第31話 君は僕に似ているかもしれない その④




「どう、宇津呂くん。似合うかしら」


 試着用の眼鏡をかけながら、橘さんが僕に言う。


「よく似合っていますよ」


 というかそもそも橘さんは綺麗な顔立ちをしているのだから、似合って当然だろう。


「こっちとこっちならどちらの方が良いと思う?」


 橘さんは縁の丸い眼鏡と、黒縁の眼鏡を交互に合わせながら僕の方を見た。


「強いて言うなら後者ですね。知的な感じがしますよ」

「そう? それならこっちにしようかしら。だけど、眼鏡って度が強くなるほど目が小さく見えるから嫌なのよね」

「ああ、だからいつも裸眼なんですか?」

「ええ。自分でも自意識過剰とは思うのだけれど。それに不便だというのも理由の一つね。掛けていると少し違和感があるのよ」

「なるほど」


 と、僕は頷いて。


 そして、ふと気づいてしまった。


「あの、橘さん」

「何かしら?」

「橘さんって裸眼だとどのくらい見えているんですか?」

「それは視力が、ということ?」

「はい」

「そうね。大体この距離で宇津呂くんの顔がはっきり見えるわ」


 ぐっ、と僕の方へ顔を寄せる橘さん。


 心臓が高鳴った。


 ……落ち着け、僕。


 すぐ目の前に橘さんの顔があるけれど、ここまで近づかないと見えないというのなら、この人かなり視力が低いんじゃないのか?


 深呼吸をひとつして、僕は改めて橘さんと向き合った。


「あの、僕思うんですけど、橘さんがよく転んだり物を落としちゃったりするのって、目が悪いからなんじゃないんですか?」


 僕が言うと、橘さんは不思議そうな顔をした。


「つまり、悪いのは私の運ではなくて、視力だと言いたいの?」


 思い返してみれば、オタクと化して眼鏡を掛けていた時の橘さんは転んだり柱にぶつかったりというドジっ子的な行動をしていなかった。


 だとしたら、元凶が目の悪さである可能性は十分に高いだろう。


「――そうです。試しにコンタクトレンズを作ってみたらどうですか?」

「コンタクトレンズと言っても体にとっては異物なのよ。異物を目の中に入れるなんて私嫌だわ」

「大丈夫ですよ、ソフトタイプのコンタクトなら、ハードとは違ってそんなに痛くはないって聞きますし」

「ソフト? ハード? 宇津呂くんは私に何をさせるつもりなの?」

「何も、やましいことをさせようとしているんじゃありませんよ。僕はただ、橘さんが不便なんじゃないかって思っただけです」


 この人まで美澄さんみたいなことを言い出すと収拾がつかない。


「確かに、不便といえば不便だけど」

「もしかすると、これで橘さんの抱えている問題は解決するかもしれませんよ?」

「コンタクトにすると留年が全部帳消しになるということ?」

「いやそっちじゃなくてですね、えーと、例えば部活です。前に橘さん言ってましたよね、私に向いている部活なんてないって。だけど、コンタクトにすればきっと余計な失敗はせずに済みますよ。そうすれば橘さんも普通の部活に入れるかもしれないじゃないですか。成績だって上がるかもしれませんよ」


 僕が早口で喋りすぎたのか、橘さんは呆気にとられたようにぱちぱちとまばたきをして、それから、まるで核兵器のスイッチに触れる大統領のような厳かな表情になって、


「分かったわ宇津呂くん。私、コンタクトを買うわ」





 急激なドリフトで車体を軋ませながら、バイクが僕の家の前で止まった。


 強烈な作用と反作用に僕は歯を食いしばって耐えた。


「――ッ!」


 これじゃいつか奥歯がすり減り切って消滅してしまう。


 バイクに乗るのがこんなに大変なら、二輪免許は取らなくてもいいかな。


「着いたわよ、宇津呂くん」

「送り迎えまでしてもらってすみません」

「良いのよ。私がしたくてしたことだから」


 橘さんがヘルメットを外す。


 今までヘルメットの中に押し込められていた彼女の艶の良い黒髪が解放され、風に揺れた。


 そして橘さんの顔には、眼鏡は掛けられていなかった。


「こうしてみるとコンタクトも悪くないわね。世界が変わって見えるわ」

「僕の顔、見えますか?」

「もちろん。これなら一キロ先からでもあなたの顔が見えるでしょうね」


 マサイ族か、あんたは。


「眼鏡は買えませんでしたけど、大丈夫ですか?」

「レンズの交換を頼んでおいたから大丈夫。それより、明日からの学校が少し楽しみ」

「楽しみ……ですか?」

「そうよ。明日からの私は言うなればニュー橘楓。さらに進化した活躍をお見せするわ」

「なるほど、それは楽しみです」


 あ、でも待てよ、橘さんがコンタクトをつけることによってドジっ子属性が消滅してしまうと、転んだ拍子にパンツが見えたり胸に触っちゃったりするようなハプニングはもう起こらないってことになるな。


 それはそれでちょっと残念。


「今日は付き合ってくれてありがとう。また明日学校で会いましょう、宇津呂くん」

「こちらこそ」


 橘さんはヘルメットを被り直すと、バイクのエンジンを吹かし、夕方の街並みの中へ消えて行った。


 ……あんな運転してたら、いつか絶対警察に捕まると思うんだよなあ。




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