ALSお母さんの闘病と終活:母の遺言と祖母の手帳編

しんの(C.Clarté)

母の遺言と祖母の手帳編

母が死んだ日に書いた話

 数日前、母が世話になっている施設ホスピスへ防寒着を届けにいった。

 足が冷えるからレッグウォーマーが欲しいと頼まれていたのだ。


 母の下肢は三年におよぶ闘病たたかいで神経をすり減らし、今はぴくりとも動かない。

 ちょっと毛の生えた太めの大根足はすっかりしなびているのに、つやつやとむくんでいて、しっとりと冷たかった。


 施設のルールで、私物には持ち主の名前を書くことになっている。

 新品のレッグウォーマーに母の名を書こうとしたらペンのインクが切れていた。

 一度持ち帰って、私が記名してまた持って来るよと提案したら、母はよほど寒いのか「いますぐ履きたいから、このまま置いていって」と言う。


 次に来るときに、ペンを持ってきて欲しいと頼まれた。

 足はもう動かないけど、まだ手は動くのだから自分で書きたいと。



 *



 先ほどから何度か、「母が○○と言った」と記述しているが、正確には「母が○○と書いた」である。


 母がわずらっている神経難病の正式名は「筋萎縮性側索硬化症きんいしゅくせいそくさくこうかしょう」という。通称ALS。

 少し前に亡くなった著名な天才数学者スティーブン・ホーキング博士と同じ病気だ。

 現代医学では治すすべがない。症状はゆるやかに、確実に進行していく。


 母は最初に足を、やがて舌と口と耳と呼吸と表情を動かす筋力がなくなり、いまは残された手で「書く」ことで意思表示している。


 知能と感情はいたって正常で、熱さも寒さも痛みもカユミも感じている。

 母のカラダは少しも動かせないのに、骨が重力で神経を圧迫するせいで、つねに強い痛みと戦っている。ただ眠るためだけに、毎晩モルヒネを投与する。


 手が動かなくなったら、まばたきで意思疎通するしかない。

 こまかいニュアンスを伝えることは困難になるだろう。


 あるとき、母が走り書きで「もう死にたい。殺してほしい」と言った。

 私は手書きのブギーボードを見つめながら、「それは無理」と答えた。





 またあるとき、母が「泣かないでね」と言った。


 もし急に亡くなっても悲しまないでね。

 動かない体から解放されて自由になるのだから。

 良かったねと、笑いながら見送ってほしい。


 私は母を見つめながら、「それは無理」と答えた。


 たぶん、ヒトは死んだらそれで終わりじゃない。

 意識が肉体から離れたら、俗世のしがらみから解き放たれて自由になると思う。

 それでも、縁があって親子になったのだから、現世での繋がりはこれで終わりなのだから、「死」は、やっぱりお別れに違いない。


 私はきっと悲しくて泣くと思う。

 同時に、楽になれて良かった、自由になって良かった、とも思う。

 数十年ぶりにおばあちゃんに会えるじゃん、良かったね!ともきっと思う。


 母が亡くなったら、私は悲しくて泣くだろう。

 安堵もするし、喜びもあると思う。

 死とはそういうものだから。


 もし、私や他の誰かが泣いていても心配しなくていいから。

 まっすぐ天国に行ってよね、と約束した。



 *



 肌寒くなってきた秋のはじめ頃、母は単刀直入に主治医にたずねた。

 残り時間は「この冬が最後になるでしょう」と言われて、母は終活を始めた。


 それよりも少し前。

 まだ暑かった夏の終わり頃、私はひそかに主治医に呼ばれた。

 母の残り時間は「今年いっぱいになるでしょう」と言われて、私は見送る覚悟を決めた。


 主治医の見立ては正しかった。


 きょうは12月28日。

 年末の仕事納めを済ませてから会いに行くと、母は今生の命を、その灯火を吹き消して待っていた。


 私は泣くだろう。間に合わなくてごめんと。

 母は笑うだろう。死に至る姿を見せたくなかったんだよと。


 母は事切れていたが、頬も手も足もまだ柔らかくてあたたかかった。


 黒いペンの代わりに、今度は赤いリップを持って来よう。

 動かない唇をほんのり色付けるために。






(*)2018年12月28日。母を見送った日の夜、突発的に書いた話です。同日中に、小説家になろうで1話完結の短編として公開。この話をプロローグに、涙と笑いと、無茶ぶりがすぎる母のALS闘病記をご紹介します。


生前の話(アルファポリスで掲載済み)は画像が多いため、カクヨム版では省略。ここから先は後日談メイン。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る