第32話 駆け抜ける百合の嵐 その①


「美澄さん、心の準備はいいかしら」


 橘さんが屋上のドアにカギを差し込みながら美澄さんに尋ねる。


 その顔はこの状況を面白がっているようにも見えた。


「はいっ! 私は覚悟してきた人ですっ! 覚悟とはっ! 暗闇の荒野に進むべき道を切り開く事ですっ!」


 極度の緊張からか、美澄さんは訳の分からないことを口走っている。


 本当に大丈夫だろうか。


「そう。健闘を祈るわ」


 橘さんは美澄さんの様子などお構いなしに屋上へ続くドアを開ける。


 外は快晴だった。


 屋上なんて初めて来た。確か立ち入りも禁止されていたはず。


 うわー、僕ら、不良じゃん。


 もし怒られたら土下座して謝ろう。


「絶好の告白日和ですねっ! 風紀委員会所属美澄香純二年生、参ります!」


 屋上の端っこ、つまり生徒会室に一番近い位置に立った美澄さんは、あの原稿用紙の束を目の前に掲げ、大きく息を吸い込んだ。


 僕が告白するわけでもされるわけでもないのに、なぜか妙に緊張する。これが共感性羞恥心というやつだろうか。


 ちなみに山田さんはあれで案外常識のある人だから、やめた方が良いんじゃない、なんて言いながら屋上のドアのところからこちらを伺っている。


「生徒会副会長っ! 鈴仙千鈴さんっっ! 聞いてくださいっっっ!」


 美澄さんが学校中に響き渡るような大声を出す。


 橘さん立案の適当な作戦がついに始まってしまった。


 これが吉と出るか凶と出るか。ちなみに僕は凶と出る可能性の方が高いと思う。


「私、風紀委員会所属の二年生っ! 美澄香純はっっ! あなたのことが――」

「何をしているのですか?」

「!」


 突如割り込んできた絶対零度の声色に、僕らは一様に言葉を失った。


 聞き覚えのあるその声の主は、件の生徒会副会長、鈴仙千鈴さんだった。


 屋上の扉の前に立った彼女はアルコールさえも凍りつくような視線で僕らを見ていた。


 その背後で山田さんが気まずそうな様子で立っているのが見えた。


 確かにこのタイミングでそこにいたら、気まずい。


 しかし今はそんなことよりこの場をどう切り抜けるかだ。とりあえず僕はいつでも土下座ができるような体勢をとった。


「れ、鈴仙副会長……っ⁉」


 鈴仙さんの視線に、身をよじるようにして悶える美澄さん。


「こんな馬鹿な真似はやめるのです。私を辱めるつもりなのですか?」

「わっ、私はそんなつもりはっ! 副会長を辱めるだなんてっ!」

「だとしたらどうしてこんなことをしたのですか? 恥ずかしくないのですか?」

「は、恥ずかしいですっ! ごめんなさいぃっ!」


 美澄さんが必死に弁解する。


 だけど、心なしか喜んでいるようにも見える。


 ……僕は一体何を見せられているのだろうか。


「ちょっと待ちなさい、鈴仙さん」


 美澄さんと鈴仙さんの間に橘さんが割って入る。


 鈴仙さんは、その冷たい視線を橘さんへ向けた。


「橘一年生……。事情が読めてきたのです。あなたが元凶なのですね?」

「元凶? 言葉が悪いわね。私はただ、美澄さんの手助けをしただけよ。現にあなたがこうして彼女の前に現れたじゃない。その時点で私たちの目的はほとんど達せられたと言えるわ」

「見苦しいですよ。あなたがいくら会長のお気に入りといっても、調子に乗られては困るのです」

「私がいつ会長の話をしたのかしら? 七橋生徒会長にこだわっているのはあなたの方だわ。そのせいであなたは周りが見えなくなっているのよ」

「私が周りを見ていない? 何が言いたいのです」


 分かっちゃいないとでも言いたげに、橘さんが首を振る。


「だって、そうでしょう? あなたは会長のことを思うあまり、あなたに向けられた好意に気付いていないわ。……美澄さん」

「は、はいっ⁉」


 突然名前を呼ばれて驚いたのか、美澄さんが体を震わせた。


「あなたの気持ちを伝えるなら今しかないわ」

「い、今ですかっ⁉」

「そうよ。そうでなければ、あなたの手に握られているそれは何のために用意したものなの?」

「……!」


 美澄さんが両手の原稿を握りしめる。紙の束に皺が寄るのが見えた。


「いい、鈴仙さん。今から美澄さんの言うことをよく聞いておきなさい」

「何がしたいのですか? 私は多忙なのですから、手を煩わせないで欲しいのです」


 橘さんが美澄さんの背中を押し、一歩前に出た美澄さんは鈴仙さんと向き合うかたちになった。


「れ、鈴仙副会長……」

「美澄さん。このような人たちに惑わされてはいけないのです。いつものあなたに戻って、風紀委員の仕事に励むのです」

「鈴仙副会長っ!」


 美澄さんに背を向けた鈴仙さんの肩を掴んだのは、他でもない美澄さん自身だった。


 不意を突かれたのか、驚いたような顔を浮かべたままの鈴仙さんに美澄さんが叫ぶ。


「私はっ! あなたのことが好きなんですっ!」


 時間が止まったような気がした。


 この場にいる全員の動きが固まった。


 永遠にも感じられるような静寂が屋上を包み込んだ。


 そして、その静寂を破ったのは鈴仙さんのため息だった。


「……何を言い出すかと思えば、そんなことなのですか」

「鈴仙副会長……」


 鈴仙さんは何事もなかったかのように美澄さんの手を振り払い、そのまま屋上のドアへ歩き出した。


 美澄さんは一人、言葉では言い表せないような沈痛な表情を浮かべたまま立ち尽くしていた。


 さすがに美澄さんが気の毒すぎるので、僕は彼女に気の利いた言葉でも掛けてあげようと口を開いた。


 そのときだった。


 突然鈴仙さんが立ち止まり、言った。


「私はムードを大切にするタイプなのです。ですから、そういう言葉は、今度二人きりのときに改めて聞かせて欲しいのです――美澄香純さん」


 パッ、と美澄さんの顔が明るくなる。


「鈴仙副会長っ!」

「そもそも、屋上は立ち入り禁止なのです。部活に入らないせいで目をつけられているのに、これ以上面倒なことになりたくなければさっさと屋上から出るのです。留年させるのですよ?」


 最後に僕ら全員をひと睨みして、鈴仙会長は今度こそ屋上から出ていった。


 これはハッピーエンドってことでいいのだろうか?


 鈴仙さんもまんざらでもない感じだったし。


 だけどそれはそれとして……一体僕は何を見せられたのだろう?


「私の作戦勝ちね」


 いつの間にか橘さんが、僕の横で勝ち誇った笑みを浮かべていた。


「どこまでが作戦だったんですか?」

「どうかしら。宇津呂くんはどこまでだと思う?」

「ええ……?」


 最初から最後まで計算通りという場合から、全く考えていなかったという可能性まであり得る。


 もし何も考えていなかったとしたら、さすがに美澄さんが可哀そうだ。


 そこは橘さんの良心に期待しよう。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る