残されたメッセージ
近親者を亡くした人は、誰もが通る道なのだろうけど。
時間が経ってから、「あの時はばかなことをしたなぁ……」という後悔がいくつも浮かんでくる。
亡き母もまた、このエッセイの元になった闘病ブログで、若き日に祖母を看取ったときの葛藤と後悔を吐き出していた。
冷静に考えれば、祖母の死は母のせいではない。母がALSになったのも、きつい闘病も、むごい死も、私やその他の誰かのせいではないと理解している。
けれど、身内の死は——、特に近くて親しい関係だと遠慮がないがために、理屈よりも感情・感傷が上回るのだろう。思い出すと今も心が痛む。
私が抱えている後悔は、クリスマスの日に面会の予定をキャンセルしたこと。
その日の私は少し風邪ぎみで、施設には高齢者が多くいるため、万が一でもうつしてはいけないと判断した。
母は残念がっていたが、「寒いのにわざわざ来なくてもいいよ。いつでも会えるんだからね」と体調を労わるメールを送ってくれた。「クリスマスが過ぎていてもパーティーしようね」とも。
実は、次の面会で渡そうとクリスマスプレゼントを用意していた。
親子に見立てたクマ3びき。缶の中にはチョコレートが詰まっている。
年明けまで母のベッドサイドに飾って、中身のチョコレートはお世話になっているスタッフの皆さんに差し入れしようと考えていた。母はもう食べられなくなっていたから。
クリスマス当日、後から聞いた話によると、母は一日中ぼんやりと過ごしていたらしい。寂しい思いをさせてしまったのかもしれない。
夜はいつものように就寝して、そのまま昏睡状態になった。
急変を知り、クリスマスプレゼント持参で駆けつけた。
うっすらと意識が戻った瞬間があったものの、プレゼントが見えていたかは分からない。
もうスマホを打つ力も筆談する力さえも残されてなかったけれど、こちらの声は確かに聞こえていた。話している内容も理解していて、うなずくように手を何度も握り返した。
話すことも書くこともできなかったが、手を握る強さと回数で「最後の対話」を試みた。
「イエスならぎゅっと1回、ノーならぎゅぎゅっと2回握り返して」
そう伝えると、母は繋いだ手をぎゅうっと強く握り返した。
私たち姉妹は「神経内科の主治医の診察と入院」を勧めたが、母は「このままホームにいたい」と望み、私たちは本人の意思を尊重した。
母が永眠した日のことは、前回を参照してほしい。
私の後悔とは、クリスマスの日に面会をキャンセルしたこと。
でも、風邪ぎみで会いに行っていたら、それはそれで「私のせいで母は体調を崩した」と自分を責めたかもしれない。
*
没後、母のベッドサイドを片付けていたとき、いつ書かれたのかわからないメモ帳の走り書きを見つけた。
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食べたいものは食べておこう
行きたいとこに行っておこう
会いたい人に会っておこう
言いたいことは言っておこう
人の役には立っておこう
============
これは、母の後悔の念なのか。
それとも私たちに宛てた教訓のメッセージなのか。
*
クリスマスの日、母が最後に送ってくれたメール。
「寒いのにわざわざ来なくてもいいよ。いつでも会えるんだからね」
そうだね。
生前の姿を思い浮かべれば心の中でいつでも会えるのかもしれない。
でも、もう二度と会えない。
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