第一部 01


 昭和四十二年


 二つ目の手紙の缶も、順調に中身は増えていきました。でも、高校二年になってしばらくしたころ、中身が増えなくなります。

 高校二年の五月、両親が亡くなりました。家族三人で出掛けた休日の帰り、市電を降りたところで両親は車にはねられました。電停から歩道へ渡る横断歩道の上、私のすぐ目の前で。それからはいろいろと生活環境が変わったので、手紙を書くなんてことが頭から抜けていました。


 両親を亡くした私は父の弟、叔父さんの家で面倒を見てもらうことになりました。住まいは瀬戸市でした。幸い高校はそのまま叔父さんの所から通えました。

 叔父さんは婿養子に入ったわけではありませんが、奥さんの実家の不動産屋さんを継いでいました。そして、奥さんの実家の大きな家をもらっていました。大きな家なので私にも部屋をくれました。なんと押入付きの六畳の部屋。嬉しいことなんだけど、その頃の私はまだ両親を亡くしたばかりで悲しみの中、喜べませんでした。そして、この部屋で本当に喜びを感じることは、その後もありませんでした。

 叔父、叔母は優しくしてくれました。二人の一人息子、三つ下の従兄弟になる俊介君とは、子供の頃から姉弟みたいな関係。そんな環境の中でだんだん悲しみは薄れ、新しい生活に慣れ、夏休みになりました。そんな頃に私宛の手紙が届きます。前の住所に送られたものが転送されてきたのです。その手紙を受け取るまで、すっかり忘れていました。

 すぐに返事を書きました。両親が亡くなったことを告げました。するとすぐにお悔やみの返事がきました。そして私もまたすぐに返事を出す。自分でも平穏な生活になった気でいましたが、やっぱりストレスがあったのかも。もう一つの居場所、両親がいるころから親しんだ居場所があることを思い出すと、そこに逃げ込むように手紙を書いていました。手紙を書くということは、母との思い出でもあったから。

 三通目の手紙が届いた日、夕食が終わるまでその手紙のことを叔父、叔母が教えてくれませんでした。夕食が終わってから二人に呼ばれて居間に行くと、居間の座卓の上に手紙が置いてありました。そして質問されました、差出人が男性の名前になっているけれど、どういう人なんだと。文通相手だと正直に言いました。すると、交際しているのかと聞かれます。住所見てよ、大阪の人だよ、交際してるわけないでしょ。とは言わず、否定して、会ったこともありません、と言いました。でも、高校生の女の子が男性と文を交わしているなんて良いことではない、やめるようにと言われます、叔父から。

 拒否しました。いろいろ言われましたが、言われる度に拒否しました。これだけは譲れない、なんて、意地になってました。そのうち叔母が折れてくれました。私の両親も承知していたことならいいじゃない、と、叔父を説得してくれました。と言うわけで手紙は私の手元に渡され、続けることも許可してもらいました。

 そんなことから一週間ほど経った頃、俊介君が林間学校に行きました。三日間いません。そして叔母さんもその日から家を空けました。おばさんのご両親は家を娘夫婦に明け渡して、自分たちは二駅離れた別の所に住んでいました。その日、叔母さんのお父さんの具合が悪いと連絡があり、叔母さんはそっちに行ってしまったのです。

 簡単な料理を作り、叔母さんが作り置きしている常備菜とで夕食を叔父さんと食べました。何も問題なし。叔父さんはお酒を飲んでおかずをつまむだけなので、叔母さんの常備菜だけでもいいくらいだし。

 翌朝の私のお味噌汁はまずいと言われたけれど、食べてくれました。問題なし。叔父さんは仕事に行ってるので昼間は一人でした。簡単に昼食を食べたあと、叔母さんから電話が掛かってきました。思っていたよりお父さんの具合が悪いようで、今夜も戻らないと。

 夕方帰ってきた叔父さんに叔母さんのことを告げました。なんだか機嫌が悪かったです。叔母さんが今夜も帰って来ないからかな、と思っていたら違いました。原因は叔父さんが手に持っていた封筒でした。また私宛の手紙が届いていたようです。

 居間の座卓でまた話がありました。文通を許可したけど頻繁過ぎないかと言われました。そして、この男となんかあるんだろう、と、また疑われました。当然否定しましたが機嫌は悪いままでした。叔父さんは台所へ行き、ビールを開けて飲み始めます。それでも手紙は私の手元にくれました。

 夕食の準備を終えて、お風呂も沸いたので叔父さんに声を掛けました。すると、自分は寝る前に入るから先に入れと言われました。言われた通り先に使わせてもらうことにします。脱衣場で服を脱いで浴室へ。湯船から洗面器でお湯をすくって体に掛けていたら、叔父さんが入ってきました、裸で。

 あまりのことに声も出ませんでした。

「背中流してくれ」

叔父さんがそう言ってお風呂場のイスに座ります。私の頭は止まっていました。叔父さんの背中にお湯を掛けて、言われた通りタオルで背中を洗ってました。

「上手じゃないか、あの男の背中も洗ってやったのか?」

わけわかんないことを言ってきます。

「し、しません」

なんとかそれだけ言えました。すると叔父さんは石鹸置きの石鹸を手に取って、両手に石鹸を付けています。そして石鹸を戻すと私の方を向きました。体を隠す暇もなく叔父さんの手が伸びてきます。

「今度は俺が洗ってやろう」

もう何もわからない。声を上げたのか、抵抗したのか、そんなこともよくわからない。叔父さんが風呂場を出て行ってから感じたのは、叔父さんの手が私の身体の全てに触れていった気持ち悪さだけでした。自分でもう一度身体中を洗いました。でも、気持ち悪さは流れてくれませんでした。

 夕食の時、叔父さんに変わりはありませんでした。いつもと同じ、テレビを見ながらビールを飲んでおかずを食べています。何事もなかったかのように。私も食べましたが、食べただけ。叔父さんの動き一つ一つに身構えてしまい、味がしませんでした。

 夕食の後片付けを終えても、叔父さんはまだテレビを見ながらビールを飲んでいました。私は自分の部屋へ。でも何も手に付きませんでした。いえ、何もする気になりませんでした。ただ畳の上に座っていました。

 やがて足が辛くなってきて時計を見たら、十時になろうとしていました。寝よう、そう思って恐る恐る洗面所に向かいました。居間にはもう誰もいませんでした。テレビも電気も消えています。叔父さんも寝室に行ったのでしょう。それを確かめようと叔父さんたちの寝室を窺いました。叔父さんたちの部屋は一階の端、離れのような別棟にあります。電気がついていて、テレビの音が聞こえました。ちょっと安心。

 私は洗面所に戻って手早く歯磨き。そしてトイレも済ませて部屋に戻りました。安心してちょっと心に余裕が出来たので、今日届いた手紙を読み返しました。友人とキャンプに行ったことが書いてあります。楽しそうなキャンプの描写に、私も行きたいなと思いました。そして手紙を手紙入れの缶に仕舞い、布団を敷きました。電気を消して横に。キャンプの夢が見たいな、行ったことないから夢でも見れないかな、なんて思いながら眠りました。


 上半身を抱き起され、パジャマの上を脱がされようとしている。そんな格好で目が覚めました。

「いや!」

思わず声を上げて、両手を露になった胸の前に固まりました。

「シー、言うこと聞け、追い出すぞ」

ビールの臭い匂いとともに叔父さんの声がしました。

「やめ、やめてください」

「うるさい、黙ってろ」

そしてパジャマの上が剝ぎ取られ、胸にあの気持ち悪い感触が。私は声も出せずに涙を出していました。やがてパジャマのズボンごと、下着まで脱がされそうになります。

「お願い、お願いします、やめてください」

なんとかそう言って叔父さんの手を払おうとしました。でも叔父さんはやめてくれません。しばらく抵抗していたら、

「動くな、叩くぞ」

暗い部屋の中、叔父さんがそう言って右手を振り上げたのが分かりました。身構えました、でも手は降りて来ず、代わりに下も全て剥ぎ取られました。もうそこから先は恐怖だけでした。少しは抵抗するけれど叔父さんのなすがまま。気持ち悪いのも、苦しいのも、そして、痛いのも、何も分からない、分かりたくもない。

 叔父さんは私のお腹の上に熱く気持ち悪いものを吐き出した後、

「誰にも言うなよ、ほんとに追い出すぞ」

と言いながら、私の首を掴みます。私は小さく頷くだけ。するとそのまま出て行ってくれました。

 でも私は動けませんでした。そのうち思考も止まったような気がしました。でも、下腹部に残る痛みと不快感が頭を刺激します。そして、お節介にも何をされたのか分からせてくれる。今のが私の初体験なんだ、そう理解した時、何か鋭利なもので心を引き裂かれた痛みがしました。夏の夜だと言うのに寒気がしてきます。胸の奥に何か黒く重い物がある。それは、恐怖、憤怒、悲愴、喪失、いえ、そんな感覚じゃない。それは、ただただとてつもない気持ち悪さ。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。一番気持ち悪かったのは、ビール臭い口で、口の中を舐め回されたこと。思い出して吐き気が込み上げてきました。

 トイレに走って全部吐き出しました。吐き終わってからお風呂場へ。お湯はすっかり冷めていたけれど、もう一度身体を洗いました。でも、気持ち悪さは流れていきませんでした。


 翌朝、恐る恐る台所へ行くと、叔父さんが食卓のイスに座って新聞を読んでいました。

「おはよう」

そしてそう声を掛けてきます。信じられないくらい普段通りです。えっ、あれは私の夢? ほんとは何もなかったの? なんて思ってしまいそうなくらい。でも、身体に残る、頭に残る、気持ち悪さや痛みはそうでないと言っている。そう、あれが夢だなんてことあるわけない。

 私は口を開きませんでしたが朝食の用意をしました。そして叔父さんと一緒に食べました。私が叔父さんを無視している以外は、本当にいつも通りでした。でもいつもと違うことが一つだけそのあとありました。

 朝食後の洗い物をしていたら、仕事に出掛ける叔父さんに玄関から呼ばれました。返事をせずに玄関に行きます。

「分かってると思うけど、誰にも言うなよ」

反応しませんでした。すると叔父さんは手に持った靴ベラを振り上げます。私は身をすくめて小さく頷きました。

「それと、みんな帰ってきたらもう少しいつも通りにしろよ」

さらにそう言う叔父さんは、靴ベラを高く掲げたまま。私はまた頷くだけ。叔父さんは手を下ろすと玄関を開けながらこう言います。

「しーちゃんのことを悪くしようとは思ってないから、いいな」

そして出掛けて行きました。あの人にしーちゃんと呼ばれた瞬間、寒くなったような気がしました。それに、あんな悪いことをしておいて、悪くしようと思ってないって、完全に意味不明です。叔父さんのことが人間だと思えなくなりました。


 言いつけ通りに、と言うと癪だけど、それからはいつも通りに振舞っていました。叔父さんの動きに、反射的にビクッとしちゃうことはあるけれど、普通にしていました。もうそれは恐怖でだけです。叩かれる恐怖、そして、ここから追い出される恐怖、それだけです。

 叔母さんや俊介君がいるときは安心でした。なので以前の通りとは思いたくありませんが、とりあえずは平穏に過ごしていました。でも、夏休みの終わりにまた恐怖の日がやってきました。その日、夏休みの宿題を友達の所で一気に片付ける、と言って、俊介君はお泊りで出掛けました。そしてそんな日にまた叔母さんのお父さんの具合が悪くなります。私もどこかに泊まりで出掛けられないかな、と、本気で思いました。

 悪夢の始まりとなったお風呂時、今日は叔父さんが先に入りました。叔父さんが出たあと、警戒しながらお風呂へ。警戒したところで、入って来られたらどうしようもないと分かっていたけれど。家の中のかすかな物音にもビクつきながら入浴を終えました。そう、叔父さんは入ってきませんでした。

 食卓でビールを飲んでいた叔父さんの前におかずを並べてから夕食。食べた気がしない。叔父さんが話し掛けてきたことに言葉を返していたけど、何を話したのかも全く頭に残っていない。叔父さんの一挙手一投足に全神経を集中していたから。

 何事もなく夕食も終え、後片付けをしてから自分の部屋に。部屋に入ってから振り返って考えました。この襖、廊下から開けれないように出来ないかな。妙案は思い浮かびませんでした。寝ないで朝まで起きていよう。叔父さんが仕事に出掛けてから寝よう。そんなことも考えましたが、無駄だと気付きました。寝ていようが起きていようが、叔父さんが来てしまったら抵抗なんて出来ない。

 結局、不安に胸が潰されそうな時間を過ごしただけでした。観念したわけではないけれど、布団を敷いて寝ることにしました。床についても眠れない。物音ひとつ聞き漏らすまい、と、耳に集中している。でも家の中は静まり返っていました。そのうち、叔父さんもあんなこと二度もしてこない、そんな考えが浮かんできました。するとどこかで緊張が解けたようです、簡単に眠ってしまいました。

 また気持ち悪い感触で目が覚めました。言葉と態度で少しは拒否してみるけれど無駄。あとは嫌な時間が早く過ぎ去るようにと、祈りながら我慢するだけ。

 耐えて耐えて耐え抜いた後、私はまた冷めたお湯で体を洗っていました。でもやっぱり、嫌な思いまでは流れてくれませんでした。




 二度目の悪夢の三日後、二学期が始まりました。どこにも行けずずっと家にいて、一生忘れられないだろう最悪の経験だけをした夏休み。家から離れて学校に行けるのがとても嬉しかったです。心から解放感を味わったような気がしました。久しぶりに会うクラスの友達。おしゃべりしているだけで天国でした。

 そろそろ始業時間と言う頃に、教室の後ろの扉から一人の男子が入ってきました。一学期に親しくなって、もっと仲良くなりたいと思ったところで夏休み。本当なら嬉しい瞬間なのに、急に胸の中が重くなりました。

 彼が私を見つけました。目が合いました。彼が笑顔になる。後光が指しているみたいに見える。そしてその光に、私の中で惨めな気持ちが影のように浮かび上がる。私は顔を背けましたが彼が近付いてくるのが分かる。光が強くなり、影がどんどん大きく濃くなる。私にはその光がまぶし過ぎる。私にそんな綺麗な光を浴びせないで、私は汚れたの、その光にはふさわしくないの。

 逃げ出したくなりました。彼がすぐ近くまで来て、

「大西、久しぶり。どっか行った?」

と、明るい声で言う。

「久しぶり」

目は伏せたまま彼の方を向いてそう返しました。でもそれが限界、もう勘弁して、消えてしまいたい。私の心は顕微鏡でも見えないくらい小さく縮んでしまったよう。なのに、重さと痛さを私に与えてくる。次に彼が何か言ったら、縮んだ心が一気に膨らんで破裂しそう。私が壊れそう。お願い、ちょっとだけ心の準備の時間を頂戴。そんな私は、始業のチャイムが鳴る前に入って来た先生に救われました。

 この後すぐに校庭で全校での始業式をやるから、と、すぐに出席を取り始める先生。

「よし、全員いるな」

出席を取り終えた先生がそう言います。すると副委員長の女子が手を上げました。

「先生」

「はい、なんだ?」

副委員長は立ち上がってこう言います。

「浜田さんがまだ来ていませんし、先生、浜田さんの名前飛ばしましたよ」

その言葉を聞いて右の方を見ました。確かに浜田浪江の席が空いていました。平常心ではなかった私は、なみちゃんが来ていないことも、先生が名前を飛ばしたのにも気付いていませんでした。なみちゃんとは一年の時も同じクラスだった仲良しです。高校になって私のことを、しーちゃん、と呼ぶ唯一の友達です。でも二年になってからは、ちょっと心の距離が離れました。それはなみちゃんが変わったから。私が近付いても、何か壁のようなものを作って、それまでのように近付かせてくれなくなったから。原因はなみちゃんの家庭。なみちゃんの母親は、春休みに家を出て行ったそうです。何も言わず、なみちゃんも連れずに一人で。

 時間が経てばなみちゃんは元に戻ってくれる。そう思っていたところに今度は私の両親の死。私も周りに壁を作って悲しみの中に籠ってしまいました。そして心の距離の離れたまま夏休みに。

 副委員長の指摘に先生が答えます。

「ああ、浜田のことは今から言おうと思ったんだ」

副委員長に向かってそう言ってから、先生はクラスを見回してこう言いました。

「みんな聞いてくれ。浜田は事情があって、夏休みの間に学校を辞めた」

それだけでした。どんな事情なのか、全く分かりません。転校したってこと? でもそれならそう言うよね。なみちゃんどうしたんだろう、心配です。

 その後、校庭に出て始業式、そしてまた学活。新学期初日はそれで終わりでした。私は朝の学活の前に浮かび上がった心の影の所為で、なんとなく彼だけでなく、友達も避けるようになってしまっていました。そう、なみちゃんが一学期に作った見えない壁のようなものを、私も作ってしまっていました。

 部活をしていない私は帰っても良かったのですが、なんとなく学校に残っていました。部活の生徒だけで人が減った頃、脱履場の所にある公衆電話に向かいました。生徒手帳を開いて、クラスの住所録から書き写したなみちゃんの家の電話番号を見ながら電話を掛けました。誰も出ません。まあ、平日の昼間だもんね、なみちゃんだって家にいないよね。

 夕食後、叔母さんに許可をもらってまたなみちゃんの家に電話しました。なみちゃんのお父さんと思われる男の人が出ました。

「もしもし、私、浪江さんの学校の友達で、大西と言います。夜分……」

そう言ったところでこう返ってきました。

「浪江はもう家にいません」

そして電話を切られました。受話器を耳にあてたまましばらく止まっていました。どういうことだろう。何も分かりませんでした。

 一週間くらいの間、なみちゃんの噂がクラスで溢れていました。いろんな話が飛び交っていましたが、一番多く飛び交っていた内容をつなぎ合わせるとこんな感じになりました。なみちゃんが栄の風俗店で働いていて警察に補導された。それで退学になった。信じられないけれど、こうとしか思えませんでした。

 私は一か月くらいの間で、はっきりと人付き合いが悪くなりました。それでもクラスのみんなの態度は寛大でした。理解がありました。春に両親を亡くし、沈んでいた私。それがさらに、しーちゃん、なみちゃんと呼び合っていたなみちゃんが学校を辞めたことで、私がさらにショックを受けていると思っていたから。確かになみちゃんの退学にはショックを受けていました。でも私の理由は違います。私はみんなが眩し過ぎて顔が見れなかっただけ。私はどんどん汚されていっていたから。

 叔母さんのお父さんの具合は本当に悪いようで、叔母さんは土日に実家に帰るようになりました。そしてそれに俊介君がついて行ってしまいます。つまり、土曜の夜はいつも叔父さんと二人っきり。私は土曜の夜が来るたびに汚れていきました。そして私を精神的に追い込み、追い落としていくのは私自身。私の身体でした。あれだけ気持ち悪いと感じていたことが、嫌で嫌でしょうがなかったことが、いざ始まってしまうとそうではなくなってきていることでした。叔父さんに身体をいいようにされるのは今でも嫌です。本当に嫌です。でも、叔父さんの指が体に触れた瞬間、次のことを想像して、その刺激を求めている。

 最低。そんな自分に気付いた時、自分で自分が嫌いになりました。死んでしまいたい、自分を失くしてしまいたい。本気でそう思いました。そんなときに手紙がまた届きました。でも、もう読む気にもならない。なので封も切らずに部屋の座敷机の上に数日置きっぱなしでした。


 死のうと決心した日、部屋を片付けました。身の回りをちゃんと整理してから消えようと思ったから。と言っても、そんなに物はありません。面倒を見てもらっている、そう自覚している私は、欲しい物を何一つねだったりしていないから。ここに来てから増えたのは、叔母さんが買って来てくれる洋服だけ。女の子なんだからおしゃれしないとね、と、勝手にいろいろ買ってくれます、髪飾りとかの小物なんかまで。そう思うと、叔母さんは本当に私のことに気を配っていてくれたかも。私と血縁があるのは、父の弟である叔父さんだけ。その奥さんである叔母さんとは血の繋がりはありません。でも叔母さんは、私のことを本当の娘のように可愛がってくれています。死ぬ前に、叔母さんにだけは感謝の手紙を書こう、そう決めました。

 最後に学校関係の物を整理しました。学校指定の通学鞄、手提げ型のサブバッグ、そしてボストンバッグ。それらに教科書や体操服など、全部納めました。

 座敷机の上に最後まで残ったのは、置きっぱなしだった手紙。手に取って胸に抱きました。でも読む気にはなりません。今夜死ぬつもり。どうやって死のうかまだ決めていないけれど、死ぬとはもう決めたこと。この手紙の中に優しい言葉なんかを見つけてしまったら、その決心が揺らいでしまうかもしれない。それは許されないこと。私は今夜死ななければいけないんだから。そう、こんな穢れた私はこの世にいてはいけないんだから。

 読んであげれなかったことを詫びながら、せめて今までの手紙と一緒にしてあげよう、そう思いました。手紙を仕舞っている缶は押し入れの中。押し入れを開けて缶を手に取りました。畳の上に置いてフタを取ります。そして一番上に、封も切ってあげなかった最後の手紙を置きました。ごめんね、そう呟いてフタをしました。そして、フタをした缶を見つめていました。すると、涙が流れました。次から次と流れ出しました。缶のフタに母の顔が浮かび、母がこの缶をくれた時のことが思い出されたから。

『お手紙、この中に入れていったら?』

『これからも続くんでしょ? そこらに置いてたら、あんた、失くしちゃうわよ』

その時の母の声が聞こえたような気がしました。いえ、確かに聞こえました、温かい母の声が。缶を持ち上げ、抱きしめて泣いていました、母に抱きついているつもりで。

 私は母に救われました。そして、母のことを思い出させてくれた手紙に救われました。

 文通を続けることを応援してくれていた母。その母のためにも続けなきゃ。落ち着いた時、そう思っていました。それに、私の居場所の一つである手紙、大事にしなきゃ。

 机の引き出しから鋏を出して封を切りました。そして読んだ手紙、私のことを案じる内容でした。元々は、私が不定期に出した手紙に返事を下さる形の文通でした。でもこの春からは逆になっていました。両親の不幸で私の頭から抜け落ちてしまっていたから。なので夏休みに入った頃、初めて向こうから手紙が来て、私が返事を出す格好になりました。そして数回続いた後、途切れていました。

 そうだ、最初に叔父さんにされた日、手紙が届いていたんだ。あまりのショックと、その後の恐怖の日々で忘れていた。返事を書くのも忘れていた。もう一か月以上も前の話。なので一か月も返事を出さない私を案じてくれていました。

 返事を書きました。すらすらと書き上げ、破って捨てました。ほんとに細か破って捨てました。なんでだろう、この人には何でも話せてしまう。私はこの夏のおぞましい体験を、そして今も続いている体験を、感情のまま書いていました。でもこんなこと知られたくない。書き上げて、書きながら昂った心が落ち着くとそう思い、破りました。

 心の居場所である手紙の中。その中の私は、その中の私だけはキレイでいよう。身体のあるこの私はもう汚れてしまったから。どんなに洗っても、一生落ちない汚れにまみれてしまったから。

 嘘を書きました。楽しい生活を書きました。でも、嘘でも家での楽しいことは書けませんでした。なので、もう学校でも楽しいことはなかったけれど、学校で友達と楽しく過ごしている嘘を書きました。

 この最初の嘘。本当はこれをやめておくべきでした。実際の私はもうとっくの昔に大噓つきです。深く傷つき、悩み、壊れてしまいそうな心なのに、誰にも何も言わず日常を続けているのだから。そんな私が手紙の中でまで嘘つきになった。これで、本当の私の居場所が、どこにもなくなってしまいました。当然、そんなことに気付いていませんでしたが。


 十月に入ると、叔母さんは実家に帰らなくなりました。お父さんの具合が良くなったようです。つまり、私には平穏な日々が戻りました。

 十一月になってしばらくすると、またお父さんの具合が悪くなり、叔母さんはまた、土日に家を空けるようになりました。でも今回は俊介君がついて行きませんでした、安心。

 そんな十一月の最後の土曜日。寝る前に洗面所で歯を磨いていると後ろに叔父さんが来ました。叔父さんも歯を磨きに来たのかな? と思っていたら、

「後でちょっと来てくれ」

と言われました。叔父さんはそれだけ言うと自分の部屋の方に去っていきます。何だろう? とは思いましたが、警戒はしていませんでした。だって、俊介君も家の中にいるんだから、馬鹿なことをするわけがない。本当に何か用事があるんだろう、そう思って叔父さんの部屋に行きました。馬鹿でした。


 ノックして部屋に入ると、叔父さんは目の前のソファーでテレビを見ていました。部屋の電気は消えていて、灯りはテレビと叔母さんの鏡台のスタンドだけ。

 叔父さんたちの部屋は二間続いています。手前の部屋はソファーセットとテレビが置かれ、居間のようです。他にも整理ダンスや本の詰まった大きな本棚。それと叔母さんの鏡台。奥の部屋には大きな洋服ダンス一つと和ダンス二つが並んでいます。

 戸口に立っていたら叔父さんが立ち上がって私の方に来ます。そして、

「騒ぐなよ」

と言いながら扉を閉めると鍵を掛けました。私は悟りました。理解して扉に手を伸ばしました。でもその手を掴まれて奥に引っ張って行かれます。奥の部屋には布団が一つ敷いてありました。

「やめて」

私は叔父さんの力に抗ってそう言いました。すると叔父さんが振り返って右手を振り上げます。

「騒ぐなって言っただろ、追い出されたいのか」

私の抗う力は格好だけとなりました。あっという間にすべて脱がされ布団の中に。叔父さんも全部脱いで布団に入ってきます。

 叔父さんが私の上で動く度に布団が足元に下がっていきます。十二月目前の夜はもう十分寒いです。でも寒いとは感じません。感じているのは別のこと、淫らなこと、久しぶりの刺激。もう私はすっかり穢れてしまっていました。

 叔父さんに戻っていいと言われて部屋を出ました。これまでは裸でそのまま風呂場に行っていましたが、今日はパジャマをもう一度着ました。寒いのもあるけれど、俊介君が家にいるから。裸でうろついているところなんて見られるわけにいきません。

 風呂場に行ったけれど、湯船のお湯はもう冷水でした。そんなので体なんて洗えない。凍えながらタオルを絞って身体を拭きました。


 それから何週間か空いてからの土曜の夜、また叔父さんに声を掛けられました。でも叔父さんの部屋に行きませんでした。自分の部屋で布団にもぐり、聞き耳を立てていました。叔父さんが来る気配はありません。まあ当然です。二部屋ほど空き部屋を挟んでいるとはいえ、二階には俊介君もいるのだから。さすがの叔父さんも来れるわけがありません。

 翌日の朝食後、俊介君が食卓を離れて自分の部屋に行くと、

「なんで来なかった」

と、叔父さんが睨んできます。

「ごめんなさい」

そうとしか言えませんでした。

「今度言うこと聞かなかったら追い出すからな」

追い出す、そればっかり。でも追い出されたら行くところがない。私には睨んでいる叔父さんに、小さく頷き返すことしかできませんでした。これで私も承諾したことになってしまった。

 朝食の片付けを終えた頃、俊介君が降りてきました。

「友達のとこ行ってくる。お昼いらないけど、小遣い頂戴」

そして叔父さんにそう言います。叔父さんは、またか、なんて言いながら、財布から五百円札を一枚出している。俊介君がそれを見てもう一枚と言う。私はそんな二人を残して自分の部屋に行きました。でも、五分もしないうちに叔父さんが部屋に来ました。

 初めて明るい光の中でしました。……もうどうでもいい。明日はクリスマス、そして二学期の終業式。




 昭和四十三年 一


 年が変わり松が明けた頃、叔母さんのお父さんが亡くなりました。遠縁と言うことで、これまで叔母さんの実家には行ったことがありませんでした。でもさすがに、葬儀などのために行きました。まだ新しい感じだけど、小さな家でした。ほんとに、娘夫婦に大きな家を渡して、老夫婦だけで住む家にしたようです。

 近くのお寺で執り行われたお通夜を手伝い、葬儀にも参列しました。叔母さんの実家は昔から地主の古い家。大きなお葬式になるかと思ったけれど、ほんの数人しか訪れない寂しいものでした。公民館の小さな一室で行った、私の両親の葬儀の方が参列者が多かったくらい。父の会社の方や、ご近所の方が沢山来てくれたから。逆に親戚は、今面倒を見てくれている叔父、叔母、の二人だけだったけど。

 父の肉親は弟だけでした。私の祖父母にあたる父の両親は、私がもっと幼いころに亡くなっていました。母はもともと東京の人。でもその一族は母が子供の頃に、戦争中の空襲で全員亡くなっています。愛知県東部の山の中に住む、遠縁の親戚の所に疎開していた母だけ生き残ったのです。なので葬儀に母の親戚は誰も来ませんでした。

 人が少ないので寒風が通り抜けていく中、長い長いお経を聞きながらそんなことを考えていて気付きました。両親の葬儀から、まだ一年経っていないんだと。去年の今日はまだ両親がいたんだ、楽しいお正月を過ごしたんだ、幸せな時間の中にいたんだ、と。この葬儀の故人とはほとんど関係のない、私一人が涙を流していました。


 叔母さんは母親一人になったのを案じて、度々実家に行くようになりました。でも、泊まりで行くようなことはもうありません。平日に行くことも多かったし。なので基本的には何事もない日々が続きました。基本的には、そう、叔父さんは異常な人です。全く何事もないわけがありません。

 休日に叔母さんが実家に行った日、俊介君が出掛けたりすると私の部屋に来ます。叔母さんが出掛けても俊介君が出掛けないと、お小遣いを渡して俊介君を遊びに行かせたりします。ほんとに異常な人。なので、その後も定期的に続きました。

 そのペースよりもっと間延びした間隔で、嫌なことも続けていました。それは嘘の作文。手紙の中の私には、幸せな生活を送らせていました。幸せな生活ならもっと頻繁に送らせてやりたいところですが、その嘘の手紙の返事を読む度に、胸が苦しくなるので出来ませんでした。そんな嫌で苦しいことならやめてしまえと言われるかも。でも、でもいつかきっと、幸せな時間がまた訪れる。その時はまた私自身が手紙の中に戻れる。もう一つの居場所の本当の住人に戻れる。その時までこの場所を手放したくない。ただただその思いだけで続けていました。


 新学期になってクラス替え。幸いなことに、二年の時に同じクラスだった子が少ないクラスでした。友達を遠ざけるようになる前に親しかった子は一人もいない。おかげで、最初から孤独に籠った私になれました。

 学校では平穏な日々が続いた一学期。夏休み間近に水泳の授業がありました。その日の放課後、クラスの女子の一人が私の傍に来ました。高校三年ともなると学校で禁止されていても、うっすらお化粧している女子がいます。彼女はその中でも、時々先生に注意されるくらいキレイにしている子でした。

「大西さん、ちょっと大西さんと話がしたいんだけど、一緒に帰らない?」

彼女は私のすぐ横でそう言いました。断る理由がなかったので頷きました。

 彼女は学校を出ると、駅とは違う方に歩き始めます。

「帰るんじゃないの?」

彼女に尋ねました。

「帰るよ。でも、他の人に聞かれたくないから、駅までちょっと遠回りしよ」

駅までの通学路は下校中の生徒が沢山います。確かに内緒話にはむいていません。でもなんで私と内緒話? さっきまで話したことないよね。そう思いましたが、しょうがないので先を歩く彼女を追いかけました。

 学校から少し離れたところで、彼女が歩調を落として私に並びました。そしてこう言ってきました。

「大西さん、彼氏いるの?」

はあ? 何でそんなこと聞くの? と言うか、今まで話したことのない私と、なんでそんな話をするの?

「いない、よ」

疑問は置いておいてそう答えました。

「ほんとに? 私はいるよ。だから正直に教えて」

「……ほんとにいない」

「うそ」

「ほんと、ほんとにいない」

彼女はしばらく黙った後、今度はこう言いました。

「そっか、前はいたけど、今はいないんだ」

意味が分からない。この子は何が言いたいんだろう。

「前にもいないよ」

「うそ」

また言われた。

「ほんと」

「う、そ」

「……」

もう返事しませんでした。するとしばらくして彼女がこう言います。

「まあ、彼氏がいるとかいたとかはとりあえずいいわ。大西さん、男の人としたことはあるでしょ?」

私の足が止まってしまいました。彼女も私の方を向いて立ち止まります。

「やっぱり」

そしてそう言いました。

「えっ、いえ、その、したって何を?」

とぼけて聞き返しました。すると、

「もう、とぼけないの、分かってるくせに」

そう言われました。なんで、何でそんなこと。と、混乱していました。すると彼女が続けます。

「今日、大西さんのおっぱい見た」

「……」

「男を知ってるおっぱいだった」

「……」

えっ? そんな、そんなこと、……分かるの?

「いやあ、まさかあんたがねぇ」

なんだか彼女の話し方が変わりました。

「ねえ、学校では化けてるわけ?」

「……」

私はいつの間にか俯いている。

「あんたって学校では学校一の陰気娘だもんね。陰気過ぎて、可愛いのに男子も近付かない。わざとやってるの? なんで?」

「あの、何のこと……」

手遅れだろうけど、顔を上げてそう言いました。

「もういいって」

やっぱり無駄だった。

「で、今、彼がいないって言うのは本当?」

「だから、今も前もいない。男の子と付き合ったことない」

これは嘘ではないけれど、少し俯き加減で答えました。すると、下から私の顔を覗くように彼女がこう言います。

「もう、いいって」

彼女は姿勢を戻すと続けます。

「言ったでしょ、私も彼がいるって。だから分かるの、男を知ってる身体かどうかくらい」

と言うことは、彼女も経験があるんだ。でもなんで私とそんな話をするわけ? ほんとに意味不明、不気味でした。

「あっ、まさか」

彼女が少し大きな声でそう言いました。その声に顔を上げました。顔を上げて目が合った私に彼女が言います。

「ひょっとして、ああいうことする仕事してる?」

なんてこと言われるんだろう。

「そんなわけないでしょ」

咄嗟に言い返してました。私もちょっと声が大きくなったので彼女が引きました。

「まあそうだよね」

そしてそう言います。

「……」

私は反応しませんでした。

「でも、男は知ってるでしょ?」

「……」

「もういい加減にして。男としたことあるでしょ?」

彼女の言葉にイラつきが混ざっていました。

「……」

私はまた無言で返しましたが、小さく頷きました。

「やっぱり、さっさと言ってよ。時間が無駄じゃない」

「……」

こんなこと、あっさり認められるわけないでしょ。そう思っていたら、彼女がまた歩き始めます。しょうがないのでついて歩きます。もうこうなったら、彼女がこんな話をしてきた理由を知るまで私も終われない。

 私がすぐ後ろに追いつくと、彼女がまた聞いてきます。

「今は相手がいないってのは? うそ? ほんと?」

「ほんと」

「今は誰とも付き合ってないってことでいい?」

「うん」

「そっか、丁度いい」

何がいいの? 彼女が続けます。

「私の彼ね、同い年なの」

「……」

「でね、彼には小学校からの親友がいるんだけど」

「……」

だから何なの? と思っていたら、彼女が立ち止まって振り向きました。距離が近かったのでぶつかりそうになりました。なんとか止まって顔を上げたら目の前に彼女の顔。

「ごめん、大丈夫?」

体勢を崩した私に彼女がそう言います。

「大丈夫」

そう返すと少し体を離して彼女が続けました。

「えっと、ああ、その彼の親友、まだ経験ないんだって」

「……」

「でね、高校のうちに経験したいって言ってるらしいの」

なんだかもう想像出来ました、このあとのセリフが。

「大西さん、その子の筆おろしの相手してやってくれない?」

やっぱり、とんでもないこと言い出した。

「いいでしょ? 大西さんは初めてじゃないんだから」

そういう問題か!

「その子、違う高校だから大西さんが暗い子だって知らないから、大西さんで大丈夫。大西さん可愛いから、絶対その子も気に入るから」

「……」

いろいろまくし立ててくれるけど、私はもう何も聞きたくない。

「それに大西さんも気に入ったら、そのまま付き合っちゃえばいいんだから」

「……」

「あっ、もちろん気に入らなかったら一回やるだけでいいから。ね、それなら構わないでしょ? どう?」

なにが、どう? なの。呆れる。こんなこと言う子が本当にいるんだ。

 黙っていたら彼女の猫なで声が変わりました。

「ねえ、ずっと黙ってるけどなんか言ってよ」

「……」

「どうなのよ」

「どうって、そんなこと出来るわけないでしょ」

しょうがないので返事しました。

「なんで?」

「なんでって、当然でしょ?」

「そう? 経験あるんでしょ? なら一回くらいいいでしょ」

あのねぇ……、どういう神経してるんだろ。

「その子、結構いい男よ。彼の友達じゃなかったら、私が初めての相手になりたいくらい」

バカ女。もう付き合ってられない。

「ごめん、私にはそんなこと出来ないから」

そう言って私は来た道を戻りました。

「ちょっと、大西さん、なんで? ダメなの?」

彼女が後ろからそう言ってきます。

「ダメ、ごめんね」

私はもう一度だけ振り返ってそう言いました。そしてまた歩き始めました。もう何を言われても振り返りませんでした。


 翌日、クラス内で私のことを囁き合っている気がしました。何を囁いているのかまでは分かりません。まさか、あの子が何か言った? でも、あの子があの話をしたのであればもっと騒ぎになるはず。なにせみんな、ああいう話に興味津々の年頃だから。

 さらに翌日、囁きは噂話になっていました。噂話になるとさすがに私にも聞こえてきます。私は風俗店で働いている。売春をしている。そんな内容でした。やっぱりあの子が何か言ったんだ。みんなの視線が集まるのは耐え難いけれど、まだ小さな噂話でした。

 そしてその次の日、噂話の音量が昨日より大きくなっています。なみちゃんの時も思ったけれど、みんなこの手の話が大好物みたい。でもまずいです。これだけ音量が大きくなると先生の耳にも入ってしまう。事実無根だけど、そうなると厄介なことになりそうな気がします。私は静かに卒業したいだけなのに。そう、私の望みはそれだけ。卒業して、仕事を見つけてあの家を出る。そして一人で暮らしていく、ただそれだけ。

 そして翌日は終業式、一学期の終わりです。通っているのは一応、進学校です。高校三年生の夏は受験勉強。みんなが長い夏休みの間に忘れてくれることを祈ります。




 夏休みに入って数日した頃から、俊介君が夜中まで出歩くようになりました。すでに二度、朝まで帰って来なかったこともあります。彼は中学三年生になったこの春から、悪い友達が出来たようです。少し不良っぽくなりました。そして何となくですが、お金をたかられているような気もします。心配です。

 でも人の心配をしている場合ではありませんでした。叔父さんの異常な行動はエスカレート。叔母さんが実家に行っている平日、俊介君が出歩いているのをいいことに、時々昼間に帰ってくるようになりました。当然私の部屋に来ます。でも何もしません。私を引っ張っていきます、自分の部屋に。私の部屋は暑いので、クーラーのある自分の部屋でするのです。まあ、私もおじさんの汗まみれになりたくないのでその方がいいんだけど。でも、もういい加減にして。

 夏休みに入ってから奇妙なことがあります。体を触られている感じがして、夜中に目が覚めるのです。目が覚めると誰もいません。でも人がいた気配はあります。まさか叔父さん? と、思いましたが、それは本当にまさか。叔父さんなら触るだけで済まない。私が気付いて起きてもお構いなしでしょう。それに、俊介君がいつ帰ってくるのか分からないのに、叔母さんもいる家の中でするわけがない。なら何なのか、私の勘違い? いえ、俊介君の仕業です。何回目かの時、襖をそっと閉めて出て行く俊介君を見たから。女の子の身体に興味があるのでしょう。しょうがないことかも知れないけれど、何とかしなければ。なんとかできるのかな?


 お盆の頃から叔母さんが連日実家に行くようになりました。お母さんが夏バテで参っている様子。夕方には戻ってきますが、日中はずっといません。で、今週、月曜日から今日、金曜日まで、叔父さんが五日続けて昼間に帰ってきました。やることもどんどんしつこくなってくる。ほんとにもういい加減にして欲しい、疲れました。

 本当に疲れていたようで熟睡していました。だからでしょう、俊介君は夢中で私の胸を触り続けていました。私は目覚めたのに気付かれないようにして、されるがままでいました。俊介君の顔が近付いてきたのが分かりました。チュウされるな、と思った瞬間、唇が触れました。それでも私は反応しない。チュウされて反応しないでいられるなんて、私はもう普通の女の子じゃないな。

 されるがままでいるうちに、悪い考えが浮かんできました。俊介君をいたぶってやろう。俊介君で叔父さんに仕返ししてやろう。自分が散々汚した私が、大事な息子の初めての相手になったらどう思うだろう。それも、自分が汚したその日の夜にその体で。ショックを受けるに違いない。そんなことを考える私はもう、普通じゃないなんてレベルではなく異常だ。


 唇を離した俊介君が、今度は左手で私のパジャマの上着の裾をつまみ上げます。恐る恐るそっとした動きで。そして右手をパジャマの中にそろそろと入れてきます。胸に触れる、その瞬間に俊介君の腕を掴みました。振りほどいて逃げようとする俊介君の腕を強く握る。そして、

「シー、静かにして」

と、小声で言いました。俊介君の腕から力が抜けました。

「座って」

優しく小声で言いました。畳の上にペタンと座り込む俊介君。そして俯いて、

「ごめんなさい」

と、小声で言います。

「怒ってないから」

そう言うとゆっくり顔を上げます。でも、目が合うとまた俯きます。

「女の子の身体に興味があるんだよね」

首を左右に振ります。私は布団の上に座ったまま身体をずらして、少し俊介君に近付きました。

「おっぱい見たい?」

そしてそう聞きました。また首を振ります。私は無視してこう言いました。

「いいよ、ちょっと待ってね」

そしてパジャマの上着のボタンに手を掛けて外していきます。外しながら俊介君を窺うと、上目遣いにしっかり私を見ていました。ボタンをすべて外し終えて上着を脱ぐ、その瞬間、やっぱり少し恥ずかしかったです。でも、サッと背中の方に上着を落としました。後ろに落とした上着から腕を抜いて、なんとなく掌で胸を隠してしまう。

「うふ、やっぱりちょっと恥ずかしい」

小声でそう言いました。俊介君が私の言葉にコクコクと頷きます。どういう意味だろ。私は胸を隠すのをやめて俊介君の手を取りました。そして自分の方にその手を引きながら、

「もっと近くで見ていいよ」

と言います。俊介君は遠慮がちに近付いてきます。でも、目は私の胸に釘付けでした。

 瞬きどころか呼吸さえしていないような俊介君。じっと私の胸を見ています。ゆっくりと頭が私の胸に近付いてきます。多分夢中になっていて気付いていないでしょう。俊介君の顔がだいぶ近付いたところでこう言いました。

「触ってもいいよ」

頭がすっと離れました。

「いや、いいよ」

そしてそう言いました。

「ほんとに?」

「うん」

「今じゃないともう触らせてあげないよ」

私の顔に向いていた目線が下がりました。そして、

「じゃあ」

と言います。最近悪ぶっていたけど、なんだかかわいい。私は体を、胸を、もう少し俊介君の方に寄せました。するとゆっくり俊介君の手が伸びてきます。そして触れました。

 触られています、ものすごく触られています。俊介君は夢中になっている。

「や、やわらかいね」

照れ隠しのようにそう言ってきます。

「そう?」

「うん」

「気持ちいい?」

「う、うん、いい感じ」

興奮しているのか、俊介君の声が普通の音量でした。

「シッ、小さな声で」

「ご、ごめん」

小声でそう言うけれど息が荒い。でも、興奮しているのは私も同じ。私は本当に異常になってしまいました。なぜなら、もう全部脱いでしまいたくなっていたから。

 俊介君が私の胸に口を付ける。こら、そんなことしていいって言ってないぞ。と思いながらされるがままにしていました。でも私が限界。

「ねえ、下は見たくない?」

そう言うと、俊介君の頭が離れました、手は離れないけど。俊介君が大きく開いた目で私を見ています。でも何も言いません。

「素直に見たいって言ったら見せてあげる」

「み、見たい」

すぐに返ってきました。

「分かった」

私は腰を浮かせて、パジャマのズボンと一緒に下着も脱ぎました。そして、三角座りで俊介君と向き合ってから後ろに手をついて体を少し後ろに倒しました。そして少しだけ足を開きます。なんだか本当に恥ずかしい格好。

「ごめん、これ以上は自分では恥ずかしい」

正直にそう言いました。俊介君が座ったままギリギリまで近付いてきます。

「ほんとにいいの?」

「いいよ」

すぐに両膝に俊介君の手が。そして開かれる。顔が近付いてくる、息が掛かるほど。

「ぬ、ぬれ……」

「そう言うものなの」

恥ずかしくて遮りました。

「そ、そうなんだ」

俊介君のその言葉と同時に触られました。触っていいなんて言ってないのに。俊介君が大胆になってきている。

 そのうち俊介君の手と頭がまた胸に上がってきました。私はもう仰向けに寝転んでいます。そして、ほんとにもう限界。俊介君の頭を自分の顔の位置に引き上げ、唇を重ねました。

 とっても濃いいチュウでした。俊介君も私を求めてくる。俊介君の口の中を舐めてやりました。一瞬驚いたように口を離しましたが、すぐにやり返されました。初めて叔父さんにされた時は気持ち悪くて吐いちゃったけど、あれは嫌々だった所に襲ってきた、強烈な快感に驚いただけだったかも。だって、嫌々ではない俊介君は夢中になって受け入れている。俊介君は興奮しすぎて力加減が出来なくなっているみたい。彼が掴んでいる左胸が痛くなってきました。


 しばらく求め合ってから私は口を離しました。そして、

「続きは、……シュンちゃんも脱いでから」

と言いながら、パジャマの上から俊介君の股間をパッと握りました。すると、ビクッと反応する俊介君。そして腰を引き、体を離し、股間を抑えながら立ち上がります。表情も何だか変です。ひょっとして痛かった? 

「大丈夫?」

思わずそう聞いてました。

「い、いや、その、ご、ごめんなさい」

俊介君はそう言うと襖に駆け寄り、開けるなり飛び出していきました。廊下で何かが割れる大きな音がします。廊下の途中の花瓶台に、花を生けた花瓶があります。叔母さんが置いているもの。それを倒したのでしょう。あ~あ、寝る前にキレイに片付けなきゃ。私は呑気でした。花瓶の割れる音に俊介君の様子が急におかしくなったことも忘れて、そんなことを思っていました。でもこれが、私に最悪の結果が降りかかる原因となりました。自業自得かもしれないけれど。


 俊介君が部屋を飛び出した後、私はのんびりと脱いだパジャマや下着を暗い部屋の中で探していました。さっと見て見つからなかったパジャマのズボンは、タオルケットに包まれていました。そのズボンから一緒に脱いだ下着を抜き出して履こうとしていました。そんなときに廊下から叔母さんの声が。花瓶の割れる音で起きて来たのでしょう。

「ちょっと何これ、しーちゃん、何があったの? 俊介も慌ててたけど」

まずい、早くパジャマを着なきゃ、と、廊下のある襖の方を見たら、襖は開いたままでした。そして、既にそこに叔母さんがいました。

「ちょっと、あんた何それ」

叔母さんが私の姿を見て、そう言いながら部屋に入ってきました。そして電灯から下がる紐を引きます。部屋が明るくなりました。

「あ、あんたなんて格好……、あんた、まさか」

私は下着だけ履いて、パジャマのズボンで身体の正面を隠しているだけの格好でした。そして、言い訳が思いつかない。泣きそうな思いで叔母さんの顔を見るだけでした。

「ここに俊介もいたの?」

叔母さんが怖い声でそう聞いてきます。

「いえ、あの……」

「正直に言いなさい」

「その、……」

パンッ、と音がして左頬が熱く、痛くなりました。叔母さんに叩かれました。いつも優しかった叔母さん。ほんとの娘のように私を可愛がってくれた叔母さん。その叔母さんが、本当に怖い顔で私を睨んでいる。

「もう一回聞くわよ、俊介もいたの?」

「……はい」

叔母さんが黙って睨み続けています。そしてまた口を開きます。

「それで、こんな時間に、そんな格好で何してたの?」

「いえ、その、……」

「あんた、私が来た時パンツ履いてるところだったわよね、素っ裸だったの?」

そこから見られてたんだ。何も言えませんでした。

「素っ裸で何やってたの、言いなさい」

叔母さんの声がヒステリックになりました。

「その、……」

「なに、言えないようなことやってたの?」

「ごめんなさい」

やっと言葉が出ました。でも、同時にまた頬が痛みます。叔母さんが何度も右手を振り上げて、私の頬や頭を叩いてきます、こう言いながら。

「あんたは何やってんのよ、ほんとに、私は、あんたが、あんたが、もうほんとに、なんてことを」

叔母さんは泣いているようにも見えました。私は叔母さんの手を、手で防ぎながら畳に跪いていました。

 叔母さんは私の頭を叩くのをやめるとしばらく無言でした。息を整えているみたいです。私は叔母さんの足元しか見ていませんでした。そして次に何を言われるのか、次はどのくらい叩かれるのか、そんなことを考えて怯えていました。

 叔母さんの足が動きました。私から離れます、整理ダンスの所に行ったようです。たんすの引き出しを開ける音がします。私は同じ姿勢のままでいたので、叔母さんが何をしているのかは分かりません。

 やがて何かをぶつけられました。

「それ着なさい」

そして叔母さんの声。私にぶつかって横に落ちたのはTシャツとブラでした。私はブラを手に取って身に付けながら叔母さんを見ました。すると別の引き出しから取り出したジーパンを投げつけてきました。最近は女の子も履くんでしょ? と言って、ついこの前買ってくれたものです。

「それも」

そしてそう言います。叔母さんはその後押入を開けました。そして学校のボストンバッグを取り出します。ボストンバッグは使っていないので空です。その空のバッグに整理ダンスから私の私服を詰め込んでいきます。私は服を着ながらそれを見ていました。

 叔母さんが私の服をバッグに詰めながら口を開きます。

「私はあんたのことほんとに……、情けない。もう、なんでこんなこと、ほんとに」

叔母さんが苦しそうに言ってるのが分かって、私の心も苦しくなりました。本当に悪いことをしたんだと反省して、後悔していました。叔母さんの言葉は続きます。

「でもダメ、これだけはダメ、許せない、ほんとにダメなの、許すわけにいかないの」

 叔母さんはボストンバッグに私の服を詰め終えると、

「財布は? 財布持ちなさい」

と言います。私は座敷机の上に置いていた財布を手に取りました。すると叔母さんは右手にボストンバッグを持ち、左手で私の右手首を掴んで引っ張りながら部屋を出ます。叔母さんに手を引かれたまま階段を下りて玄関へ。途中の居間に叔父さんがいましたが、立ちつくして見ているだけでした。俊介君の姿はありません、自分の部屋かな。

 玄関に来ると叔母さんは私の手を離し、裸足のまま土間に下りて引き戸を開けます。そして右手のボストンバッグを外に放り投げます。私は次に叔母さんが何をするのかもう分っていました。叔母さんは戻ってくると今度は両手で私の腕を掴んで、私を玄関の外に連れ出します。引かれるまま、私も裸足でボストンバッグが落ちているところまで出ました。叔母さんは玄関に戻ります。そして下駄箱から私の靴を出すと、私の方に放り投げてきました。そのあとこう言います。

「ちょっとそこで待ってなさい」

私は靴も履かずに立っていました。ただ立っていましたが、なぜか涙が流れていました。叔母さんが戻ってきました。裸足で私の所まで来ます、手に自分の財布を持って。私の前まで来ると手に持った財布を開けて、お札を全部抜いて私に差し出します。

「これ持って行きなさい」

そしてそう言いました。その時私の顔を見て、私が涙を流しているのを見て、少し表情が崩れました。でもすぐに怖い顔に戻りこう言いました。

「ごめんなさい、もうあんたをこの家に置いておくわけにはいかないの。あんなことするなんて、絶対にダメ、許せない。あんたのことはほんとに娘だと思っていたのに、私は娘が出来たと思って嬉しかったのに、裏切るなんて。もうダメ、ダメダメ。俊介を守るためにはこうするしかないの。だからお願い、出て行って。これからは好きなところで好きなことしなさい」

言い終えた叔母さんはしばらく私を見ていました。でもやがて背を向けて戸口へ向かいます。私は何も言えずその姿を見ていました。引き戸の中に入った叔母さんが一度振り返って私を見ました。でもすぐに戸は閉まり、鍵の掛かる音がしました。

 私はしばらく、閉まった玄関を見つめていました。そして涙が止まっているのに気付いた時、もう出て行くしかないんだと覚悟しました。すると、

「ありがとうございました。お世話になりました」

と、勝手に口から言葉が出ていました。

 その後裸足のまま靴を履いて、叔母さんに手渡されたお金を財布に入れました。一万九千円もありました。と、財布の中に家の鍵があることに気付きました。そっと玄関に近付き、新聞の投入口から鍵を中に落としました。そして玄関を離れました。離れて行くときに、元気でね、と、叔母さんの声で聞こえた気がしました。でも振り返らずボストンバッグの所まで行き、バッグを拾うとそのまま家から離れました。

 夏の朝は早いです。東の空がうっすら白み始めていました。




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