最後の手紙

ゆたかひろ

序章


 はじめに

このお話はフィクションです。登場人物、地名、組織名、施設名、商品名などを含め、設定まですべて架空のものです。実在するものや、実在したものと同じ名称や物事が出てきますが、すべて現実のものとは無関係です。




 昭和三十八年


 二学期が始まった週の金曜日、学校から家に帰ると、

「おかえり、これあんたに」

と言って、母が封筒を差し出して来ました。普通の封書サイズの封筒より一回り大きな封筒、不思議な思いで受け取りました。何だろう? そう思いながら裏の差出人を見ると知らない名前。でも驚きがありました、差出人の住所には覚えがあったから。

 とある雑誌の、文通希望者を引き合わせる欄で見つけた大学生のコメント。文芸誌の読者とは思えないC調な言葉に新鮮さを感じました。そして中学生が主人公の物語を作りたいと言って、その年代の人との文通を希望している。私は中学一年生、条件は当てはまる。コメントの新鮮さに何か新しい世界が広がりそうな期待をしました。まだ十三歳の身で行き詰っていることなんてあるわけありませんが、なんだかそんな気分で手紙を書こうと思いました。でも二週間、何もできませんでした。相手は大学生の男の人、女子中学生にしたらそんな人との交流なんて大冒険。文通とは言え、そう思って躊躇っていました。

 夏休みが終わる頃、踏ん切りがつかないまま雑誌をめくっていました。そして再び目についた、俺のビタミンになってくれ! って、乱暴な言葉に背中を押されてペンを取りました。中学入学のお祝いにおじいちゃんがくれた万年筆、初めて使いました。そして書き上げた手紙を送った先が、大阪府豊中市……、その住所でした。

 でも私が手紙を送った相手の名前は大河原秀英さん。今手元にある封筒の差出人は違う名前です。大河原ってのはひょっとしたらペンネーム? そっか、これが本名なんだ。そして何となく重みを感じる大き目の封筒。まさか、小説に協力したいと書いた私の手紙を読んで、書きかけの原稿でも送ってくれたのかも。慌てて封筒を開けようとして思いとどまります。大切な初めての手紙、はさみで切ってきれいに開封しよう。

 電話台の引き出しに入っているはさみを取りに行こうと思ったら、目の前の座卓の上に母の裁縫用のはさみがありました。それを手に取って、

「お母さん、はさみ借りるよ」

と、台所の母に声を掛けました。すると振り向いた母に、

「こら、ラシャ切狭で紙切ったらダメっていつも言ってるでしょ」

と、怒られました。そうだった、これは布を切るはさみ。布以外のものを切ると布が切れなくなるといつも怒られます。ほんとにそうなの? と思いますが、母が怒るのでやめます。

「ごめんなさい」

そう言って電話台の方に行きかけると、

「あんた帰って来て手も洗ってないでしょ。それに、皺になるから制服はすぐに着替えなさいって言ってるでしょ」

と、母が続けて小言を言ってきます。

「はーい、ごめんなさい」

私は隣の部屋に向かいました。

 隣の部屋と言ってもふすまで仕切られた四畳半の部屋。うちは玄関から入ってガラス障子を開けると、いきなりさっきの六畳間。そしてその奥は部屋に付け足されたような台所。玄関から六畳間に入って左側がふすま。その先がこの四畳半の部屋です。この四畳半に入って正面奥はふすまで、そこは押し入れ。右奥に扉があり、そこを入ると狭い洗面所とトイレ、お風呂場があります。台所と並ぶ位置です。押し入れの向こうは隣の家。左右逆の間取りでくっついています。もっと言うと、同じ間取りで二階があります。うちは四戸一と呼ばれる一軒家の借家です。この六畳と四畳半、二間の家で両親と私の三人で暮らしています。

 私は手早く着替えを済ませて洗面所へ。手を洗った後、濡れた手のまま四畳半の部屋に戻ります。そしてハンガーに吊った制服のスカートのプリーツの皺に濡れた手を押し当てる。手の水分がなくなったら終了。皺を取っているのか手を拭いているのか分からない感じだけど。それから六畳間の座卓に戻りました。

 玄関脇の電話台からはさみを取り出して、座卓で封筒の封を切ろうとしていたら母が来ました。自分の裁縫道具を広げたあたりに座りながらこう聞いてきます。

「それ何なの?」

どう答えようかな。大学生の男の人からの手紙だと言ったらなんて言うかな? ちょっと怖い、怒られるかも。でもこれから文通が始まるんだとしたら、定期的にこうやって手紙が届くことになる。ごまかしてもしょうがないよね。

「文通始めたの」

なのでそう言いました。

「えっ、誰と?」

やっぱりそう聞いてくるよね。うーん、本当のこと言ったら、だめって言うかな? と、悩んでいたら思いつきました。

「知らない」

「知らないって、誰か分からない人と文通するの?」

「文通ってそう言うものじゃないの?」

母の目を見て普通に聞き返してやりました。私を見る母の目が少し大きくなる。

「そっか、そうかもね。文だけの間柄とかって言うものね」

そしてそう言ってくれる。やった、うまくいった。と、内心喜んでいたら、

「でも、どこでそう言う相手と知り合うの?」

母が続けて聞いてきました。う、う、う、何も思いつかない。

「『文学の門』の文通コーナーで見つけたの」

正直に文芸誌の名前を出して答えました。

「雑誌で?」

「うん」

母が私の手の封筒を見ています。

「そっか、じゃあ、本の話題で文通するの?」

やがてまたそう聞いてきます。

「うん、そのつもり」

「いろんな本の話、教えてもらえるといいね」

そしてそう言ってくれる。

「うん」

 私は返事してから封筒にはさみを入れました。封を切り終わると母が身を乗り出して覗いてきます。

「ちょっと見ないでよ」

思わずそう言ってしまいました。

「なんで、いいじゃない」

「だめ、手紙は個人のものなんだから」

「今回だけよ、最初なんでしょ? どういう手紙書く人かだけ知っときたいから」

ずるい、親にそう言われたら拒めないじゃない。

「わかった。でもほんとに今回だけだよ」

「分かってる。約束するから」

「それと、最初は私が一人で読むから、お母さんは後だよ」

「はいはい」

母はそう言うと身を引きました。そして裁縫道具を片付け始めます。

 封を切った封筒を逆さにしました。中から封筒が出てきました。私が送った封筒でした。封も切られておらず出した時のままでした。なんで送り返されてきたの? それも読みもせずに。封筒の中身はそれだけかと確認すると、中に貼り付くように便せんが二枚ありました。慌てて取り出し開きました、母に文面が見えないように。一枚は白紙。そして文章が書いてある方を読んで、なんだかがっかり、いえ、脱力したって感じかな。そんな私の様子を見て母が口を開きます。

「それ、あんたが出した封筒? 戻ってきたの?」

「うん」

「どうして? 手紙はなんて書いてあるの?」

落胆したような私の様子を見て、母の口調は気遣うようなものでした。私は便せんを母の前に広げました。教科書のような整ったきれいな文字を母が読み始めます。


『前略、大西静様

 あなたが手紙を差し出された大河原さんは

 うちに下宿されていましたが急に転居されました。

 お盆過ぎの頃です。

 転居先をお聞きしましたが、

 友人宅にお世話になるとのことで、

 詳しい住所は教えていただけませんでした。

 故に、このお手紙を転送させていただくことが

 出来ませんでした。

 こちらの不手際で大変申し訳ございません。

 取り急ぎご返送させていただきます。

                    草々

 昭和三十八年九月三日』


 読み終えた母が私を見ました。

「残念ね」

そして一言。

「うん」

暗めにそう返した私に母が続けて言います。

「急に転居したってどういうことかしらね」

「……」

黙っていたらまた母が口を開きます。

「でも、その人とは文通しなくて良かったんじゃないの?」

「……なんで?」

また暗い声になってしまいました。別に大河原さんに手紙が届かなかったことに落ち込んでいたわけではありません。何しろ文通が始まる前だから、大河原さんがどういう人なのかも知らない状態だし。でも二週間悩んで始める決心をして、勇気を出して書いた手紙が届かなかった、読んでもらえなかった。そのことには落ち込んでいました。

「なんでって、わかんない?」

母が逆に聞いてきます。

「……」

「雑誌に住所載せといて引っ越すって、お母さんから見たら不誠実な人だなって思っちゃう」

「そうなんだ」

「何か事情があったのかも知れないけどね。でも下宿先の大家さんに転居先を言わないって言うのもね、こうやって迷惑かけてるわけだし。それに下宿していたんなら住所に何々様方って書くのが常識。そうじゃなかったんでしょ?」

私が出して戻ってきた封筒の、宛名書きの方を私に見せて母がそう言います。

「うん」

頷いた私を見て母が言います。

「このくらいのことで決めつけたらいけないかもしれないけれど、この大河原さんって方はちょっと常識的な方ではなかったのかも。だからお母さんはこの方としーちゃん(静って名前の私のことを、両親含めてこう呼ぶ人が多いです)が文通できなくて良かったと思うわよ」

そう言われたらそうなのかも。確かに文通希望のコメントも軽薄だった。それに新鮮さを感じたんだけど。

「そうだよね」

「うん、そう思う。ま、もっといい人いるって、文通相手」

母はそう言いながら、裁縫道具を入れたかごを押し入れに片付けに行きます。

「ううん、どうしても文通したかったわけじゃないから、もういい」

「なあにそれ、変な子」

「なんか一度文通してみたいなって思っただけ」

「ふうん」

戻って来て台所に向かう母がそう微笑む。

「いいでしょ、ちょっと文通って言うのに憧れただけだから」

「はいはい」

母はエプロンをして流しの方に向いてしまいました。

 私は座卓の上の便せんを手に取ってもう一度読んでいました。本当にきれいで不思議な文字。女性的な細い感じも、男性的な力強い感じもしない。男性、女性、どっちだろ。いまさら疑問に思って、送られてきた封筒の差出人の名前を改めて見ました。

「そうだ、その返送してくださった方にはちゃんとお礼の手紙書きなさいよ」

封筒の裏を見ていた私に母が振り返ってそう言います。

「うん、わかった」

差出人の名前は、江戸時代の人? 男の人の名前でした。


 父はいつも帰りが遅い。私が寝てから帰ってくることもしばしば。なので夕食はいつも母と二人です。その夕食後、母を手伝って後片付けを終えてから、四畳半の部屋にある私の勉強用の座敷机につきました。

 六畳間の玄関横からこの部屋までの玄関側には縁側があります。大人は体を少し斜めにしないと歩けないほどの狭い通路ですが、うちでは縁側と呼んでいます。その縁側の外側のガラス障子が開け放たれています。いえ、網戸の付いていない玄関以外はすべて全開です。夏はそうやって風を通さないと暑くていられません。それでも暑いですけどね。扇風機はまだ台所で何かやっている母の所にあります。でもさすがに外の風から熱気は失われ、涼しい感じがする時間になりました。

 宿題は夕食までに済ませてあったので、勉強するわけではありません。さっき母に言われたお礼の手紙を書こうと思ったのです。でも文面が……。手紙を返送してくださってありがとうございました。ご迷惑おかけしました。これくらいしか思い浮かばない。これならハガキで十分? なんて思っていたら、

「涼しくなってきたわね。もう汗かかないでしょ、そろそろお風呂沸かそうか」

と、母が扇風機を私の傍に置くと風をこちらに送ってくれます。そして風呂場に向かいます。その背に、

「お母さん、さっきの返事だけど、何て書けばいいと思う?」

と、声を掛けました。母が洗面所への扉前で振り返ります。

「う~ん、引っ越したって知らずに送ってしまってごめんなさい、とか、返送していただいてありがとうございます、とか、そう言うことが伝わればいいんじゃない?」

「そっか、送っちゃってごめんなさいも書かないといけないか……」

返送してもらった感謝のことしか頭になかった私は、母の言葉を聞いて独り言のようにそう言ってました。

「そりゃそうでしょ、ご迷惑、と言うか、お手数おかけしたんだから。手紙の返送だけじゃなくてね」

「え?」

「転居先に転送できなかったのは自分のせい、申し訳ないとかって書いてあったでしょ? そう言う方なら、思いつく限り転居先を聞いて回ってくださったでしょうから」

「そっか」

「それと、大事な手紙を自分が転送できなかったせいで届かなかったって思ってらっしゃるかもしれないから、そんな重要な内容じゃなかったから気にしないでください、って感じのことも書いてあげた方がいいんじゃないかな」

「わかった」

私がそう言うと母は微笑んでから風呂場へ行きました。母に聞いてよかった。思った以上にちゃんと考えて書かなければ。

 縁側の突き当りに置いてある小さな整理ダンスの所へ行きました。そして一番下の引き出しからメモ紙を数枚取り出しました、手紙の下書き用に。メモ紙と言っても裏が白紙のチラシや、めくり取ったカレンダーの裏です。うちではそう言うものをその引き出しに溜めてあります。

 最初に大河原さんに宛てて書いた手紙は、はじめまして、私は……、って書き出しでした。でも返送してくださった方の手紙の冒頭、前略、と言う文字を見て、そうだ、手紙ってこういう書き出しだ、と思いました。そして真似ることにしましたが、前略? 違うよね、拝啓、じゃなかったっけ? と、中途半端に思い出してしまいました。拝啓って漢字に自信がなく辞書で調べましたが、漢字だけ見て読まずに閉じちゃいました。どっちでも同じって思ってたから。そして同じなら拝啓の方が大人っぽいと感じました。と言うわけで、拝啓で書き始めました。

 母が風呂場の方から戻ってきました。浴槽に水を張り終えて、風呂釜に火をつけてきたのでしょう。母はそのまま六畳間に行ってテレビをつけます。チャンネルをガチャガチャと回した後、テレビの上のアンテナを触って映り具合を調整しています。うちのテレビはチャンネル三つしか見れません。私はそれが普通だと思っていました。でも友達の話を聞いていると、よその家では五つくらいのチャンネルが見れるようです。両親にその話をすると、家の上に大きなアンテナを付ければ見れると言います。なんで付けないの? って聞いたら、この家は大家さんのものだから勝手に付けれないって言われました。なので私は友達がよく話題にしている、今年から始まったテレビマンガが見れません。

 書いては消してを繰り返したのち、なんとか下書きが終わりました。それを読み返していたら、お風呂場の方からゴロゴロいう音が聞こえてきました。風呂釜の音です。この音が鳴り出したら浴槽の中の上の方が熱いお湯になったと言うことです。そう、上の方だけ、下の方はまだ冷たい水です。浴槽の中をかき混ぜると、冬場ならまだ入れないほどのぬるいお湯になってしまいます。ちょうどいい湯加減になるまで何度かかき混ぜに行かなければなりません。でも夏場は混ぜに行かなくても二、三度ゴロゴロを聞いたらそれで充分です。

「お風呂沸いたね。先に入りなさい」

ゴロゴロを聞いた母が私の方に振り返ってそう言ってきました。

「はーい」

ちょうど下書きは終わったタイミングだったので素直に返事しました。


 お風呂上り、扇風機の前にしゃがんで風にあたっていました。扇風機の動きに合わせてカニさん歩きしながら。お風呂に入るとやっぱり暑いです。拭いても拭いても汗が出てきます。するとテレビを見ていた母が振り返るなり立ち上がって四畳半の方に来ます。

「あんたはまたそんな格好で」

そしてそう言いながら四畳半側の縁側のカーテンを閉めます。

「家の中は明るいから外から丸見えなのよ」

また怒られました。でも、汗が出なくなるまでなにも着たくないんだもん。私は何も言わず、母の方も見ない。去年まではそんなに言われなかったのに、この夏は同じことをほとんど毎日言われているような気がする。

「中学生になったんだから少しは恥じらいなさいって何度言わすの」

何度だろ? 暑くなってからほとんど毎日だから、もう百回くらい言ってるんじゃないの? なんて思いながら手を上げて脇の下に風をあてました。すると、

「ん? ちょっとおっぱい出て来たんじゃない?」

と、母が私の胸を覗き込むように言ってきます。慌てて両手で胸を隠しました。

「ちょっと、隠さないでもう一回見せて」

「やめてよ、やらしー」

「いいじゃない、別に」

そう言う母の視線から胸を隠しながら気づきました、そう言われたら膨らんでるかも。恥ずかしいって気になりました。母が私の横にしゃがんで笑顔で言います。

「ほら、ブラジャー買わなきゃいけないかどうか見てあげるから、見せなさい」

ブ、ブラジャー! 私が? ほんとに恥ずかしくなりました。

「な、なに言ってんの、まだいらないよ」

そう言いながら用意していた下着とパジャマをどこに置いたか確認しました。洗面所への戸口前に発見。さっと動いてパンツより先にパジャマの上を着ました。

「うん、まだよさそうね」

そんな私の方を見ながら母がそう言います。

「だからいらないって」

「でも、もう少し大きくなったら着けなきゃね」

「いいよ、ブラジャーなんて恥ずかしいから」

「何言ってんの、大きくなって着けてなかったらもっと恥ずかしいわよ」

「なんで?」

パジャマを着終えた私は少しだけ不機嫌声でそう聞きました。もうこの話はやめたい。

「男の子たちにじろじろ見られるわよ」

そう言う母の言葉が分からない。クラスに何人かもう付けてる子がいるけど、じろじろ見られているのはその子たちの方。夏の制服はカッターシャツ。ブラジャーをつけていたらすぐにわかる。なのでその子たちは男子たちの視線にさらされている。恥ずかしい思いをしているのはその子たちの方だ。


 母がお風呂に入ってから手紙を清書しました。


『拝啓、大河原さん宛ての手紙を返送して頂き、ありがとうございました。そして、大河原さんが引っ越していると知らずに送ってしまいすみませんでした。大河原さんに手紙を送ったのは、文学の門と言う雑誌の文通希望の所で見つけたからです。大河原さんは中学生が主人公の小説を書こうとしていて、中学生との文通を希望していました。私は中学一年なので、文通の相手にしてもらえると思って書いた手紙でした。だから重要な手紙ではありませんでした。いろいろとお手数をおかけしてすみませんでした。   草々

昭和三十八年九月六日』


うん、いい感じ。最初の手紙はわけもわからず書いたから、拝啓とかも付けなかったし、日付も書いてなかった。なんだか大人の手紙を書いた気分でした。

 テレビをなんとなく見ていたら、母がお風呂から上がってきました。暑い、と言いながら、扇風機の前に座って髪を乾かしています。私は気にせずテレビを見ていました。しばらくすると母が後ろからこう言います。

「これで出すの?」

その声に振り返ると、座敷机の上に置いたままの私の手紙を母が読んでいました。母に駆け寄り手紙を取り上げました。

「勝手に見ないでよ」

そう言いながら。

「ごめん、でもそれでいいの?」

「なにが?」

「ううん、しーちゃんがいいならいいよ」

そう言うと母は、私から目をそらしてテレビの方を向きました。

「え? なんかおかしいの?」

「何事も経験だから、それでいいんじゃない?」

「えー、教えてよ、変なところがあるなら」

そう言って母の傍に寄ると、

「あ、そうだ、一つだけ教えてあげる」

と、母が言います。

「なに?」

「白紙の便箋を後ろに一枚重ねて、内側に折り畳んで封筒に入れなさいよ」

何でだろ。あ、届いた手紙も二枚目は白紙だった。

「なんで?」

「なんでだろ、透かして内容が見えないようにかな? ごめん、お母さんも何でかまでは知らない。手紙の作法って感じかな」

「そうなんだ」

「ついでに、誰か亡くなった時に出すお悔やみの手紙はそれをしないのが作法。悲しいことが重ならないようにって」

「へ~」

手紙っていろいろ難しいんだ、と思っていたら、母が立ち上がって台所の方に行きました。そして財布を持って戻ってきます。戻ってくると三十円くれました。そしてこう言います。

「はい、切手代。封筒に貼るのが十円と、別に十円の切手二枚買って、封筒に入れて手紙と一緒に送りなさい。だから封をしないで郵便局に行くのよ。郵便局でのり貸してくれるから」

「わかった。けど、何で二十円送るの?」

「返送してくださった封筒、切手が二十円分貼ってあったでしょ? その方には関係のないことで使わせたお金だから、お返ししないとね」

「そうか、そうだね。ありがとう、お母さん」


 翌週のまた金曜日、家に帰ると母から封筒を渡されました。

「丁寧な方ね、またお返事くださったみたいよ」

母がそう言いながら渡してくれた封筒を受け取って、すぐに封を切ろうとしたら、

「こら」

と、母に言われました。母が続きを言う前にこう言います。

「ごめんなさい、先に着替えるから」

 着替えを終えてから、またはさみでキレイに封を切りました。でも今回は四畳半の部屋の座敷机の前に座ってから中を確認しました。便箋が三枚でした。三枚目は白紙。


『拝啓

 朝晩は幾分過ごしやすい季節になりましたね、いかがお過ごしですか。

 先日は、わざわざお礼のお手紙をお送りくださり、ありがとうございました。切手まで同封して頂き、感謝いたします。

 大河原さんが小説を書かれているとは知りませんでした。私が大河原さんの転居先をお聞きしていなかったばかりに、大切な文での出会いを台無しにしてしまい、重ね重ね申し訳ありませんでした。今後、もし大河原さんの消息が分かれば、必ずご連絡させていただきます。そう言うことでご容赦頂けないでしょうか、よろしくお願いいたします。

 では、日中はまだまだ残暑も厳しい時期です。どうか体調に気を付けてお過ごしください。

                           敬具

昭和三十八年九月十一日


追伸

 私も文章について学があるわけではないので、偉そうなことは言えませんが一言だけ失礼します。先般の大西さんのお手紙の冒頭、拝啓、となっていましたが、その場合はこの手紙のように時候の挨拶を述べるのが決まりです。そして最後は、敬具、で結びます。堅苦しいので、私はいきなり本題を書き始めることが出来る、前略、で始めて、草々、で結ぶ書き方が多いですけどね。

 大西さんが中学一年生だと知ったので、少し先輩風を吹かせてしまいました。ごめんなさいね。それと、この手紙の時候の挨拶は友人など親しい相手への物です。あまり参考にしないでくださいね。それでは失礼します。』


 読み終えて、なんだか恥ずかしくなりました。どんな文章で送ったっけ? 下書き残しとけばよかった。でも、なんだかとてもいい人の様で、嬉しくなりました。先輩風って書いてあったけど、どのくらい年上の方かな? どんな人なんだろう。想像が膨らんで、なんだかウキウキしてました。

 台所から母が、

「洗濯物取り込んで」

と、声を掛けてきました。私は返事してから脱衣場の方へ。そして洗面台の横の勝手口から裏に出ました。トイレの外に立つ金木犀の木、まだまだ花が咲き始めたばかりなのにもう甘い匂いを漂わせている。空を見上げると、重たそうな大きな雲がゆっくりと流れています。あれが上に来ると夕立になるかも。急いで洗濯物を物干しから外して、風呂場の窓の下の洗濯機の上に置かれたかごに放り込んでいきました。父と私のカッターシャツは、ハンガーに掛かったまま回収。

 四畳半に戻ると、母はアイロン台を出して待っていました。

「カッターシャツ頂戴」

そして私にそう言います。私が手渡すと母はアイロン掛けを始めます。私は傍で他の洗濯物を畳んでいきます。アイロンを掛けながら母が話しかけてきました。

「今度のお手紙はなんて?」

「う~ん、いろいろ」

手を止めずに返しました。

「ふ~ん、いろいろか」

母の返事もそれだけ。読みたいんだろうな、と思ったけれど、母は何も言いませんでした。なので、と言うわけではないけれど、今度は私から口を開きました。

「私が出した手紙、お母さん読んだよねぇ」

「うん、読んだよ」

「変だと思ったんでしょ」

「なんで?」

「だって読んだ時、変な顔してたもん」

「そうだった?」

「……」

私は返事せずに、畳んだ衣類を抱えて整理ダンスに入れに立ちました。そして整理ダンスに衣類を納めていると、アイロン掛けを終えた母がワイシャツを畳みながらこう聞いてきます。

「何か変だとかって書いてあったの?」

私はまた何も返しませんでした。黙って畳んだ衣類を片付けて、四畳半に戻ると母がまた聞いてきます。

「なんて書いてあったの?」

「……、拝啓の時は時候の挨拶がいるとか……」

しょうがないのでそう返しました。

「ああ、初秋の候、いかがお過ごしですか、とかって?」

なんか明るい顔になって母がそう言います。

「気付いてたんだ。って、それ何? しょしゅう?」

「初秋の候、秋の初めの頃ってこと。この時期の挨拶にはよく使う言葉よ」

「そうなんだ」

「あと、拝啓で始めたら、結びは敬具ね。草々ってしてたでしょ」

「うん、それも書いてあった。気付いてたんなら教えてよ、恥かいちゃったじゃない」

「でも、もうこれで一生忘れないでしょ?」

そりゃそうかも知れないけど、ひどいよ、恥ずかしい。そう思いながら急に暗くなった外を見ると、大粒の雨が降り始めました。


 私は不勉強な手紙を送ったお詫びの手紙をまた出そうと思いました。なのでまず勉強。学校の図書室で手紙の書き方の本を見ました。はっきり知らなかっただけで、知ってることも多かったです。でもやっぱり、時候の挨拶が問題。季節ごとの時候の挨拶の例文も載っていたけれど、どれも表現が堅苦しい。いつの時代の言葉なの? って感じ。御盛栄とか、ご健勝とか、候とか、折、とか、作法なのかもしれないけれど、使いたいとは思わない言葉ばかりです。そして読み進めると、結びの挨拶も必要とか書いてあります。なんだか手紙って面倒。そう言えば、届いた手紙には結びの挨拶なんてあったっけ? と思って帰ってから読み返したら、ちゃんとありました、さすがです。

 他の本にも目を通していろいろ考えました。でもどれも同じようなことしか載っていないので参考にはならず。結局二週間ほど経ってから、前略、で始めて返事を書きました。意味も分からず、拝啓、なんて言葉を使った変な手紙を送ったことをお詫びしました。そしてその後、時候の挨拶などを本を読んで勉強したけど、言葉が難しくて使う気にならなかったことなどの愚痴を書いていました。書いているときは、手紙を書きたい一心で書いていましたが、出してしまってから思います、なんという手紙を出してしまったんだと。

 手紙を出して一週間ほどした頃、家に帰ると母からまた封筒を渡されました。嬉しい、あんな手紙にもちゃんと返事をくれた。いえ、ひょっとしたら、わざわざ愚痴を言ってよこすな、とかってお怒りの手紙かも。まずは母に怒られないように、帰宅後の手洗いや着替えを済ませてから封を切りました。


『拝啓

 澄んだ空を見上げて気付きました。最近入道雲を見掛けない、いつの間にかすっかり秋ですね。暑かった日々の疲れが出ていませんか?

 手紙の勉強、お疲れ様です。僕も正直に言うと、形式ばった時候の挨拶は好きではありません。仕事では使わざるを得ないので使っていますが、友人、知人などに送る時はこんな感じの、僕なりの言葉にしています。時候の挨拶は、その時の相手の安否を気遣う言葉であればいい、と教えられたような気もするので。と言っても以前お話ししたように、前略、を使うことが多いですけどね。

 このやり取りが大西さんの手紙の勉強のきっかけになったのであれば幸いです。時代遅れと書かれていましたが、手紙に限らず形式ばった作法と言うものはずっと残ると思います。今回勉強されたことは、きっと大西さんの役に立つと思いますよ。

 では、夜は涼しくなってきました。薄着で虫の音など聞いていて、風邪などひかぬようお気を付けください。

     敬具』


 手紙の内容は優しく、そして親し気でした。知らぬ間に笑顔になっていました。私の愚痴に共感してくれて、ありがとうございます、って感じ。そしてこの方の挨拶文も気に入りました。真似てみたい、私も何か気の利いた言葉を並べてみたい、そう思いました。

 でも、学校とか、部活とか(書道部です)、友達とか、いろいろと忙しい中学生の身、なかなかそこまで頭を使っている暇はありません。そんなにしょっちゅう切手を買えるほど、お小遣いに余裕があるわけでもないし。そんなこんなで次の手紙まで二が月ほど空いちゃいました。


 十二月も半分ほど過ぎようとしていたとある朝、雪が降っていました。私の住む名古屋市は、積もるほどの雪は一冬に数回ほどしかありません。その数回しかない積もるほどの雪が、なぜか十二月に一度はあるような気がします。

 寒さのあまり布団の中に籠城していた私は、抵抗及ばず母に布団ごとひっくり返されて起きました。まあ、寒い季節は毎朝のことなんですけどね。起こされてから、雪で市電が止まるかも、と言って、父は早々に会社に行ったと聞きました。その、雪、って言葉に、縮こまりながら曇ったガラス越しに縁側から外を覗いた私は、笑顔でした。この景色を挨拶文にしよう、と思い立って。


『拝啓

 伊吹おろしがこの冬最初の挨拶にやってきました。彼が来ると世の中全部、真っ白になってきれいです。でも、寒くなりすぎるのが玉に瑕。そちらも寒くなったと思います、お元気ですか。


ー 略 ー


 朝、顔を洗うお水が冷たすぎて顔が切れちゃいそうです。お気を付けください。

     敬具』


 その夜書き上げた手紙はこんな感じです。伊吹おろしが吹く度に雪が降るわけではないけれど、まあいいでしょう。自分としてはなかなか上出来、大人っぽい手紙だと満足しています。本文の部分は、……書くことがなかったので学校でのことなど書きました。友達のこととか、期末テストのこととか。うん? 挨拶文を書きたくて手紙を書いちゃった感じかな、まあいっか。

 一週間ほどすると、また母から封筒を渡されました。ちゃんと返事を下さった、嬉しいです。でも、その手紙を渡してくれる時の母の言葉も嬉しかったです。

「おかえり。はい、文通相手からお手紙届いてるわよ」

そう言って渡してくれました。文通相手、そうだ、私、文通してるんだ。母のその言葉で初めて実感しました。

 ちゃんと着替えまでしてから手紙を読みました。今回は前略で始まっていました。私の詩的な挨拶文に脱帽、なので前略としました、なんて書いてくれています。学校での友達とのことなんかにも、楽しそうで羨ましいと言ってくれてます。そしてご自身は今年会社に入ったばかり、先輩や上司に囲まれた中で覚えることばかり、日常を楽しむ余裕がない。なので今回の私の手紙で、久しぶりに和ませてもらったと書いてくれています。それから、時々でいいので身の回りのことをまた教えてください、と結んでありました。また手紙を出してもいいんだ、とっても嬉しいです。

 夕食後、母がおせんべいの入っていた四角い缶を私の前に置きます。父がたま~に持って帰ってくるおせんべい。数日前、そのおせんべいを食べようと思ったらなかったので、中身が空なのは分かっています。何だろうと思っていたら、

「お手紙、この中に入れていったら?」

と、母が言います。

「えっ?」

「これからも続くんでしょ? そこらに置いてたら、あんた、失くしちゃうわよ」

「えっ、残しとくものなの?」

失くしたり捨てたりするつもりはなかったけれど、そう聞いていました。

「長~く続いた時、最初からのお手紙が残ってたら、きっといい思い出になるわよ」

そっか、そうだよね。

「ありがとう」

そう言って、笑顔で受け取りました。そして缶を持って四畳半に行こうとする私に母がこう言います。

「しーちゃん、お手紙続くといいね」

「うん」


 その後、月に一回以上のペースで手紙のやり取りは続きました。相手の方のことも少しずつ分かってきました。ちょうど十歳上の方で、大学を出てから商社って会社に勤めているとか。商社に入ったけど、本当は教師になりたかったとか。

 この方と知り合ったきっかけは変なものでしたが、私にとって最高の文通相手になりました。この方に出す手紙には、友達にも、親にも言えないようなことが書けてしまいます。そして、同調してくれたり、アドバイスをくれたり、時には叱ってもくれます。本当にいい方。手紙が私の居場所の一つになりました。


 楽しい月日が過ぎるのはあっと言う間でした。あっという間に高校生になっていました。高校に入ってしばらくすると、おせんべいの缶は二つ目になりました。一つ目の缶がいっぱいになりかけた頃、母が同じ缶をもう一つくれました。

「はい、二つ目どうぞ」

そう言って手渡してくれる母。

「ありがと」

そう言って受け取ると、母がこう言います。

「とりあえず、十個くらい用意しないといけないかな」

「え~、そんなに続くかなぁ」

そう言いながら、手にした缶の箱を見ました。

「しーちゃんのために頑張っておせんべい食べるからね」

「それ絶対私のためじゃないよ」

二人で笑いました。とっても幸せな時間でした。




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