34話

 三人が王都へたどり着いた頃には、朝焼けが夕焼けに変わっていた。と言っても、日中に雨をもたらした雲が未だ空を占拠している為、地上へ届く光は微々たるものだったが。


 国境に近い小さな街の路地裏は、ごみが不法投棄されていたり、苔むしていたり、廃墟の壁に落書きが残っていたりしたものの、進むにつれてそんな様子も薄れていった。現在地では埃一つ見当たらない。以前聞いた「王都から離れれば離れただけ、治安がクソみたいになっていく」というリューズナードの言葉は、誇張表現ではなかったらしい。


 ロレッタの頭上で、リューズナードが乱れた呼吸を整えている。常人離れしているとは思うが、彼の体力だって無尽蔵ではない。半日以上に渡って石畳の上を走るのは、いくらかこたえたようだ。


 そんな彼の横では、フェリクスが滝のような汗を流しながら倒れ込んでいた。初めて原石の村ジェムストーンへ来た時のように、魔法を使って癒やしてやりたい気持ちはあったけれど、まだしばらくできそうにない。ロレッタも同じように疲労困憊しきっているからである。


 村での農作業やら、国での戦闘訓練やらで、人並みの体力はついただろうと思っていた。しかし、今回の旅路は「人並みの体力」では足りなかったのだろう。壁伝いにズルズル体を沈ませていく自分を、はしたないと戒める余裕さえなかった。


 この路地を抜けた先に、シルヴィアの自宅があるらしい。時間帯を考えると、彼女はまだ職場である研究施設に居るだろうとのことだ。彼女の母親に国を出る相談をしておきたいが、相談する側が虫の息では文字通り話にならないので、止む無く休息を挟んでいるのだった。


 しばらくして、なんとか立ち上がれるようになったフェリクスが、家へ行こうと促してきた。リューズナードは歩を進めようとしていたが、ロレッタは小さく首を横に振る。


「行かないんですか?」


「私は、こちらで待機させてください。魔法が使える人間が近くに居たのでは、シルヴィアさんのお母様も気が休まらないでしょうから」


「……そうですか」


 強く引き留められることはなかった。母親の気持ちは、知り合いでもあり、同じく魔法が使えない人間でもあるフェリクスのほうが、鮮明に想像できるだろう。ロレッタは座り込んだまま笑いかける。気にしないでほしいと伝える為に。


 すると、一連のやり取りを見ていたリューズナードが、ロレッタの横にドカッと腰を下ろした。


「俺もここに残る」


「え?」


「こいつを怖がる人間は、俺のことだって怖がるだろう」


 座りやすいよう、腰元の刀を外しながらリューズナードが言う。突然、帯刀した見知らぬ大男が家に押しかけて来たら、確かに怖い。魔法が使える人間だったとしてもかなりの恐怖体験だ。ロレッタを気遣ってくれただけなのかもしれないが、言い分にも妙な説得力を感じてしまう。


 結局、ロレッタが携帯していた荷物を預かっていてもらうことにして、フェリクスのみがシルヴィアの自宅へ向かった。


「……平気か?」


 端的に、けれどとても心配そうに、リューズナードが尋ねてくる。


「はい、なんとか。日頃の農作業の賜物ですね」


「そうか。何度でも言うが、無理はしなくて良いんだぞ」


 身内に対してはどこまでも優しく献身的になる、彼らしい言葉である。ただ、今回ばかりはそれを受け入れるわけにはいかなかった。


「いいえ、それでは駄目なのです。自国を守る為ですから、王族が無理をしなくて良い道理などありません」


 王族の仕事は、守られることではない。国や民を守ることだ。王宮を飛び出して世間に触れ始めたロレッタは今、心の底からそう思っている。膨大な魔力も、権力も、その為にあるのだと信じて疑っていない。そして、それはきっと、姉と父も同じなのだろうとも思う。


「……本当に、この国の王族とは全然違うな」


 当たり前のことを言ったつもりだったが、リューズナードは少し驚いたような顔をしていた。


「お前のような王族が治める国に生まれていれば、俺も、妹も、仲間たちも、もう少しマシな生き方ができていたんだろうな」


「……そう、でしょうか……」


 自分の祖国が水の国アクアマリンであったなら、という話だろうか。


 これまでに聞いた彼らの人生は、壮絶なものだった。ただ、その根底にある非人差別は、恐らく水の国アクアマリンにも存在している。王女たる姉が堂々と口にしていたくらいなのだから。しかし、その実体を知らないロレッタには、水の国アクアマリンで魔法を使えない体に生まれた人々がどのような生活を強いられているのかが分からない。生まれが違ったところで、彼らに安寧はあったのだろうか。


 全ての民が平等に暮らせる国があれば良い。そう夢想せずにはいられなかった。迫害も戦争もない世界で、幸せに生きてほしい。前にも考えた漠然とした理想が、再び脳裏を掠める。意味もなく手に力が入った。


「……ああ、だが、同じ国に生まれていたら、俺はお前と出会えなかったのかもしれない。それは嫌だ」


「え……」


「お前の姉がしたことは、何一つ許していないが……あの腹立たしい契約の人質として、自分の身ではなくお前を差し出してきたことだけは、褒めてやっても良い。お前に会えて良かったよ、ロレッタ」


「あ、あの、ええと……」


 普段と同じ真っ直ぐな目でそんなことを言うものだから、ロレッタは言葉を詰まらせてしまった。相も変わらず、心の準備をさせてくれない男である。


 頬を染め、まごついているロレッタを見て、リューズナードが口を引き結ぶ。それから少し体勢を崩すと、ロレッタとの距離を詰めてきた。口付けされた夜を思い出し、体が硬直する。


「なあ、ロレッタ……」


 至近距離で名前を呼ばれ、心拍が跳ね上がった、その時。


「あのー……そういうのは、帰ってからにしてもらえません?」


「!」


 反射的に振り向けば、二人分の水とタオルを手にしたフェリクスが、げんなりした顔でこちらを見ていた。

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