90話

 数時間前に突然やって来て、突然「裁縫を教えてほしい」と言ったロレッタを、ジーナは嫌な顔一つせず、喜んで迎え入れてくれた。


「ロレッタって、器用だよねえ。飲み込み早くて羨ましい。あたし、これ覚えるまでかなり時間かかったのに……」


「教え方が良い証ですよ。それに、ジーナほど上手くはできません」


「そうかな? えへへ、ありがと!」


 以前は他の住人たちと同じように敬称を付けて呼んでいたが、本人からやめてほしいという申し出があった為、ロレッタはジーナのことだけは唯一、呼び捨てしている。「仲良くなれた気がして嬉しい」と笑った彼女は、同性で同年代のロレッタが見ても、とても愛らしかった。


「……ところでさあ。リューに愛想尽かして実家に帰ろうとしてる、って話、本当?」


 それまで順調に動かしていた手をピタリと止めて、ジーナを見詰める。


「……あの、最近、他の皆様からも似たことをよく尋ねられるようになったのですが、どうして、そのようなお話になっているのでしょうか……?」


「違うの? 喧嘩した、とかじゃなくて?」


「違いますよ。そのようなことは、ありません」


 ロレッタが旅支度の確認をし始めてからというもの、住人たちがやたらと心配した様子で声をかけてくるようになった。実家に帰る。確かに、それはそうなのだが、原因は断じてリューズナードとの喧嘩ではないのだ。そもそも、対等に喧嘩ができるほどの関係値を築けてすらない。


「あ……それとも、リューズナードさんのご機嫌がよろしくない、というお話だったのでしょうか?」


「ううん。リューは、なんかふわふわしてるらしいけど」


「ふわふわ……?」


子供ちびっこたちが、そう言ってた。……まあ、問題がないなら別に良いよ。でも、ロレッタもため込み過ぎてパンクしないように、気を付けてね? ロレッタの優しいところはあたしも好きだけど、飲み込むだけが優しさじゃないからね。特にリューみたいな奴は、ちゃんと言ってやらないと分からないんだから」


「……優しさ、ですか」


 視線を落とし、自分の行いを振り返る。


 リューズナードの前で言葉を飲み込んだことは、確かにある。それも、数えきれないほど、たくさん。口調でも表情でも、彼の不機嫌が伝わってくると、それ以上会話を続けることを、ロレッタは諦めてしまう。


 けれど、そもそもどうして彼が不機嫌になったのか、その理由を尋ねてみたことはあっただろうか。何が原因で機嫌を損ねたのかを理解しないまま逃げているから、何度も同じことを繰り返しているのではないのか。話がしたいと望んでおきながら、彼と向き合うことを拒否していたのは、自分のほうなのではないのか。


 仮にも同じ家で生活している相手に、腫れ物のような扱いをされ続けたら、さぞ気分も悪いだろう。そんなもの、優しさでもなんでもない。


「……確かに、そうかもしれませんね」


「そうそう。複雑な女心を汲み取ってスマートに対応する、なんて、リューにできるわけないもん。……でも、ちゃんと話せば聞いてくれると思うよ」


「……はい、そうですね。折を見て、お話できる機会を設けてみようと思います。ありがとう、ジーナ」


 顔を上げて礼を言うと、ジーナは愛らしい笑みを浮かべた。

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