第3話 斐伊 保(ひい たもつ)
斐伊 保は、心の中に幾つもの影があった。
温和な見た目とは裏腹に、いや、だからこそ人から安易にものを頼まれ、断り切れずに様々なことを押し付けられてきた結果。
彼の心の中に幾つもの影が出来ていた。
日付の狂った日記帳に閉じ込められた時も、宇宙ステーションから観測していた死の星地球に人らしきものを見てしまった為に降りていった時も、双子の幼馴染の少女から、左右の耳元で同時にプロポーズされた時も、大統領を暗殺してしまった時も、いつもそうだった。
「なあ、アンタ。部活はどこ入るん?」
千年前の陰陽師大戦争のときもそうだった。
あの時、立ち上がれないほどに受けたダメージは今も――
「おーい」
「え?」
物思いにふける保は、突然の声に顔をあげた。
神道科の教室は、とっくに静寂に包まれていた。生徒たちはさっさと帰ったのだろう教室は、自分と、声をかけてきた女生徒のふたりを残すだけだった。
「あ、ごめん。何て?」
「だーかーらー………もうええわ」
女生徒は拗ねたように後ろを向いた。切り揃えられた栗色の髪がふわりと舞い、保は胸がざわついた。
この娘は確か、同じクラスの………
「紺(こん)よ、よろしうね」
「斐伊だよ、よろしく」
名を名乗っても彼女はこちらを振り向こうとはしなかった。背を向けたままの紺と名乗った彼女はいまどんな顔をしているのか、保は気になって仕方なかったが、なぜか身動き一つできなかった。つばを飲み込む力さえなかった。
「あんたさあ――」
紺の声と突然のチャイム音が同時に鳴り、保は我に返った。
「あ、ぼぼ僕、部活に行かなきゃ。それじゃまたね、紺さん」
彼女の返事も聞かず、保は急いで教室を出た。なぜか止まらない背中の汗を感じながら。
神道科の教室は一般科の教室とは別の棟に属し、部室からも遠い。保は、一般科の教室に顔を出してから、部室へ向かおうと決めた。背中の汗はもうひいていた。
一般科の教室は生徒数の違いもあってか、まだまだ生徒たちが残って騒いでいる。確かここだったな、と1年4組の教室を覗いてみる。
突然の来訪者に、何人かの生徒が驚いていたが、一人の女生徒が笑顔でこちらに向かってきた。なるほど、自分の持って生まれた顔もこういう時は役に立つ。
「神道科の人だよね、何か用かな?」
三つ編みがかわいらしい女の子だ。無邪気に保の顔を見上げている。
「塩谷さんいるかな?」
「あー委員長? もういないかなあ」
委員長!? 今日入学式だよ? まだ初日だよ? 保がびっくりしていると、ほかの生徒からもっと衝撃的な言葉が飛んできた。
「委員長ならさっき男子の上級生に呼ばれてたよ、告白じゃね?」
告白!? 今日入学式だよ? それはさすがに嘘でしょ!? と保は思ったが、ふと今の自分の状況を鑑みれば。
わざわざ別棟からやってきて、塩谷を探している今の自分も、その上級生とやらと変わらないのでは? と気づく。誤解を招きかねないなあ、と安易な自分の行動を自省していると。
「いやー、男の先生もなんか委員長に言い寄ってるって話もあるしなあ」
「委員長ヤバいな」
「もー、塩谷さんはそんなんじゃないよ!」
収拾のつかなくなった教室に、保は慌てて廊下に出る。
まあ塩谷に会わなければいけない理由もない、それに部室に行けば会えるだし。保が歩き出すと、廊下の先に二人の生徒。
なぜか手を繋いだまま立ち尽くしている見知った顔に、保は声をかける。
日付の狂った日記帳に閉じ込められた時も、宇宙ステーションから観測していた死の星地球に人らしきものを見てしまった為に降りていった時も、双子の幼馴染の少女から、左右の耳元で同時にプロポーズされた時も、大統領を暗殺してしまった時も、どんなに理不尽なことを押し付けられても、命をかけて約束を果たしても、報われることの方が珍しかった保は、
やっと、
桜の木の下で、『みんな』と出会ったのだ。
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