ジャリーファ
ナジュマは全く不思議な娘であった。
本来、後宮の女達はナジュマを敵視していい筈だった。
あの娘をなんとしてでも蹴落として、自分こそが王の胤を受けて王子を産む。
そう息巻いて過ごすのがジャリーファ達のあるべき姿だ。王の重臣である父が「必ずや王子を孕め」と言って宴席でジャリーファを王の眼前に放り出したあの日から、ジャリーファはその為だけに生きてきたのだから。
都合のいいことにナジュマの母は既に亡い。守ってくれるべき存在が弱い乳母しかいない王女を、誰も彼もが敵視していい筈だった。
とはいえ、それを敢えてしなかったのは、王自身が後宮に興味を持たないからである。
──どの女も一度手が付いて、それだけ。
胤の少ない男なのかなんなのかは知らないが、たった一度で身籠ったナジュマの母が特別で奇跡だった。奇跡は滅多にはないから奇跡と言う。つまり王の血統としてナジュマは追い落とされることなくひたすら空気のように扱われるだけで済んだ。ただ一人しかいない、王の娘。それだけの理由で。
それが変わったのはナジュマが八つの頃、世話係にと同年代であろう奴隷が与えられてからである。
「ルゥルゥ、早くー!」
「おま、おまちくださいぃ!」
ナジュマは乳母の娘となったルゥルゥと、とかく後宮内を無尽蔵に荒らし回った。そう、荒らし回ったと言っていい。誰にも彼にも陽気に話しかけ、笑い、そして楽しげに過ごした。この地獄のように倦んだ後宮に、鮮烈な風を送った。
「……今日もナジュマは元気ね……」
ジャリーファ自身が倦んでいたことに気が付いたのもその時である。
女達は生きてはいたが、とっくのとうに殺されていたのと同義であった。たった一度、男の名誉の為に身体を奪われて、それきり。どの女も、どのような身分であれ王の渡りが二度とあったことはなく、広くも虚な後宮に放置された。金銀財宝と共に、ひたすら淀んだそこで過ごすことだけを強制された。
(私はなんの為に、こんなところで)
ジャリーファにだって将来があった筈だ。もっと若くて立派な男に嫁ぐ未来だってあった。ただ、父親が重臣だったばかりに、いつか王に捧げられる為だけに屋敷の奥深くに隠されていたのだろう。……それは生贄とどう違うのか。
虚ろなジャリーファを慰めたのは、やはりナジュマである。
「ねえ、近くに行ってもいい?」
「……いいわよ」
「これねえ、さっきもらった果物! いっしょに食べよ」
伸び伸びとした四肢を伸ばして、猫のように自由な娘。ナジュマは自由に後宮を駆ける。オアシスを通りすぎた風のようでもあり熱砂を駆け抜けた風のようなそれは、日々女達の間を問答無用で掻き回し続けたのだ。
飽いた籠の鳥はいつしかナジュマの笑顔に慰められ、女達は自然と彼女を愛し、その寵を競うようになった。それが少々勢いのよい状況が散見されるようになって夫人達が前に出るようになり、少しずつ規律が生まれる。ジャリーファを含めた古株の三人が義理の姉妹として、確かな絆を築いたのもその頃だ。
ナジュマは立派な王の血族と言える。そうでなければこの千人を抱える女の園で寵愛を得る存在になれる筈がない。
(男であれば)
王子でさえあれば、遠からず完全無欠の砂漠の王となれただろう。世界中から数多の女達が「我こそは」と伏して後宮入りをせがむ事態になった筈だ。それほどまでにナジュマは容易に他人の愛を得ることが出来る。
見返りもなしに、ひたすら愛を得ることが出来る者。そんな人間をジャリーファ達はナジュマ以外に知らない。
だが、現実ナジュマは女で、この後宮に閉じ込められて生きている。そしていつか王がナジュマのことを思い出して、その胎を使うことを考えたとしたら──。
(この鳥籠をどうにか出来ないか)
ナジュマが年を重ねる度に女達は考え、けれど何も出来ず……、しかしその日は唐突に訪れてナジュマは大皇国へと旅立っていった。
「……行ってしまったわねえ」
遠く、ラクダが去っていく。女達はじっとその後ろ姿を眺め続けるばかりだ。
「皇帝のお手付きになったりしないかしら〜」
「ないわね。あの子、皇帝への興味なんて完全になかったわ。なんなら誘われてそのまま脱走するかもしれない。そういう知らせが来ないことを祈りましょ」
皇帝に興味があるというのならば、後宮の女達でどうにかこうにか誑し込んで胤だけでもいただいたのだが、如何せん人生とは儘ならぬもの。ナジュマは大皇国の更に隣、小国グランドリーとやらに向かうのだという。
思うのはいつもひとつ。愛する子供が羽ばたく姿。
「どうなるかしら」
「呼んでくれるかしら〜」
「その為にもほら、後宮の人員を整理しながらの維持が重要課題よ。オルロー殿を呼んでちょうだいな。台帳を見せて相談致しましょう。どこにいるの? メーヤのところかしら」
いつか、あの子が私達の顔を見たいと思ってくれる日を夢見て。
──たったの一年で嫁ぎ先の国許に呼ばわれるとはいざ知らず、女達は砂の国で今日も姦しく生きている。
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