました。なのでまた同じように頭を下げて事務所を出ようとしました。すると、話をしたのとは別の、年配の男性に呼び止められました。

「うちじゃないんだけど、うちのお客さんで女の子の工員さん募集してるところがあるんだけど、どうかな」

そしてそう言ってくれます。

「こういん?」

でもそう聞き返していました。

「そう、工員、工場で働く人」

「ああ」

「どうだろう、一宮とか岐阜になるんだけど、ちゃんと女の子の寮もあるから」

「そうですか」

と言ったものの、一宮ってどの辺だったっけ? 岐阜? 遠いよね、と、考え込んでしまいました。すると、

「まあ、どっちも年がら年中募集してるようなところだから、考えてその気になったらまた来て、いつでもいいから」

と、その方は言って名刺を差し出してきました。それを受け取るとこう言います。

「この話は僕じゃないといけないから、まあ、その気になったら来る前に一度電話くれるかな」

「分かりました。ありがとうございます」

お礼を言って出ました。名刺を見るとその方は社長さんでした。

 いい話だよね、寮もあるって言ってたから住むところも問題ないし。うん、いい話だ。でも、いい話だけど岐阜は遠いよね。一宮も確かほとんど岐阜みたいなところだよね。そんな遠くまで行かないといけないのか。それはなんか嫌だな。まあ、いつでもいいって言ってくれてたから、もう少し探し回ってどこもなかったら考えよう。そんなことを思いながら歩いていました。


 決まった行き先なんてないので、アテにするのは建物だけ。工場のような建物。普通の会社では雇ってもらえない。可能性があるのは工場。さっきの社長さん、なんて言ってたっけ、そうだ、工員だ、もう工員になるしかない、そんな考えでした。なのでそういう建物を探してはそっちへと行きました。そして募集の貼り紙がないか探す。その繰り返しでもうどこにいるのか分からないくらいになっていました。そんなところで次の所をやっと見つけました。

 何かの工場でした。何の工場かなんてわからないし、そんなのはどうでもいい。重要なのは貼り紙。十六歳以上の女性募集、工場内作業。やっと可能性が高そうなところを見つけました。

 歩き回った疲れがどこかへ行ってました。軽くなった気分で事務所の扉を開けます。そして貼り紙を見たことを告げると、最初の会社で言われたのと同じように座って待つように言われました。やっと何とかなりそう。そんな気分で待っていると中年の女性が来ました。席を立って頭を下げました。

「どうぞ、座って」

女性がそう言ってくれます。

「はい、ありがとうございます」

女性が目の前に座るのと同時に座りました。

「えっと、お名前は?」

「大西です。大西静と言います」

「年は?」

「十八です」

「今年十九ってことね」

「いえ、今年十八になりました」

「ん? 働きたいってことは高校生じゃないわよね。今までどこかで働いてた?」

「いえ」

「そう、まあいいわ、履歴書見せてもらえる?」

「えっ?」

「履歴書、持って来てない?」

「はい」

なんだか女性が渋い顔になりました。それより、りれきしょって何? なんかそう言うのが必要なの? なんて気楽に考えていたら、こう言われました。

「え~っと、十八歳で高校に行ってなくて、今まで働いてもいない、じゃあ中学校を出てから今まで何やってたの? って、誰でも思うわよ。まあ、何かの事情で最近高校を辞めたんでしょうけど。でもそれを説明するのに履歴書くらい用意してくるものじゃない? まあ、そう言うことで、申し訳ないけどお帰り下さい」

そして女性は席を立つと戸口へ行き扉を開けました。帰れってことだ。

「あの、すみませんでした」

頭を下げて事務所を出ました。その私に、

「せっかく来てもらったのにごめんなさいね」

と女性は声を掛けてから扉を閉めました。私はなんだかすごく情けない気分でその場を離れました。


 こんなことで挫けている場合ではないのですが、一気に疲れ果てていました。まだ三時を過ぎたところだけど今日はもう終わり、早くあの宿に戻ってゆっくりしよう。そう思って道路標識なんかを見ながら千種駅を目指しました。初めて歩く道だったので、一応通り沿いの会社や工場には目をやりました。従業員募集の貼り紙があれば覚えておこうと思って。途中で本屋さんを見つけて寄り道。辞書の売り場で立ち読みしました。当然、りれきしょ、が何か調べるため。

 個人の履歴を書いたもの。辞書にはそうとしか書かれていませんでした。これではどういうことを書けばいいのか分かりません。なので分かることが書いてある本がないかと探しました。するとお店のおじさんが傍に来て、

「何か探しとる?」

と、声を掛けてきます。

「いえ、その、履歴書の書き方が分かる本がないかと……」

ああ、これだよ、なんて言って渡されたら買わされる、と、内心焦りながらそう言いました。すると、おじさんが教えてくれました。氏名、生年月日、住所、学歴、職歴、持っている資格など、出来るだけ詳細に自分のことを書けばいいんだと。ものすごく助かりました。

 そっか、そう言うのを書いて持って行かないといけなかったんだ。私はそんなことも知りませんでした。おじさんにお礼を言ってお店を出ました。


 昨夜も泊まった、旅館、に着いたのは四時を過ぎていました。玄関から声を掛けると、今朝朝食を運んで来てくれたおばあさんが出てきました。今日も泊まりたいと言うと、5,の部屋と言われました。二階に上がって部屋を探すと、昨日の部屋の向かいでした。部屋は同じく四畳半。でもこの部屋には押入があり、お布団はその中でした。

 今日のお部屋は角を挟んで窓も二つありました。二つの窓を開けると風が抜けて気持ちいいです。昨日は廊下の襖を開けないと風が抜けないので気を遣いましたが、今日はほんとにくつろげそうです。少し涼んだところで、便箋を横置きにして履歴書を書きました。氏名や生年月日はすっと書けましたが、住所を書くときに少し手が止まりました。でも、瀬戸の叔父さんの家の住所を書くしかありませんでした。そして学歴、高校入学までは問題なし。でも、昭和四十三年八月、高校退学、と書いた時、私はもう本当に高校生じゃないんだと、初めて実感したような気がしました。

 書き上げた履歴書を見ました。小学校入学から高校退学までの私の履歴。私の人生って、まだたったの六行しかないんだ、そう感じました。そのあと、念のため同じものをもう一部書きました。


 今夜の宿代を払ったときに、おばあさんから一番近い銭湯の場所を教えてもらってありました。どうやら昨日行った雑貨屋さんの辺りのようでした。なのでそこに行こうと思って気付きました。今日買うつもりだった、タオルやスカートを買うのを忘れていたことに。昨日の雑貨屋さんにタオルは売っていたような気がします。銭湯からも近そうだし、そこでタオルだけ買って行こう。またこのジーパンを履かなければいけないのはとっても残念だけど。

 雑貨屋さんにタオルはあったけれど、バスタオルはありませんでした。タオルで身体と髪を拭くなら二枚は欲しい。それと浴場に持って入る用の一枚も必要。タオル三枚も買わないといけない。当然一番安いのを買いました。

 銭湯に着いて番台のおばさんにお金を払うと、おばさんがこう言います。

「お嬢さん、お財布預からなくていい?」

「えっ?」

意味が分からずそう言うと、おばさんが少し私の方に身を乗り出して、小声でこう言います。

「そんなに沢山入ってる財布置いといて、盗られたらどうするの」

そっか、そう言うことか。脱衣場では脱いだものと一緒にかごに入れておくしかないから、確かに不用心です。今日はいろいろ買い物するつもりだったので、叔母さんからもらったお金の内、一万円札以外は全部財布に入れてありました。なので一万円くらい財布の中に入っています。そう、私のがま口は折り畳んだお札でパンパンになっていました。

「あ、ありがとうございます。お願いします」

お財布をおばさんに渡しました。するとゴムひも付きの札を渡されます。

「帰る時にこれと引き換えに返すから、これは手に着けて中に入りなさいよ」

「はい、ありがとうございます」


 本当にさっぱりして銭湯を出ました。浴場の中に石鹸がなく、しょうがないのでお湯だけで頭を洗っていました。すると見かねた同じお客さんのおばさんが、シャンプーと石鹸を使わせてくれました。ほんとにいい人。番台のおばさんもいい人だったし、身も心もさっぱりしたいい気分でした。

 お昼のうどん屋さんで平気だったので、夜もどこかのお店で食べようと思いました。昨日と違って今日は平日なのでそれなりに開いているお店がありました。そして目についたのは洋食の食堂。そこでオムライスを食べました。好きなものが食べれてなんだか満足。今日はいい人にもたくさん出会ったし。

 追い返されたけど、履歴書が必要だと教えてくれた女性。そして、履歴書のことを教えてくれた本屋のおじさん。みんな今日出会った人はいい人ばかり。なんだか幸せな一日でした。きっと明日は働くところも見つかる、そんな気分で、またアンパンを買って帰りました。だって、甘い物食べたかったんだもん。


 私の浮かれた気分は、宿の部屋に戻ってあっけなく雲散霧消します。部屋の電気をつけた瞬間、ハッキリ異変に気付きました。バッグに詰めてあった衣類が畳の上に出ている。そしてその衣類の上にある一番小さなポーチを見た時、寒風が背中を流れたように感じました。

 私はそのポーチに飛びつきました。チャックが開いていて中身は空。そこには財布に入れずに残した一万円札があったはず。盗られたの? そう思いながら次はバッグを確認。缶の箱が二つ並んで入っているけれど、どちらもちゃんとフタが閉まっていません。開けられてました。一瞬目の前が暗くなったような気がしました。

 慌てて一つの缶の中を確認します。おじさんからもらったお金は封筒に入れたまま、その缶の中に入れていました。すぐに安堵の溜息が出ました。その封筒は缶の中にありました。中のお金もそのままでした。手紙の封筒に紛れて分からなかったのでしょう。でも、一万円盗まれた。

 念のため衣類などすべてひっくり返して探しました。やっぱりありません。警察、警察呼ばなきゃ。と思ったけれど、すぐに考えが変わりました。警察を呼んだらまた補導されるかもしれない。それに、盗られたのはお金だから犯人なんて分かりっこない。この宿の中にいる人が犯人だとしても、盗られたお金に名前が書いてあったわけじゃないから、一万円札を持っている人がいても私のだって言えない。そしたらお金を盗られた上に補導までされて、私の損害が増えるだけ。

 補導されたらまた叔父さんに迷惑掛けてしまう。しかもお金を盗られたなんて恥ずかしいことまで告げられて、さらに迷惑を掛けるかも。そんなこと出来ない。私が悪いんだ、こんな誰でも入れるようなところにお金を置いたまま出掛けた私が悪いんだ。だから私が泣くしかない。泣くしかないんだ。

 寝ている間にまた来たらどうしよう。そんな不安に襲われました。そして考えました。バッグに衣類を元通り詰め直して財布もそこに。そして押入の布団の後ろにバッグを置き、押入の前に布団を敷きました。この部屋の押入は扉になっているので、私が目の前に寝ている限り開けられない。もしもう一度来られて私が気付いたとして、太刀打ちできるなんて思っていません。でも、ジタバタして他の部屋の人を起こすくらいは出来るはず。そうやって、廊下の足音にもビクつきながら寝ました。

 なかなか寝付けませんでした。でもそれは、泥棒に怯えていたからだけではありません。もっと深刻なことで悩み、考えていました。それはこれからのこと。もうとにかく、早く働かせてもらえるところを見つけて、そして住むところも見つけなければ。住むところを決めて、出費が計算できるようにする方が先かな。アパートって安いところでいくらくらい掛かるんだろう。お金の残りは二万円ほど、それで足りるのかな。ううん、少なくとも、働いて最初のお給料がもらえるまでの生活費は必要。と言うことは、一か月分くらいの食費は最低限必要。って、自炊するとして、食費の一か月分っていくらくらいいるんだろう。

 叔父さんはアパートを借りるときの最初のお金は出してくれると言っていたけど、出来ればもう頼りたくない。本当にどうしよう。考えれば考えるほど答えが出ません。それは私が何にも知らないから。ほんとに情けないくらい何も知らない。今から頭を下げてでも瀬戸の家に戻るべきかも。いえ、それは出来ない、したらいけないこと。野宿生活をすることになっても、想像もできないくらい惨めな生活をすることになっても、生活出来なくても、もうあの家のお世話になることはできない。そのくらい私はあの家の人にひどいことをしてしまった。少なくとも、叔母さんと俊介君には償いきれないほどひどいことをしてしまった。馬鹿だな、私。

 そんなことを何度も頭の中で繰り返して、眠れない思いのまま眠りの中へ。その夜、アンパンを食べるのは忘れていました。


 翌朝、宿を出るときに、部屋を荒らされた、と、宿の人には言おうかと思いましたがやめました。今夜も泊めてもらう可能性が高いので、機嫌を損ねて断られたら困るから。

 宿を出て南へ、そして大通りを超えてから西に向かいました。そっちの方に工場みたいな建物が多そうだったから。途中のアパートに、空きあり〼、の看板が出ていました。近付いてよく見ると家賃が書いてあります。風呂付一万千円。た、高い、お給料いくらもらえるか分からないけど、多分無理、そんなにするんだ。いえ、ここはなんかきれいだし、部屋も広そう。一人だったら四畳半あればいいわけだから、もっと小さくて古いところを探せばもっと安いはず。そう考えて、仕事探しに集中することにしました。

 募集、と出ている会社を見つけたのはまだ九時前でした。ちょっと早すぎます。時間潰し代わりに周辺の他の会社も先に見て回ることに。するとそこから少し行った運河沿いの通りでまた見つけました。そしてさらに南に少し行くともう一軒。この辺りは似たような工場のような会社が沢山。この分ならどこか雇ってくれるところが見つかりそう。

 十時近くになってから最初に見つけた会社に行きました。そして順番に三軒行きました。最初の会社は○○工務店となっていて、工場みたいなのに何のお店だろうと思ったら建設会社でした。二つ目の会社は家具を作っている工場。三つ目の会社も二つ目の会社と同じように木材が沢山あったけど、何を作っている会社か分かりませんでした。家具ではない、と分かっただけ。

 こんな風にあっさり話しているのでもうお分かりだと思いますが、三軒ともダメでした。どこも断られた理由は同じ、募集しているのは男性、ってことでした。落ち込みながらもそんな場合ではないので、頑張って次を探しました。そして、さらに南側の大通りに出る手前でもう一つ見つけました。なんだかガチャガチャとうるさい音のする工場でした。でもそこには女性従業員募集と出ています。経理経験者に限る、とも。経理って言うのが何なのかよく分からなかったけど、確か計算する仕事だよね。計算は得意、友達の中でも早い方だった。

 いきなり拒否でした。仕事で経理をしたことのある人が欲しいんだと。計算は得意だと言っても無駄でした。せめて商業高校を卒業していたらまだ考えたんだけどね、と言われて終わりでした。もうお昼でした。


 昼からは運河を西側に渡って北向きに探そう、そう思って運河を渡りました。そして見つけたアパートの前に水道がありました。のどがカラカラ、勝手にお水を飲ませてもらいました。ついでに、バッグに入れていたアンパンをそこで食べる、お水を飲みながら。今日のお昼ご飯はこれだけ。仕事が見つかるまでは節約しなきゃ。

 運河の西側の建物は工場のように見えて工場ではないところが多かったです。倉庫みたいなところばかり。それでも、募集、の貼り紙はちらほら見つけたので片っ端から入りました。でも結果はどこも同じ、求めているのは男性ばかり。男の子に生まれればよかった、なんて思ってしまう。

 倉庫のような会社で断られることなく話をしてくれた会社がありました。事務所もそれまでの会社より広くて人数も多い。入った瞬間、また門前払いかと思ったところなのでなんだか嬉しかったです。

 小さな部屋で話をした後、簡単なテストがありました。最初は計算の問題。二尺四方の箱を一段に三個で三段、それを九列並べてトラックに積みます。何箱積んでいますか。また、三尺四方の箱に変えた場合、同じトラックに何箱積めますか。って感じの問題が三問。簡単簡単、全部すぐに解きました。

 そのあともう一つテストがありました。便箋を一枚渡されて、どんな内容でもいいから、便箋一枚に納まる簡潔なお礼状を書くように言われました。こんなのは得意中の得意。ちゃんと時候の挨拶と結びを入れて、スラスラと書き上げました。そしてそれを男性に渡すと、その人は一読して、

「うん、問題ないね」

と、さっきの計算のテスト用紙と、私の出した履歴書と重ねて置きます。ひょっとして雇ってもらえる? と、内心喜んでいました。すると、

「え~っと、大西さん、とりあえず問題ないと思うから、来てもらうとしていつからなら来れる?」

そう言われました。なんだかその場で飛び跳ねてしまいそうでした。

「いつでも、明日からでも大丈夫です」

今からでも、と言いそうでした。

「いやいやそんなすぐじゃなくても」

その男性は重ねて置いた紙を手に取りながらそう言います。そしてこう続けました。

「僕も上司に了解取らないといけないから、そうだな、明日にでも結果を送るよ。その時に入社前に書いてもらわないといけない書類も一緒に入れとくから。あっ、送り先はこの住所でいいね」

私の履歴書の住所を指しています。どうしよう、これは困った。

「あの、私今そこにいないんで、え~っと、明日その書類を頂きに来てもいいですか?」

必死で考えてそう言いました。

「えっ、どこにいるの?」

「それは……」

「ああ、どっちにしろ保護者の方の署名も必要だから、保護者の方はこの住所でいいんでしょ?」

「はい」

「じゃあ家に帰って署名と一緒にもらってきてよ。明日出しとくから明々後日には着くんじゃないかな」

「いえ、その、家には……。署名はもらってきますから、書類は頂に来たらダメですか?」

瀬戸の家にはもう近付きたくない。署名だけなら叔父さんの会社に電話して、叔父さんとだけどこかで会えばいい。そう考えました。

「うん? 家に帰れない事情が何かあるの?」

「……」

答えられませんでした。多分私は、困り果てたうえ、怯えたような顔をしてたはず。顔色もなくしていたでしょう。そんな様子を見て男性がこう言います。

「大きな鞄持ってるけど、家を出て来たんじゃないだろね」

「……」

「そう言うことか。悪いけどそう言う問題がありそうな人はダメなんだ」

私は無言で顔を上げてその人を見ました。

「ごめんね、時間取らせたけどこの話はなかったことにして。うちでは雇えない」

そしてその人は、重ねた書類を半分に破いてしまいました。私の心も半分に破かれたみたい。雇ってもらえると喜んだのに。

 お詫びを言って小部屋を出るときにその方がこう言います。

「大西さん、差し出がましいかも知れないけど、未成年で保護者のもとにいないって人は、どこ行っても雇ってもらうのは難しいと思うよ。まず間違いなく、まともな仕事は無理だよ」

「そうですか」

「保護者の署名が必要ってさっき言ったでしょ、それ、保証人欄なんだよ。未成年には基本、保証人が必要だから」

「分かりました、ありがとうございました」

頭を下げて、そして、その会社を出ました。


 今回の落ち込み具合は半端なかったです。ほんとに、足が鉛になったみたい。雇ってもらえそうだった、いえ、雇ってもらえた、家にさえいれば。でも、家にいられないから仕事を探しているのに。これは永久に解決しないジレンマだ。もうまともじゃなくても普通じゃなくても何でもいい。とにかく雇ってくれるところを探そう、それしかない。

 また道沿いで見つけたどこかの家の水道で、勝手に水を飲ませてもらいました。ゴクゴク飲んで少し頭が働くようになります。私に履歴書に書ける住所があればいいんだ。そしたら今のような書類はそこに送ってもらって、署名だけ叔父さんにもらえばいい。そしたら普通の所で雇ってもらえる。そう考えました。

 その後は、募集、の貼り紙を探しながらアパートを見掛けたら、空き室ありの看板が出ていないかも見て歩きました。看板の出ているアパートは見つからなかったけど、貼り紙の出ている会社はありました。もちろん話をしに行きましたが、そこも募集しているのは男の人でした。今日はそれで終わりました。

 また同じ、旅館、に戻りました。昨日と同じ、5の部屋と言われました。今夜もくつろぎながら涼める。そう思ったけど泥棒にあった記憶も戻ってきました。バッグを持って銭湯に行きました。石鹸を買うのを忘れていた上に、今日は使わせてくれる方もいませんでした。でもお湯で流せただけでもさっぱり。

 そしてまた雑貨屋さんへ。お腹はペコペコだったけど、節約です。夜もアンパン、そう思って行ったら、今日はジャムパンも一個残っていました。ジャムパンとアンパンを一個ずつ買いました。そして部屋に戻ってお茶で食べました。おいしかったけどあっという間に食べてしまう。そして食べた気がしない。お腹は減っているのにジーパンがきつい。脱いじゃいました。もう誰かが間違って襖を開けてもいいやって。そしてそのまま寝ました。ジーパンを脱いで寝たらなんだか熟睡出来たみたい。朝は本当にスッキリ目覚めました。お腹はペコペコで気分が悪いくらいだったけど。ああ、早く朝ごはん来ないかな。


 たっぷりのご飯に気持ちも回復して、今日は北の方に行こう、と歩き始めました。結果はこれまでと同じでした。仕事もアパートも見つからない。でも、新しい宿を見つけました。朝食付き七百円、お風呂ありません。どうせお風呂は銭湯に行ってたんだから、二百円も安いならこっちの方がいい。でも安いのに、昨日までの所と比べると建物は大きいしきれいです。泊めてもらえるかな、と、少し不安になりながら入り口を入りました。ここも入り口は普通の家の様でした。土間は広くて、土間部分に受付の窓口がありました。また何か書けとか言われるかな、そしたらダメかな。そう思いながら声を掛けました。

「ごめんください」

窓口の向こうの小さな部屋でテレビを見ていたおじさんがこっちを見ました。

「はい」

「あの、今夜泊めてもらえますか?」

「あ~、はいはい」

そう言いながらこっちへ来ます。そして、女の子か、今日は空いてるからいいか、と、独り言のようにぶつぶつ言います。女はダメなのかな。

「えっと、うちは一人のお客さんには相部屋をお願いするかも知れないけどいいかな」

そしてそう言われました。

「えっ?」

「ああ、もちろん女の子だから、相部屋頼むのは女性のお客さんが来た時だけどね」

まあそれなら。

「分かりました、いいですよ」

「じゃあ七百円ね」

良かった、何か書けとか言われそうにない。そう思いながらお金を払いました。そして告げられた二階の部屋へ。押し入れのない六畳の部屋でした。布団が二組畳んで置いてあります。タオル掛けのスタンドも二つ。昨日までよりは大きめの座卓に、伏せた湯飲みが二つと灰皿が載ったお盆。お茶は湯沸し室ってところで自分で用意しないといけないので、そこは昨日までと同じ。でも何だかここの方が宿っぽかったです。

 部屋に落ち着いた時はもう六時前でした。すぐに銭湯に行こうと思いました。そして、お財布には小銭と百円札で五百円ほどだけ残して、あとのお金は小さなポーチに入れました。そしてそのポーチと缶の中のお金が入った封筒を、もう一つ大きいポーチに入れました。フロントに預けるためです。

 ここの受付となっていたフロントの貼り紙には、

『外出の際は部屋に貴重品、特に現金を残さないでください。盗難が多発していますが責任は負いかねます。ご希望の方はお預かりしますのでお申し出ください』

と、ありました。それを見て私は初めて、現金も貴重品なんだ、と気付きました。ほんとに馬鹿でした。昨日までの宿でも預かると書いてありました。預けておけば……、今更だけど、何も分かっていなかった自分に腹が立ちました。

 窓口から中のおじさんに声を掛けて、貴重品を預かって欲しいと頼みました。するとこう言われます。

「もう少ししたらうちの金庫閉めるんだけど、返すのが明日の朝で良かったら一緒に入れとくよ。朝は六時以降なら返せるから。どうする?」

「あ、じゃあ、お願いします。朝でいいです」

そして返してもらう時に引き換える札をもらって預けました。これで安心。ほんとに最初の夜からこうしておくべきでした。

 銭湯の後、見つけてあった食堂へ行きました。なんと、コロッケ二個付きと書かれたコロッケ定食が百二十五円となっていたから。親子丼百六十五円。カレーライス百五十七円。おうどんなら七十二円。なのにコロッケ二個付いて百二十五円。今日のお昼も菓子パン二つと水道水、二十八円で済ませました。それと比べたらとんでもない贅沢だけど、もう食べたくてしょうがありません。

 お店に入る前からそんな気がしたけど、中は人がいっぱいでした。仕事帰りの男の人ばかり。ビールやお酒を飲んでいる人も沢山いました。数日前の私なら、回れ右をして出ていたところです。いえ、人がいっぱいの気配を感じたところでお店に入らなかったかも。でも入って行きました。そしてお店のおばさんに言われるがまま、男の人二人がビールを飲んでいたテーブルに相席で座りました。そしてコロッケ定食を注文。

 同席の男の人二人から話し掛けられる相手をしているうちに定食が目の前に。キャベツもたっぷり付いていておいしそう。と、食べ始めたけれど、二人が話し掛けてくるペースは変わりません。話し掛けてくるのに答えていたら、せっかくのコロッケを味わいたいのに出来ないでしょ、と言いたいのを我慢して相手していました。するとちょっと得しました。二人がビールを飲みながら食べていた、卵焼きや焼き鳥、鯖の塩焼きを少し分けてくれたから。

 宿の部屋に戻ってからは本を読んでいました。今日見つけた古本屋さんで買ったもの。大正から昭和にかけて活躍した文豪の短編集の一冊。読みたかった本ではないけれど、読んでいなかったものだし、何より夜が暇だから。そして、十時過ぎには寝ました。

 足を蹴られて目が覚めました。目は覚めたけど、まだ半分寝ていました。そこに、ガタンと言う音ともに、

「痛っ」

と、女の人の声。座卓に足をぶつけたかな。完全に目が覚めました。

「あの、誰ですか?」

薄暗い部屋の中に見える女の人の影に尋ねました。

「あ、ごめんなさい起こしちゃって。気にせず寝てください。私ももう、すぐに寝ますから」

そう言う女の人の声はそんなに年の人ではないようでした。女性のお客さんが来たから相部屋になったんだ。って、今何時だろう、こんな遅くから来る人がいるんだ。と思っていたら、すごいお酒の匂いがしてきました。

「じゃあ、えっと、おやすみなさい」

そう返しました。

「ええ、ほんとにごめんなさいね、おやすみなさい」

女性はそう言いながら服を脱いでいました。多分ワンピースを着ていたんだと思うけれど、床にスルっと落とします。そして次々に脱いでいきます。おそらく下の下着だけだと思われる姿になると、その姿で敷布団を敷き、そのままその上に倒れ込むように寝ちゃいました。凄い、裸で寝ちゃうんだ。と思ったけれど、私もその人の格好にTシャツを着ているだけだからあんまり変わらないかも。お酒の匂いの中、寝直しました。

 いつもは六時くらいで目が覚めるのに、起きたら七時前でした。同室になった人のイビキがすごくて、寝直してからもう一度起きちゃいました、多分その所為。朝の光の中でその人を見ると、やっぱり下着だけを履いた姿で寝ていました。私よりはもちろん年上だけど、若い女性でした。その人が脱ぎ捨てたワンピースを見て驚きました。あまりにも鮮やかなオレンジ色だったから。こんな服着てる人がこんなところに泊まるんだ。

 朝食は下の食堂でと聞いていたので、もう出掛ける格好に着替えました。その最中に女性が目を覚ましました。

「おはようございます」

そう声を掛けると、のそのそと上半身を起こしながら、

「おはよう」

と返してくれます。そして、

「ああ、またやっちゃった」

と言います。何の事だろうと思っていると、その人が私の顔を見ます。

「化粧落とし忘れた」

ああ、そう言うことか、確かにひどい顔してる、言ったら悪いけど。

「私、下に朝ごはん食べに行きますけど」

一応、そう声を掛けました。

「ああ、先行って、私は顔洗ってから行くわ」

「じゃあ、お先に」

 食堂と言うのは普通の畳の部屋でした。細長い大きな座卓が置いてあるだけ。その座卓に並んで、男の人が沢山食事中でした。私もだいぶこういうことに慣れてきたみたい。その男の人たちの間に平気で座れました。でも左右の人が近くて食べにくそう。そう思っていたら、私の朝食が来る頃には、皆さん一斉にと言うくらい席を立ち始めました。なので食べ始めるころには数人しかいませんでした。

 朝食はハムエッグに煮物とご飯、お味噌汁でした。半分くらい食べた頃に、鮮やかなオレンジ色が目の前に来ました。まだ食事中だった数人の男の人の目が一斉にそっちを向きます。私も顔を上げて、その人が座るのを見ました。さっきはひどい顔って言ったけど、キレイな人だと思いました。お化粧を落としただけで、今は多分何もしていないと思うけど。そう思っていたら、その人が私に何か差し出してきます。

「これ、部屋にあったわよ。ちゃんと持ってないとダメじゃない」

そう言って渡されたのは、貴重品引き換えの札でした。お布団の枕の下あたりにお財布と一緒に置いていたもの。お財布は朝食に下りてくる前に回収したけど、引き換え札のことは忘れてました。でも、この札を見つけたってことは、この人がお布団を畳んでくれたのかな。

「あっ、すみません、ありがとうございます」

「いいえ、ところで名前は?」

「大西です」

「大西、何ちゃん?」

「静です」

「シズちゃんか、よろしくね、私は文恵って言うの」

「よろしくお願いします」

「て言っても、ここで別れたら二度と会うこともないだろうけどね」

文恵さんはそう言って、クスッと笑います。

「そうですね」

としか言えませんでした。なんだか面白い人、親しくなりたい感じの人でした。そう思ったからなのか、こう聞いていました。

「昨日遅かったですよね、お仕事ですか?」

「うん? こんな格好してるんだから分かるでしょ」

そう言って着ているワンピースを摘まんで見せます。

「はあ」

私には今一つ分かりません。

「お店終わって帰ったら鍵が掛かってたから。まあ、そう言う時はここに泊まるの」

そう言っているうちに文恵さんの朝食も運ばれてきて食べ始めます。

「鍵持ってなかったんですか?」

また聞いちゃいました。

「う~ん、そう言う時はね、他の女が部屋に来てるのよ」

「……」

意味が分かりません。

「一応、彼と一緒に暮らしてるんだけどね、時々別の女が来るのよ。鍵を掛けるのはそう言う時って決まりなの、入ってくるなって」

「ええっ、そんな、……いいんですか?」

私には信じられない話にそう言ってました。

「良くはないけど、一緒に暮らしてるって言っても、私も彼の彼女の一人だからしょうがないのよ」

「……」

理解できない話でした。大人の世界だ、と、最初は興味が湧きました、でも、すぐに反感を持ちました。

 私はまだ恋愛なんてことの経験がないので、彼氏って存在のことが実感できません。でも好きになって一緒に暮らすようにまでなったような人が私以外の女の子と……、そんなこと、絶対に許せない、嫌です。そう思うと、そんなことを平気な顔して話しながら、平然とご飯を食べている文恵さん、完全に理解不能な存在です。いえ、理解したくない。私はこうはなりたくない。そう思いました。

 受け取った貴重品を持って部屋に戻り、元通りに収めました。そして出掛ける準備を終えた頃、文恵さんが部屋に戻ってきました。タバコに火をつけた文恵さんに、

「私、もう出ますね」

と、声を掛けました。

「そう、私はもう少しここで時間潰してから帰るわ。じゃあ、シズちゃん元気でね」

「はい、文恵さんも。失礼します」

そして彼女と別れました。ほんとにもう会うことはないと思うけど、なんだか印象に残る人でした。そう言えば、文恵さんに聞かれたのは名前だけ。彼女は私に何も質問しませんでした。





 もう木曜日、本格的に仕事を探し始めて四日目です。昨夜は千種駅からずっと北の方に来た宿でした。今日はそこから西へ、栄の方に向かって歩くことにしました。昨日までと一緒で、工場っぽい建物を見つけたらそこを目指しながら。

 今日は雲が多いので、そんなに暑い思いはしなくて済みそう。そう思いながらしばらく歩くと、アパートが何軒か並んでいるところがありました。でも、どこにも空き部屋の表示が見当たりませんでした。そして再び足を進めると、急募、と書かれた貼り紙の出ている工場がありました。小さな工場でした。こういうところなら雇ってもらえるかも、そんな気持ちで敷地に入りましたが事務所らしきところがありません。全開になっている大きな扉の中では、いたるところで眩しい火花が飛んでいます。鉄を加工している工場みたい。間違っても女の子を募集しているとは思えませんでした。で、引き返そうとしたら、中の人から声を掛けられました。

「どうした? なんか用か?」

私と同い年くらいの若い男の人でした。声を掛けられたのでもうしょうがない、用件を言いました。

「あの、そこの募集の貼り紙見たんですけど」

「ああ」

そう言うと、その人は工場の中に向かって大声を出します。

「社長、お客さん」

その声に応えておじさんがやってきました。

「お客?」

社長と呼ばれた人が若い人に近付きながらそう言います。

「そこの子、貼り紙見たって」

社長が私を見ました。そして、

「あほか、募集してるのは男やろ、早よ仕事せえ」

と、若い人を叱ります。なんだか私の所為で怒られて申し訳ないです。そして私はその時点でもう結果がはっきりしていたので、そのまま回れ右をしたかったです。

「お嬢さん申し訳ないね、うちは女の子がやれるような仕事はないから」

すぐ近くまで来た社長さんにそう言われました。

「そうですか、お忙しいところすみませんでした」

頭を下げてすぐに立ち去りました。


 そこから少し離れたあたりで雨がぽつぽつ降り始めました。いつの間にか真上の空は真っ黒でした。どこかで雨宿りを、と思ったけれど、民家しかないようなところでした。雨がしのげるところを、と、小走りで探しました。すると二階建ての長屋のような建物の一階に、庇を出したお店が並んでいました。あそこなら、と思ったけれど、『靴、草履』、『金物』、って看板が出ています。どちらも店先で突っ立ているわけにはいきそうにありません。すると遠い側の角に、『タバコ、コーヒー』の看板、喫茶店でした。勿体ないけど、コーヒー代で雨宿りさせてもらおう。駆け込みました。

 お店に入った直後くらいに雨が本降りになりました。間一髪でした。入り口の両脇にテーブル席が一つずつ、そしてカウンターにイスが五つの小さなお店でした。テーブル席にはどちらにも男のお客さんがいました。

「いらっしゃい、こっちどうぞ」

カウンターから女性が声を掛けてきました。まだ、おばさん、と言ったら悪いかなって年の方でした。

 カウンターに向かいながら後ろの壁のメニューを見ました。やっぱり一番安いのはコーヒー。カウンターのイスに座りながら、

「コーヒー下さい」

と言いました。すると、

「いいの?」

と、お店の女性が聞いてきます。何のことか分かりません。

「はい?」

「雨宿りでしょ? 別に雨がやむまでそこにいていいわよ。どうせ降ってる間はうちも暇だから」

「い、いえ、頂きます」

「そう? ありがと」

一瞬甘えようかと思ったけど頼んじゃいました。でも、なんだかいい人そうで良かった。

 またミルクとお砂糖をたっぷり入れてコーヒーを飲みました。少しすると、三角形に半分に切ったトーストが目の前に出てきました。何? って感じで女性を見ると、

「ちょっとお腹減ったからおやつ。でも半分でいいから、良かったら食べて」

と言って、その人はトーストの半分を口にします。

「ありがとうございます」

頂きました。

 しばらくすると男のお客さんがこっちに来ました。

「便所借りるよ」

そしてそう言って奥に行きます。すると、ガタン、と大きな音がして、バン、と、また大きな音が聞こえました。

「ごめんね、大きな音で」

女性がそう言います。

「いえ」

「古いから扉が歪んでるのよ。だからあんな音させないと開け閉め出来ないの」

「そうなんですか」

「うん、戦争前からあるみたいだからね、この建物」

「燃えなかったんですね、戦争で」

「この辺りは爆弾落ちなかったみたいよ。だから古い家がいっぱい残ってるの」

「そうなんですか」

西の空は明るくなってきたように見えますが、雨はまだやみそうにありませんでした。

 そしてまたしばらくすると、男性のお客さんが順番に帰って行きました。お店に残ったのは私だけ。

「ねえ、どこかから遊びに来たの? それとも行くところだったのかな?」

女性がそう話し掛けてきました。大きなバッグを持っているからそう思ったのかな。

「いえ、そう言うわけでは……」

答えに困りました。

「夏休みも今週で終わりだもんね、遊びに行きたいよね」

「ですね……」

なんだか俯いてしまいました。でも女性はまた聞いてきます。

「それで、どこ行くつもりだったの? 一人で旅行?」

やっぱり私のバッグを見てそう思っているんだ。

「いえ、そんなんじゃないです」

「そう」

しばらく沈黙。でも女性がまた口を開きます。

「学校で何か嫌なことがあるの?」

思わず女性の方を見ちゃいました。

「違ってたらごめんね。この時期、学校で嫌なことがある子が家出するの多いって聞くから」

私はまた俯きました。そっか、こんな大きな荷物抱えてたら、みんなそう思うんだ。

「あなたぐらいの年の子が一人で旅行なんてないでしょ。どう? 違う?」

「……、違います」

なんとかそう言いました。

「そう。じゃあどこ行くの?」

答えられない。でも、何か言わなきゃ。

「家出じゃないです。家を出されたんです」

そう言っちゃってました。

「えっ?」

女性が少し驚いた声を出しました。

「だから、今、働くところを探してるんです」

家を出された、と言った勢いでそこまで言っちゃってました。

「どう言うこと? 親に追い出されたってこと?」

「親じゃないです」

なぜだかもう止まりませんでした。

「えっ?」

「親はもういません、死んじゃいました」

「そ、そうなの。ごめんなさい、変な話になっちゃって」

「い、いえ」

そしてまた沈黙となりました。

 雨音が聞こえるだけで何も話し掛けてきませんが、女性がカウンターの向こうで何かしていました。やがて手が私の方に伸びてきます。その手には白い液体の入ったコップがありました。

「どうぞ」

女性にそう言われて手が出ましたが、受け取る直前で止まりました。すると女性はコップをカウンターに置いてこう言います。

「大丈夫、それ、メニューに載ってないでしょ。売り物じゃないから」

そして女性も同じものを手に取って見せます。

「ありがとうございます」

私もコップを手に取りました。白い液体が何なのか、聞かなくても分かります。カルピスだ。一口飲みました。おいしい。そして、半分くらいそのまま飲んじゃいました。

 カルピスのおいしさに私の顔が緩んだのでしょう、女性がまた口を開きました。

「話しにくかったらいいんだけど、よかったらちょっと聞かせて」

「はい」

「ご両親が亡くなった後は親戚の所にでもいたの?」

「はい」

「もうだいぶ前から?」

「えっと、去年の五月からです」

「と言うことは一年とちょっとか」

「はい」

女性がコップに口をつけてから続けます。

「でもひどい親戚ね、あなたみたいな子、追い出すなんて」

そう、ひどい親戚。でもそれは私のこと。叔母さんや俊介君からしたら私がひどい親戚。

「いえ、私が悪いんです。私がひどいことをしたから」

そう言って私もまたコップに口を付けました。

「……そうなの」

女性は何か言いた気にしてからそれだけ言いました。そしてしばらくしてからまたこう聞いてきます。

「働くところ探してるって言ったけど、見つかりそう?」

「……分かりません」

「そう。……あっ、そんなことより今どこに住んでるの? お世話になれるところがあるの?」

「いえ、安いところ探して泊ってます」

「ホテルとか?」

「ええ、まあ」

「でもそんな泊まり続けるほどお金あるの? 大丈夫?」

「ええ、まだ何とか……」

「そう。私が一人物ならね、置いてあげてもいいんだけど。狭いところに旦那もいるからね。ごめんね」

「いえ、そんな」

その時外が明るいのに気付きました。雨がやんでいました。

「あっ、やんだみたいなんで私行きます」

そう言いながら席を立ち、財布を出しました。

「ああ、いいわよ、暇な時間潰しの相手してもらったから。ありがとね」

「え、でも」

「いいの」

「あ、ありがとうございます」

私は頭を下げてからバッグを持って戸口へ、そして扉を開くと、

「ちょっと」

と、呼び止められました。振り返って女性を見ます。

「お腹が減ってどうしようもなくなったらここに来なさい。ご飯くらい食べさせてあげるから」

「えっ、そんな」

「そのくらいしか出来なくてごめんね」

なんだか涙が出そうになりました。

「ありがとうございます」

もう一度頭を下げてお店を離れました。泣いちゃう前に。


 雨が上がったと思ったら、今度は太陽の日差しが嫌と言うほど降ってきます。すぐにむせかえるような暑さになりました。ほんとに、水蒸気の中を歩いているみたい。時間は十一時過ぎ、お昼までにもう一軒くらい、募集、と出ている会社が見つからないかな。

 そう思っていたらすぐに見つかりました。しかも、女性工員求む、でした。事務所に入る前に見えた工場の中は、何かの機会を作っているようでしたが女性が何人もいました。ここなら何とかなるかも。喫茶店の優しい女性に温かい気持ちにしてもらったのも手伝って、なんだか明るい気分で訪ねました。

 女性を求めていただけあって、ちゃんと話をしてくれました。そしてこの前のように、ほとんど採用してもらえるようなところまで話が進みました。でもそこでやっぱり現住所が問題になりました。履歴書に書いた住所に住んでおらず、しかも現住所がない。断られました。これはもう何としても、先に住むところを決めなければ。

 そしてアパート探し。空き部屋の看板が出ているところを見つけなければ。と、歩き始めたところで不動産屋さんが目につきました。私は大馬鹿者。叔父さんの会社は不動産屋さんです。なんで考えが及ばなかったんだろう、アパートを探すなら不動産屋さんに行けばよかったのに。

 見つけた不動産屋さんに入りました。狭い事務所におじさんが一人。アパートを探していると告げると、入り口近くのテーブルのイスに座るように言われました。

「どのくらいの部屋を探しとる?」

おじさんが席に座ったままそう聞いてきます。

「あの、とにかく安いお部屋でどんなところがあるのか教えてもらいたいんですけど」

「安いとこねえ、ちょっと待ってね」

しばらく待っていたら、おじさんが紙の束を持って目の前に来ました。

「一番安いところから見る?」

「はい」

すると一枚の紙を目の前に出しました。

「ここは家賃三千円で安いけど、風呂なし、台所と便所は共用で押入付きの六畳一間。あ、玄関も共用だ」

おじさんが言う通りの間取りが目の前にありました。いえ、間取りとも言えないくらい。六畳の大きさを示す四角に、押入と入り口の位置が書き込んであるだけ。話からすると、最近泊まっている宿と変わらない感じです。そう思いながら間取りに目を落としていたらおじさんが続けます。

「あっ、あとね、今空いてるのは二階の部屋やけど、台所と便所は一階やから。それにここはちょっとお勧めせんけどね」

「どうしてですか?」

安ければいいかと思っていたところに、お勧めしないと言われて聞きました。

「建物古くてねぇ、だいぶガタが来とるんよ。大家も本格的に壊れたら建て直すつもりで修理もせんし、ちょっとね。正直、扱っててこんなこと言ったらいかんのやけど、今でもよう住んどるなあって感じやわ」

「そうですか」

そう聞かされて、気乗りしない顔をしたら目の前の紙が変わりました。今度も六畳一間ですが、入り口横に台所とトイレがありました。

「次はこれ、見ての通り風呂がないだけ。ここは二部屋空いとるけど、どっちも一階の部屋やね」

お風呂までは望まないので間取りは十分です、だって、四畳半でもいいと思っているくらいだから。でも家賃が一気に高くなりました、四千七百円。

「ここより安いのはさっきの所になっちゃうんですか?」

一応確認しました。

「今うちが扱ってる物件ではね」

「そうですか」

ほんとにお給料がいくらもらえるものなのか不明なので、何とも言えないのだけれど、これなら何とかなるかなって思いました。

「あの、ここをお願いしたいと言ったらすぐに住めますか?」

おじさんが別の紙に目を落として答えてくれます。

「え~っと、ああ、聞いてる話ではもう空いとるね」

他の不動産屋さんにも行った方がいい、とも思いながらこう聞いてました。

「あの、この部屋でお願いしたいんですけど、この後どうしたらいいですか?」

「ああ、ありがと。でも、お嬢さん未成年だよね、親御さんに保証人になってもらわないかんけど大丈夫?」

「はい」

「契約の時は連れて来れる?」

叔父さんに来てもらわないといけないのか。でもなんとかなる。

「はい」

「じゃあ、もう他の人に契約されないように押さえちゃうならお金がいるけど、保証金一万五千円ね」

い、一万五千円。な、何とかなる。ギリギリだけどなんとか。そう思っていたらおじさんのセリフは続きました。

「それと、もう九月の家賃先払いで一か月分と、うちの仲介料で一か月分いるから、あと九千四百円。合計二万四千四百円ね」

何ともなりません。盗られた一万円があったら何とかなったのに。したくはないけど、お金も叔父さんに頼るしかない。

「いつ持って来れる?」

悩んでいたらそう言われました。そっか、今じゃなくてもいいんだ。そうだよね、そんな大金持ち歩いてる人なんていないもんね。

「出来るだけ早く来ます」

「うん、値打ちの部屋ではあるから、他の人に決まっちゃう可能性もあるからね」

「分かりました。あっ、その時に保護者と一緒に来て契約までしちゃうのは可能ですか?」

それなら叔父さんに迷惑を掛けるのは一回で済みます。

「ああ、それはいいよ、契約書はあるから。じゃあその時はハンコも持って来てね」

「分かりました、よろしくお願いします」

「こちらこそ、お待ちしてます」


 不動産屋さんを出て、悩みながら歩いていました、叔父さんに電話しなきゃって。悩みながら歩いていたら、いつの間にか栄エリアにいました。公衆電話は探さなくても周りにありました。でも足が向きません。どうしよう、どう話そう、なんてずっと考えていました。考えていて水たまりに気付くのが遅れました。慌てて右に避けて一歩下がりました。すると肩に掛けた鞄が何かにぶつかり、その後大きな音がしました。ガラスの割れる音も。振り返ると、道路際に立っていた看板を倒してしまい、それが停まっていた車のライトに当たったようです。

 周りの人が一斉に私の方を見ます。私はとりあえず倒れた看板を元通り立てました。看板には壊れたところはなさそう。でも、車のライトは割れています。どうしよう、そう思っていたら男の人が来ました。

「ええ? これあんたが?」

そのおじさんが割れたライトを見ながらそう言います。車の持ち主かな? 

「すみません、看板倒しちゃって、それが当たったみたいなんです。ほんとにすみません」

「すみませんはいいけど、弁償してもらわないかんぞ」

叔父さんはそう言いながら持っていた鞄を助手席に置くと、戻って来て壊れたところを屈んで見ます。私も傍に屈んで見ました。

「ああ、バンパーもちょっとへこんでるなあ。これ結構掛かるぞ」

ああ、ほんとにどうしよう。

「いくらくらい掛かりそうですか?」

「さあ、修理出して見んと分からんけど、五千円くらいは掛かるんじゃないか?」

「そうですか」

五千円、余分な出費を作ってしまった。

「ちょっと、何かに家の連絡先書いて。それと、学生証でいいから見せて」

おじさんが立ち上がってそう言います。私も立ち上がりながら、

「その、高校行ってないんで学生証持ってません」

そう言いました。

「ええ? 参ったな。じゃあ、そこの電話で家に掛けて、家の人が出たら代わるから」

おじさんはすぐ近くの公衆電話を指してそう言います。ほんとにどうしよう。困って困ってこう言いました。

「あの、私、親がいないんです」

「はあ?」

おじさんの顔が怖くなりました。でも、なぜだかすぐに普通の顔に戻ります。

「そうか、そういう子だったのか。でもなあ、うちも余裕があるわけじゃないから弁償はしてもらわないとなぁ」

どう言う子だと思われたのか分かりませんがこう言いました。

「弁償します。五千円でいいですか? 五千円なら何とか……」

今日はちょうど財布の中にお札で五千円入れてました。五千円で済むならバッグからお金を出さなくても済みます。人前でバッグの中にお金が入っているのを見せたくない。なのでそれで済むならと、そう言いながら財布を出してお札を数えていました。千円札、五百円札、百円札、全部数えると五千百円でした。財布に入れるときに数え間違えたみたい。百円札を財布に戻して、残りをおじさんの方に少し差し出しました。

「五千円あります。ほんとにこれでいいですか?」

そしてもう一度そう聞きました。私が財布を出してお金を数え始めてから、黙ってそれを見ていたおじさんがこう言います。

「いや、いいけど、あんた、財布ほとんど空になったじゃないか、大丈夫なのか? 生活費じゃないのか?」

「いえ、その、……でも、私が壊したので」

そう言っておじさんの方にお金を差し出しました。

「う~ん、五千円って言うのは、そのくらいあればまず大丈夫だろうってことで、実際そこまで掛かるか分からんし。参ったなあ」

私は何と言ったらいいか分からず黙っていました。すると、

「じゃあ、四千円もらっとこうか。四千円までで直ったら俺が得することになっちゃうけど、それ以上掛かった時はこっちで出すから。それでいいか?」

「ほんとにいいんですか?」

「いいよ」

そう言われて私は、百円札、五百円札で千円分抜きました。そして残りを差し出しました。

「じゃあこれ、四千円です」

おじさんは受け取って数えます。

「確かに」

そしてそう言いました。

「ほんとにすみませんでした」

もう一度頭を下げました。するとおじさんはこう言います。

「もういいから、早くお金を仕舞いなさい」


 せっかく叔父さん叔母さんからもらったお金を自分の不注意でなくしてしまったばかりに、部屋を借りるのにまた頼らないといけないと分かった。そのことで悩んでいたというのに、また不注意で大金を使ってしまいました。本当に馬鹿です。叔父さんに頼ったとして、こんな数日でなんでそんなにお金を使ったんだと聞かれたら、とてもじゃないけど何も答えられない。ほんとにどうしよう。

 お腹が減っていたけど何も食べる気になりません。ただただ考えながら歩いていました。いくら考えても、もう叔父さんに電話するしかこの先に進めないと分かっているのに。それでも考えていました、どんな結論を出したいのかも考えずに。

 行き先なんて何も考えていなかったのに、気付くと歓楽街にいました。なみちゃんのいる歓楽街。無意識に足が向いてしまったのかも。ううん、心細くてなみちゃんに会いたくなってたんだ。


 最初になみちゃんを見掛けたビルの階段まで来ました。お店の前で私を見たとなみちゃんは言っていた。そしてなみちゃんはその時二階に上がって行って見えなくなった。沢山出ているお店の看板を見ました。二階にはお店が三軒あるみたい、『スナック パープル』、『スナック プチラブ』、『バー クラウン』。ん? パープルってどこかで聞いた。パープルかな? でも二階に上がって行って確認する勇気はありませんでした。そのビル自体、やっぱり私には足を踏み入れてはいけない別世界のような気がしたから。

 なみちゃんが現れないかとビルの前をうろうろしてました。この前最初に見掛けた時は確かお昼過ぎでした。今はお昼になったばかりくらい。もう少し待ってたら会えるかも。そんな考えでうろうろしてました。

 うろうろしていたらビルの前に車が来ました。乗ってきた人が車の後ろからコッペパンの入った箱を出して一階のお店に運んでいきます。そしてすぐに走り去りました。コッペパンの配達? 何のお店だろう? 『ダイナ カリフォルニア』ってなっているけど、ダイナって何? 分かりませんでした。そのお店は正面がガラス張りだったので中が見えます。背の高いイスに背の高い小さなテーブルが並んでいます。奥に人影も動いてる。でもやっぱり何のお店か分かりません。一階のもう一軒は、『スナック 愛』って看板が出ています。これも聞いたような気が、こっちだったかな。でもこっちのお店は窓がないし扉も閉まっているので覗けません。

 しばらくすると、愛、の扉が開きました。ひょっとして、と思ったけれど、なみちゃんではありませんでした。出て来たのは私と同じくらいの年の女の子が一人と、その子と同じくらいの年の男の子。それと三十歳くらいの男性の三人でした。

「どこで食う?」

三十歳くらいの男性が二人にそう言ってます。

「どこでもいいけどおごりですよねぇ」

女の子が楽し気にそう返している。今からお昼ご飯に行くのかな? そんな話を聞くと空腹感が強くなりました。

 三人はすぐにいなくなり、私の空腹感だけが残りました。喉もカラカラ、そして、トイレにも行きたくなってくる。どうしようかな、どこかでお昼食べようかな。お店に入るとお金が掛かるけどトイレも使える。しばらくそんなことで悩んでいました。でも、本当にトイレが緊急事態になった時、入るお店がすぐに見つからなかったら大変なので一旦離れることにしました。そして数歩歩き始めたら、

「しーちゃん」

と、後ろから声がしました。振り返ると、なみちゃんが女性と一緒に階段を降りてくるところでした。良かった、会えた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る